あなたの声
泊まっていきなさいという沙生のお母さんの誘いを丁寧に断り、雨の止んだ空の下アパートを目指した。
雨上がりの夜空にはダイヤモンドを思わせる星が輝きあっていた。外は11月にしては冷えていて、秋は沙生に借りたコートのチャックを引き上げた。自転車は風を切り、剥き出しの頬を刺し続けている。
アパートに着き鍵を探している時だった。マナーモードにしていたはずのスマートフォンが産声のような叫びをあげた。画面を見ると今朝も見た名前が表示され、秋の心は温度をなくす。
「もしもし、何ですか?」
「秋ちゃん?」
電話から聞こえてくる音は父の低くどこかノイズの混ざった声ではなく、落ち着いた女性のものだった。
「えっと、すみませんどちら様ですか?」
「私よ、瞳」
「瞳さん?どうして」
瞳は父と再婚した女性だ。秋の母と離婚してから四人目の女で父の同僚でもあるが、秋とは殆ど面識はない。
「健一郎さんが倒れたの」
「え、大丈夫なんですか?」
あの人が倒れた。別に愛してもいないし、どちらかと言うと恨んでもいる。
それなのに、秋はどうしようもなく困惑していた。やっと見つけたアパートの鍵は乱暴に鞄の中に捨てられ、秋の手にはスマートフォンだけが残された。
「本人は軽い疲労だって言っているのだけれど、お医者様が言うにはちゃんと調べた方が良いって...」
「意識はあるんですね?」
「ええ、早く帰らせろの一点張りで聞かないわ」
倒れたというのに相変わらず頑固な人だ、少し安心する。
「連絡ありがとうございました。近々そちらに伺います」
父の再婚相手との距離感が未だに分からず、無駄に丁寧な言葉使いになってしまう。まぁ、この距離感を変えるつもりは無いのだけれど。
「伺うなんて、あなたの家でもあるのよ。いつでも帰っていらっしゃい」
「ありがとうございます、それじゃあ失礼します」
まだ何か言いたそうな相手の空気を無視し電話を切る。一体、自分は何人の人をこうやって切ってきたのだろう。
誰かと繋がりを持つと、途端に面倒くさく感じてしまうところが秋にはあった。瞳のことは再婚相手の中で一番好きだった。でも、別に一緒に同じ空気を共有したくはない。
父の法律事務所で働く彼女は、秋が高校二年生の時に三人目の離婚相手の空席を埋めるかのようにそこに居た。秋と父と彼女は一年間だけ同じ空間で生活をしたが、顔を合わせることはほとんど無かった。それでも、秋が帰ってくると温かな夕食が用意されていた。
握りしめていたスマートフォンを離すとベッタリと濡れていた。先程放り捨てた鍵を探し当てアパートに入る、そのままベッドに身を投げ捨てた。瞼を閉じると睡魔が波のように襲ってきた。
次の日、瞳からまた連絡が入った。あの人が入院することになったらしい。どうでもいいと思っていたはずなのに、いざとなると酷く心が乱れた。秋は自分の弱さを改めて自覚した。
「お花でも買っていった方がいいんじゃないの?」
「いいよ、そういう関係じゃないし。ちょっと顔見に行くだけだから」
瞳から連絡があって数日が経とうとしていた。お見舞いに行かなくてはと思う反面、行かなくても良いのではないかと思い始めていた頃だった。
「秋、なんか最近元気ない?どうかした?」
「うそ、わたし元気ない?」
「いや、なんかいつもと違う気がしたから」
驚いた、自分がそんなにわかりやすい人間だとは思ってもいなかった。
「お父さんが倒れたの、お見舞いに行かなくちゃって思ってはいるんだけれど、行くタイミングが分からなくて...」
普段なら人には絶対に話さない事も、なぜだか沙生の前だと言えてしまう。
「倒れたって、大丈夫なの?早く行かなくちゃ」
秋の手を引き、今にも走り出しそうな沙生を秋は優しく静止させた。
「待って、そんなに焦らなくても大丈夫だよ。とりあえず授業受けてからにしよう」
秋がそう言うと、はっと沙生は現実に戻ったように顔を赤らめた。そんな沙生をとても愛おしく感じた。
結局、花は買わず二人は病室の前にいた。
「わたし外で待ってるから、ゆっくり話してきなよ」
「うん、ありがとう。行ってくる」
深呼吸をしてから、個室のドアをノックする。どうぞと言う声を聞いてから部屋に入った。
「失礼します」
ゆっくりと読んでいた本から顔を上げ、瞳が秋を捉える。約一年ぶりに再会した父は頬が痩けていた。
「驚いた、秋じゃないか。どうしてここにいる?」
「瞳さんから電話を貰ったの」
「あぁ、そういう事か」
「体調、大丈夫なの?」
「どうってことはない、すぐに良くなる」
そう言った父の体にはいくつもの管が繋がっている、どうしてか泣きたくなった。
二人の間にはもう話すことは無かった。沈黙と気まずさが病室の空気を支配した。秋はその空気に耐えられず帰ろうと、父の顔からドアに視線を移す。
来なければ良かった、この人は全然喜んでいない。来る前からそんなこと分かっていたはずなのに、現実を目の当たりにすると少しへこむ。彼にどう思われようと、どうでもいいはずなのに、秋の心は穏やかでは無かった。
「それじゃあ、お大事に」
ドアを開くと、重く微温い空気を切り裂くように冷たい廊下の空気が病室に流れ込んできた。
「秋、来てくれてありがとう」
低く掠れた声は、ドアの閉まる音と共に消えてしまった。それでも、その声はしっかりと届くべき人には届いていた。
病気で、一年ぶりの再会で、大嫌いで、冷たくて、無関心で、父親で、こんなの反則じゃないか。
ありがとうと言われただけなのにこんなにも涙が止まらない。悔しかった、涙なんて流したくなかった。
「秋?」
困ったように沙生が近づいてくる。必死に涙を止めようとするが沙生を見た途端、余計に涙が溢れてきた。
「とりあえず、ここじゃ目立つから場所移動しようか」
沙生は秋の肩を抱き病院の屋上へと連れていった。
「ごめん、驚いたよね。もう大丈夫」
屋上についた頃には秋の涙も大分落ち着いていた。
「いいんだよ、泣きたい時は泣いた方がいいよ」
赤すぎる夕日が二人を染める、11月はもう終わろうとしていた。
「ずっと大嫌いだったの、お父さんのこと。でも、今日会ったらなんか、よく分からなくなった」
あの人が母と別れてから、秋は自分を捨てた二人の事を恨んで生きてきた。永遠を信じていた少女はあの日死んだのだ。愛が憎しみへと変わった瞬間だった。
「嫌いと好きって似てるよね」
「え?」
「好きだったのに、その人のこと嫌いになるってよくあると思うんだ。でもそれって、相手のこと本当は好きって事なんじゃないかな」
「どうして?」
「人を嫌うのにも、好きでいるのにもエネルギーがいるからね。好きじゃなきゃそんなふうに思い続けられないんじゃないかな」
風が吹く、強い風だ。なにもかも消し去ってしまうのではないかと思わせる激しさが体を包む。
父への負のエネルギーは見方を変えれば美しいものにも変化する。胸の奥にずっと居座っていたどす黒いドロドロとしたものが消えていく。とても爽やかな気持ちだった。
風を受け、わぁ凄い風でも気持ちいいねと言う沙生の声が秋の耳を愛撫した。
隣を見ると沙生がいる。
今、一番会いたい人が隣に居る。
あなたの隣が好き。
あなたの声が好き。
あなたの醸し出す空気が好き。
あなたの事が誰よりも好き。
永遠なんて無いことは分かっているし、知っている。それでも、もう一度永遠を信じたくなった。出来ることなら、一秒でも長く沙生と同じ景色を見ていたい。
いつか絶対にどんな形であれ別れは来る。なのにどうして人は恋をして愛し合うのか理解出来なかった。それが、やっとわかった気がした。
きっとそれは言葉では説明出来ない。
「沙生」
「なあに?」
沙生は笑いながら乱れた髪を耳に掛けた。そして視線が交差する。
一瞬のことだった。風のように爽やかで、束の間の接触。
秋は沙生の乾いた唇から自分の唇を離した。
この行為がどんな意味をもち、どれだけ彼女を混乱させるか深く考えもせずに秋は空を仰いだ。
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