そのままのあなたで
沙生の家は白い二階建ての家だった。笑顔が絶えない家族が住んでいそうな雰囲気を醸し出していた。
チョコレート色のドアを引き、ただいまと沙生が言う。すると、奥からおかえりなさいと女の声が返ってきた。
秋はその一部始終をみて心が乾いていくのを感じた。
ただの挨拶、それが異世界にでも来てしまったのではないかと錯覚するくらいに秋に違和感を与えた。
「なにぼーっとしてるの、早く上がって」
沙生に促されるまま玄関を通り過ぎる。
それでも秋の頭の中は先程の二つの言葉で埋め尽くされていた。
ただいま
おかえり
たった二言。それだけの言葉でこんなにも混乱するとは思わなかった。
とても不思議な気分だ。
「ええ!ちょっと、どうしたの二人ともずぶ濡れじゃない」
廊下を歩く、水浸しの秋たちを沙生の母が見つけ驚いた。
「バイト帰りに偶然秋に会ったの、傘も持ってなくて連れてきちゃった」
沙生がいいよね?と確認するように母を見つめる。
「ああ!この間の子ね、沙生からよく話聞いてるわ、いらっしゃい」
そう言い、沙生の母はテキパキとなにか支度をし始めた。
「はい、風邪ひくからさっさと入っちゃいなさい」
渡されたのはバスタオルと着替えだった。
「え?あの」
「秋の方が濡れてるから先入っちゃって」
これはつまり、お風呂に入れという事らしい。友達の家に来て、直ぐにお風呂を借りるという体験は初めてだった。
なんだか展開についていけない。
水野家のお風呂はなかなか広かった。
シャワーを浴びながらゆっくりと息を吐く。そのまま目を閉じ全身でシャワーを受け止める。雨とは比べ物にならない程温かかった。
お風呂から出ると沙生が部屋まで案内してくれた。
「ドライヤーそこにあるから使って。私もお風呂入ってきちゃうね」
そう言い残し沙生が行ってしまった。
一人残された秋はとてつもなく居心地が悪くなった。
しかも静かすぎる沙生の部屋で、あの爆音を奏でるドライヤーを使う気にはどうしてもなれなかった。
目的を見失い部屋を見渡す。
白を貴重とした清潔感のある部屋にも見えるし、少し寂しすぎる気もした。
物が少なく、若い女の子の部屋という感じはしない。
雨の音が聞こえる。
未だ外では雨が降り続けているようだ。雨は季節関係なく突然に泣き始める。空から無条件に降ってくるそれは、まるでお前も泣けと言うように人々の肩を濡らす。
未だ人間は傘以上の雨具を開発出来ていない。雨の日は、貧乏な子供たちも、富を得た大人も同じ様に肩を濡らす。結局、人間は無力な生き物なのだ。
大昔、名も知らぬ誰かが作り上げたものを普通とし、それを工夫せずに使い続ける。もしも、誰かが傘以上の何かを開発したとしても、大衆の意見が得られなければ消えてしまうだろう。それがどんなに素晴らしいモノであったとしても。
誰かの普通が皆の普通となり、皆の普通が自分の普通になる。誰かの価値観で構成された私は一体何者なのか。普通という誰かを抜け出す怖さに囚われ続けていた。
ベッドに触れてみる。そして薄い毛布に顔を埋めた。甘い香りが秋の心を満たす。なんだか泣きたくなった。こんな事を自分がする日が来るとは思わなかった。まるでドラマで見る変態みたいだ。笑ってしまう。
ドアが叩かれる。心臓が飛び出すかと思った。
ドアを叩く音と同時に、ドアが開かれた。
「ちょっといいかしら」
そこには神妙な面持ちをした沙生母が立っていた。
「で、何でこんなことになってるわけ?」
沙生が二人を不機嫌な顔で見下ろしている。
「だってー、やってみたかったんだもん」
「だもんじゃない、だもんじゃ。秋困ってるじゃん!」
「困ってないわよ!ね!秋ちゃん」
「はい、気持ちいいです」
「秋まで...」
まあ、確かに娘からしたら友達が自分の母親に髪を乾かしてもらっていたら嫌だろう。
しかし、秋には断ることが出来なかった。
沙生がお風呂を上がる十分前程前に沙生母が秋を訪ねてきた。そこでお願いされてしまったのだ。
「お願い!髪乾かさせて!」
そこからはもう秋は沙生母のお人形と化してしまった。
「沙生にお願いしても嫌がるのよね」
「嫌に決まってるじゃん、自分で出来るし」
「そういう問題じゃないのよ」
「...ごめんね秋」
沙生は申し訳なさそうにされるがままの秋を見た。
秋の髪を乾かし終え、満足した沙生母は夕食を作りにキッチンに向かった。
「秋ちゃんも食べてくでしょ?」
「いや、悪いんで帰ります」
「なに遠慮してんのよ!うちのも世話になったんだから気にすることないのよ」
押し切られる形で夕食をご馳走されることになった。夕食まで時間があるため再び沙生の部屋に向かう。
「秋、ありがとね」
「なにが?」
「お母さんの我が儘付き合ってくれて」
「全然、こちらこそお風呂とかありがとう」
実際、髪を乾かしてもらうのは嫌ではなかった。
「沙生はお母さんに髪乾かしてもらうの嫌なの?」
「うーん、嫌っていうか恥ずかしいし」
そういうものなのか。普通の親子は、髪を乾かしてあげるなんてしないのだろうか。よく分からなかった。
「じゃあ、私が沙生の髪乾かしてあげる」
「ええ!いいよ、自分でできるって」
「人にやってもらうと気持ちいよ」
「いや、だから」
なにか言いたげな沙生を無視してドライヤーを髪に当てる。
最初は少し抵抗したが、やがて大人しくなった。
濡れていた髪は次第に絹みたいに柔らかくなり、凄くさわり心地がいい。
自分が誰かの髪を乾かすなど美容師にでもならない限りやらないだろうと思っていたのに、人生なにがあるか分からない。
スイッチを切り髪を乾かすのを辞めた。
「終わったよ」
沙生を見ると、目がトロンとしていてた。
今にも溶けてしまいそうな表情をしている。
「凄く気持ちよかった、眠くなっちやったよ」
沙生もどうやら髪を人に乾かしてもらう心地良さに気付いたらしい。
沙生の乾きたての髪にそっと触れる。
一瞬ぴくりと体を緊張させたが、直ぐに肩を下ろした。
火照った沙生は秋を見つめにこりと笑った。
「前にも、こういう事あったよね」
「あったね、合コンの時かな」
ゆっくりと髪に触れた手を沙生の耳へと移動させた。
「ピアス、まだ開けてない?」
「うん、開けてないよ」
「そっか」
お酒なんて飲んでいるはずないのに、まるで酔っ払っている時のように視界がぼやけた。
世界がフワフワしていた。
髪をかきあげ、形の良い耳に触れる。
そして耳に唇をつけた。
「秋?」
「開けないで」
「え?」
「ずっと、開けないで」
ここまで踏み込むつもりは無かった。誰かの人生に口出しするなんて有り得ないはずだった。それなのに、沙生はそれを許してくれない。
赤かった沙生の耳が更に赤く染まった。
「どうして?」
どうして?どうしてだろう。自分でもよく分からない。
でも、嫌だ。
開けないで欲しい。出来れば一生、そのままのあなたでいて欲しい。
何でただの友達にこんなことを思うのだろうか。
いや、とっくに沙生はただの友達なんかじゃなくなっていた。
ただ、友達でなければ彼女は私にとって何なのだろう。
親友?
違う
恋人?
違う
「わかんない」
沙生を見ると不安そうな顔をしていた。
こんな顔をさせるつもりは無かった。あなたにはもっと笑っていて欲しい。
「ごめん、変な事言ったね。気にしないで」
沙生から体を離す。
今日は温かいものに触れすぎたせいで、自分の温度が分からなくなってしまっていた。
あなたにとっての普通が、私にはあまりにも暖かすぎるものだったから。蓋をしていた感情が溢れだしそうになってしまった。そのせいであなたが傷つく事も考えずに。
丁度よく下から夕食の完成を伝える沙生の母の声がした。
「出来たって、行こうか」
沈黙を埋めるように立ち上がる。
「秋...」
「ん?」
「秋が開けないでって言うなら、私は一生開けないよ」
一瞬なんの事か分からなかったが、直ぐに理解する。
ねぇ、それってつまり...
「お腹すいたね、早く行こう」
沙生が秋の手を握った。
まぁいいか。
今は、まだ。
沙生に手を引かれ、温かい夕食が待つ沙生母の所へと向かった。
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