第14話 「夏休みの最後の日に」(後編)
マンションの廊下でばったり会った周と翔子は、そのまま駅前にある喫茶店へと場所を変えた。
因みに――、
「とりあえずキッチャ店にでも行こうか」
と言った翔子の鶴の一声によって決まった。
時間はまだ午前十時を過ぎたばかり。
そんな中途半端な時間のせいか、店内に客はほとんどいない。周と翔子のほかは、ひとりできてコーヒーを飲みながら静かに読書をしている初老の男性だけだった。
ふたりはそろってアイスコーヒーを注文し、今はそれがくるのを待っている状態だった.
「どっか行くんじゃなかったの?」
向かいの席から翔子が明るい声で聞いてくる。
「いんや。さっきも言ったけど特に目的はないんだ。テキトーにぶらついて、ついでに昼飯も喰ってこようかと思ってただけ」
「お昼も?」
翔子はなぜかその単語を繰り返した。
「家で何かあった?」
「……別に」
さすがに月子のことを意識しすぎて家に居辛いとは言えない。
周は努めて感情を顔に出さないようにして答えた。が、そのおかげで声があまりにもフラットに、硬くなってしまった。
「ふうん」
果たして、納得してくれたのかそうでないのか。
そこで店でただひとりのウェイトレスがやってきた。ふたりの前にそれぞれアイスコーヒーが置かれるまで、一旦話は中断された。
「お昼も外でって、いいの? 月子さん、作ってくれてるんじゃないの?」
ウェイトレスの姿がいなくなった後、翔子はさっそくミルクと少量のガムシロップを注ぎながら、問いを口にした。
「かもな」
おそらく月子のことだから、何にするか献立の予定は立っていたに違いない。とは言え、実際に作りはじめたわけではないし、何かが無駄になったというわけでもない。
月子のレパートリィは豊富だ。この夏休み、ほぼ毎日家で食べているが、前に同じメニューを食べたのがいつだったか思い出せないくらいに多彩である。昼食なんかそばでもソーメンでもどーんとそれだけ出せばいいだろ、と周は思ったりするが、月子はきちんとサイドメニューまでつけてくれる。
「すごいなぁ。月子さんって」
周がその話をすると、翔子は感嘆の声を漏らした。
「うちなんか姉妹だけで住んでるから、すっごいいいかげん。3日くらいなら平気でおうどんが続いたりするよ」
「さすがに俺でもそれはどうかと思うけどな」
周は現状を当たり前のように享受していたが、そういう話を聞くと改めて月子の有能さを思い知る。本来の予定通り周がひとり暮らしをしていたなら、古都姉妹以上に雑な食生活をしていたことだろう。
マズいな――と、周。
何がまずいかというと、料理ができる女の人っていいな、などと思ってしまったことだ。人生経験の浅い周にとって、女性の魅力をはかるもの差しは日常生活の中にあるのだ。
「どうしたの、周くん。考え込んじゃって」
「あ、いや、何でもない。それよりも何か話があったんじゃないのか?」
つき合えと言ってここに連れてきたのは翔子だ。
「え? あ、そ、そだったね」
そう言いつつも翔子は話を切り出すわけでもなく、まるで時間稼ぎのようにアイスコーヒーのストローに口をつけた。
「えっとね、月子さんのことなんだけど」
「お、おう」
本題らしき話題にいきなり月子の名前が出てきて、周は軽く動揺した。月子がどうしたというのだろう。
「前に聞いたときは、月子さんとは親戚だって言ってたけど……もしかしてそうじゃないんじゃない?」
「……」
もとより翔子が何を言い出すのか、まったく予想できていなかったが、これはそれを上回る予想外だった。
「……どうしてそう思う?」
「んー……カン、かな? そうじゃなかったら、わたしが感じたことからの逆算?」
一拍おいて硬い声で問い返す周に対して、翔子の口調は軽かった。いちばん聞きづらい核心を切り出してしまったからかもしれない。
今度は周が時間稼ぎにコーヒーを飲む番だった。
間、思考を整理する。
そうしながら、すぐに否定せずこうしている時点で肯定しているのと同じだな――意識の一部で、そう冷静に考えていたりもした。
意を決して口を開く。
「当たり。翔子ちゃんの言う通りだよ。俺と月子さんは親戚でもなんでもない」
「やっぱり」
翔子が笑顔を見せた。
「因みに、どういう関係? たまたま会ったその日にルームシェアとか?」
「そんなやつはいないだろ……」
世の中は広いもので、そんなやつがいるのである。
「月子さんは、うちの実家で長年家政婦をやっている人の娘なんだ。いちおう幼馴染でもあるけどな。俺がひとり暮らしをするって言ったら、心配したバカ親父が勝手に寄越しやがった。立場的にはメイドってことになってる」
「そっか。メイドさんかぁ」
すんなり納得したふうの翔子。
「2LDK、メイド付き?」
「ま、そういうこと。だけど、あんまり突っ込んでくれるな」
たちの悪い冗談みたいな環境だ。ため息が出てくる。しかし、翔子はそんな周の心情とは対照的に、楽しそうに笑みを浮かべる。
「周くんってさ――」
翔子は手遊びのようにストローでコーヒーをかき回しながら切り出す。顔は笑みのまま、でも、周ではなく手元を見ている。
「月子さんのこと、好きだよね」
「は……?」
周の動きが止まった。
「い、いや、ちょっと待――」
「わたし気づいちゃった」
翔子は周にお構いなしに続ける。
「ほら、お盆の少し前に会ったでしょ? 周くんたちが図書館に行くって言ってたとき」
「あ、ああ」
周はつられて相づちを打った。
「あのときに気づいちゃった」
「……なんでそう――」
「思うかって? こっちは完全にカン。でも、これは絶対」
「……」
周は思わず黙り込んだ。
そうだ。あの日、夕日を見て何の前触れもなく気づいたのは、まぎれもなくそれだった。
鷹尾周は藤堂月子が好き――
それは周の中に確かにあった。
それに気づいて、焦り、動揺した。それがなぜか都合の悪いことに思えたからだ。周はその気持ちを持て余し、どう扱っていいかわからないまま、この半月ほどを過ごしてきた。
他人にまで突きつけられては、もう言い逃れはできない。
周は自嘲気味な、小さなため息を吐いた。
それにしても――、
(あのときに気づいたって?)
確かにあの日、ふたりで出かけるだのデートだのと、周の意識は変なベクトルへ向きっぱなしだった。しかし、その時点ではまだそうとは自覚していなかったはずだ。ならば、翔子は周本人よりも先に気づいたことになる。
なんだかなぁ……。やりきれない気持ちで周は、先ほど翔子がしたのと同じように、無意味にコーヒーをかき混ぜた。
「月子さんには言ったの?」
「え? あ、いや、まだ……」
実のところ、周は肝心な部分で肯定の返事を返していないのだが、それでも翔子はすでにそれが事実であるとして話を進めていた。
「言えばいいのに」
翔子は不満そうに口を尖らせた。
周は「まだ」と答えたが、実際にはそんな発想は欠片もなかったというのが正直なところだ。自分でも受け入れられていない気持ちを、どうして他人に告げられようか。
「わたしもね、好きな男の子がいるの」
「……」
いきなり飛び出した翔子の打ち明け話に、周は沈黙で応えた。
というよりは――、
(おいおいおいおい)
と、内心かなり驚いていた。
古都翔子は4分の1フランス人の血を引く美貌で、学校でも評判だ。周の周りにも彼女に好意を寄せる男子生徒が多くいる。その連中が今の言葉を聞いたらどうなることやら。色めき立つか、落ち込むか。
「その男ってどんなやつ?」
「ひと言で言うと、優しい人、かな?」
「優しい、ね……」
意外と面白くない回答だと、周は思った。たとえばマンガや小説で、冴えない主人公が女の子に好意を寄せられるときに真っ先にあがる理由がこれだ。ある意味ほかに取り柄がないと言っているのと同じだろう。
だが、翔子は続ける。
「優しくあろうとしなくても、自然と優しくできる人なんだと思う。そういうスタイルがすごくいいなって思った」
そう言って翔子はやわらかく笑う。
ま、本人がそこに魅力を感じてるんならいいか――周はコーヒーをひと口飲んだ。面白くないというのは、所詮は周の感想でしかない。
「自然に優しくできる、か。俺も見習うべきかな」
「たぶんね、本人は自分がそういう人柄だってこと、自覚してないんじゃないかなぁ」
「なるほどね。そうなろうとしてる時点でダメってことか。俺にゃ遠いな」
周は諦めたように頭上を仰ぎ見た。
そんな周を、翔子は少しの間、笑顔で眺めていた。
そして――、
「ところが、その人にはほかに好きな人がいました」
「……あー、そうなんだ……」
不意打ち気味のどんでん返しに、周はかける言葉が見つからず、うめくようにそれだけを言った。
「でも、ぐずぐずしていたわたしが悪いんだと思う。だからね、周くんもわたしみたいにならないうちに言っちゃった方がいいよ」
なるほど。突然の打ち明け話は、ここに結論するわけか。
「ああ、うん、そうだな……」
曖昧に返事をしながら、その実、どうするのが正しいのか判じかねていた。
周にとってそれは、いきなり抱えてしまった爆弾みたいなものだ。捨てるわけにもいかず、かといって上手く処理できるだけの経験もない。そこに出てきた翔子の提案は、さしずめ爆破処理といったところか。打ち明けてしまえと言う。周の中にはない選択肢だ。
翔子が聞く。
「不安?」
「不安、か……」
そして、周はそれを鸚鵡返しにした。
「いや、そういうのとは……」
「月子さん、美人だもんね」
「……」
月子は美人で、スタイルもいい。そして、何よりも大人だ。周のような年下を相手にするだろうか。望みは薄そうだ。
「ああ」
と、周は思い出す。
あの日、月子が言っていた。私の周りに恋愛対象になるような男がいない――そういった意味のことを。
「……」
なかなか絶望的な状況だ。
周は無言でストローに口をつけた。
少し飲んだところでグラスの中のアイスコーヒーがなくなり、空気を吸い上げる間の抜けた音が鳴った。
「悪い、翔子ちゃん。俺、帰るわ」
正直、頭が飽和状態だった。ひとりでゆっくり考えたいと思った。
「えっと、どうしたらいい? ここの勘定」
「周くんが出して」
「……」
「……」
周は思わず目だけで天井を見た。
「いや、まぁ、いいけどさ。えらくはっきり言うな」
いっそ清々しい。
「だって、それくらいしてくれないと、翔子の気がすまないもん」
「って、俺、何かしたっけ?」
「さぁ?」
しかし、翔子は周を見て微笑むだけだった。
「あ、そうそう。あの日、もうひとつ気づいたことがあるんだけどね」
「その様子だと、それもおしえてくれなさそうだな」
「当たり」
翔子はかわいらしく、いじわるに笑った。
結局、周はふらふらと家に戻ってきてしまった。
時刻は正午より少し前。太陽はほぼ真上にあったが、幸いにしてとりとめのないことを延々と考えていたおかげで、あまり暑さを意識せずにすんだ。
マンションの前まできたところで、月子の姿を見つけた。思わずたじろいだのは一瞬。
「ていうか、何やってんだ、あれ?」
月子は私服姿でしゃがみ込んでいた。買いものの帰りなのだろう、脇にはスーパーのレジ袋が置かれていた。
「何やってんだ、月子さん」
近寄って聞いてみる。
「見ての通り、猫とたわむれています」
確かに月子の前に猫がいた。黒猫。以前、翔子が遊んでいた猫だろう。
(たわむれてる、ねぇ……)
しかし、周はその言葉を用いることに首を傾げてしまいそうになる。
猫の前に置かれている竹輪は、おそらく月子が今買ってきたばかりのものなのだろう。対する猫はというと、竹輪には見向きもせず、月子に向かって威嚇していた。
「なぁ、月子さん。なんか嫌われてないか?」
「そうですか?」
「うん。たぶんそう」
「私は好きですよ、猫」
「いや、まぁ、月子さんはそうかもしれないけど、そいつはそれには応えてくれないと思うぞ」
ひとまず警戒心を解かせようと、月子が手を出した。
げしっ。
そこに繰り出される猫パンチ一撃。
月子はしばらくその姿勢のままで固まった。何やら考えているふうだった。
「なに、世の中、一方通行の好意など珍しいことではありません」
「……」
「……」
いきなり舞い降りる沈黙。黒猫だけががんばって威嚇を続けている。
「どうかしましたか?」
月子が立ち上がり、周に向き直った。
「あ、いや、深い言葉だと思ってね」
いろいろくじけそうになったことは、決して月子には言えない。
「それにしても、意外に早いお帰りでしたね」
「まぁ、な。……あ、そうだ。俺の分の昼メシ――」
「ありません」
「だよなぁ」
昼食を外で取ると言って出かけたのは周である。
「ですが、私はメイドです。それくらいすぐに用意できます」
月子はきっぱりと言い切った。
「あ、そうなんだ。えっと、その、なんだ……いつも悪いな」
途端、目をぱちくりさせる月子。
そして――、
「い、いえ……」
と、短く愛想のない受け答えとともに、くるりとマンションのエントランスに体を向けた。
周は頭を掻いた。普段めったに言わない礼を言ったせいで、月子のペースを乱してしまったらしい。そして、何よりもいちばん自分の調子が狂っていることを痛感した。
月子は周をおいてマンションの中に入っていく。
「って、おい。買いもの袋!」
「周様が持ってきてください」
「……」
メイドとして何か間違っているのは相変わらずだが。
(明日から新学期か。こんな調子で大丈夫かね、俺)
一抹の不安を覚える。
なにせ根本的な部分では何ひとつ解決を見ていないのだから。
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