第14話 「夏休みの最後の日に」(前編)

 8月31日。

 夏休み最後の日。


 鷹尾周の一日は、朝、メイドに起こされるところからはじまる――のだが、今日に限ってはすでに目を覚ましていた。


 夏休み中は普段よりも1、2時間遅い起床だった。が、長期休暇の終わりが見えてきたここ数日は、月子が起こしにくる時間が少しずつ早くなってきていた。段階を経て生活サイクルをもとに戻そうという月子の気遣いなのだろう。


 今日、周が目を覚ましたのは午前6時過ぎ。


 外はすでに今日の猛暑を予感させるほど明るく、蝉も「友よ、今が駆け抜けるとき!」とばかりに張り切って鳴いていた。友よと言われても知らんがな。いいかげん弱れよ、うるせぇから、と思う周だった。


 覚醒はしても、体はベッドに横たえたまま。

 周は考えていた。


 盆前のあの日、夕陽を見ながら気づいてしまったこと。


 それは、おそらく今までずっと目を瞑って見ないようにしてきたもの。その手に掴みかけては逃げていくままに取りこぼしてきたもの――しかし、気づいてしまえば今の生活を一気に様変わりさせるだけの威力を持っていた。


 だから周は考える。


 しかし、思考はリングのように同じところを巡り、螺旋し、ループし、時々よくわからないものがバースデイしながら、結局は堂々巡りだった。


 ――これは都合が悪い。


 いつもそこに戻ってくる。


 と、そのとき、ドアがノックされる音。


「周様、朝です」


 そして、声。


 現在進行形で考えていたことが考えていたことだけに、その声を聞いて口から心臓が飛び出しそうになった。


 時計を見ると普段起きるのとそう大差ない時間だった。これなら明日からもとの、学校のある生活サイクルに苦もなく戻れるだろう。


 それにしてもずいぶんと考え込んでいたものだ。


 周がベッドから体を起こすのと、エプロンドレス完全装備の月子が部屋に入ってくるのが同時だった。


「おはようございます、周様。起きて――」

「起きてるよ」


 周は月子の言葉を遮り、言い返した。


 周を起こしにきた月子。しかし、その周はすでに起きているのだから、もう用はないはずだ。とっとと出ていってもらいたい。


 今の周は自分の気持ちを持て余して苛立ち、それが切れ長の目に邪険な光となって現れていた。即ち――早く出ていけ。


 対する月子は、端整ながら表情の欠けた顔で見返す。


「……」

「……」


「どこか具合でも――」

「何でだよ!? 起きてんだろうがっ。そういうのは起きないときに聞けよっ」

「私が起こすよりも先に起きているあたり、異状が……」

「判断基準がおかしいっ」


 もしかしたらこのメイドさん、普段からとんでもない要素で周の健康状態を観察しているのかもしれない。


「もういい。兎に角、とっとと出ていってくれ」


 しっしっ、と追い払うように手首を反復運動させる。


 そんな周の態度にむっとしたのは月子だ。


「早く出ていってほしそうですね。私がここにいると何か不味いことが?」

「べ、別にないけどさ……」


 本当のことを言えば、あまり月子と長時間一緒にいたくないと思っていた。座標もできるだけ離れている方がいい。それでもこう言い返したのは、売り言葉に買い言葉。図星を突かれたからこそ、勢いで逆走してしまったのだ。


「では、どうぞ私にかまわず朝の支度をしてください」

「お、おう」


 引くに引けなくなった周は、勢い込んでベッドから立ち上がり――そして、動きを止めた。


「どうかしましたか?」


 少々嫌味っぽく月子が聞く。


「あー……いや、俺、今から着替えるんだった……」


 朝いちばん最初の行動が着替えであることに、今さらながら気づく。

 月子も動きが止まった。


「……」

「……」


「朝食の用意ができていますので、着替えたらすぐにきてください」


 月子は何ごともなかったかのように告げた。


 それから、いつもよりややぎこちない動作で、一礼と回れ右。ドアノブを握って、引く。開かない。残念、それは押すドアだ。


 すぐに間違いに気づいた月子はドアを押し開け、錆びついたロボットさながらの動きで部屋を出て行った。


「……」


 月子の姿がなくなったことでほっとひと息ついた周は、ゆっくりと着替えをはじめたのだった。





 朝食はふたりで一緒にとる。

 ダイニングの小さなふたり用のテーブル。シンクに近い側に月子が座り、リビング側が周だ。


 ここ数日、周は現状がつくづく非日常だと痛感していた。


 2LDK、メイド付き。

 それはもういい。最初のころこそ「なんじゃそりゃあ!」と環境設定にツッコミを入れたものだが、使用人がいるような実家だったせいか、何となくそれもいつの間にか当たり前になっていた。


 問題はもうひとつの方。


 周、16才。

 月子、20才。


 幼馴染とは言え、赤の他人のふたり。

 それがひとつ屋根の下に住んでいる。


 呼び方を変えれば、同棲。


(問題だよなぁ……)


 あまり健全とは言い難い環境を、周は改めて実感した。


「何か考えごとですか?」


 月子が聞いてきた。


 そこでようやく周は、自分の手が止まっているのに気がついた。脳は食事と思考をマルチタスクで処理してくれなかったようだ。朝だから回転数が上がり切っていなかったのかもしれない。


「あ、いや、何でもない」


 ひとまずそう否定しておいて、周は続ける。


「そういやこういうのって今にはじまったことじゃないんだよな。昔はよく月子さんと一緒にいて、度々飯もふたりで喰ってたような気がする」


 周の両親というのは今でこそ悠々自適の資産家ライフを満喫しているが、当時は祖父のもとで後継者としてがむしゃらに働いていた。母は母でセレブ妻としてあっちこっちに引っ張りだこだった。夫婦そろって周のことはほったらかし。そこで白羽の矢が立ったのが家政婦をしていた藤堂の娘だったのだ。


 年の近い世話役として月子は、生活から勉強から、さまざまな面で小学生だった周の面倒を見ていた。


 と、ふと正面を見ると、月子がトーストの角を小さな口でかじったまま、周をじっと見ていた。


「またいきなり昔を懐かしみ出しましたね」

「……深い意味はないんだ」


 回想を含めて周内部ではしっかりとつながっているのだが、それを知る術のない月子には当然さっぱりだったわけだ。


 周は月子から顔を逸らし、並べられた朝食に視線を落とした。

 すぐにまた思考をはじめるが、月子に不審がられないように意識的に朝食も進めた。


 果たして、当時の自分は月子のことをどう見ていただろうか。彼女を「月姉ちゃん」と呼んでいたころを振り返ってみる。


 小学生だった自分の目には中学生の月子というのは、ずいぶん大人に見えていたことを覚えている。


 勉強を教えてくれる彼女は、優しく聡明だった。

 そして、何よりもきれいな少女だった。そういう少女が姉のような立場でそばにいてくれることを、周は誇らしく思っていた。


「……」


 思わず食事をする手が止まった。


「そんときからかよ……」


 ついでにテーブルに突っ伏しそうになる。

 過去を振り返ってみてびっくり。いま明かされる衝撃の新事実。そういうものは昔からあったらしい。


「周様、楽しそうに食事をしていますが、客観的には単なる奇行です」

「……」


 何か言い返したいのだが、その通りなので黙るしかなかった。


 顔を上げると月子が冷たい目で見ていた。「う……」とたじろぎそうになるが、整った相貌に冷たい視線というのも、これはこれでいいような気がする。……マゾか。


「月子さんって美人だよな」

「は?」


 直後、沈黙が訪れた。


 内心パニックになったのは、むしろ周のほうだった。何しろ思ったことを思うがままにアウトプットしてしまったのだから。


 月子は思考停止を伴った長めの硬直の後、そこから回復してしばし考えた。


「周様、やり忘れた宿題でも出てきましたか?」

「違うわっ」


 何も宿題を手伝ってほしくてお世辞を言ったわけではない。


「今のは気にしないでくれ」

「……」


 明らかにさっきよりも気まずい沈黙。


 しかも、周と月子がそれぞれお互いを見ないように視線を外しているので、一見するととても仲の悪い食事風景だ。


 これはまずいと周は思う。

 月子を意識しすぎて挙動がおかしくなっている。完全に追い詰められた状態だ。何をやっていても考えがそっちに行ってしまう。


「悪い。俺、今日は出かける」


 家にいるとさらにおかしなことになりそうだ。


「わかりました。お昼はどうしましょう?」

「いい。テキトーに外で喰うから」

「そうですか」


 月子は短くそう言って了解した。





 周は十時になるのを待ってから家を出た。あまり早く出かけても行く場所がなければどうしようもない。


「じゃ、出かけてくるからー」


 と、玄関からリビングに向けて声をかけ、そのまま月子の顔も見ず、逃げるように出てきた。


「まいったな……」


 自分で自分が制御できていない。我ながら呆れてくる。


「さて、どこに行くか」


 マンションの廊下で、爪先で床を蹴って靴に足を突っ込む。夏の湿った熱気が体を撫で、やっぱりやめようかと心が折れかけた。


 特に行くあてはなかった。

 クラスメイトにでも声をかけてみようかと考えたが、うっかり宿題のできていないやつのところに行ったら手伝わされかねない。岡本は要注意。一二三も危険だ。真面目な小次郎あたりなら安全か。


 と、そんなことを考えていると――、


「あ、周くんだー」


 翔子だった。


 翔子も今家から出てきたのだろう、廊下の先からこちらに向かってくる。キュロットパンツにキャミソールという格好だ。


「どこかお出かけ?」

「まぁね。行き先は決まってないけど、ちょっとブラついてこようかと」

「ふうん、そうなんだ」


 そう答えてから翔子は何ごとかを考えたふうだった。


「ね、よかったらちょっとわたしにつき合ってよ」

「ん? 別にいいけど?」


 周にしてみれば目的ができて丁度よかった。


「決まり。じゃあ、行こっか」


 翔子の元気な声を合図に、ふたりはマンションの階段を下りていった。

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