挿話 「変わっていくもの、変わらないもの」

 午後6時。


 藤堂月子は、最近では仕事のユニフォームなのか普段着なのかさっぱりわからなくなったエプロンドレスを着て、夕食の準備をしていた。


 本日のメニューは、鶏のから揚げ。

 すでにそれは揚げ終わっていて、揚げ鍋の中は余熱で油がパチパチと音を鳴らしているだけだった。今はサイドメニューを作っている最中だ。早くしないとから揚げが冷めてしまう。


 と、そこに冬眠から覚めた熊のように、ひとりの少年がやってきた。


「あぁ、腹減った……」


 鷹尾周。

 月子がメイドとして世話を命じられた、目下のところ直接的な主人にあたる少年だ。


 周はリビングからキッチンへとやってきて、目ざとくから揚げを見つけた。もしかしたら本当に熊の如く匂いにつられて出てきたのかもしれない。


「お、美味そう……あうちっ」


 さっそくつまみ喰いをしようとしたところで、すかさず月子の手刀が手首を打った。


「周様、あと10分お待ちください」


 月子は冷ややかに告げる。


 さっき帰ってきたと思ったら、もうこれだ。尤も、今日は遅くなるだろうと勝手に予想して、油断していた月子も悪いのだが。兎に角、今は全力で夕食の準備だ。周にかまっている暇はない。


「いいじゃないかよ、いっぱいあるんだし」

「そういう問題ではありません。行儀が悪いと言ってるのです」

「いや、だって、腹減ってんだよ」


 食べ盛りの少年の主張。


「……周様」


 月子はもう一度静かに彼の名を呼ぶ。


「おう」

「今、私の手には包丁があります」


「……」

「……」


「オーケー。俺も手首は大事だからな」


 どうやらようやく観念して、リビングへと戻るようだ。


 まったく――と、月子はため息をひとつ。


「周様、そこについでに揚げたポテトがあります。それならかまいませんから、それでも食べてもう少しお待ちください」

「マジ? ラッキー。これで寿命が延びた」

「何をオーバーなことを……」


 揚げたてのフライドポテトの皿を持ってリビングに向かう周の背を、月子は呆れつつも少しやわらかい表情で見送った。


 食べもので喜ぶ。

 まるで子どもだ。


 ふと、月子は昔を思い出した。


 子どものころからずいぶんと変わってしまった。変わっていないのは自分の中にあるものだけだと思っていた――が、案外、思うほど変わっていないのかもしれない。


 月子はまた夕食の準備に戻った。

 慣れた手つきでテキパキと作業をしつつ、頭ではぼんやりと子どもの頃のことを思い出していた。




                §§§




「はい。月子、これ」


 中学3年に上がったばかりの月子が学校から帰り、鷹尾邸のキッチンにいる母のところに行くと、その母はワンセットの皿とグラスを差し出してきた。


 スナック菓子とオレンジジュースだった。


「何、これ? 食べていいの?」

「バカ。お坊ちゃまのよ」


 母はぴしゃりとひと言。


 月子の母親は恰幅のよい、妙に頼りになりそうな人物だった。実際に月子を女手ひとつで育て、鷹尾邸の人々の世話を一手に引き受けている。そんな母親から、年よりも少し大人びた、それでいてハツラツとした見目麗しい月子という娘が生まれたのだから、生命というのは神秘的である。


 加えて、そんな体格の母は身のこなしも軽く、空手、柔道、合気道、諸々の格闘技あわせて三十一段の達人だというのだから、人体の神秘とは深遠である。


「もう3時でしょ? お坊ちゃまのおやつ、持っていってあげて」

「りょーかい」


 月子は素直にその役を引き受け、皿とグラスの乗った盆を持ってキッチンを出た。


 広い鷹尾邸を歩き、制服のスカートを揺らしながら階段で2階に上がる。途中、こっそり素早くスナック菓子をひと口、口の中に入れた。


「こんなものばっかり食べて」


 2階の廊下を少し行くと、目的の部屋があった。ドアをノック。


「どうぞー。開いてるー」


 中から聞こえてきたのは、声変わりもしていない男の子の声だった。


 自然と浮かぶ笑みを隠しもせず、月子はドアを開けた。

 中は和室なら十畳以上はあるであろうフローリングの部屋。ベッドや勉強机、洋服タンスなど、ありきたりの調度品が使いやすく配置されているが、どれも子どもに与えるには高価なものばかりだ。


 そして、そこにお坊ちゃま――小学5年になる鷹尾家のひとり息子、周が勉強机に向かっていた。月子は、遊びや勉強などを含めた彼の世話役を任されている。


 机は左の壁につけられているので、月子からは周の横顔が見える構図だ。


「シュウちゃん、おやつ持ってきてあげたよ」

「ん。そこおいといて」


 周は勉強に集中しているのか、月子には見向きもせずに言った。月子は「む……」と眉根を寄せたが、まずは部屋の中央にある小さなテーブルに盆を置いた。


「えらいね。お勉強?」

「まぁね」


 そこで一段落ついたのだろうか、周は手を止め、鉛筆を置いた。そして、キャスターつきのイスを一回転、プラス90度でぴたりと月子の方を向いて止まる。


「でも、まぁ、そんな気分になったからやってるだけなんだけどね」

「シュウちゃんは気分屋だもんね」

「ほっといてよ」


 周は口を尖らせた。

 それから跳ねるようにしてイスから飛び降り、着地とほぼ同時にテーブルの前に正座した。


「いっただきまーすっ」


 おやつを前に合掌する。


「ねぇ、シュウちゃん?」


 と、そこで月子が呼び止めた。


「なに、月姉ちゃん」

「わたしにもちょっとちょーだい?」


 できるだけかわいく聞こえるように、せいいっぱいの猫なで声。


 が――、


「ヤダ」


 即答だった。


「ケチ」

「どーせ月姉ちゃん、途中で食べただろ?」

「……」


 月子の目が泳ぐ。


「そ、そんなことないわよ……」


 やっとのことで絞り出した声は、完全に自信というものが欠落していた。


「……」

「……」


「はい、嘘決定ー」

「むー……」


 周が言い当てた通り正真正銘の嘘なので、さすがにこれには言い返せなかった。


「あ、そうだ、月姉ちゃん」

「なぁに?」

「わからないところがあるんだけど、ちょっとおしえてよ」


 勉強のことらしい。


 周はやる気や集中力にムラがある性格なのだが、どうやら今はベクトルがよい方向に向いているようだ。果たして自分が小学生のころ、母に言われるよりも先に勉強に手をつけたことがあっただろうか、と月子は考える。やっぱりそんな記憶はなかった。


「いやです」

「なんで!?」

「シュウちゃんはケチんぼさんなので、おしえてあげません」


 年より大人びて見える月子は、非常に大人げなかった。


「がんばって自分で考えなさい」

「わー、行かないでっ」


 背を向けた月子に、周が光のような速さですがりついた。床に倒れ、月子の足を掴んで引きとめようとする。


「月姉ちゃんだけが頼りなんだから」

「もぅ……」


 月子はまんざらでもない顔で笑みを浮かべた。正直なことを言えば、こういう展開になるのは月子の予想通りだったし、こんなやり取りはふたりにとってはいつものことだった。


「しようがないなぁ」


 月子は姉の顔で、足もとの周を見る。


 と――、


「ぁ……、白……」

「ぇ……」


 周の視線が、月子の顔と足の辺りを行ったりきたりしている。


「……」

「えっと、月姉ちゃん?」


 身の危険を感じる周。


「シュウちゃんー!」


 次の瞬間、月子の怒りのエルボードロップが落雷の如く炸裂した。





 あれは7月だっただろうか。

 梅雨明けが宣言されたにも拘らず、はっきりしない天気が続き、その日、ついに午後から雨が降った。


「月子、ちょっと頼まれてくれる?」

「なに、お母さん」


 期末考査で早く帰宅していた月子は、母の呼ぶ声に応えた。


「お坊ちゃまが傘を忘れたらしいのよ。持っていってあげてくれる?」

「え、シュウちゃん、持っていかなかったの!?」


 あれほど朝、絶対の午後から降るから、と口うるさく言って、確かに持たせたのに。きっと面倒くさがって最後の最後に玄関にでも置いていったのだろう。傘は忘れたのではなく、持っていかなかったのだ。


「しようがないなぁ……」


 テストは明日もあるのだが、気分転換に少し歩いてくるのもいいだろう。そして、何よりも人の忠告を無視した周にひと言言ってやりたい気分だった。


 月子はさっそく立ち上がった。

 鷹尾邸の玄関で、周の児童用の傘を取り出し、しとしと雨の中を出かける。


 向かう先は地区の公立小学校だ。3年前までは月子も通っていたし、隣には現在在籍している中学校があるので、歩くのは今でも通い慣れた道だ。


 程なく小学校に着いた。

 校門をくぐり、両脇を花壇で挟まれた通りを抜けて、昇降口へと向かう。途中、傘を差している児童数人とすれ違った。


(シュウちゃんもちゃんと持っていけばよかったのに……)


 そうして昇降口へ行ってみると、そこに周はいた。友達とふざけ合って遊んでいる。傘でのチャンバラごっこ。持っていない周は、手提げ鞄での応戦だ。


「シュウちゃん」

「あ、月姉ちゃん」


 かなり白熱していたようで、月子が声をかけてようやく周は彼女に気がついた。他の友達も月子へと振り向く。


「誰、あの美人の姉ちゃん。鷹尾の姉ちゃん?」

「まぁ、そんなところ」


 周は自慢げにそう答えてから、月子のもとへ走ってきた。


「月姉ちゃん、ありがとー!」

「こら、ありがとーじゃないでしょ」


 月子は傘の柄で周の額をコツンと叩いた。


「朝、持って行きなさいって渡したはずでしょ」

「ごめん。次はちゃんと持っていくから」

「もぅ……」


 周のあまり懲りてない様子の誤魔化し笑いを見て、月子は絶対またやると思った。基本的に浅慮なのか、考えなしなのか、周は学習能力に欠けるところがあるのだ。


「あ、ちょっと待ってて」


 月子から傘を受け取った周は、そう言って再び友達のところへ戻っていった。


 こちらから見ていると周は友達と二言三言、言葉を交わし、その後、手を振り合って別れた。周の傘が届くのを一緒に待ってくれていたのであろう彼らは、文句も言わず帰っていった。


 周が戻ってくる。


「お友達は? いいの?」

「いいよ。あいつらとはいつも一緒に帰ってるから。今日は月姉ちゃんと一緒に帰る」


 屈託のない笑顔を見せる周。


「そう。じゃあ、帰ろっか」


 月子も自分を選んでくれたことが嬉しくて、つられて笑顔を浮かべた。


「あ、ごめん。もう一回」


 再び待ったがかかる。


 周は何かに気づいて、走り出したようだった。彼が向かった先を月子も目で追うと、そこにひとりの少女がいた。周と同い年くらいだろうか。傘は持っていない。


 周は彼女に駆け寄ると、声をかけながら傘を差し出した。手と首を振って、拒絶の意思を示す少女。しかし、周は実力行使に訴え、傘を強引に押しつけて逃げるように戻ってきた。


 再び月子のところに帰ってきた周は、一部始終を見られていたことに気づき、ばつが悪そうだった。


「ふうん。いいとこあるじゃない」

「うるさいなぁ。いいから入れてよ」

「はいはい」


 家では子どもらしく月子とふざけ合っている周だが、どうやらこういう優しい――ある意味では男らしい部分も持ち合わせているらしい。月子の知らない一面だった。


 月子はもう一度先ほどの少女に目をやった。

 かわいらしい女の子だ。そして、彼女は月子など目に入らない様子で、周だけを見ていた。


「……」


 月子は自分の中に複雑な感情があるのを自覚した。





 季節は秋へ移る――


「月子ー、月子ー」


 母の呼ぶ声がした。


「なぁに、お母さん」


 月子は私室から顔を出し、応えた。


「お坊ちゃまを捜してきてくれる」

「え、なに、シュウちゃん、まだ帰ってきてないの?」


 時計を見れば、もう午後6時だった。


「そうなのよ。もうすぐ夕飯だし、今日は旦那様も帰ってきてるのよ」


 なるほど。多忙な周の父が、珍しくこの時間に帰ってきてるのか。きっとめったにない家族団欒の機会を周の不在で逃さないようにという、母の配慮なのだろう。


 月子には物心ついたときには、すでに父はいなかったが、それだからこそそういうものの大切さがわかる。


「でも、どこに行ったかわかってるの?」

「お友達と一緒に近くの公園に行くっていって出て行ったわ」

「わかった。じゃあ、そのへんを捜してくる」


 月子はロングスカートにブラウスという普段着の上に薄手のカーディガンを羽織って、さっそく出かけることにした。


 外へ出ると、もう真っ暗だった。ついこの間まで、この時間でも明るかったはずなのに。季節は確実に秋に変わりつつあるようだ。


 ひとまず周が向かったという近くの公園に足を向ける。

 鷹尾邸は高級住宅地の中にある。昼間は閑静なこのあたりも、日が暮れたら人気がなさすぎて不気味なほどだ。


 自分の足音と秋の虫の声を聞きながら歩く。


 と、そこに一台の車が後ろからやってきた。広い道ではあるが、月子は車のことを考えて、道の端ギリギリまで寄る。が、その車は通り過ぎず、月子の横で止まった。黒いライトバンだった。


「ねぇ、君。よかったらさ、一緒に遊ばない?」


 助手席の窓から顔を覗かせたのは十代後半と思しき少年。


 びっくりして月子の足が止まるが、すぐにこういう場合は毅然とした態度が必要だと自分に言い聞かせた。


「いえ、けっこうです。忙しいですから」


 忙しくなくともこんな連中につき合うつもりはない。

 月子は短く答えて、早足で歩き出した。


 ところが、あろうことかライトバンは再び後を追いすがってきて、今度は聞く手を阻むようにして止まった。


 先ほどの少年が助手席から降りてきた。なぜか手には木刀を提げている。


「せっかく誘ってんのに、断るってのはないんじゃないの? こういうのってなんてーの? 精神的苦痛ってやつ?」


 さらに後部のスライドドアが開き、少年がふたり出てきた。


「うっひょー。さすがいいとこのお嬢様。すっげぇ美人!」

「な、何なんですか、あなたたちは!?」


 あっという間に少年たちに囲まれてい待った。たぶん運転手を務めていたのだろう、車を回ってもうひとり現れ、全員で4人になった。


「慰謝料としてちょっとつき合ってよ」

「いつも堅ッ苦しい生活してるんだろ? たまには羽目外すのもいいんじゃないの?」


 ニヤニヤ笑う少年たち。

 最初の少年が木刀で月子のロングスカートを引っ掛け、振り上げた。


「ッ!?」


 慌ててスカートを手で押さえる。


「いいかげんにしてくださいっ。人を呼びますよ!」

「おい、面倒だ。さっさと中に入れろ」


 それが合図だった。少年たちは月子の手を掴んで引っ張り、体を押して、むりやり車に乗せようとする。月子は必死で抵抗した。


「やめてくださいっ」


 叫ぶ声は、しかし、恐怖のためか、震えてまったく力が入っていなかった。こんな声では助けを呼ぶどころか、すぐそこの家にだって聞こえはしないだろう。


 が――、


「月姉ちゃんに何するんだっ!」


 声がした。

 聞き慣れた男の子の声だ。


「シュウちゃん!」


 周がこちらに走ってきていた。そのまま暴漢と化した少年のひとりに全力で突進した。その体当たりで月子を押さえつける手がひとつ外れる。


「何しやがるっ」


 不意を突かれた暴漢が、周の腹を力いっぱい蹴飛ばした。

 周の体が吹き飛ぶ。


「シュ……」


 月子の口からは、上手く言葉が出なかった。小さな少年に逃げてと言えばいいのか、助けてと叫べばいいのか、混乱しているのだ。


 すぐさま周が立ち上がった。


「離せって言ってんだよっ」


 めくらめっぽうの体当たりは、まったく的外れだった。

 しかし、それは偶然にも助手席のドアに突っ込み、先に乗り込もうとしていた暴漢の腕をサンドイッチするかたちになった。


「ぐわぁ。う、腕が……っ!」


 暴漢が腕を押さえ、うずくまる。持っていた木刀が転がった。


「ガキがっ。しつこいんだよっ」


 助けに入った仲間が、周の顔面を殴りつけた。再び周が地面に転がる。


「シュウちゃん!」


 その瞬間、月子の頭が一気にクリアになった。

 力の限りに体を振って暴漢の手を振り解き、自由になると同時に木刀を拾った。


 振り返り――、


「ぎゃっ」

「がっ」


 近くにいたふたりの手首を、素早く打ち据えた。


「次は容赦なく折ります。どこがいいですか? アバラですか? それとももう一度手首ですか?」

「ち……」


 舌打ちひとつ。暴漢たちは、引き際は潔かった。

 もしかしたら月子の木刀を持つ構えに、ただならぬものを感じたのかもしれない。なにせ月子は剣道の有段者なのだから。


 ライトバンはドアを閉めるのもそこそこに走り出し、夕闇の中に消えていった。


 月子はエンジン音が聞こえなくなってから、ようやく構えを解き、ほっとひと息ついた。


「シュウちゃんっ」


 振り返ると痛々しく左頬を腫らした周が、呆然と立っていた。


「大丈夫?」

「す、すごいや、月姉ちゃん!」


 周がはっと気づき、興奮した調子で言った。どうやらそれほど酷い傷ではないようだ。


「ううん。そんなことないよ。シュウちゃんのほうがもっとすごいよ。わたしを助けてくれたんだもん」


 月子は周を優しく抱きしめた。


「へへへ……」


 照れ笑いを浮かべる周。褒められたことが嬉しかったのか、抱きつかれていることが恥ずかしかったのか。


 月子は周を離し、改めてその顔を見た。

 この少年は自分を助けるために、果敢にも暴漢に立ち向かったのだ。そう思うと胸が熱くなる。自分の中に小さな感情が芽生えた気がした。


 そして――、


「ありがとうね」


 腫れていない右の頬を軽いキスをした。


 しかし、周はその意味がわからず、きょとんとしているだけだった。




                §§§




「……」


 月子はダイニングテーブルに両手をつき、何となく落ち込んでいた。薄れかけていた記憶が鮮やかに蘇り、いろいろ恥ずかしいことを思い出した気がする。


(特に最後の……)


 はぁ――と、深いため息を吐いた。


「おーい、月子さーん」

「は、はひっ」


 声が裏返った。


「なに、考えごと?」

「い、いえ、何でもありませんっ」


 月子は逃げるように背を向けた。


 思えばあの一件の少し後くらいから、周とは疎遠になりはじめた。後から聞いた話では、いつも月子と一緒にいることをクラスメイトにからかわれたのだそうだ。それを機に距離をおこうとするのは、年ごろの男の子にとっては当然の心理だろう。


 それから月子は高校に上がり、程なく周も中学生になった。お互い学業で忙しくなったこともあって、あまり顔を合わせなくなった。


 たまに見かける周は、会うたびに背が伸び、みるみるうちに少年らしくなっていった。その成長を少し寂しい思いで見ていたのを、月子は覚えている。


「周様」


 キッチンに向かったまま呼びかける。


「んー?」

「昔のこと、覚えていますか?」

「昔? これまたアバウトだな。俺は自慢じゃないが、もの覚えはいい方だぞ」

「えっと……で、では、小学5年のころ、なんかは……?」

「小5か……」


 と、そこで周の言葉が途切れた。


「……」

「……」


 時間が止まったような静寂。テレビの音だけが虚しく流れている。


「あ、あの、周様?」

「あ、いや、悪い。やっぱ覚えてねーわ、うん」

「そ、そうですか」


 月子はほっとしたように、返事をした。


 先ほどの沈黙は何だったのだろうか。そこに答えがあるわけでもないのに、月子はリビングの方を振り返った。


 同時。

 周もこちらを見ていた。


 目が合う。


「「 ッ!? 」」


 慌ててまた背を向けた。

 あまり深く考えない方がお互いのためのようだ。

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