第12話 「図書館に行こう」(4)
図書館に入ると、まずゲートがあった。資料の無断帯出を防止するためのものだ。特に学生証やライブラリーカードのようなものはいらないらしく、周も素通りできた。
そのゲートを通った右手には貸出返却のカウンタがあったが、職員は周を姿を認めても何も言わなかった。確かによほどの不審者でなければ止められはしないらしい。
図書館は二階建ての構造になっている。
一階は主に新聞や雑誌を置いているらしい。雑誌は一般的な娯楽雑誌もあれば、各学会業界の学会誌や会報もある。新聞もかなりの数だ。遠目に英字新聞があるのが見えた。
前庭に面した日当たりのいい全面窓のそばに小さな机と椅子とあったが、この真夏にあんなところに座ったら死ねそうだと周は思った。
月子が迷わず二階へ上がったので、周も後に続く。
二階では書籍を扱っていた。半分が閲覧席、半分が書架になっている。書籍の内容は一般的な読みものよりは、各分野の専門書の方が多いに違いない。が、周にとってはそのあたりはどうでもよかった。
「わたしは本を探しに行きますが……」
「いいよ。俺はどっかテキトーに座って勉強してるから」
周はただ勉強をしにきただけなのだ。
月子とは別行動。周は手近な席に陣取った。大きなテーブルに椅子が六脚あり、その角に座る。
図書館にはほとんど人の姿がなかった。一階で見たのはカウンタの職員だけだし、二階もちらほらとしかいない。盆前だからだろう。月子が知り合いと遭遇して驚いたのも無理はない。
周は鞄から勉強道具を取り出した。持ってきたのはいちばん進行が遅れている数学だった。
ふと前を見ると、月子が蔵書検索用のパソコンを触っていた。すでに探す資料が決まっているのか、椅子には座らず立ったまま前かがみになってキィボードを打鍵していた。おかげでデニムに包まれたヒップをこちらに突き出すような姿勢になっている。
「……」
周はしばしそれを見つめた後、ベシッ、と掌で自分の頬を叩いた。
「何を見入っとんのだ、俺は」
先行き不安なスタートだった。
テキストを広げ、ノートを広げ。手に取ったシャープペンシルをまずは一回、くるりと回してみる。
顔を上げると月子はもういなかった。
「……」
周は、
ゴン
机に一発ヘッドバッティングした。残念だと思った己への戒めである。
ようやく勉強をはじめる。
……。
……。
……。
が、どうにも落ち着かなかった。
というのも、居心地が悪いのだ。自分が場違いなところにいる感が拭えない。月子がああ言った以上、真面目に勉強している限りは誰も気にしないのだろうが。
周は椅子から立ち上がり、書架の方へ行ってみることにした。
ずらりと並んだ書架。資料は日本十進分類法に基づいて並んでいるのだが、もちろん、周にそれがわかるはずもなく、ただ漫然と背表紙を眺めながら歩く。
端から順番に見て回っていると、月子の姿があった。すでに二冊の資料を小脇に抱え、さらにもう一冊取ろうと書架に手を伸ばしているところだった。が、しかし、それは最上段にあるらしく、届きそうで届かない感じで、背伸びしながら悪戦苦闘していた。
「これか?」
周はその場に近寄ると、月子も目当てらしき本を取り出した。
「あ、はい。それです」
月子はいきなり横から伸びてきた手に、はっとしながら答えた。
「はいよ」
「あ、ありがとうございます……」
月子は周が突然現れた動揺からまだ立ち直れていない様子だった。
「月子さんって、意外と小さいよな」
「まぁ、女として背が高い方ではありませんね」
その直後、月子の目が据わった。
「周様は背の高い女の子の方が好みですか……さっきのスズメさんみたいな」
「いや、ひと言もそんなこと言ってないし……」
周は半眼で睨んでくる月子と目を合わせないようにしながら、頬を掻いた。
「それよりこれで全部なのかよ、本は」
「あ、はい」
「だったら、早く戻ろうぜ」
周は言うや否や、踵を返した。結局、そのまま月子の視線を背中に感じつつ、もとの席に戻った。
さて、
周はこれで居心地の悪さもおさまるだろうと思っていた。正真正銘学校関係者である月子がそばにいるのだから、これで自分の場違い感も薄れる――そう考えていた。
が、それは未だ消えていなかった。
「……」
周は盗み見るようにして、向かいに座る月子に目をやった。彼女は書架から取ってきた資料に目を通している。自分の知りたいことが書いてあるか見ているのだろう。
月子が顔を上げそうな素振りを見せたので、周は慌てて視線を下に逸らせた。
今、周を落ち着かなくさせているのは、誰あろう月子だった。
周はノートに書いた自分の字に目を落としながら考える。
なぜこうも居心地が悪いのだろう。出がけにデートだ何だと余計な連想をしてしまったせいでずっとそれが頭の隅に残っていて、それで変に意識してしまっているのだろうか。にしても、図書館でデートとはいったいどんな文系のデートだ。だいたい周が思い描くデートはもっと賑やかで楽しいものだ。だったら、今の状況をそれと意識するのはおかしくないだろうか。
「あ、くそ。ダメだ。わからん……」
周はついに机に突っ伏した。
すると、
「周様」
と、向かいから月子の呼ぶ声。
顔を上げると、月子が真っ直ぐこちらを見ていた。周は思わず「う……」とたじろいでしまう。
「な、なに、月子さん」
「わからないところがあるのなら教えますが?」
「あ、いや、そうじゃないんだ。気にしないでくれ」
まさか人に聞くようなものでもなく、周が曖昧に誤魔化すと、月子はわけがわからないといった様子で首を傾げた。
周はすっと立ち上がった。
「悪い。なんか飲みもの買ってくる」
「館内は飲食厳禁ですので。外で飲んできてください」
「……わかった」
これで少しの間、月子と離れられる――周は内心安堵していた。
席を離れ、階段で階下へ下りる。ほぼ無人の一階。出入り口のゲートを通るとき、手ぶらにも関わらずアラームが鳴るのではないかと心配してしまった。もちろん、無断帯出などしていないので、作動するはずがない。
図書館から一歩外へ出ると、あいかわらずの灼熱地獄だった。湿度の高い外気に、周は顔をしかめた。
極力日陰を選んで、ひとまず学生食堂へ行ってみる。幸い自販機は食堂を入ってすぐのところにあった。食堂の中も図書館同様ほとんど利用者がいなかったが、それでも営業中であることには変わりないので、きちんと空調が効いていた。
自販機の前に立つ。
「おや、弟君」
後ろから呼びかけられた。声の主はスズメだった。
スズメは先ほど会ったときと同じくチアリーディングのユニフォーム姿だった。思わず周はその全身を上から下へ、下から上へ、二往復ほど眺めてしまった。
「どうも」
「なに、ひとり?」
「ええ、まぁ。ちょっと何か飲もうと思っただけなんで」
「ほっほう。それではお姉さんが奢ってしんぜよう」
そう言うとスズメは自販機に硬貨を投入した。
「ほい。好きなの押していいよ」
「いや、でも……」
「なぁに、気にしなさんな。あたしも休憩にきたのよ」
「……」
さっき会ってからまだ三十分ほどしか経っていない。いったいさっきのは何だったのか。本当に練習しているのだろうか。
「えっと、じゃあ、お言葉に甘えて」
言う通りにしないと帰してもらえそうにない気がして、結局、周はスポーツドリンクのボタンを押した。
「ありがとうございます」
「うむうむ。感謝を意を込めて、あたしのことは量子お姉様と呼ぶがいい。量子力学の量子と書いて『りょうこ』ね」
「いや、呼ばねーから」
しかし、スズメの言葉はまるっきり冗談だったらしく、彼女はそんな周の返事を気にた様子もなく、自分も同じスポーツドリンクを買っていた。
「仲がいいね、お姉さんと」
それぞれひと口飲んで人心地ついたところで、スズメが口を開いた。自販機の前での立ち話だ。
「そうかな?」
「だって、弟君のくらいの年ごろだと、お姉さんと一緒に歩きたくないんじゃないの?」
「まぁ、そうかも」
もちろん、月子とは本当の姉弟ではないし、周はひとりっ子なので、そのあたりのことはわからない。
「しっかし、弟君も大変だろうねぇ」
「何が?」
「あんな美人のお姉さんがいたんじゃ、たいていの女の子は見劣りするんじゃないの?」
「はぁ……」
周は意味がわからず、返事を曖昧にする。
というよりも、もっと気になる点が他にあった。
「美人って、月姉が?」
「あったり前じゃん。超美人じゃない。生まれたときからずっと一緒にいるから、とっくに感覚が麻痺してんの? おーおー、贅沢なことで」
スズメはけらけらと笑った。
確かに周自身、月子を美人だと思ったことは何度かあったが、どうやら世間的にも同じ評価が下されているらしい。
「知ってる? 藤堂さんってけっこう人気あるんだよ」
「マジで?」
「マジで。彼女ってあの通り積極的に前に出るタイプじゃないけどさ、やっぱりそこにいると華やかなわけよ。太陽じゃないけど、それこそ月みたいな?」
自分で用いた比喩が気に入ったのか、スズメはまた可笑しそうに笑った。
「そんで、クラブに同好会、果てはおつき合いしたい男まで、お誘いの声が絶えないわけだ」
「……月姉はなんて?」
周は自分の声が、感情を含まない平坦なものになっているのを自覚した。男、というあたりで何か引っかかってしまったようだ。
「見事にぜんぶ蹴ってるよ。なんでもバイトが忙しいんだって」
「……」
バイト、つまりメイドの仕事だ。家に帰れば寝るまで仕事のようなものだから、断り続けるのも当然だろう。周は申し訳ない気持ちになった。
「弟君よ。お姉さんは黒が似合うと思わないか?」
唐突にスズメが言い出した。
「服?」
基本的に家にいるときはエプロンドレスなので、モノトーンだ。似合っていると言えば似合っているな。そう思いながら周は缶に口をつけ、
「いんにゃ、下着」
「ぶっ」
噴いた。
「うわ。きったねーな。危うく左舷直撃じゃん」
「あんたが変なこと言うからだろっ」
周は口許をハンカチで拭いながら、抗議の声を上げた。しかし、スズメは懲りずにこの話題を引っ張る。
「見たことない?」
「ねぇよっ」
「残念。でも、持ってるとは思うんだ」
「知るかっ」
「藤堂さんなら似合うだろうなぁ」
スズメは真面目な顔でそう言うと、残っていた缶の中身を一気に飲み干した。そして、空になったそれを近くのゴミ箱に投げ込む。
「さて、あたしはそろそろ戻るとしますか。あ、君はゆっくりしてていいよ。じゃあ、藤堂さんによろしく」
「うぃっす」
周のいい加減な返事。スズメは回れ右をして、足早に去っていく。
「あ、これ、ありがとうございました」
改めて奢ってもらった礼を言う。しかし、スズメは背中越しに片手を上げて応えただけで、振り返りも立ち止まりもしなかった。
なんというか、また会いたいような会いたくないような微妙な人だ、と周は思った。
周は再び図書館に戻ってきた。
「おかえりなさいませ」
聞き慣れたフレーズで迎えられた。
「遅かったですね」
「ちょっとね。さっきの女の人と会ったんだ」
「……スズメさん、ですか?」
む、と月子の目が半眼になった。
「あの人、まだあの格好でしたか?」
「だったな。まだ練習中だとか言ってた」
まぎれもない事実なのだが、月子は「まったく……」とつぶやいて、再び資料に目を落とした。なぜだか機嫌が悪そうだ。
周は何かよい話題はないかと、頭を巡らせた。
よせばいいのに。
場を和ませるなど、少なくとも周の得意とするところではない。図書館に相応しく黙って勉強をしていればいいものを。
周は言う。
「月子さん、やっぱり黒とか持ってるの?」
「は……?」
月子は、まず目が点になり、それから次第に顔を赤くした。
短い沈黙。
そして、
「なぜ知っているんですか。その、今日の、を……」
「へ……?」
今度は周が素っ頓狂な声を上げた。
再度黙り込む。
どうしようもなく気まずい沈黙の末、
「ぁ痛っ!」
周はテーブルの下で、月子に脛を蹴られた。
結局、気まずさのあまり何も話すことができなくなり、むりやり勉強に没頭したおかげで、結果的に周は例のよくわからない居心地の悪さを忘れることができたのだ
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます