第8話 「夏休みのご予定は?」
「暑い!」
リビングの座椅子に腰を下ろすなり、周は叫んだ。
一学期の期末テストも無事終わり――終業式を明日に控えた周は今日も半日授業で昼過ぎに帰ってきた。昼食を食べた後、いったい何をしていたのか、さっきまで部屋に篭っていたが、夕方になって餌を求めて人里に下りてきた熊のようにリビングに這い出てきたのである。
が、そのリビングにはエアコンがつけられていなかった。さっきまで涼しい自室にいた周にはかなり堪えるようだ。
「エアコンをつけたのでは?」
キッチンで夕食の準備をしていた月子が横に立つ。
「つけた。けど、つけたばっかでまだ効いてない」
「リビングは周様の部屋と違って広いですから、少し時間がかかるかと。それに今、キッチンで火も使ってますし」
確かに月子の後方では煮物の鍋が弱火にかけられていた。
「今すぐ止めてくれ」
「夕食抜きになってもいいと?」
「む。それは困るな」
所詮は暑さで軽い熱暴走を起こした短絡的思考。すぐに行き詰まった。
「ていうかさ――」
実はほかにも周の気分を暑苦しく圧迫しているものがあった。
「月子さん、その格好で暑くないの?」
それがいつも通りの姿の月子である。長袖にロング丈のエプロンドレスは見るからに暑そうだ。
「家の中の行く先々でエアコンをつけて回っている、堪え性のない人がいますから」
苦笑交じりに月子は言う。
「それに服も見た目こそ同じですが、これでも夏用なんです。生地も薄くて、通気性もよくできていますから」
地味に細かい気配りがなされている。
月子曰く、摂取する水分を適正に保っていれば無駄な発汗も抑えられるし、脱水症状にもならない。そうでないと砂漠戦は生き残れないのだそうだ。
砂漠でいったい誰と戦うつもりなのだろうか、このメイドさんは。
「なんかさ、こう、見た目から涼しそうなのはないのかよ。スカート短くて、軽そうなのとかさ」
「ありません。そんなものは二次元にでも求めて下さい」
周が苛々した調子で言い、月子が冷たくあしらう。
「だいたいこれはメイドとしての正装で――」
「脱げ」
「は?」
月子の目が点になる。
「そんな格好、見てるこっちまで暑くなるっ」
「だ、だからって……」
「やかましいっ。脱がないんなら俺が脱がしてやるっ」
突如、何かにキレたかのようにそう言うと、周は立ち上がろうとして――
ゴンッ
その頭上にカスタムスティール合金の警棒が振り下ろされた。尤も、多少の手加減があったのか、柄の尻を頭頂に落とされただけのようだが。
「暑いのはわかりますが、もう少し落ち着いてください」
「す、すみません。取り乱しました……」
周は床に伸びたまま、反省の言葉を口にした。
部屋にエアコンの冷気が行き渡り、周の頭もほどよく冷めてきたころ、ふたりはリビングのテーブルを囲み、麦茶などを飲んでいた。間もなく夕飯なのでお茶請けはなし。
「明日から夏休みかぁ」
「まだ終業式では?」
「いいんだよ。授業もないから、実質もう休みだ」
そう言って周は麦茶をあおる。飲み方が大雑把なので、ふた口目にしてもう残りは半分以下だ。
「周様、夏休みの予定はどうなっているのですか?」
「別に。これといってない。行き当たりばったりにクラスの連中と遊びにいくかもしれないけど」
「適当ですね。もう少し高校生らしい過ごし方はないんですか?」
月子は無表情ではあるが、明らかに呆れている様子。
こちらは周から90度写した位置で、座布団に座っていた。ロング丈のスカートがフローリングに、大輪の花のように広がっている。
「何を言う。その日の気分でフットワークも軽く、西へ東へ飛び回ることこそ若者らしい過ごし方じゃないか」
「ものは言いようですね」
周の詭弁をあっさり斬り捨て、月子もグラスに口をつけた。
「ご実家には戻らないのですか?」
「そうだな。一度帰っとくべきか。春に病院送りにした親父も出てきてるらしいし、もう一度叩き込まんとな」
「何をバカなことを言ってるんですか」
「いや、だってあの親父、俺のひとり暮らしに反対だったし、弱らせておかないとまたすぐに煩くなるぞ。最悪、連れ戻される」
「潰しましょう」
間髪入れず月子は言った。
「ええ、それはもう徹底的に。病院どころか火葬場に送る勢いで」
「怖いこと言うな。あんなんでもいちおうは俺の親父だ」
「かまうことはありません」
「かまうわっ」
このメイドさんは時々本気か冗談かわからないことを、真顔でさらっと言うので注意が必要である。
「んなことより、月子さんの予定はどうなってんのさ」
「私ですか? 私は周様のお世話がありますから」
「あ、そうか」
納得してグラスに口をつける。
が――、
「って、いや、『そうか』じゃねぇな。それってちょっと寂しくない?」
「そうですか?」
「月子さんの台詞じゃないけど、それこそ大学生らしい過ごし方があるんじゃないの?」
時々忘れそうになるが、本職は大学生。メイドはアルバイトの一環である。
「そんなもの、ここにメイドとしてきたときに諦めました」
「男とかいないわけ? 大学生なんだから、そういうのあるだろ?」
「ありません」
月子はきっぱり言って、これ以上は喋りたくないとばかりに、つい、と麦茶を飲んだ。
「マジかよ。だって、月子さんくらいの……なんだ、その……、あー……」
何をか言いかけ、口を開けたまま動きを止める。
「いや、まあ、いいや」
そして、続く言葉を飲み込んだ。果たして、言いにくかったのか、言いたくなかったのか。
「……」
「……」
おかげでふたりの間に沈黙が生まれる。
焦ったのは周だった。なにせ自分が言葉を中途半端にしたことで沈黙が発生したのだから。それにさっきの続きが何だったのか突っ込まれると、非常に困ったことになる。
間を埋めようと次の話題を振る。
「と、兎に角だっ。むりに俺に合わせる必要はないから。休み中、何か予定があったら遠慮なくそっちに行ってくれ」
「そうですか? じゃあ……」
月子がわずかに思案する。
「私事ですし、さっきはああ言いましたが、実はつき合っている人がいます」
「へ? あ、ああ、やっぱりいるんだ」
いきなりの告白に、周は気の抜けような返事をする。
「なので、ひと晩くらいこの家をあけることがあるかもしれません」
「……」
予想をやや上回る要望だった。反応が一瞬遅れる。
「ひと晩?」
「はい。それが大人の男女の交際というものです」
「……」
夜の、大人のつき合い? いったい何をするのだろう? やっぱりそういうことなのだろうか……等々、周は頭を巡らせる。もちろん、わからないはずがない。むしろ年ごろの少年なので頭がぎゅんぎゅん回りすぎて、よけいな想像までしてしまう。
「あ、いや、えっと、なんだっけ……あ、そうだ。うん、それじゃ仕方ないよな。お、俺のことはいいから――」
「嘘です」
たどたどしく言葉を継ぐ周を、月子が遮る。
「は?」
「嘘だと言いました」
悪びれたふうもない月子。
「嘘って、なんでそんな……」
「周様が私のそんなことまで心配しなくていいのです。……さて、そろそろ夕食にしましょう」
月子は麦茶の最後のひと口を飲み干してから立ち上がった。
「そ、そうか、嘘か。はは……」
本当にこのメイドさんは本気か冗談かわからないことを、しれっと真顔で言う。
周は改めてそれを痛感した。
それと同時に、月子に恋人がいないらしいことをほっとしたりもしているのだが、それについては自覚はしていないようだった。
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