第7話 「Singin' in the Rain」
下校ラッシュも過ぎた夕暮れのこと――、
体育の授業が終わると同時に降り出した雨は、この時間になってもまだやんでいなかった。
「どうせなら体育の前に降れよな」
鷹尾周は昇降口で鉛色の空を見上げながらぼやいた。
確かにそうなっていれば体育は体育館か教室での授業に変更になり、準備運動でバカみたいにグラウンドを5周もすることはなかっただろう。
「ま、準備してるからいいけどな」
そう言いながら鞄から取り出したのは折りたたみの傘。もちろん、周が自主的に用意したものではなく、月子に持たされたものだ。また勝手にこれを置いていったら、今度こそ本気で怒られるに違いない。そのときはいったいどんな目に遭わされるやら。
さっそく傘を開こうとしたとき、少し離れた別の出入り口から出てきた女子生徒に気づいた。見知った顔。
「古都さん」
周が声をかけると、翔子は鞄を探っていた手を止め、こちらに顔を向けた。ふわふわとボリュームのある髪が弾むように揺れる。
「あ、鷹尾くんだっ」
明るく快活な声。
噂によると翔子はどこかの美少女コンテストで準優勝したのだという。その実績が嘘か真かはわからないが、そう言われても納得できるだけの容姿をしていた。体全体に対して顔が占める比率の小ささや、その小顔のわりにはくりっと大きな目は、日本人にそう見られるものではない。フランス人の血が4分の1混じっているせいか手足が長く、しかも、よいスタイルをしているが、小柄なのでそのあたりはあまり目立っていない。
そして、周とは別のクラスではあるが、同じマンションの同じフロアに住むご近所さんである。
「そっちも今帰りか?」
「うん、そう。鷹尾くんもなんだ」
下校もピークを過ぎているので、生徒の姿はまばらだ。
「まぁね。ちょっと居残り」
周は折りたたみの傘を開き、雨の中最初の一歩を踏み出した。が――、
「あれ、どうした?」
周は振り返り、訊く。翔子の足が止まったままなのだ。
「え? あ、うん、あのね……傘、忘れてきたみたい。朝ちゃんと入れたと思ったんだけどな。は、はは……」
翔子は恥ずかしそうな苦笑いを浮かべ、慌てて鞄を閉じた。いざ中を覗いてみたら空だったというわけか。
「……マジか?」
「……マジ」
神妙に返す翔子。
「えっと、その、傘……入れてもらっていい?」
「まぁ、それしかないよなぁ」
再び空を見上げる。雨は当分やみそうにない。マンションまでは徒歩で20分ほど。走って帰るには少々厳しいし、そうしたところで家に着いたころにはずぶ濡れだろう。
「折り畳みだからな、多少濡れるのは勘弁な」
そう断ってから、周はあまり大きくない傘を傾けた。
「うん。ごめんね」
ぴょんと跳ねるようにして傘の下に入る翔子。
そうしてからふたりは並んで歩き出した。当然のように周のほうが歩幅が大きいので、歩調は翔子に合わせる。
「こういうときに頼りになるのは、やっぱご近所さんだよね」
「ん? そうか?」
「うん。そうそう」
翔子が楽しげに頷いた。
校門を出ると国道があり、それに沿って歩道を歩く。車道の交通量はそれほどではない。たまに思い出したように車が、降りしきる雨を散らしながら走り抜けていく。
「悪い。場所変わってもらってもいいか?」
と、不意に何をか思いついた周。
「え? いいけど、どうしたの?」
「いや、俺、いつも右手で鞄待ってるからさ、俺が右に立つほうがいいかなと思って」
小さな傘の下でふたりは立ち位置を入れ替えた。
ついでに周は傘を心持ち翔子の側に寄せて持つ。結果、周の鞄と右半身が濡れることになったが、鞄を雨から守ってその分人間が追い出されるような事態よりはマシだろう。
「鷹尾くんとこうしてゆっくり話すのってあまりないよね」
「言われてみたらそうかもな」
思い返してみれば、前に話をしたのは今と同じく下校時に一緒になったときか。目と鼻の先に住んでいながら、いつもすれ違いざまにひと言ふた言、言葉を交わして終わることがほとんどだ。いったい何の呪いか。
「じゃあ、お互いのことあまり知らないから、ここで暴露大会~」
どこまでも楽しげな調子で、翔子はそんなことを言う。
「うちは実はお姉ちゃんとふたり暮らし」
「へぇ」
初耳だった。あのマンションは2LDKなので、3人家族にしても手狭だとは思っていたが、それを聞いて周の疑問も氷解する。
「親は?」
「もっちろん別居中」
無邪気に答える翔子。それを聞いた周は「しまった」と心の中で思う。
だが、彼女はなかなかに頭の回転が速いらしく、すぐに周の心中を察してつけ加えた。
「あ、でも、別居中って言っても、別に仲が悪いとかじゃないから。……ごめん。言葉が足りなかったよね」
「あ、いや……」
翔子に謝られてしまい、周は不明瞭な発音を返した。
そして、沈黙。
周は次の話題を探したが、何も悪くない翔子を謝らせてしまったことで萎縮してしまい、上手く言葉を継げなかった。
そんな周に気を遣ったわけではなく、翔子は勝手に先を進める。
「じゃあ、次は鷹尾くんの番」
「え? お、俺? 俺は別に――」
「鷹尾くんちにさ、すっごい美人のお姉さんいるよね?」
先ほどより少しだけトーンダウンした翔子の声。
その発音と指摘された事柄とが相まって、周は体をびくっと振るわせた。
「あれってやっぱり鷹尾くんのお姉さん?」
「いや、そうじゃなくて、あれは……」
と言ってしまってから後悔する。翔子の推測に素直にイエスと言って合わせておけばよかったのだが、しかし、一度吐き出した言葉は回収不能だ。
「あれは従姉、かな?」
「かな?」
はっきりしない周の答えに不審なものを感じたのか、翔子が再び問う。
「うちさ、ちょっと家系図がややこしいいんだ。だから、ひと言じゃ言い表せなくて。いちばん簡単に言えば従姉になるのかなって」
「あ、そうなんだ」
苦しい説明だったが、それでも納得してくれたようだ。
「てっきりもっと訳ありの関係かと思っちゃった」
「何だよ、訳ありって」
「それは……ううん。やっぱり言わない、……ねぇ? 鷹尾くんって下の名前なんていうの?」
「俺?
唐突な翔子の質問に少々面食らいながらも、周は答える。
「そか。周くんか。……わたしは翔子」
「ん。知ってる」
「なぁんだ。知ってるんだ」
翔子はその容姿のせいで、校内でもけっこう有名だ。名前なら最初に出会ったときに菜々ちゃん会長から教えてもらったし、クラスメイトの岡本もフルネームを知っていた。
「ね。周くんって呼んでいいかな?」
「は?」
周は素っ頓狂な声を上げた。
「またいきなりだな、おい」
「や、だって、ご近所さんだし?」
意味がわからない。
「まぁ、いいけどな。どっちも俺の名前なのは確かだし」
「ホント? 嬉しいなぁ」
翔子は周の方に顔を向け、笑顔を見せた。周としては同世代、同い年の女の子に名前で呼ばれるのは少し気恥ずかしいのだが、こうまで喜ばれるならそれもいいかと思えた。
「周くん。周くん……」
翔子は嬉しそうにその発音を何度も繰り返す。口唇に人差し指を当て、振動を直に感じるようにして重ねる。
「周くん周くん、と……」
「……」
さすがにここまで連呼されるとくすぐったくなってくる。
「せっかくだからさ、わたしのことも名前で呼ぶ?」
「……あぁ、何となくそうくるんじゃないかと思ってた」
どうも翔子は思いつきで行動するところが多分にあるらしい。それに気がついてしまえば、彼女の口から次に出てくる言葉は漠然と予想できた。
「あ、そなんだ。だったら話は早いよね。はい、じゃあ……周くん」
「ん? なんだ?」
何が『じゃあ』で、何を求められているかわからないことにした。
「ちっがーう。そうじゃないでしょ」
「……」
だろうな、と心の中で嘆息する周。
「じゃあ、もう一度。……周くん」
「はいはい。何ですか、翔子ちゃん」
「あはっ。翔子ちゃんだって」
途端、翔子は噴き出した。
「何だよ。そっちが呼べって言ったんだろ」
「ごめんごめん。なんか可笑しくって」
「……」
もう言い返す気力もなく、周は無言で歩を進めた。
しかし、翔子の方はまだ続けたいらしい。目の前にあった水溜りをぴょんと跳ねて飛び越しながら、歌うように言う。
「周くん♪」
周も仕方なくつき合うことにした。翔子の楽しげな声に、ぶすっとしているのもバカらしくなったところもある。
「……翔子ちゃん」
「周くん」
「翔子ちゃん」
そうして二往復。
と、そこに車道を一台の車が通りかかった。道路には大きな水溜りでもあったのか、盛大な水しぶきが上がった。
「うわっ」
それが車道側にいた周を襲い、半身を水浸しにした。
「た、大変っ。どうしよう!?」
翔子は慌てて鞄を探りはじめた。何か拭くものを出すつもりなのだろう。しかし、周はいたって冷静だった。翔子を言葉で制する。
「いいよ。もう家に着くし。ここでどうこうするより、さっさと帰った方が早そうだ。それよりそっちは大丈夫か?」
「あ、うん。大丈夫……」
まったくの無傷というわけではないが、大部分は周が引き受けたようだ。
止まっていた足をまた前に進める。
翔子は黙り込んでいた。楽しい気分に文字通り水をさされたのだから無理もない。
「あ、あのさ――」
マンションが目の前に見えてきたところで、翔子が口を開いた。
「なんだ?」
「周くん、もしかして……」
「……」
「ううん。やっぱり何でもない」
翔子の口調は、言葉を途中で飲み込んだわりには、どこか弾むような調子だった。
「……そうか」
周はそっと静かに胸を撫で下ろす。
再び無言。
そのままふたりはマンションのエントランスに入った。
「それは災難でしたね」
家に帰り、事情説明をひと通り終えると、月子がひと言言った。
場所はリビング。もちろん、服はもう着替えて、今はひと息ついている最中だ。
「濡れたのはクリーニングに出して……しゃーねぇ。しばらくは冬服で行くか」
梅雨が明けて、これから夏本番というときに冬ものを穿くことになるとは。考えただけでうんざりする。
「それにしても妙ですね」
「何がさ?」
「今日は朝から天気予報で雨が降ると言っていました」
「そうだな」
とは言っても、周自身はそれを見ていない。月子が見て、傘を持たされたのだ。
「それなのに女の子が傘を忘れるでしょうか?」
「でも、現に忘れてるしな。入れたつもりだったって言ってたし、うっかりしてたんだろ」
あまり気にした様子もなく、周は新聞の夕刊を広げた。
「そうですか。ならそうなのでしょうね……」
しかし、月子は釈然としないものを感じているようだった。
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