第7話 「買いものに行こう」(前編)

 その日は本日最後となる6時間目、古典の授業が休講となった。担当教師のすっかり慢性化した腰痛が悪化したからだ。

 おかげで生徒たちはいつもより1時間だけ早く下校することができた。


 しかし、その運のよい生徒のひとりであるはずの鷹尾周には、すぐに帰路につけない理由があった。


 それは、いま帰ったところで家には入れないからだ。


 周の家には「主人に鍵を持たせるような真似はできない」「絶対に主人より先に帰ってきて出迎えるのが努め」と強弁するメイドがいて、事実、それを確実に実行しているのだが、今日のような突発的な事態に対応できるとは思えない。


 故に、真っ直ぐ帰っても鍵のかかったドアの前で待つことになるのは必至なのである。

 仕方ないので周はクラスメイトと一緒に駅前に向かい、テキトーに店をひやかしていた。


「……」


 メイドさんに気を遣う主人ってなんだろうな、と思わなくもない。


 しかし、早く帰って待っていたりすれば、それを見た月子がきっと申し訳なさそうな顔をするに違いな……あ、いや、案外けろっとしてるかもしれない。


「私より早く帰ってこられると非常に迷惑です」


 などと言う月子が容易に想像できた上に、まったく違和感がない。

 本当にメイドだろうか。


 それは兎も角。

 駅周辺での時間潰しは、クラスメイトの携帯電話にバイト先から応援要請メールが入ったことで、突如として終わりを迎えた。


 周は電車で帰るクラスメイトと駅の改札口で別れた。


「さて、どーすっかな……」


 中途半端な時間だ。


 実際のところ、周は月子の帰宅時間を把握していないので、もしかしたら月子はもう帰っているかもしれないし、やっぱりまだかもしれない。


 とりあえず足は帰宅する方向で仕事をしている。

 と、そこで通りかかった駅前のスーパーの前で、噂をすれば何とやら、月子の姿があった。


 デニムのロングパンツにトレーナーといった、大学帰りのラフなスタイル。今から買いものなのかスーパーに入るところだった。


「月子さん」


 周は声をかけて駆け寄る。


 驚いたように振り返った月子は周の姿を認めると、きりっとメイドの顔になった。


「周様。今お帰りですか?」

「ん。そう」

「それにしては早くありませんか?」

「6時間目が急になくなってさ。月子さんはいつもこんな時間に買いもの?」


 このスケジュールでいくと、周が寄り道せずに真っ直ぐ帰ったときの帰宅時間とさほど変わらない。けっこうな綱渡りだ。


「いえ。今日は講義は終わってすぐに帰れなかったもので、少々遅くなってしまいました。……周様。よろしければ買いものにつき合って下さい」

「なに、大量に買い込む予定でもあるの?」


 買いものなんて面倒そうなので、できれば遠慮したい周だった。


「周様を巻き込めば急ぐ必要がなくなるので、私が楽です」

「……」

「嫌ですか?」


 月子の目が細く鋭くなる。お前に拒否権はない、と言っているように見えなくもない。


 が――、


「正直、ちょっと嫌かな、と……」


 ここでこう答えてしまうのが地雷踏みの周。


「では、鍵のかかった家へ先にお帰りください。私はひとりで買いものをして帰ります。ひとりなので少し時間がかかるかもしれません。最悪、閉店間際の割引まで粘る可能性もあります」


 因みに、閉店時間は21時。

 最近のスーパーは夜遅くまで頑張っているのである。


「わかったよ。つき合えばいいんだろ、つき合えばっ」

「では、ついてきて下さい」


 周の返事がやけっぱちなのは気にせず、月子は足を店内に向けた。


 不貞腐れたように後ろをついていく周。

 が、先行する月子が入り口を入ったところで立ち止まったので、周も一緒に足を止めた。


「周様」


 と、月子が振り返る。


「カゴはあそこです」

「俺が持つのかよっ」


 とことんまで使役するつもりらしい。


「それくらい当然かと」

「でもなぁ……」

「嫌、と?」

「かもしれない」

「……」


 月子は不平を言う周をじっと見つめる。視線が冷たい。


「……」

「……」


 そして、たっぷり30秒は経ってから、視線を外して独り言を吐いた。


「……役に立たないのなら帰れ」

「の゛……!?」


 いったいその聞こえよがしの、明晰な独り言は何なのだろうか。どうにもあからさまな悪意を感じる。


 周は黙ってカゴをひとつ手に取った。


「メイドの仕事に理解のある主人を持てたことを嬉しく思います」


 月子は軽く、しかしながら恭しく、頭を下げる。


 そして、くるりと向きを変え、店内を進んでいった。


「……」


 周としてはいろいろと言いたいことがあったが、やっぱり黙って後ろをついていくしかできなかった。

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