第二章

 開け放たれた巨大な冷蔵庫から漏れ出る冷気が、集まった人々までも凍りつかせているようだった。

 夜天のような黝い髪が大きく広がっている。いつか見た紅玉の瞳は硬く閉ざされたまぶたの向こうに隠され、白磁のような肌はどこまでも白く生気を失っている。

 幸いにも、今回の『勇者の旅路』には致命的な事故が起きていなかった。いかに戦闘能力に長けていても、いかに魔法に長じていても、彼らは死体に慣れているわけではない。まして、誰かに殺された死体となればなおさらだ。

「ああ」絞り出すような声は、魔王サヴァリアだ。「ああ、ああ……アニャエル……」よろめく足取りで、彼は静かに横たわる娘の側へ寄ると、力なく膝をついた。「アニャエル。嘘だと――」

 言葉は続かない。うなだれた彼の長い髪が、もう動かない娘の顔を覆う。

 勇者バルドラス――を演じていたセピア――は、体を貫くような衝撃と無力感に襲われながらも、集まった一同へと目を向けた。

 魔法使いラーナ、癒し手ユミカ、格闘家ギー、そしてアニャエルの死体を発見した吟遊詩人カナタ。

「カナタ」思いがけずかすれた声に、セピアは咳を払う。「彼女は……アニャエルは、あの中に入っていたのか?」

「え、ええ」動揺しながらも、尻餅をついていたカナタは立ちあがる。「皆さんにデザートを作ろうと、冷蔵庫を開けたんです。初めは気づかず、食材をいくつか取り出したら、その奥から……」

「転がり出て来たわけか」

 カナタは深刻な表情でうなずく。

 余計な口をきけるような雰囲気ではない。

 サヴァリアはアニャエルの肩に、顔に手を這わせ、くちびるを震わせている。

 ユミカは涙がとめられず、ぼろぼろと床に大粒の雫がこぼれ落ちていた。

 ギーも痛ましさにか、目を伏せ、顔を背けている。

 ラーナは、ただ呆然と表情を失って、帽子のつばに目を隠す。

 セピアはそれでも、サヴァリアとアニャエルのほうへと一歩進んだ。しかしそれを踏み留めるかのように、サヴァリアがうめく。

「終わりだ」

「サヴァリア」

「終わりだ、勇者。セピア。バルドラス。アニャエルは死んだ。なんも意味もなかった。こんなところで、こんなにも手が届くほど、すぐ側で、死んで、全部終わった」

「犯人が、まだこの近くにいるかもしれない」

「ふざけるな!」サヴァリアは決して振り向かず、震える声で叫んだ。「ろくに進まねえ誘拐犯探しも、殺人犯探しも終わりだ。おまえらの中に犯人がいるんだろうが、よかったじゃねえか。思惑通りにことが進んでよ。意見を出し合ってる俺たちを嘲笑ってたんだろ。まあ、いい。もうどうでも。犯人に興味があるならおまえらで探せ。ついでに首でも斬り落としたら見せてくれよ」

「サヴァリア。わたしたちは――」

「明日の魔王役がいねえってか? 好きにしろよ。そこの魔法使いの女でも使えばいいだろ。アニャエルを殺したんなら、俺よりよほど魔王に相応しい」

 ラーナは反駁しようと開口したが、噛み砕くように閉ざした。

「厨房に、入ったのは」声をあげたのはカナタだった。「今日、この城に来てから厨房に入ったのは、バルドラス、サヴァリア、ラーナ、ユミカ、そして私です。行き先が不明な中座はありません。ここにアニャエルを隠せたのは、何もラーナだけではありません」

「はっ」サヴァリアが鼻で笑い飛ばす。「三重防護魔法を破れるのはラーナとギー。アニャエルを呼び出せる念話が使えるのはラーナとユミカ。つけ加えるなら、魔法使いであるアニャエルを正面から倒すのは癒し手や新聞屋には無理だろ? さらに言ってやろうか。アニャエルの死体を隠して運べたのは誰だ?」

「誰って、誰にもそんな荷物はなかった」セピアが反論する。「大きくないとはいえ人一人だ。荷物に隠せたとしても重過ぎるし、重さをクリアしても大き過ぎる」

「バラせばいい」セピアは言葉を失って、淡々とつぶやく魔王の声を聞いた。「ものを小さくする魔法っては聞いたことがねえよ。実現もできるとは思えない。だが物理的に分解すれば小さくなるのは道理だろ。重さを軽くする魔法なら、聞いたことがある」

 セピアは振り向かなかった。が、仲間たちの視線がラーナに集中するのがわかる。旅の荷物を軽くする質量欺瞞の魔法は技術的に非常に高度なもので、ラーナにしか使えない。

「適当な鞄にでも詰めときゃ、持っててもバレない奴がいるだろ?」

 まるで刑の宣告のようだ。声は頭に浸透する前に、事実だけ教えて来る。簡素な鎧姿のセピアにも、格闘するため身軽なギーにも、タイトな白装束のユミカにも、余計な荷物を持つスペースなどない。ただ真っ黒で、ゆったりと広がったローブ姿のラーナだけが、何かを隠し持つ余裕をもっている。

「なあ勇者」声は乾いている。「見るか?」

 彼の手が、何かをつかんだ。白い肌に指先が食い込んでいる。持ちあがったのは、細い腕。転がる遺体とも繋がっている。接合部である肩は――ほんのわずかな、糸のようなもので、かろうじて。

「人型に戻すためにこうしたんだろうな」

 サヴァリアはそっと娘の腕を置く。

 血の気の引いた顔で、セピアは振り向いた。みんな似たようなものだ。死体など見慣れていないし、まして一度バラバラにされた死体など、見たくもなかったことだろう。

「バルドラス」か細い、消え入りそうな声を、ラーナはくちびるからこぼす。「私……」

 どんな言葉を求めているだろうか。涙にうるんだ深緑の目。青白く染まった頬。ゆったりとした黒いローブ。ほつれた金色の髪。かけるべき言葉が見つからない。

 ラーナ、と誰かがつぶやいた。

 ユミカかギーかカナタか。あるいはセピア自身かもしれない。

 魔法使いは背を向け、走り出した。

「ラーナ!」

 叫んだユミカは、きっと驚愕したのだろう。顔を背けたギーは、失望したのかもしれない。くちびるを噛んだカナタは、諦めを見せていた。

 それでも。

「銀の」セピアだけは、右手を掲げた。「煌星!」

 虚空から生まれた銀色の刃が七つ、ラーナの行く手を阻むように突き立った。

 びくりと肩を震わせ、躓くように足をとめる。

「今、逃げたら」セピアは懇願するように言う。「きっと取り返しがつかなくなる」

「もう遅いわ。もう、誰も」

「わたしは信じてる」わずかに振り向いたラーナに、セピアは訴える。「もし誰もきみを信じなくなっても、わたしはきみを信じてる」

 その言葉が届いたのかどうかは、わからなかったが。

 ひとまずラーナは逃げずにとどまってくれるようだった。

「茶番劇は終わりか?」

 気づくと、サヴァリアが立ってこちらを見ている。アニャエルの遺体には、隠すように布が被せてあった。

「俺はアニャエルを安置して来る。こうなった以上、もはや誘拐犯も殺人犯も興味はない。『旅路』にもな。一切はおまえたちに任せる。客間を開放するから、好きに休んでくれればいい。ただし」サヴァリアは娘を見下ろす。「アニャエルの部屋には近づくな」

 力をなくし虚無を湛えた目で、彼は娘を見ていた。


 ◇


「私はこれから、運営委員会に報告しなくてはなりません」食堂を出たところで、カナタが言った。「これは『旅路』の最中に起きた事故というわけではありませんが、『旅路』を狙った事件には違いない。初めは、サヴァリアの言う通り解決さえすれば、すべて伏せて明日の決戦に備えるつもりでした。クライマックスは映像も撮ります。それを心待ちにしている人は世界中にいる。なんとか続行したいと思っていましたが」

「人が死んでるんだ」セピアは励ますようにカナタへ声をかける。「なかったことにはできない」

「ええ。まずは委員会に報告して、指示を仰ぎます。数日中には警察の捜査も入るでしょう。残念ながら、『旅路』はここまでになるでしょうね」

「仕方ないさ。わたしは充分、分不相応な夢を見せてもらったしな」

「……その件についても」

「ああ。わたしがみんなを騙していたこと、伏せる必要はない」セピアは心配そうに見て来るユミカに、わずかながら笑顔を向ける。「相応の罰を受ける覚悟はある」

「では、私は委員会に送る文書を作ってきます」

「それはいいが……誰か、客間はわかるか?」

 タイミングよく、二階で扉の開く音がした。吹き抜けの階上からサヴァリアが顔を覗かせ、何かを放り投げた。セピアが反射的にそれを受け取る。鍵束だ。

「この部屋以外は好きに使え。どうせ余ってるから一人一部屋で構わん。騒がれるよりな」

 淡々と告げて、彼はどこかへと歩き去る。

 鍵束を握って、セピアは仲間たちへ目を向けた。ラーナも今は、逃げ出そうとはしていない。仲間を疑ったことを自責しているのか、ユミカもギーも表情は暗く、口は固く閉ざされたままだ。

 いずれにせよ――終わったのだ。

 そのことを自覚せざるを得ない。仲間たちの心は千々に乱れ、ラーナは疑いの目を向けられ、魔王の娘は死んだ。何もかもが手遅れだった。

「今日は休もう。明日もきっと、大変な日になる」

 異論は出なかった。


 ◇


 壁掛け時計の長針の音が聴こえる。

 そんな夜は眠れないことを、セピア・ヘイリンワースは知っていた。

 客間は充分過ぎるほど広い。ダブルサイズのベッドが一つに、向かい合ったソファ、間には大理石のローテーブル。魔法を自在に使えないセピアの場合は、光量が調整できるろうそく型の魔道具を使っているが、点灯してくれたのはラーナだ。

 武装こそ解いているが、セピアの格好は寝巻きには程遠い。その上に剣帯をつければすぐにでも動ける軽装で、大きなベッドに転がっていた。

 眠気はなく、訪れそうにもない。時計の音はうるさく、針は午前四時半を示しているが、体も頭も覚醒し過ぎている。

 重いノックの音が響いた。

 疲労を背負う体を起こして、セピアは扉へ向かう。剣はわざわざ持たなかった。開くと、廊下に立っていたのはギーだった。

「起きてた?」

「ああ。疲れてはいるんだが、どうにも眠れそうにない」応えながら、セピアは扉を大きく開ける。「ギーもか? それなら益体もない話でもするか」

 ギーはするりと身を滑り込ませて来る。ライトゥヤの格闘術を極めた彼の挙動は静謐で、美しい。

 ローテーブルを挟んでソファに腰を下ろした。光量を抑えたろうそくの光は心許なく、部屋は薄暗いが、眠気を誘うにはちょうどいい。

「謝ろうと思って」

 言葉少ななギーの意を、セピアはいつも正確にすくいあげる。

「わたしの性別を話したことか。きみが気にすることじゃない。ここまで秘密にしてくれたことに対する感謝しかないよ」

「それでも謝りたいんだ。あなたは……英雄になるために、努力した。そして本当に英雄になるところだったんだ。その邪魔をしたくはなかった」

「どちらにしても、わたしの隠しごととは関係のないところで『旅路』は終わりだ。真相は委員会か警察が暴いてくれるだろう」

「僕は」ギーは思い悩むように眉を寄せ、それに気づいて眉間に手を当てる。「僕はあなたに憧れていた。今も憧れている」

「……どうしたんだ、突然」

「バルドラス。セピア。あなたはいつも自分に厳しい。公平で、強く、優しい。でもそれだけじゃない。あなたが自らを男だと偽ったのは、勇者になるためだけだったのかもしれないけれど、それでも僕は、それを貫けるあなたに憧れるしかなかったんだ」

「わたしは嘘をついた。決して公平ではない」

「誰かを傷つけるため? 誰かを騙すため?」

「いや……そういうわけではないが……珍しく饒舌だな」

「僕は、自分の声が嫌いだから」

「だからいつも、言葉が少ないのか」

「僕は、その、本当は」セピアは言葉に詰まる彼を待った。それは短くない時間を経て、続く。「本当は……女だと思ったんだ」

「……どういうことだ?」

「僕自身のこと。あなたとは違って、僕の体は正真正銘男のものだよ。ただ、僕は自分が男だとはどうしても思えなかった。小さな頃からだ。僕はこんな体のはずがない。こんな声のはずがないって思ってた。だから男みたいな声も、刺青を彫った男みたいな肌も嫌いで、隠してた」

 ライトゥヤの格闘家が彫る刺青は誇りだ。誰もが誇示するように肌を見せる中、確かにギーはいつも肌を隠していた。

「つまりギーは……男の体だけど、中身は女だというのか」

 ギーはこくりと顎を引く。

「わたしは、そういうのは詳しくないが」セピアは慎重に言葉を選ぶ。「それなら、大した理由でもなく男装するわたしのことは、目障りだったんじゃないか?」

「ううん。悩みは人それぞれだし、問題の重さは本人にしかわからない。あなたが真剣なのはわかったから、むしろ尊敬したくらいだ」

「ギー。どうして、わたしに話す気になったんだ?」

「あなたは僕を馬鹿にしたりしないって思ったから」

 ふっ、とセピアは笑みを見せる。

 この城に来てから、初めて明るい話題に触れたような気分だった。

「勇者一行は全員女だったわけだな。少々変則的ではあるが」

「不思議な感じだね」

「なら、わたしは君に裸を見られたことを恥じる必要はなかったわけだ。まあ、同性でもあまり見せるものじゃないが」

「恥ずかしがってた?」

「もちろんだ。わたしは必要にかられて男のふりをしていたが、心は女のままだ。男だと思っていたギーに裸を見られて、死ぬほど恥ずかしいと思っていた。あの夜は頭に血が上って眠れなくなるほどな」

「でも平然としてた」

「まったく気にしていない風を装ったほうが、恥ずかしくはないからな。内心は消えてしまいたかった」

「そっか」ギーははにかむ。「僕たちは一年も一緒にいたのに、まだまだ仲間のこともわかってないんだね」

 そうだな、とセピアも笑う。

「そうだ。さっきの話だけど」

「どの話だ?」

「食堂で話した、アニャエルに関連する『旅路』の話。僕はあなたが誘惑の魔法にかからない理由について話したけど、それだけじゃないんだ」

「というと……ギーも生前のアニャエルに会っているのか?」

「うん。たぶん。そのときは、また会うことがあると思っていなかったから、記憶は曖昧なんだけど」でも、と照れたようにギーは頭をかく。「もう、どうでもいいかな?」

「いや、話してくれ」セピアはソファに深く腰掛け直した。「どうせ眠れないんだ。委員会か警察が来る前に、状況を整理しておくのは悪くない」


 ◇


 大陸にはいくつかの遊牧民族がいるけれど、僕たちライトゥヤのほど近くを移動する人々もいる。勇者一行がライトゥヤに来たときに攻め入ってきていた魔族は、そんな周辺の民族を仲間に引き込んでいた。

 普段から交流もあり、文化もどことなく似ている相手だ。手の内がお互い知れている分、苦戦することになった。未知の戦力であるバルドラスたちはありがたかったよ。

 ライトゥヤにしてみれば、『勇者の旅路』は腕試しの場なんだ。鍛えた技を披露し、競い合うことになる。僕は『旅路』に同行するつもりなんてまるでなくて、ただ純粋に鍛錬を重ねてきた魔法格闘術を試したかった。

 戦場は日によって違った。草花の生い茂る草原、足を踏み外せばただでは済まない崖道、荒涼とした風のやまない高地……。

 僕がアニャエルらしき少女に会ったのは、見通しの悪い、鬱蒼とした森の中だった。

 断続的な波状攻撃に耐えて、仲間たちはこちらから奇襲をかけようかと相談していた。僕は戦略的なことはわからないから、一人で少し離れた場所にいたんだ。すると木立の隙間に、黒い髪がひらりと翻るのが見える。不審に思って近づくと、木の幹に隠れるようにして一人の少女がいた。

 長い黒髪に、血色の瞳。活動的な装いでも隠しきれない、高貴さと女性の柔らかなにおい。美少女といってなんの語弊もない。

 僕は胸の奥を鷲掴みにされたような思いがあった。

 それは恋ではなくて、羨望だったけれど。

「あなた、ライトゥヤの人ね」少女は外見よりも大人びた話し方をした。「その刺青。魔法格闘家かしら」

「そうだけど、君は、魔法族?」

「よくわかったわね」

「赤い目は、人間には滅多にいないから」

「いい観察眼ね。ライトゥヤは実力に応じて、彫り込む刺青がどんどん増えていくと聞いているけど、あなたはかなりの数を彫ってあるんじゃない?」

「そこそこだよ」

「力を誇示しないのね。こんな前線にいるのに、まさか本当に役立たずってわけじゃないでしょう?」少女はいたずらっぽく笑う。「今、ライトゥヤに勇者一行が来てるわよね」

「……来てるね」

 僕はそのとき、どうしようもなく勇者バルドラスの秘密について思い起こしてしまった。勇者の秘密を誰にも話さなかったのは、何か思惑があってのことじゃない。それほど彼らに興味がなかっただけだった。

「その辺にいるんじゃないかな」

「彼らはまだ仲間を求めてるわ。勇者と魔法使い、癒し手だけでは前衛が足りないもの。ライトゥヤの格闘術を求めることになるんじゃないかしら」

「そうかもね」

「あんまり興味はないかしら」

「鍛えた技を振るう絶好の機会。それだけだよ」

「見たところ、あなたが一番腕が立ちそうだけど?」

「何を見ていたのかしらないけど」僕は両腕をさすりながらつぶやく。「力ならヘルネス、魔法力ならコントナが上だよ」

「その人たちも見たわ。あなたの評する通り。けれど組み合わせたら、魔法格闘なら、あなたが一番。どんなに力が強くても、魔法が強くても、戦えば勝つのはあなた。違う?」

「過大評価だよ。勝負は時の運だ」

「まあね」少女は肩をすくめる。「けれどあの男――バルドラスはいい目をしてるわ。きっと人選を誤らない」

 このときの僕には、勇者一行から声がかかるかどうかなんて、大した問題じゃなかった。少女の言っていることも一方的で好き勝手な評価に過ぎず、気にも留めなかったんだ。

「きみは向こう側――魔王軍側だよね。偵察でここにきたの?」

「いいえ」ぱっと笑顔を広げて、少女は否定した。「どっちにも所属していないの。けど、偵察といえば偵察とかしら」

「よくわからない」

「そうよね。ねえ、あなた。もしもバルドラスに声をかけられて、仲間に誘われたら」上目遣い。蠱惑的だった。「私に協力してくれない?」

「ないと思う」僕だけが勇者の知られざる秘密を知っているのに、連れて歩くわけがないと思った。「それにもし誘われても、君の協力はできない」

「あら。どうして? 魔法族が嫌い?」

「ううん。僕は不器用だから、一度に多くのことは考えられないんだ。味方をすると決めたら、その人の味方にしかなれない」

 残念、と少女は笑った。


 ◇


 セピアは手元のコップからぬるめの水を飲み込んだ。厨房に入る気は起きなかったため、城に持ち込んだ荷物から出してきたものだ。ラーナがいれば冷水にしてもらうこともできたが、セピアとギーに魔法らしい魔法は使えない。

「アニャエルは協力者を探していたのか」セピアはくちびるを拭いながらつぶやいた。「わたしたちの仲間になって、かつアニャエルの協力をする誰かを探していた……。彼女は一体何がしたかったのだろう」

「僕は断ってしまったから、わからない」ギーは両手の中で陶器のコップをくるくると回す。「魔王のため、魔王軍の間者にしたかった。と考えるのが、一番ありそうだと思う。けどそれじゃ、なおさら彼女に敵対する理由があるのは――」

「わたしたちということか。まあ、動機に関しては無視するのがいいだろう。わたしたちの知らない繋がりがあればそれまでのことだからな」

 嫌な考えを振り払うように首を振り、セピアは苦笑する。

「それでも気晴らしにはなったよ。話してくれてありがとう、ギー」

「ううん。僕のほうこそ、いろいろ話せてよかった。眠れそう?」

「どうかな。努力してみるさ」

 ギーは空のコップを置いて、席を立つ。

「それじゃあ、僕は部屋に戻るよ。おやすみ、バル――セピア」

「どっちでもいいよ。おやすみ、ギー」

 柔らかく笑うギーを見送ると、再び部屋には静寂が戻って来る。

 彼女が心と体の差異に苦しんでいたことに、セピアはこれまでまるで気がついていなかった。ギー自身がそういった素振りを見せず、隠してきたせいもある。あるいは仲間のことなど、本当に何も知らなかったのかもしれない。

 窓辺に寄る。壁掛け時計の針の音が、徐々に大きくなっていく。窓の外は暗い夜の闇に包まれているが、そう遠くないうちに日が登るだろう。昨日の夜までは、最終決戦の朝になると信じていた。

 客間の窓からは、前庭を挟んで反対の尖塔が見えた。ユミカが感心していた、古い建築様式の黒い威容。

 こんこん、と扉が控えめに叩かれる。

「開いている」

 誰何することもなく応えると、おずおずと扉が開けられ、ピンクブロンドの頭が覗き込んできた。

「ユミカ。どうした?」

「あ、せ、セピア。って呼んでもいい?」

「構わないが」

「入っていいかな……?」

「ああ。眠れずにいたところだ。さっきまでギーもいて、話をしていたんだが」

「そうなんだ」

 部屋着にも着替えず、ユミカはタイトな白装束のままだった。

 なぜかきょろきょろと部屋の中を見回しながら、後ろ手に扉を閉める。

「私も眠れなくて。あんなことの後だし……」

「無理もない。酒はないが、水ならある。少し話でもしよう」

「うん。ありがとう」

 先ほどまでギーが座っていたソファに、今度はユミカが腰を下ろす。向かい側に座り、コップにぬるい水を注いだ。

「ラーナがいれば冷やせるんだが」

「大丈夫。けど」ユミカは目を伏せる。「ラーナは大丈夫かな……」

「ひとまずは落ち着いたように見えたが、心配だな。あとで様子を見に行ってみるか」

「うん」

 頷いたユミカだったが、眉根にしわを寄せたまま、口を引き結ぶ。

「どうした? 何か言いたいなら、話してくれ。ついさっきも、仲間のことなのにわからないことばかりだと痛感したところだ」

「ん……ギーと何かあったの?」

「ちょっとな。それより今は、ユミカのことだ」

「私は……その、気になってたんだけど」躊躇しながらも、ユミカは重い口を開く。「セピアは、ラーナのことが好きなの?」

「好きだな」

 ユミカがぴたりと静止した。その硬直ぶりに、セピアは慌てて補足する。

「もちろん、仲間として、友人としてだぞ」

「あ、うん。そっか」

「まだ信じられないかもしれないが、わたしは女なんだ。それは事実だ。つまり、ラーナのことを異性として好きになるということはありえない」

「ありえないの?」

「ああ。同性だからな」

「言葉の問題じゃなくて……。恋人にしたいとは絶対に思わないの?」

「……ユミカ? 様子がおかしいが」

「女が女を好きになることって、ありえないこと?」

「それは、なくはないだろうが。そういう人がいるのは聞いたことがある」

「私がセピアを好きなのは、おかしなこと?」

「ユミカ、それはたとえ話か?」

 じっと見返すセピアの視線を、ユミカは珍しいほど正面から受け止めた。それは決して、冗談やたとえ話をしているような顔ではない。

 背中に汗が伝うような気がする。それほどの緊迫感があった。

「……珍しいが、おかしなことではない。と、思う。わたしの発言が軽率だった。相手が女であれ男であれ、ありえないということはないな」

「気持ち悪いって思う?」

「いや」セピアは反省するように、眉間に手を当てて目を伏せる。「混乱しているし、驚いてはいる。だが、嫌悪感はないんだ。人それぞれの趣味嗜好の問題だろう?」

「セピア、私、女の子しか好きになれないの」

「あ、ああ」

「引いてる」

「引いてない。驚いただけだ」

「ヤーイント・セラの医療学校では二人の子とつき合ったんだ。二股じゃなくて別々にね」

「二股も、地域によっては案外普通のことだし、それも趣味の問題だとは思うが」

「少なくとも王都では一夫一妻制でしょ。私もそれは賛成。――二人ともいい子だったんだけど、ちょっと違ったの。閉鎖環境で恋愛ごっこがしたいだけで、私をことが好きなわけじゃなかった。だからお別れしたの」

「そ、そうか」

「引いてる」

「引いてない。というか、わたしが引いてるかどうかはこの際どうでもいいだろう」

「よくない」ユミカはじっと見つめて来る。頬が紅潮している。「よくないよ。好きな人に、どう思われるかが、どうでもいいわけない」

「好きな人と言うが」セピアはごほんと咳を払う。「わたしが女だと気づいていたのか?」

「ううん。全然気づかなかった。だから、どうして好きになりそうなのか、気持ちが惹かれてるのか、全然わからなくて。私もついに男の人を好きになったのかと思って、戸惑ったし、怖かった」

「それは……わたしがある日突然、女性を好きになるような衝撃なんだろうな」

「ふふ」ユミカは嬉しそうに笑う。「そういうところも好き。あなたは自分が偏見をもってないなんて自信がない。だからいつでも、公平であろうとするんだよね」

「ぐ、ぐいぐい来るな」

「正直でいようと思って。私は――」あ、とユミカは慌てる。「こんなときにこんな話、不謹慎かな」

「いや」セピアはすぐにかぶりを振った。「別に構わないだろう。大騒ぎしたしショックだったが、アニャエルとは特に親しかったわけでもない。ラーナが疑われたことに関しては、きみは心配していないんだろう?」

「あ、うん……。わかるんだ?」

「しかるべき調査が入れば、彼女の仕業ではないと判明する。仲間を信じてるから、きみは明日より先のことを考えている。だろう?」

 ユミカはなぜか、幸せそうな笑みを広げて頷いた。

「うん。だから、好き」

「だが、ユミカ、わたしは――」

「待って。返事が今、欲しいわけじゃないから。私ね、素直でいようって思ったのは、アニャエルのおかげもあるんだ」

「……どういうことだ?」

「リンテの街で、アニャエルと会ったのは話したよね。さっきの話には続きがあって――」


 ◇


「もしバルドラスのほうがあなたのことを好きだったら、どうするの?」

 喧騒の絶えない食堂で、少女の声は意外なほどよく通る。

 けれどたぶん、耳を傾けているのは私一人だった。

「そんなこと――」

「ないとは言えないわ。彼も健康的な男の子だもの。英雄、色を好むとも言うしね」

「い、色って」私はうろたえながら、空になったパフェの容器をもてあそぶ。「ないとは思うけど……もしバルドラスが私を好きでも……私は」

「そんな風に迷うのに、気持ちがないなんて言わせないわよ」少女は大人びた笑みを見せる。明らかに歳下の少女だというのに、私は翻弄されていた。「自分の気持ちに嘘をつくのって、つらいでしょう」

 私は思わず目をそらす。

 ヤーイント・セラを出てから、彼に惹かれなかったとは言い切れない。公明正大で、正義感が強く優しい。けれど彼が『彼』である限り、私が惹かれることなんて絶対にないと思っていた。そのはずなのに……。

「あなたも好きな人がいるの?」

 私は矛先を変えるために聞き返した。

「恋人にしたい相手という意味ならいないわね」

 少女は軽く肩をすくめてみせる。

「でもあなただって、自分の気持ちを偽ってるんでしょ?」

 というのは当て推量に過ぎなかったけれど、少女は表情を曇らせる。

「そんなに華々しい話じゃないの。私は親が養父なんだけどね」さみしげな笑み。「血が繋がっていないとか、そんな小さなことで受け入れられなかった私が幼くて、恥ずかしかったのよ」

「ふぅん……? 今は?」

「大切なのはそんなことじゃないと気づいたわ。私は私の気持ちを大事にするの。あなたも、そうなれるといいわね」

「そう、だね。いいお父さんなんだね」

 微笑みかけると、少女は困ったような顔で首をかしげた。

 そのしぐさだけは歳相応に幼くて、私は少しだけ安心した。


 ◇


「その後、リンテの街で起きてる事件の話になってね。アニャエルは私たち勇者一行がどんな調査をしているのか知りたがってたから」

「おかげで人形事件の解決に至ったわけだ」

 セピアは考え込むように、顎に手を添える。

 ふと見ると、窓から薄い光が差し込んでいた。月光ではない。窓辺に立つと、連なる山々の稜線が青く染まりつつあるのが見える。

「もうすぐ夜明けか」

「長い夜だったね」ユミカが深い疲労の滲む声を出した。「少し眠くなってきたけど、セピアは?」

「疲れてはいるんだが、目が冴え過ぎていてな。今日はいろいろなことがあり過ぎた」

「一年の旅が、こんなかたちで終わっちゃうなんて思ってもみなかったね」

「まったくだ。アニャエルを誘拐し、殺したのが誰なのかは、わからないままだが……それはもう、委員会の手に委ねるしかないだろうな」

「セピア。怖いの?」今はまだわずかな朝日を背負って振り向くと、ユミカは恐る恐るという様子で続けた。「あなたなら、『わたしたち勇者一行は世界一の精鋭としてここにいるんだ。委員会に任せるなんて消極策でどうする』くらいのことは言いそうなのに」

「……バルドラスを……男らしい勇者を演じるのを、やめたせいかな。自信満々ではいられない。ましてこれは技倆を競い合う『旅路』の一環ではなく、現実に死人が出てる殺人事件だ。わたしの力がどこまで及ぶのか、わたし自身測りかねている」セピアは細い指を折りたたみ、拳をつくる。それはどうしようもなく小さい。「逃げようとしたラーナを引きとめたとき、わたしは確かに、彼女が犯人のはずがないと思っていた。ただの感情論だ。長く一緒にいた信頼する仲間を、殺人犯だと思いたくはなかった。確たる証拠があったわけでも、勝算があるわけでもない。ただラーナではないと信じたかった」ユミカは何も言わず、ただじっとセピアを見つめている。「情けないが、わたしは心から仲間を信じているとは言えないんだ。信じたいから、信じるのが正しいと思ったから、疑うことを捨てた。それが、わたしが描いた英雄の強さだからだ。だが――」

「今は、自信がない?」

「ラーナも、ユミカも、ギーも、カナタも、大切な仲間だ。魔王とはつき合いが長いわけじゃないが、仕事相手という意味では信頼している。この中の誰かが犯人だとは思えない。思いたくない。わたしたちの知らない世界最高峰の手練れが、この近くに潜んでいて、わたしたちの想像を遥かに超える斬新な発想で犯罪行為に手を染めたんだ。……そう思えば楽だろう」

 ユミカは何か言いかけたようだったが、苦い薬でも飲み込むように、歯を食いしばって言葉を嚥下する。

 きっとそれは批難だったり、激励だったのかもしれないが、セピアは問い返すことができなかった。

「なあ、ユミカ」代わりに優しく声をかける。「さっききみが言っていた、アニャエルの言葉。サヴァリアにも伝えたいと思うんだが」

「あ、うん。アニャエルが、お父さんのこと血縁なんて関係なしに好きだった……ってことだよね」

「そうだ。彼にはそれもつらいのかもしれないが、もういない娘の言葉なら、きっと少しでも知りたいと思うんだ」

「うん。そうだね。私から話そうか?」

「いや……きっと彼は今も、アニャエルと一緒にいる。先ほども尋常な様子じゃなかった。念のため、わたしが行ったほうがいいだろう」

「わかった」

 二人揃って部屋を出た。

 魔王城の廊下は寒々しい。壁の燭台は弱々しい光を放ち、窓から入る朝日はまだあまりにもか細い。石造りの廊下は外気温ほどではないが冷気に満ちていて肌を突き刺す。両腕を抱くようにして、ユミカは身を縮こませた。

「それじゃ、私は部屋に戻ってるから」

「ああ。少しでも眠ったほうがいい」

「セピアこそ、無理しないで。明日もきっと長い一日になるだろうから」

「ありがとう。おやすみ」

 おやすみなさい、と挨拶を交わして、ユミカは自分の客室へ向かった。その背中を見送ってから、セピアは廊下を見回す。

 荘厳で、歴史を感じる石の建築。通路はあまり広くないが頑強だ。吹き抜けになっているため、二階の廊下からは階下が望める。何もない無人のロビー。使用人に暇を出したせいなのか、ところどころに埃が浮いており、淡い朝日に舞っている。

 アニャエルの部屋に入ったことはなかったが、当たりはついていた。先ほどサヴァリアが彼女の遺体を運んでいた部屋に違いない。

 少なからず緊張しながら、セピアはその部屋の前に立った。高価そうな材質の深いブラウンの扉を指の腹で撫でる。アニャエルの部屋、などとわかりやすく刻まれているわけではなかったが。

 拳の裏で軽く叩く。

 返事はなかったが、中で人の動く気配はあった。

 セピアはもう一度、そっとノックする。

「近づくなと言ったはずだ」

 扉越しにくぐもった声が聞こえた。サヴァリアだ。

「邪魔をしたいわけじゃない。ユミカに、アニャエルの話を聞いたんだ。生前の彼女のことを、少しでも話しておきたい」

 しばらく躊躇したようではあったが、やがて扉の鍵が開けられる音が響いた。

 できる限りそうっと、室内の空気を乱すことを恐れるように、セピアは扉を押し開ける。

 サヴァリアはすでに部屋の奥で、一脚のソファに座って背を向けていた。その目の前には寝台。眠る人は微動だにせず、顔には黒の薄いヴェールが被せられている。

 空気は冷えていた。廊下よりもさらに気温が低い。アニャエルのために、サヴァリアが何か魔法でもかけたのだろう。

「あまり近づかないでくれ」サヴァリアの声には力がない。「おまえたちを信用してるわけじゃない」

「ああ。ここで話すよ」

 セピアは扉を閉めると、所在なさげに背を預ける。振り返りもしないサヴァリアが、態度で拒絶を表していることを、責める気は起きない。

「さっきまでユミカと話してたんだ。食堂での話の続きを聞いた。それで……アニャエルは、自分の気持ちを偽っていたことを、後悔していたそうだ」

 言葉が途切れると、しんとした静寂が横たわる。それは冬の冷気に似ている。ただ音もなく、皮膚の隙間に潜り込む。

「後悔?」

「いや、それはわたしの解釈なのかもしれないが……。きみと血が繋がっていないことを気にし過ぎて、自分の気持ちを無視していたと言っていた。大事なのは気持ちのほうで、血縁なんてものじゃないと気づいたんだろう」

 そんな言葉が、娘を失ったばかりの父親にとってなんらかの救いになるのか、セピアは確信がもてない。サヴァリア・ラグが魔王の役割に就いたことは早い段階から知っていたが、彼の人となりについて詳しいわけでもない。しかし勇者と同じく、彼も選ばれた者だ。ただ落ち込んで嘆き、立ちあがれないような人ではない。

「……俺は、いい父親だったわけじゃない」

 サヴァリアはぼそりとつぶやいた。背を向けたままのせいで、言葉は聞き取りにくい。セピアは身じろぎ一つせず、彼の声に耳を傾けた。


 ◇


 俺は、いい父親だったわけじゃない――。

 魔法族の間でも、『勇者の旅路』は大規模な娯楽になっている。数年に一度行われる祭りだ。今では良き隣人である人間たちと、いかに愚かな対立を重ねてきたのかを追憶するいい機会でもある。もちろん半分は建前だ。もう半分は、鍛えた腕前を披露する場であり、人間の勇者の活躍と、魔法族代表の戦いを見物するのがおもしろいだけだ。代理戦争? ま、そういう側面もあるわな。何万人が武器持って殴り合うよりはよほど健全だろ?

 実を言えば、俺は最初から今回の魔王に選ばれたわけじゃない。おまえたちが王都を出るより二年も前――今から三年も前になるか――魔法族の中で、今回の魔王役を決める試験が行われた。準主役に過ぎないとはいえ、魔王役を務めるのはそう簡単なことじゃねえ。魔法力もカリスマもそれなりにいる。勇者と対をなす存在だからな。

 ようは、魔法族側の英雄選別だ。俺はその試験に落第した。残ったのはキャナン・ハロルド伯爵――アニャエルの実の母親だった。

 あいつの父親のほうは、アニャエル本人が幼い頃に病死したんだそうだ。キャナンは爵位を継いで、一人娘のアニャエルを育てながら魔王の座を目指していた。俺は、そんな彼女に近づいた。卓抜した魔法技術の原動力を知るためだ。逃した魔王の座に固執していたつもりはないが……実際は、どうかな。

 キャナンは『旅路』が始まる前に死んだ。事故だった。いや、それも本当のところはわからない。彼女は俺と二人で魔法の修練をしていた。彼女が勇者とどう戦うつもりだったのかは知らないが、『旅路』の最終決戦は派手に決めるつもりだったんだろう。戦争魔法の派手さと、裏腹の威力の低さを研究していた。俺は彼女と一緒に研究を重ねた。派手な音と光を撒き散らして、見た目はおもしろくて人を傷つけない。あるいは傷ついたように見せかける。『勇者の旅路』という興行のためだけに新しい魔法を開発した。それは戦争魔法というには優しすぎて、俺たちは享楽魔法と呼んでいた。

 俺が――キャナンをどう殺したのかは――わからない。事故のようだった。そうじゃないのかもしれない。どちらにせよ、俺が殺したことに違いはない。殺意があったかどうかも、自分じゃわからねえんだ。そんなつもりはなかった。なかったはずだ……。

 俺は残されたアニャエルを引き取った。二年と半年前のことだ。十二歳のアニャエルは、唯一の肉親を失ってショックを受けていた。俺はあいつを養子にして……試験では次点だった魔王の座に収まった。俺はあいつのためにも、『旅路』を成功させなきゃならなかったんだ。

 ……けれどもう、そのアニャエルはいない。


 ◇


「勇者。俺は、おまえだけは信じられる」サヴァリアはわずかに振り向いた。「『勇者の旅路』なんざ所詮は娯楽と嗤われることもある。だがそれが、人と魔族の、歩んできた歴史の先にある一つの象徴だと、俺たちは知っている。男だの女だのは問題じゃねえ。血を吐くくらいの努力をして、おまえは英雄を目指してきたはずだ。その努力を、ここまでのおまえの旅路を、俺は信じられる」目は獣のように、ぎらりと光る。「だから委員会に協力してやってくれないか。連中は商人だ。『旅路』を踏みにじった奴に手加減はしない。必ず代償を払わせる。アニャエルを殺した奴に……」

「ああ」セピアは固い表情で頷いた。「約束しよう。必ず、犯人を見つけて、追い詰める」

 いつの間にか、拳を固く握っていた。サヴァリアの無念を思ってか、その娘の不憫を思ってか、鼓動も早くなっていることを自覚する。

 サヴァリアはそれ以上語らなかった。口を閉ざし、静かに娘を見つめている。

 セピアは部屋を出る。先ほどよりも暑く感じるのは、差し込む朝日のせいだろうか。それとも奮い立っているのだろうか。

 セピアは額に握った拳を当てた。

 たった今聞いた話が――これまで見聞きしてきた情報が――脳裏で渦巻いてとまらない。肌が熱を帯びている。

「あ……バルドラス」

 顔をあげると、廊下の先にラーナがいた。

 普段は屋内でも外さないつば広の帽子が見当たらない。少し乱れた金色のショートカットが、歳よりも少しばかりあどけないラーナの輪郭を隠している。

「ラーナ。眠れない、よな」

「そうね……」

「実はさっきまで、サヴァリアと話をしていた。その前にはユミカやギーとも。もしラーナがまだ眠れそうにないなら、少し話していかないか」

「こんな廊下で?」彼女は赤く腫れた目を細めて、自分の体を抱く。「少し寒いわ」

「それなら、わたしの部屋に行こう」

「いいけど、その前にちょっと通してくれる?」

 廊下の奥を指さされ、セピアは困惑したように頭をかいた。

「きみはどこへ行くところだったんだ?」

「どこでもいいでしょ。逃げようなんて思ってないから安心して」

「それならどこへ――」

「あーもうトイレよトイレ! いいから通してよね!」

 小声で怒鳴るラーナに両手を挙げて、セピアは恐々とすれ違った。

 どこか脳天気にも聞こえる会話が、アニャエルの部屋まで漏れ聞こえていなければいいが。それを配慮して、ラーナも声をひそめたのだろう。

「あ、あとで行くから。待ってて」

 ラーナは振り返らずに言うと、足早に進んでいった。

 セピアが部屋に戻ると、ほんの数分ほどで扉が叩かれた。開けると、今度はちゃんと帽子を被ったラーナがちょこんと立っている。大きな帽子にゆったりとしたローブ。扱う高速で強力な魔法のせいで忘れがちになるが、彼女は小さい。

「おじゃまします」

「どうぞ、と言ってもわたしの部屋というわけでもないが」

 招き入れて、セピアが扉を閉める。

「あっ」

「ああ、すまない。扉を開けておくのはマナーだったか」

「別にいいわよ。お、女同士、だし」

「……そうだな」

 複雑に微笑んで、二人は向かい合わせに腰を下ろした。

 水の入った瓶に手をかざして、ラーナはぼそぼそと高速詠唱を行う。たちまち冷えた水が、コップに注がれた。

「ありがとう」

「別に、これくらい」

 コップを受け取ってくちびるを湿らせる。目を合わせないようにしているラーナが、不自然なほどこちらを意識して体を強張らせていた。

「……ラーナ。わたしのことは、セピアと呼んでくれないか」

「何よ、急に。別にどっちでもいいじゃない」

「さっき廊下で会ったとき、バルドラスと呼んでいただろう。別にその名前が嫌なわけじゃないが、それはあくまでもわたしが名づけた偽名であって、本名じゃない。これまできみに嘘をついてきた分、これからはもう嘘をつきたくないんだ」

「いいけど」ラーナはまるで熱い飲み物でも飲んでいるかのように、両手でコップを持って顔の半分を隠す。「せっかくだから聞かせて。セピア、あなたはどうしてバルドラスなんて名乗ったの?」

「それはもちろん、勇者試験を受けるためだ。勇者はまず大前提として、男ではなくてはいけないという決まりがある。わたしは試験会場で記入した用紙にも、堂々と男だと書いてきた。門番にじろじろと眺められたときが一番緊張したよ」

「『勇者の旅路』に参加したいだけなら、何も勇者にならなくてもいいじゃない。ユミカや私は、現に女として参加しているんだし。腕前は別に嘘じゃないんだから、女戦士としての加入なら簡単だったんじゃない?」

「いや」セピアは眉を寄せてかぶりを振る。「わたしは勇者に――というか、英雄に憧れていたんだ。幼い頃から英雄譚を読みふけり、実在した勇者に焦がれていたのは嘘じゃない。どうしても勇者がよかった。人類を救うため立ちあがり、魔王と対決して打ち勝つ伝説の英雄になりたかった」

「どうして?」

「どう……というと?」

「なんでそんなに英雄にこだわるのって聞いてるのよ」

「なぜと言われてもな」セピアは腕を組む。「幼い頃からそう思っていたから、どうという理由もつけがたい。ラーナがなぜ魔法を学ぶのかと聞かれても困るだろう」

「私は簡単よ。これが世界を解明する哲学だから」ことん、とコップを置いてかすかに笑う。「なんてね。建前はそうだけど、実際はよくわかんないわ。好きだからかしら」

「わたしもそうだ。英雄が好きなんだ。それ以上の理由はない」

「……じゃあどうして、セピア・ヘイリンワースじゃなくて、バルドラス・ギギナグールだったの? 名前からバレるかもしれないから?」

「それもある。が、勇者セピアというのはどうも、いまいち迫力に欠けると思わないか。わたしはどうせ歴史に名を刻むなら、格好いい名前がいい。勇者バルドラス・ギギナグールなら申し分ない」

「格好いい……かしら」

「いや格好いいだろう。ギギナグールだぞ。強そうだ」

「ちょっとよくわかんないわ」呆れたような目をする。「変なこだわりがあるのね」

「変じゃない――が、まあ、その話はいい」終わりだ、と言うようにセピアは両手を広げてみせる。「そういえば一つ聞きたかった。とても聞ける雰囲気じゃないから流してしまったんだが……わたしが女だとわかって、どうしてラーナは泣いていたんだ?」

 うぐ、とラーナは喉に何か詰まったような声を出す。つばを引っ張り、コップを持ちあげ、顔のほとんどを正面から隠した。

「別に、深い意味なんて」

「やはり、仲間に嘘をつかれていたのがショックだったのかと思ったんだが」

「あー……そう。そうね。そうよ。それ」

「やはりそうか。本当に、すまないことをした。きみに嘘がつきたかったわけではないんだ。だが、わたしの力不足だな……。誰かに話してしまって、憧れの英雄という立場を失うのが怖かったんだ。きみを信頼していたつもりだったのに、信じきることができなかった。心から、申し訳ないと思ってる」

 いや、その、とラーナは慌てたように手を振った。

「そ、そんなに責任を感じなくてもいいわよ! あのときはちょっとびっくりしただけで! バル――セピアが悪いとか嫌って話じゃなくて、あんまりにも思いがけなかったものだから」

「いや、ラーナを傷つけたことには違いない」

「それは! 私が、勝手に……勘違いして……」ラーナはコップを強く握りしめる。「いいの。もう、その話はおしまい。納得したんだから気にしないで」

「そうか。わかった。ラーナがそう言うなら」

 ほんとにもうこれだから誠実ならいいってもんじゃ、と口の中でぶつぶつと唱えながら、ラーナは不機嫌そうに水を呷る。

「ところで、ユミカに好きだと言われてしまったんだが」

 ごとん、とラーナのコップが落ちた。口の端から水も滴る。

「うわ冷た!」

 慌てて立ちあがり、ラーナはローブをばたばたとはためかせる。

「な、なんだ。どうした」

「あんたが悪いんでしょうが!」

「おれは何も、いや、わたしは何もしていないぞ」

「ものすごい動揺しながら何言ってんのよ!」あくまで小声で怒鳴りながら、ラーナは落ちたコップを手早く片づける。「ええっと? ユミカが、何?」

「ユミカに好きだと言われたんだ。返事は今聞きたくないとも言われた」

「なんでそれを私に言うのよ」

「どうしてそんなに睨むんだ――いや。誰かに相談したいと思っただけなんだ。言いふらしたいわけじゃない。ギーでもよかったんだが、あまり相談には向いていないだろう」

「まあ……『そう。よかったね』くらいで終わりそうだしね」

 ラーナは部屋の隅に置かれたセピアの荷物を漁ると、雑巾を引っ張りだして床の水を拭き始めた。セピアはコップを拭ってから、水を注ぎ直す。

「ユミカがあなたに惹かれてるのは、薄々気づいてたわ。でもそんな決定的ではなかったというか、好きになる直前だったというか。そんな感じだったのに。ていうか順番としておかしくない? どうしてあなたが女だってわかったら告白になるのよ」

「それが、彼女はどうやら、同性しか好きにならないタイプらしいんだ」

「あー」ラーナは虚空を見上げて、なぜか頷く。「なんかわかる」

「わかるか? しかし、困った」

「あなたは男装してただけで、中身は女の子なのよね。それじゃあ相手は同性ってわけにはいかない……ってこと?」

「性別の問題ではないと思ってる。相手が男でも女でも、問題は好きかどうかだ。しかしわたしは、今までユミカをそういう目で見たことがない」

「そうでしょうね。むしろあなた、恋愛経験なんてあるの?」

「幼い頃は、ライエンド・フィリックが好きだった」

「誰よ。いや待て。聞いたことあるわ、その名前」

「三〇〇年前に実在した本物の勇者だ。彼の英雄譚を読んだことはあるか?」

「待って待って。勇者マニアの話を聞いてる場合じゃないのよ。それに、それは憧れっていうものでしょ」

「幼い頃は、真剣にライエンドの嫁になりたかった。いつも勇者さまのお嫁さんになるにはどうしたらいいのと言っては両親を困らせていたんだ。いつしか、自分自身が勇者になるという目標に変わっていったんだが」セピアは真面目な表情を崩さない。「恋愛経験といえばそれくらいだな。生きている人を好きになったことはない」

「そうでしょうね。あなたの場合は、研鑽に忙しくてそんなことしてる暇もなかったのかもしれないけど」ラーナはようやく落ち着いてソファに座り直した。「今のところ返事はいらないって言うなら、ユミカもきっとその辺のことは察してるんじゃないかしら。普通に異性を好きになったこともないのに、同性相手に意識しろなんて難しいだろうし」

「……そういうものか」

「そういうものよ」

 ラーナはわずかながら笑みを見せた。普通のことにあまりにも疎いセピアがおかしかったのだろう。その微笑みに、セピアも口元を緩める。

「少しは、落ち着いたか?」

「何よ」ラーナはくちびるをとがらせる。「気を遣ったの? あなたらしくもないわね」

「きみが動揺するのも仕方がない。人が死んでいるんだ。わたしだって平静ではいられない。それにラーナは疑いの目を向けられていたからな」

「私は、何もしていないもの。それでも怖くて逃げそうになっちゃったけど……あなたが防いでくれたんじゃない。あとはもう、おとなしく委員会の調査を待つわ」

「待たない」

 言下に否定したセピアに、ラーナは息を呑んだ。ソファの肘掛けをつかんで、セピアはまっすぐに仲間を見据える。

「嘘までついたわたしのことを、ユミカが好きだと、ギーが憧れていると言ってくれた。それは打ちのめされて、眠れずに不安をごまかすわたしじゃない。ラーナ。我々は勇者一行だ。誰よりも勇敢で、何事にも立ち向かう人々の希望だ。たとえそれが与えられた役割だとしても、わたしはそんな英雄に焦がれたんだ」

「セピア、それじゃあ……」

「ああ」にやりと、珍しくも不敵に、セピアは笑ってみせた。「アニャエルを殺した犯人を特定する。ラーナ、手伝ってくれるか?」


 ◇


「何か書くものがいるな」

 と言ってセピアが用意したのは、荷物から取り出した手すき紙とつけペンだった。固く締めた蓋を開けると、インク壺から独特のにおいがあふれる。寿命の切れかかった魔道具の燭台に、ラーナが魔力を継ぎ足した。

「まずは状況を整理したい」セピアは声に出しながら筆を走らせた。「わたしがもっとも疑問に感じていることは、犯人はアニャエルを殺す必要があったのかということだ」

「誘拐なら、人質を殺してしまったらなんの意味もないものね」

「ああ。すでに死体として帰ってきた娘のために、二〇〇億ゴルドを用意する親はいない。もう一つの条件である『旅路』最終決戦の八百長についても、実行する理由がなくなる」

「なんのために誘拐したのかわからないってことか」

「ああ。わたしが誘拐犯で、二つの要求をどうしても通したいと考えているならば――そもそも殺すこと自体避けたいところだが――たとえアニャエルが死んでしまっても、死体を返したりはしない」

「てことは、犯人にとって脅迫状の要求は、あまり意味のないものだった?」

「慎重を期すなら、意味のないものになったのだという可能性もある。初めからわたしたちを混乱させるためだけの脅迫状だったのか、あるいは食堂で議論を交わしている最中に、それらの条件などどうでもよくなる何かがあったか」

「セピアはどっちだと思うの」

「折衷案かな」セピアは腕を組んで顔をしかめた。「脅迫状そのものには意味があった。しかし条件の実行――金と八百長はどうでもよかった」

「どうして?」

「アニャエルの遺体がばらばらだったからさ。誘拐するつもりがうっかり殺したんだとしても、ばらばらにするにはそれなりに作業がいる。魔法を使ってもな。そして厨房の入り口には、入城してからこっち、ずっとわたしたちがいた。もし途中でアニャエルの生存に都合が悪くなったとしても、ばらばらに刻んで運び、またくっつけて冷蔵庫にしまう必要がない。つまり、わたしたちが脅迫状を探していた段階で、すでにアニャエルは殺されて刻まれていたのだと考えられる」

 ラーナは思案するように視線を虚空に投げ、ひとしきり唸ってから顎を引く。

「……そうね。間違ってないと思う。けど、魔法なら? セピアは、私が身内だからかばってくれたかもしれないけど、そういう魔法をもってるのなら刻むのもくっつけるのも難しくないわ」

「わたしは魔法というのは便利なものだし、超常現象だとも思っている。しかしそれでもできることとできないことがある。天才でも魔法使いと正面からはぶつかりたくないから不意をつくし、詠唱は本人の鍛錬以外では早くも正確にもならない。それまで知らなかった魔法を使うにはまず詠唱内容である呪文から作らなくてはならない」

「そうだけど、手順さえ踏んでしまえば、人にはできないようなことも実現してしまうのは事実よ」

「では考えてみるか? きみが魔法使いの少女を一人、こっそりと殺してばらばらに分解し、持ち歩けるようにして冷蔵庫にしまうまで。魔法を駆使するとどうなる?」

「倒す方法については割愛するわ。手段が多過ぎるし、どれでもいいもの。分解なら、まず人の肉と骨を両断できるだけの刃を生み出す必要があるわね。切れ味にあまりこだわりがなければ、魔法そのものは数時間あれば作れるけど」

「切ったらどうなる?」

「どうって……運びやすく小さくなって……あ、その前に、血が出るわ」

「そうだな。ばらばらにすれば、人一人の体内に流れる血や内臓がこぼれて来る。汚れもするしにおいもすごいだろう」

「うっ。気持ち悪くなってきた……」

「あまり想像しないほうがいい。アニャエルは今朝まで生存が確認されている。朝からわたしたちが発見するまでの間に、返り血を浴びずに殺し、分解し、血と内臓をきれいに処理して持ち運び、厨房で再構成する。できると思うか?」

 ラーナは考えこんで、ゆっくりと首を振った。

「計画的に、使いそうな魔法を事前に全部作っておけばと思ったけど……城に来たこともない私たちが、そんなに用意周到にはできない。かといってサヴァリアが犯人ってことはないでしょ。彼がやるなら、もっと安全な方法がいくらでもあるもの」でも、とラーナは続ける。「それでも、まだ決まったわけじゃないわ。あらゆる状況を想定して、いくつもの魔法を作っておいたのかもしれない」

「疑り深いな。どうやらこの方向性は泥沼みたいだ」セピアは肩をすくめた。「未知の魔法の存在を否定しきれない以上、手段を特定するのは難しいか」

「いいえ。魔法にもルールはある」ラーナは指折り数える。「一つは、まず効果を定める呪文の構築には時間がかかること。効果が複雑なものほど余計にね。習得して高速詠唱までもっていくには更に。二つ目に、魔力がなければ撃つことはできないということ。三つ目に、越えられない限界があるということ。魔力は魔力同士ぶつかるから、相殺されるし通り抜けることはできない。どんな魔法であれ、その本質はすべて同じ。魔力が形を変える瞬間――つまり発動の瞬間、近くにいる魔法使いは必ずそれを感知できるわ」

「……ああ、なんだ」セピアは肩の荷が降りたかのように、安堵した表情を見せる。「魔法を使えば魔法使いにはわかる。つまりアニャエルをサヴァリアの傍で、魔法を使って殺すのは無理だってことだ」

「……そうなるわね」

「つまり、もしきみが城の中でアニャエルを殺したのだとしたら、魔法を使わずにやったことになる。さらに魔法を使わずに、解体して血抜きをして、あとでくっつけたということだ。少なくともくっつけたのは城の中だろう。魔法を使わずにそれほどの重労働をする時間は誰にもない。しかし魔法を使えば、サヴァリアには露見する」

 ぱちぱちと何度か目をしばたかせて、ラーナは力なく頷いた。

「それは……そうね。でも、それじゃあ」訝しげに眉をひそめる。「誰がどうやってアニャエルを殺したっていうの?」


 ◇


「今、いくつわからないことがあるのか数えてみるか」セピアは紙にインクを落とす。「一つ、アニャエルはどこで死んだのか。二つ、城の三重防護魔法はどうやって破られたのか。三つ、アニャエルはどうやって殺されたのか。四つ、アニャエルの遺体をどうやって厨房に運んだのか。一応、五つ、アニャエルの目的とはなんだったのか。……まあたぶん、この辺が解決できれば、だいぶ絞り込めると思うんだが」

「一つ目と二つ目は連動してるわね。防壁を破ったのが、アニャエルを外に出すためなのか、中で殺すためなのかっていう違いはあるけど」ラーナは帽子のつばを少しあげて腕を組む。「三重防壁を破る手段として考えられるのは、さっきも検証した通り銀剣デネボラと、私とギーの魔法分解くらいよ。デネボラは魔力が霊子に戻る現象を起こすから、魔法使いから見ればすごく目立つわ。反対に魔法分解は魔力そのものが消滅する現象だから、魔法使いの目には引っかからない。現実的にはこっちね」

「さっきも言っていたが、ラーナとギーにしか分解ができないということはないだろう」

「できないわ。かなり特殊で変態的な技術なのよ。ギーのように学問として魔法を学んでいなくても使えるけど、才能と勘は絶対に必要。職人芸なのよ。私たちは『旅路』の中で必要にかられて覚えたけど、ユミカは最後までできなかったし」

「よくわからないが……わかった。そういうものなんだな」

「そういうものね」

「しかし、そうなると容疑をかけられるのがきみかギーしかいなくなる」

「だから追いつめられたんでしょ」

 セピアは難しい顔で唸ったが、すぐに表情を改めた。

「よし、それはおいておこう。三つ目の、アニャエルはどうやって殺されたのか。これを考えてみるか」

「もし、念話なりを使って城から呼び出すことに成功していたなら、魔法の線はやっぱり消えないわよ。私たち、昨日は城の麓まで到着して野営したけど、一日中一緒だったってわけでもないし、アニャエルと待ち合わせて切り刻んで城に持ち込んだ可能性はあるわ。距離さえとれば、サヴァリアの魔法感知も意味はないもの」

「……気分はよくないが、その線で考えるとしたら、切り刻めるのはわたしかラーナだろうな。銀剣か、あるいは刻む魔法を作っていたか。癒し手や格闘家にはできないし、吟遊詩人は論外だろう。しかし――」

「ええ」ラーナは諦観のにじんだ苦笑いを見せる。「あなたは、あなたが犯人じゃないことを知ってる。なんだか、どう転んでも一番怪しいのは私みたいね」

 彼女はため息をついた。

 セピアはかけるべき言葉を見失って、拳を握って席を立つ。

 窓からはすでに、まぶしいほどの朝日が差し込んでいた。あれほど気になっていた針の音も、とうに忘れていた時計を見ると、午前六時に近い。

「……アニャエルを外で殺したとして」かすかに空腹を覚える腹に手を当てながら、セピアはつぶやく。「なぜ解体したんだろうな?」

「遺体をばらばらにする理由ね。まず思いつくのは、運びやすくするってことよね。サヴァリアも言っていたけど、鞄に詰めこむこともできるわ」

「せっかく外で殺したのに、なぜ城に死体を持ち込むんだ」

「それは……なぜかしら。脅迫状の効果がなくなるのはわかってたことでしょうし」

「じゃあ中で殺したとすれば?」

「あ、それならわかりやすいわね。殺してバラしたけど、持ち出す機を逸したのよ」

「アニャエルが見つかったのはあくまでも偶然で、見つけて欲しかったわけじゃないということか。しかし中で殺した説では魔法が使えない。サヴァリアに感知されるからな。わたしたちの内の誰かが、先に魔王城に辿り着いて三重防壁を破壊し、魔法を使わずアニャエルを殺して解体したことになる」

「……私なら防壁を破壊できるけど、魔法が使えないからアニャエルを解体できない。ギーも同じ。魔法なしで解体できるセピアは防壁が破れない、ってことね」

「つまり?」

「共犯ならどう? わたしかギーが防壁を破って、あなたが殺して解体するの」

「根本的に、城内でそこまでの兇状が行われて、サヴァリアが何も気づかないものか? 魔法が使えればともかく、手作業では時間もかかる。かなり強いにおいだって発しただろうに」

「それじゃあやっぱり、犯人は外で殺して城に死体を持ち込んだのよ。死体は発見される必要があったのね」

「だが……食事を作ったとき、きみたちは冷蔵庫でアニャエルを発見していない」

「そうね」

「それからあとになると、厨房に行ったのはカナタだけだが、彼は文書を送信する魔法以外知らない。アニャエルの死体を、たとえばらばらでも持ち運ぶ方法がない」嘆息が漏れる。「なあ、ラーナ。物体を軽くする魔法があるなら、小さくする魔法はないのか?」

「あるならそもそも解体する意味もわからないけど。一応、小さくはできるわよ。元には戻せないけど」

「それは押し潰してるだけだろう」

「そうとも言うわね」

「八方塞がりか」

 握った拳を窓枠に押しつける。頭も体も眠気は訴えていないが、疲労は蓄積している。朝日が目に痛く、肩も重い。

「ねえ、セピア」ラーナは帽子のつばを指先で下げ、目線を隠す。「私なら、できるわ。三重防壁を破って、アニャエルを念話で呼び出して、外で殺してバラして鞄に詰め、軽くしてローブの下に仕込む。議論が白熱した頃、厨房に立って隙を伺って遺体を隠す。くっつけるのは、その場で魔法を使う必要はないもの。その……人形みたいで、おぞましいけれど……それぞれのパーツに糸を通しておくとかすれば、物理的に人の形は作れるでしょうし」声色は淡々としていて、恐れも涙も滲んではいない。「私は、私が何もしていないって知ってるけれど、でも、他に方法がないのなら――セピア?」

 泣き出しそうな訴えを、セピアはなかば聞いていなかった。

 窓の外、朝日に照らされる漆黒の塔を見つめながら、表情が凍りついている。

「どうしたのよ」

「――わたしは警察じゃない」緊張をはらんだ硬い声だった。「理屈を詰めて論理的な正しさから、犯人を追い詰めて逮捕する必要はない」

「それがどうしたの?」

「できるからやったって話じゃないということだ。ラーナ、きみは確かにアニャエルを殺して、今の状況を作れたかもしれない。だが、きみじゃない」

「どうして……私が、仲間だから?」

「いいや。信じたい気持ちもある。だがきみが――当代最高の、人類で最高の魔法使いであるきみが――人を一人殺すなら、もっと鮮やかにやるに違いない」

「褒め言葉かどうかは微妙ね」

「なあ、ラーナ。昨日の夜、この山の麓できみと一緒に話したことを覚えているか?」

「ええ。魔王城を見上げて、いよいよ明日は決戦ねって。それもなくなっちゃったけど」

「いや」セピアは首を振ると、ソファに立てかけていた剣を手に取り、腰に提げた。「最終決戦を行う」

「ちょ、ちょっとセピア。意味がわからないわよ。犯人探しは? それに『旅路』どころじゃないんじゃないの?」

 ラーナに手を差し出す。

 驚いた顔でそれを見上げる彼女に、勇者は笑って見せた。

「嘘つきを見つけたのさ」


 ◇


 夜明けというには、やや時間が経った。もう数時間ほどで昼間というべき時間である。鬱蒼と立ち並ぶ冬枯れの木々の向こうに隠れて太陽は見えないが、空はすでに薄青く広がっている。

 隙間から刺さるような冷気が心地いい。厳しい寒さだが、徹夜明けの頭が明瞭に冴えていく感覚があった。

 振り向くと、仲間たちが怪訝な顔を見せていた。

「どういうことか、説明して頂きたいですね」不満げに言ったのはカナタだ。「委員会にはすでに、最終決戦を取りやめにするという連絡を飛ばしてあります。まだ到着はしていないでしょうが、かと言ってなかったことにはできません。そもそも、人が死んでいるんですよ?」

 眉をひそめているのは、何も彼だけではない。

「僕も聞きたい」ギーは表情を変えないまま言う。「事件の犯人が誰でも、少なくとも僕たちが最終決戦をするほど平和的な状況ではないはずだよね」

「サヴァリアがやろうって言ったの?」訊ねたのはユミカだ。「さっきの、アニャエルのことを伝えたから……?」

「彼は何も知らない」

 セピアが首を振ることで、なおさら仲間たちの疑念は深まっていく。

 勇者一行は、魔王城を前に並んでいた。セピアだけが三歩ほど前に立ち、他の仲間が横一列に待機している。まさしく、これから最終決戦だと気合いでも入れるような陣形だ。しかし仲間たちは顔を見合わせ、勇者の行動に当惑をあらわにしている。

 誰もが疲労していた。一睡もせず続けた議論と、初めて見る死体の衝撃と、仲間を疑わざるを得なかった状況のすべてが、全員の心身に大きな負担をかけていた。

「わたしたちは」セピアは黒塗りの城を見上げる。「一年、旅をして、ここに辿り着いた。その苦難も、決意も、簡単に投げ捨てられるものじゃない」

「だからって、サヴァリアは一人娘を失ったばかりなのに」

 ユミカの訴えに、セピアは落ち着いて応える。

「もしも、わたしの考えが間違っているようなら、謝罪では済まないだろうな。それほど自信満々というわけでもない。それでも、賭けるだけの理由を見つけたんだ」四人の仲間を順に見る。「もしもきみたちが、まだわたしを勇者だと思ってくれるのなら、今はただ信じて欲しい」

 空気は怜悧だった。蓄積された疲労もあった。それでもセピアの言葉に誰もが頷き、疑念を打ち捨てるように表情を引き締める。わずか一年でも、誰よりも長かった一年で結ばれた絆だった。

 セピアは魔王城を前に一歩踏み込み、息を大きく吸い込む。

「魔王サヴァリア!」

 これまでにない大音声が響く。

 そのこだまが消える頃、城の門扉がゆっくりと開いた。

「……なんの冗談だ、勇者」

 出てきたサヴァリアは、誰よりも疲労しているようだった。長い髪は乱れ、力のない目は半眼になっている。

「素直に出て来るとは、いい度胸だな、魔王」

「馬鹿言え。おまえ、なんのつもりだ?」

「最終決戦を行う」

 露骨に不機嫌そうにサヴァリアは顔をしかめ、億劫そうに口を開く。

「中止になったはずだ」

「やはり再開することにしたんだ。わたしがそう決めた」

「人が死んでるんだぞ」

「関係ない。わたしたちは『勇者の旅路』を全世界に見せるためにここまできたんだ」

「ふざけるな!」

 閉じた扉に、サヴァリアが拳を叩きつける。ユミカは怯えるように肩を震わせた。

 それを無視するように決然と、セピアは一歩前へと踏み出す。

「魔王サヴァリア。人の世を乱し、大陸を荒廃へと導いた元凶よ」腰の剣をすらりと抜き放つ。「人間を代表し、勇者バルドラス・ギギナグールが貴様を討つ」

 ふっ、とかすかに、魔王は笑ったようだった。

「最終決戦は映像を撮る予定だろ? 吟遊詩人が手ぶらだぞ」

 本来、カナタは最後の戦いの様子を映像として記録する役目を担っている。そのためにヤーイント・セラから謹製の魔道具を運んできているのだが、それが手元にはなかった。

「あれは一度切りしか使えないからな。ここで使うわけにはいかない」

「おかしなことを言う勇者だ。たった一度の、俺とおまえの最終決戦だろうが?」

「それがおかしな話じゃないことを、君は知っているはずだ」さぁ、と剣を魔王に向けて、セピアは告げた。「行くぞ、魔王!」

 納得はできないまま、それでも勇者を信じて、仲間もまた走りだした。

 魔王の周囲の空間が歪む。空気に溶ける霊子が姿を変え、魔力に変わりつつある。ラーナとユミカは飛びのき、すれ違うようにギーは疾駆する。

「銀の煌星」地面を蹴り、セピアは吼える。「デネボラ!」

 魔王は片手を背後の門扉に触れさせた。口元は小刻みに動く高速詠唱。鋼鉄の扉がぐにゃりと歪み、先端を尖らせた巨大な槍となって空を翔ける。同時に雪に覆われた地面が盛りあがり、岩の塊が飛び出して勇者を狙った。

 ギーは一人、凄まじい速度で地面を這うように駆ける。魔力を帯びた拳がすれ違いざまに槍の腹を打ち抜くと、それは粉々に砕けるようにして消滅する。

 岩の塊を迎撃したのは、虚空から出現した七本の剣だった。神を意味する聖銀の名を冠した神器が、重なって盾のように岩を弾き返す。

 ふわりと魔王が浮いた。駆けつけたギーが空振り、残っていた門扉に鋭い蹴りが突き刺さる。蝶番ごと弾けた鋼鉄の板が、ロビーの奥へと吹き飛んでいく。

 太陽のように赤く、まぶしい球体が空中に生まれた。ラーナの魔法だ。それは魔王を飲み込むように空を飛び――あっけなくも魔王を包み込んで、城の外壁へと叩きつけた。

「えっ」

 と、狼狽したのはラーナのほうだ。思わず次の詠唱を止めてしまうほど意外だった。

 魔法で生み出された炎は、延焼することなくすぐに消え失せる。残されたのは壁によりかかり、力なく座り込む魔王だった。しかし目だけは、鋭さを失わずに勇者を睨む。

 セピアは手元の剣を一閃させると、いまだ空中に浮いていたデネボラが動き出す。七本の剣は、魔王をその場に縫い止めるように地面や壁へと突き立った。本人を貫いているものは一つもないが、下手に動けば肌が裂けることは避けられないだろう。

「どういうこと……?」

 呆然とつぶやいたのはユミカだ。医療魔法の準備をしていた彼女は、出番がまったくなかったことに驚いているのだろう。これまでの旅路で、勇者一行は幾度となく怪我を負ってきた。戦闘中だろうがそれを癒やすのが彼女の役割である。しかし、もっとも手強いはずの魔法族が今、あまりにもあっけなく惨敗を喫していた。

「……満足か」

 魔王のかすれた声。セピアはゆっくりと彼に近づく。

「あの火球の直撃をくらっても平気なんだな」

「平気じゃねえよ。見ての通り、身動き取れてねえだろうが」

「そうじゃない。わたしの言っている言葉の意味がわからないきみじゃないだろう。さすがは、ほとんどの魔法使いがなしえない秘術だって言ってるんだよ。大した強度だ」

「なんの話だ」

「その自制心もすさまじい。だが、もう一つの魔法は解けたようだな」

 セピアは剣を収めて振り返る。仲間たちも同じ方向を見ると、戦闘から数歩距離を置いた後方で、カナタが膝をついていた。

「カナタ!」ユミカが駆け寄り、肩に手を当てる。「巻き込まれたの? すぐに治療するから、どこか痛いところがあれば――」

「い、いえ」震えてはいたが、カナタの声は明瞭だった。「どこにも怪我は、ありません……。何か、胸の中から何かが、情動が失われたような、痛みはありましたが。それはきっと医術で治るものではないでしょう」

「情動が? どういうこと?」

 吟遊詩人特有の言い回しだろうか、と首を傾げてユミカはセピアを見るが、彼女は再び魔王を見下ろしていた。

「終わりにしよう、魔王。きみの茶番劇はここまでだ」

「代わりに『旅路』を再開するってのか?」

「もちろんだ。わたしたちの『旅路』はまだ終わっていない」

「『勇者の旅路』は、所詮平和の上に成り立った能天気な娯楽だろうが!」拳を握り、魔王は声を荒らげる。「いいか、わかってねえようだから何度でも言うぞ。俺は、娘を、おまえらのうち誰かに殺されたんだ。殺されたんだぞ!」

「違う」

 首を振るセピアを、仲間たちは心配そうに見つめていた。彼女を信じて戦いはしたものの、その展開はあまりにも意外なものであり、これが正しかったのかどうかもわからない。そんな不安をなだめるように、セピアは目線で頷く。

「それは違うんだ、魔王」

「何が違う?」

 おそらくその言葉を発すれば後戻りはできないと、セピアにはわかっていたのだろう。緊張の覗く横顔に、ラーナは祈らざるを得ない。

 それでも、彼女は言った。

「アニャエルは生きている」


 ◇


 誰もが息を飲み、言葉を失った。

 ただ一人、セピアを除いては。

「考えたんだ、魔王。わたしはずっと考えていた。誰がどうやってアニャエルを殺したのか――いや、それよりも、誰がどうして、こんな事件を起こしたのか。わたしたちが早々に捨て去った犯人の動機、目的を、ずっと考えていた」誰も言葉を発しない。構わずに言葉を紡ぐ。「検証すればするほど、事件を起こすことができたのがラーナしかいないという結論に辿り着く。でも本当にそうか、見落としがどこかにないか、わたしは必死で探したんだ。そうしたら」セピアは手を挙げ、指を指す。その先には、魔王城がそびえ立つのみだ。「嘘つきを見つけた」

「……嘘だと?」

 サヴァリアがうめく。それを無視して、セピアは後ろに顔を向けた。

「ユミカ、きみはこういう古いものが好きだったな。この城の建築様式がわかるか?」

「う、うん」ユミカは戸惑いながら答える。「独特な意匠の格子が入った丸窓がいくつもあって、左右に尖塔。全面的に黒塗りの壁面。典型的な古ゴルサルド様式だよ。三〇〇年くらい前に流行したんだって」

「様式の名前については、わたしはよくわからないが。ラーナ、昨日の夜、わたしたちが山の麓で話したことを覚えているか?」

「さっきも話したけど」ラーナは思い起こすように視線をあげた。「いよいよ最終決戦ね、って話をしたわ。だから今日は早く寝ようって」

「そのとき、わたしたちは山のほうを見ていた。覚えてるか?」

「ええ。あそこに塔が見える、って白亜の塔を――」

 言いかけて、ラーナは硬直した。目前にそびえる魔王城は、その威容はすべてが黒く、白い塔などどこにも見当たらなかったのだ。

「……見間違えたのかしら。確かに白い塔があったと思うんだけど」

「わたしも見間違えたか勘違いをしたのかと思ったよ。だが、それが間違いではなかったと考えてみると、腑に落ちるものがあった」

「どういうことなの? 私たちが麓から見た城は、魔王城ではなかったってこと?」

「この近距離で別荘というのは、庶民感覚からするととんでもない話だが、別棟か離宮のようなものだも思えば納得もいく。わたしはこう考えた。この黒い城こそが別棟であり、あの白い城こそが魔王城なのではないか、と。わたしたちはまだ、魔王城に辿り着いてもいなかったんじゃないか?」

 返事はない。

 でも、と声をあげたのはギーだった。

「僕たちはサヴァリア自身の案内でここに来たんだよ。彼が間違えるはずがない。その白い塔のある城こそ、別棟だったんじゃない?」

「もちろん、その可能性もある。しかし、ここが偽物の魔王城だと考えてみたら、この事件の全容が見えた」

「聞こうか」

 あっさりと言ってのけたサヴァリアは、剣で縫い止められていてなお、泰然としていて揺るぎない。それでもセピアはひるまず、語り続けた。

「ギーの指摘に反論するなら、まず魔王はわたしたちの道案内を間違えたわけじゃない。彼は初めから、勇者一行をこの城に案内するつもりだったんだ。わたしたちが麓に到着する前からだろう。おそらく彼にとって誤算だったのは、わたしが野営した場所を離れて、一人で山なんて見上げてたことだ。野営地から、あの白い塔は見えなかった。わたしが感傷に浸って一人で離れてしまったせいで、本物の城が見えてしまった。連絡をもらった魔王は大いに焦っただろう。仕方なく姿を現し、予定を早めてこの城へ案内したんだ」

「連絡?」ラーナだった。「魔王は誰に連絡をもらったの?」

「わたしたちの地図役だ。城が見えず、しかし地図上では魔王城の近くに野営するよう誘導する。そんなことができるのは彼しかいない」

 ヤーイント・セラを出たときから地図係を担当していた吟遊詩人カナタは、狼狽しながらも否定的に首を振った。

「セピア。いえ、バルドラスと呼ばせてもらいましょう」吟遊詩人は穏やかに言う。「バルドラス。私は確かに、勇者一行とは呼べません。しかし仲間のつもりでした。ラーナのことをかばうため、私を生贄に差し出すのが、あなたの言う仲間の所業なのですか?」

「そうでもない。わたしはきみに非があるとは考えていないからな」問いかけるカナタの目線に、セピアは続けた。「わたしには、カナタと魔王が結託したという証拠があるわけじゃない。ただ、そう考えないと成立しない。カナタがどの時点で協力を始めたのかはわからないが、おそらく王都を出た時点ではなかっただろう。彼はわたしたちを最終決戦の場まで案内し、魔王城が見えない場所を野営地に定めた。しかしわたしが本物の魔王城を見つけてしまったせいで計画が狂い、カナタは急いで魔王に連絡をつけた。例の、文書を飛ばす魔法だ。連絡を受けた魔王は大急ぎで下山し、わたしの前に姿を現し、計画を前倒しにするしかなくなった」

「俺が、わざわざ自分の娘を誘拐して、おまえらにお報せしたってわけだ」

 魔王は皮肉げな笑みを見せた。

「きみはアニャエルを誘拐していない。一つずつ検証していこう。わたしたちは城に招き入れられアニャエルを探した。わたしはこのとき厨房も探索しているが、アニャエルの遺体は見ていない。脅迫状が見つかると、そこには二つの条件が記載されていた。大金を用意することと、『旅路』の最終決戦で魔王が勝つこと。わたしたちはアニャエルの行方を追うため、我々の『旅路』について語り合った。その途中で、彼女の遺体が厨房から発見されたわけだが……それではなんのために誘拐したのかという疑問が残る。せっかく脅迫状まで出したのに。わたしが誘拐犯なら、アニャエルがなんらかの事故で死んだのだとしても、目的を果たすまでは秘密にしておく」反論はない。「遺体を隠しておけない事情が発生したのか。だとしても彼女の遺体はばらばらにされていたはずだ。隠しやすいはずのそれをつなぎあわせて、わざわざ目立たせる意味はない。それなら、遺体を発見させる必要があったんじゃないか? そう考えた。脅迫も誘拐も無意味にしてしまうが、それでもなお、遺体は発見させなくてはいけなかった。目的は一つだ」セピアは言葉を吟味するように慎重に紡ぐ。「ただ、わたしたちを驚かすため。死体、それもばらばらの死体を見せつけることで得られるに違いない効果だ。あれはわたしたちの意気をくじくため、衝撃を与えるため、精神的に追い詰めるためだけに配置された。実際、効果はあったんだ。何もかも手遅れで、今までの旅路がすべて徒労に終わってしまったという無力感すら抱いた。それが狙いだったんだろう。この事件の犯人の目的は、アニャエルの誘拐でも、殺人でも、大金でもない。時間稼ぎだ」誰もが、ただ耳を傾けていた。「もともとの計画では、アニャエルの死体が発見されたというところから始まるはずだったのかもしれないな。今日になって、カナタによって案内され、わたしたちはこの城にたどり着き、そこで最終決戦どころじゃない、死人が出てるんだと知らされる……そういう筋書きだったんだろう。だが前倒しになったことで、予定よりも時間を稼ぐ必要がでた。そこで脅迫状が用意され、アニャエルの遺体は一時的に隠された。とっくの昔にばらばらなっていたパーツが、厨房には隠されていたんだ。わたしは厨房を一度調べたが、その時にジャムの瓶のようなものを見ている。中が見通せない色の濃い瓶だ。そういうものに分散して隠していたんじゃないかな。わたしたちは魔王の言葉に従い、食堂で顔を突き合わせて議論をした。アニャエルがなぜ、誰にさらわれたのかをあぶり出すためだ。――しかしこの議論自体も、時間稼ぎだ。最終決戦の予定時刻よりあまりに早く事件が起きてしまうと、何かしらの対処を行われる可能性が高かった。委員会から連絡があり、わたしたち自身による精力的な調査が行われるかもしれない。しかし、わたしたちが心身に疲労を蓄積した頃――たとえば仲間に疑いが向き、雰囲気が荒れた頃に、衝撃的な遺体が発見されれば、絶望を与えられる。その時間稼ぎに――わたしたちの意気を消沈させることに、なんの意味があるか。これは明白だろう。『勇者の旅路』の最終決戦を行わせないためだ」寒さを忘れるほど、体が熱を発している。セピアは白い吐息をする。「何もかも全部そのためだったんだ。城を誤認させたのも、長い議論も、ばらばらの遺体を用意したのも、わたしたちに『もう最終決戦どころじゃない』と思わせるためだった。『勇者の旅路』最終決戦が今日行われることは、全世界に知られている。世界中の人々が楽しみに待っている。それをなんの報せもないまま、突如中止にする。するとどうなるかな。事情が判明すれば、後日決戦をやり直すかもしれない。いやきっと、そうなるだろう。それでもきみは、たった一日でも、彼の面目を潰して恥をかかせることができる。歴史に類を見ない大失敗をやらかした者としてね」

 魔王の目を見つめても、そこに感情は読めないが。

 セピアはその人の名前を呼んだ。

「違うかな、アニャエル?」


 ◇


 それは、そこにいないはずの人の名前だった。しかし声も目も、紛れもなく正面に座る魔王へと向けられている。

「俺が娘に見えるなら」魔王は億劫そうに開口した。「目医者に行ったほうがいいぞ」

 ちらと背後を見ると、仲間たちも困惑の眼差しを向けてきていた。

 セピアは思わず苦笑する。

「幻装魔法だよ、アニャエル。ヤヌの里で起きた事件で、天才魔法使いハリギュラが用いた高難度魔法。人の姿を模すことができる。その代わり、発動も維持も非常に難しく、術者本人が抱く対象のイメージから外れるだけでも、魔法は壊れてしまう。きみは幻装魔法を利用した――というより、その魔法を手に入れるためにヤヌの里にいて、ハリギュラと話していたんだ」

「それは随分と、妄想が過ぎるんじゃねえか?」

 嗤うような魔王の声に、セピアはおとがいを浅く引く。

「確かに、推測に推測を重ねていてほとんど妄想だとは思う。しかしこの妄想なら、一晩で山のように積もった疑問に一応の筋が通るんだ。きみがアニャエルであれば、誘拐の手法は問題じゃない。三重防壁なんて初めからなく、城の内外どちらでも犯行は行われていなかったわけだ」挑むような魔王の視線を、セピアは正面から受け止める。「『勇者の旅路』はわたしたち勇者一行が技倆においても、精神面においても成長する旅でもあったが、きみは同じ道を辿りながら同じように成長してきた。王都でわたしに声をかけたときから、きみはただ『旅路』の最終決戦を失敗させるためだけに行動してきたんだろう」

「でも、セピア」焦ったような声で、ラーナ。「仮にサヴァリアがアニャエルの幻装魔法だとして、厨房で見つかった遺体はなんなの? あなた自身、ついさっきばらばらにした遺体を隠していたんだって言ったじゃない」

「正確に言えば、それは遺体じゃなかったことになる。アニャエルはわたしたちと旅路を同じくし、そこでこの計画を考えて練ってきたんだ。印象深いできごとなんていうのはお互い同じようなものだった。ヒントはすべて、この一晩の議論に中にあったんだ」セピアの視線はユミカへ向かう。「ユミカがアニャエルに会ったリンテの街での事件を覚えてるか? 『姿形が美しいことは当然。魂までも宿ったかのような壮絶な完成度は、そこに誰かがいるのだと錯覚せざるを得ない』――というのはカナタのレポートだったな」

「魔法人形……!」ユミカが目を見開く。「街で将校を襲っていたあれが?」

「そうだ。人と見間違うほどのできだったろう? あれを使えば流血も問題じゃないし、ばらばらにするのも繋ぎ合わせるのも、生身に比べれば非常に簡単だったはずだ」

「私たち、みんな人間と人形を見間違えたの?」

「もともとそれほどの完成度だったが、それ以上にわたしたちが動揺していたのは否定できない。ましてばらばら死体であるように見せかけられたからな。それにあの遺体だと思っていたアニャエルを間近で見たのは、魔王とカナタだけだ。厨房ではとても近づくどころじゃなく、アニャエルの部屋に行ってからは近寄らないよう釘を刺された」

「俺が、わざわざ仕掛けのヒントになるように、おまえたちと議論を交わしていたってわけか? あまりにも間抜け過ぎるだろう」

 魔王の反駁にも、セピアはうろたえはしない。

「確かにきみの計画のヒントはあまりにも多かったことになる。でもきみはそれをとめることはできなかった。それが幻装魔法だ。きみのイメージするサヴァリア・ラグは、娘の誘拐に対して座して待つことをよしとせず、検証を重ねて自ら助けようと行動する。そういう人だった。計画のヒントになるからと、委員会への通報のみで様子見なんかしてしまったら最後、幻装は砕けて消える。わたしがアニャエルの部屋に行ったときもそうだ。サヴァリアならどうするか、きみには想像がついてしまった。娘の死に気力をなくし、それでも諦めきれない父親の幻想を、無視することはできなかった」

「だとしたら」吐き捨てるような声だった。「なぜ、そこまで娘を思っている父親だと知っていて、陥れる必要がある?」

「さぁ。それこそ推測にしかならない。きみが言ったんだ、動機なんかいくらでもでっちあげられると。ただ、それでも推測するなら、やはりきみ自身が語っていたことが理由なんだと思う。初めに魔王に選出されたという母親を、きみはサヴァリアに殺されたのだと思っているんじゃないか? もしかしたら、サヴァリアが魔王の地位を手に入れるために母親に手をかけたのだと考えているのかもしれない。それなら、最後にもっとも活躍するはずの大舞台で、大恥をかかせるというのは、確かに復讐めいている」

 ふん、と魔王は鼻を鳴らした。

「勇者が聞いて呆れるな。その説が成立したからといって、そうしたとは限らないだろうが。仲間を疑ってまでひねり出した結論がそれか」

「わたしは」カナタを見やる。「初めから仲間を疑っていない。カナタはわたしたちの中で唯一、特殊な立ち位置だから、きみに利用されたんだ」

「特殊な立ち位置、ですか」カナタは顎を手でくるむ。「勇者一行ではないから、ということでしょうか」

「いいや。君は、男なんだ」

 予想外の返答に、カナタは眉根を寄せる。

「……はぁ。確かに男ですが」

「わたしは男のふりをした女だし、ラーナとユミカは間違いなく女だ。それにギーは」視線を向けると、ギーは静かに頷く。「体は男だが、精神は女のものだ。唯一、カナタ、きみだけは男の体に男の精神なんだ」

 ラーナとユミカが驚愕の表情でギーを見ていたが、それに構う暇はない。

「それがどうしたというのです?」

「食堂で話しているとき……ユミカの話だったな。アニャエルは誘惑の魔法を使っている可能性が高いという話になっただろう。ギーには別で話を聞いたんだが、わたしたちの仲間に入る前から彼女に声をかけられ、協力をもちかけられていたそうだ。しかしギーは女性だったせいで、誘拐の魔法が効かなかった。唯一、それが効果を与えられるのが、カナタ。きみだけなんだ」

 おそらく、ユミカはその嗜好のせいでアニャエルの誘惑魔法をかすかに感じ取っていたのだろう。しかし術がかかるほどの影響は及ぼさなかった。誘惑魔法が、異性の本能を刺激する魔法だからだ。

 カナタは懐疑的な視線で自らを見下ろす。

「私が、操られていたということですか」

「自覚はないものなのかな? たぶんきみは、この事件について委員会への連絡をしていない。地図役で運営側という、アニャエルからすればもっとも都合がいい相手がきみだった。魔王が攻撃され、魔法の制御ができなくなった途端、きみから何か目に見えないものが失われただろう。それが何よりの証拠だ」

 ユミカに支えられながら立ちあがり、カナタは自らの胸に手を当てた。誘惑魔法の効力がどれほど協力なのかは知らないが、少なくとも痛みを覚えるほどには、彼の精神に影響を与えていたようだ。

 いい加減、寒さが肌に染みてくる。昂揚していた気分も収まりつつある。

 セピアは口早に続けた。

「見方を変えてみると、違う風に見えて来るものもある。家人がいなかったのは決戦が近いからではなく、初めからこの城には勤めていなかったから。薄く埃が積もっているのは、最近手入れがされていない城だから。ユミカには、血の繋がりなんてもので父を嫌っていた自分を恥じる――と言ったらしいが、それもこう言い換えられる。――血が繋がっているかいないかなんて些細なことより、もっと大きな理由で父を憎んでいる」

「くだらない」

 と、魔王は言った。途端に、ラーナが、ユミカが、ギーが身構える。魔王の周囲の空気が歪む。霊子が魔力に変わる。それは魔法の前兆だった。

「こんなくだらない幕切れとはな」

「今の話を認めるんだな」

「所詮は妄想。言いがかりだ――とはね退けたいところだが。そこまでわかっているなら、おまえの説の証明がいかに容易かもわかっているんだろ」

「アニャエルの遺体を調べればいい。間違いがなければ、それだけで終わる」

 儚げな、諦めにも似た感情が魔王の吐息に漏れる。

「たった一日、おまえらを――」首を振り、続けた声はすでに歳若い女性のものへと変わっていた。「――ここに留めておくこともできないなんてね」

 その姿は、叩き壊したジグソーパズルのように崩壊を始めた。

 痩せぎすの壮年の体がばらばらと崩れ、霧のように霞んで消える。中から現れたのは、まだ十代の半ばに過ぎない黒髪の少女だった。

 拒むように固く閉ざした両目を開くと、まるで陽に透けた血液のような、ルビーの瞳が現れる。いまだあどけなさを残す端正な顔立ちに、浮かぶ表情は大人びた諦観である。

 幻装魔法が砕けるとともに、彼女の周囲に漂っていた霊子は鎮静された。

「アニャエル……」呼びかけたのは、一歩進み出たラーナだった。「あなたは、お父さまが、サヴァリアがあなたを愛していることを知っているんでしょう……? でなければ、あなたの死を前に崩れ落ちた彼を演じたとき、すでに幻装魔法は壊れていたはずよ」

「それなのになぜ、って?」アニャエルは妖艶とすら言える凄絶な笑みを広げる。「あの人の気持ちなんてどうでもいいのよ。私はただ、悲しかっただけ。母を亡くして」

「けれど、こんな形で貶める必要なんて――」

「必要だからやってるわけじゃないわ。私がしたいからしただけなの。あの人の何もかもが憎いわけではないけれど、何もかもが許せるわけじゃない。母を殺したんだもの。不名誉くらい、背負ってもらわなくちゃ割に合わないでしょう」

 十代のなかばだという少女がこぼすには、幼さの乏し過ぎる述懐だった。ラーナはかけるべき言葉を見失って、開いた口はあてもなく閉ざされる。

「私の負けよ、勇者。この上で見苦しく、あなたたちの妨害をしようとまでは思わないわ。ただ、一つだけ聞かせてもらえる? あなたはどうしてラーナを疑わなかったの?」

 ああ、とつぶやいてセピアは照れたように拳を口元へ当てる。

「言うなれば、きみと同じだ。確証があったからじゃない。わたしがラーナを信じたいから、信じただけなんだ」

 朝日が銀の剣に反射して、アニャエルのさみしげな横顔を照らす。

「そう」彼女は目をつむり、浅いため息をついた。「やっぱり、あなたは勇者なのね」

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