第一章

 食堂には、真新しい純白のクロスに覆われた長机が一つ鎮座していた。

 厨房側の端に魔王が腰かけ、正面に勇者が座った。左右にはそれぞれ、魔法使いと癒し手、格闘家と吟遊詩人が二人並んで着席する。

「まぁ飲め」

 魔王が机に置いたのは、ワインのボトルだった。人数分のワイングラスもある。

「こんなときに酒など」

「落ち着け、勇者。気つけみたいなもんだ。冷静じゃいられない状況だからな」

「あのー」癒し手がおずおずと手を挙げる。「私、お酒弱いので……」

「そうか。水でいいか?」

「あ、はい。すみません、なんだか」

「気にするな」

 魔王は自ら厨房に出入りして、水の入ったボトルを持って来る。さらに全員分のグラスを満たして目の前に置いてくれさえした。

 至れり尽くせりではあるが、落ち着かない気分で勇者は声をあげる。

「魔王。君は冷静に過ぎないか? 脅迫状が届いたんだぞ」

「だからこそ冷静に対処すべきだ。違うか?」

「いや」勇者は眉を寄せ、首を振る。「それは、その通りだが」

「その通りなら、その通りなのさ。さて、諸君」魔王は改めて席につくと、グラスのワインを一口飲み下す。「まずは自己紹介といこうか」

 勇者一行も続いてワインに口をつける。濃い赤ワインが喉を焼くようで、確かに目が醒める。

 ばん、と音を立てて、魔王が脅迫状を机に叩きつけた。

「俺から始めよう。名前はサヴァリア・アドラエール・ラグ。魔法族のラグ公爵家を預かる当主であり、今回の『勇者の旅路』において魔王役を拝命している。誘拐されたアニャエル・ラグの養父でもある」

 魔法族にたまに見る青い髪は長く、濃い金色の目は炯々と光る。長身で、骨が浮き出る痩躯だが、全身にエネルギーのあふれる男だった。年齢は三十代の前半程度だろう。

「では続いておれが」勇者が手を挙げた。「バルドラス・ギギナグールだ。ヤーイント・セラの勇者試験に合格して、今回の『勇者の旅路』で主役をやることになった」

 長い銀糸の髪を緩く一つに束ねたバルドラスは、重苦しい鉄鎧の類は身につけていない。動きやすい旅装に薄い革の鎧、腰に一振りの剣。澄んだ空のような目が正面のサヴァリアを見る。体は細く頼りなげだが、美しく整った顔立ちに浮かぶ自信は揺るぎない。

「では私が」今度は吟遊詩人が手を挙げる。「あなた方を役者とすれば、私はさしずめ裏方代表ですね。『勇者の旅路』を全世界に中継配信する吟遊詩人の、カナタ・ドロウズです」

 砂色の髪に黒の目。柔和な笑みを絶やさない彼は、勇者一行の一員でありながら、一行とはやや距離を置く存在である。

「僕は」隣に座る格闘家がぼそりと声を絞る。「ギー。格闘家」

 寡黙ではあるが、複雑な紋様の刺青が入った浅黒い肌のせいか、存在感は抜群にある。黒髪黒目で凛とした雰囲気をもち、余計なことは口にしない。

「わ、私は、癒し手の」けほ、と癒し手は咳き込む。「ごめんなさい。えと、癒し手のユミカ・アンブランです。緊張してます……。その、バルドラスとはヤーイント・セラから一緒です」

 声が消え入る。鮮やかなピンクブロンドは緩くうねり、控えめな青い目がアクセントのように光る。白を基調にしたタイトな服装は、医術を学んでいる証でもある。

 全員の目が、最後の一人である魔法使いに集中した。それを剣呑な目つきで見渡し、彼女は嫌そうに口を開く。

「何よ。こんなの必要? 納得いかないんだけど」

「何が困るんだ、ラーナ」

「バルドラス。私は困るって言ってるわけじゃないの。『勇者の旅路』に魔王の娘の救出は含まれてない、って言ってるのよ」

「とは言っても仕方ないだろう。よりにもよって、期限は明日だ。ヤーイント・セラの警察に通報しても、ここまで来るのに何週間かかる?」

「それは……そうだけど」ラーナは不満げにくちびるをとがらせた。

「おれたちは役割上とはいえ勇者一行だ。その役割をこなせるのだと、誰もが認めたからこその勇者一行でもある。誘拐事件の一つくらい、解決に手を貸してもいいんじゃないか?」

「あ――あのねバルドラス」魔法使いは頭痛に耐えるように、額に指先を当てた。「あなたの勇者気質はよーくわかるわ。でも相手は魔王の娘よ? こんなの英雄譚にはできないわよ?」

 ちらりと見られたカナタが、こっくりうなずく。

 ほら、と魔法使いは手を広げた。

「だが、ラーナ。おれたちは勇者だ」バルドラスは根気強く反論する。「少なくとも『旅路』が終わるまでは。英雄譚に語られるために勇者をやっているのか? 違うだろう。英雄譚はただの結果に過ぎない」

 苦い顔をして、魔法使いは帽子の大きなつばを指先で軽く下げる。

「わかったわよ……あなたがそこまで言うなら」不承不承という様子ではあったが、魔法使いは全員の顔を見回す。「私はラーナ・リンドール・カグラナ。見ての通りの魔法使いよ。ヤヌの里っていうド田舎に伝わるカグラナ流魔術を受け継いでるわ。たぶんうちのメンバーでは一番いろいろできるから、何かあったら言って。もうごねないから」

 ショートカットの金髪に、新緑の瞳。二十代半ばだが、顔立ちはやや幼い。魔法使い特有の、肌を露出しないローブに身を包んでおり、屋内でもつば広の三角帽子を離さない。ラーナはそんな女性だった。

「さて、それじゃあ始めるか」サヴァリアは脅迫状を全員に見えるように広げる。「娘のアニャエルが誘拐された。くしくも勇者が言ったように、警察の到着を待つほど悠長に構える時間はない。そして俺たちには、『勇者の旅路』最大の見せ場である最終決戦が、明日に迫っている」

「その最終決戦であなたが勝つことが、条件の一つだったわね」

「言うまでもないが――」

「わかってるわよ」ラーナは不満げにくちびるを尖らせる。「あなたの勝利を条件にしてるから、犯人があなたの味方――ってわけじゃない。当然よね。魔王が負けることで『旅路』は完結を迎えるんだもの」

「そうだ」サヴァリアはうなずく。「当たり前だが、俺は明日の戦いで勝とうなどとは微塵も考えてねえ。三〇〇年も前の、本物の勇者と魔王がいかに愚かしく争ったか――それが主題の『勇者の旅路』で、歴史と違う結末を迎えるわけにはいかないからな」

「ということは、『旅路』を妨害することで利益を得る者が、あなたの娘さんをさらったとも考えられますね」

 カナタの指摘に、サヴァリアはつまらなそうに鼻を鳴らす。

「利益ってのがどういうものかはわからんが、そういうことだ。権益か金か、あるいは妬み嫉み逆恨みまで可能性がある。俺たちが大失態をさらすことで気分がよくなるってだけでも動機としちゃありえる」

「それではなんの手がかりもつかめない」

 顔をしかめたバルドラスに、魔王は脅迫状を放る。

「その通りだ。だから動機は無視する。誰にどんな理由があるとかないとか、そんなことは考えない。つまり」サヴァリアは勇者一行を睨むように見据えた。「おまえらも容疑者。そういうことだ」

 苦い空気が流れる。ラーナとユミカは顔を見合わせ、カナタは苦笑した。

「疑われるのはこの際、仕方ない」バルドラスは脅迫状を見下ろしながら言う。「しかし、おれたちの中に犯人がいると決まったわけじゃない。この城で働いている人たちは?」

「もう三日も前から、この城には俺と娘だけだ。最後に娘を見たのは、今朝のことだな」

「アニャエルさんはなぜここに?」

「勇者との対決を見たいと言ってな。伏兵としての参加もおもしろいかと考えたわけだ」

 ラーナとユミカがわずかに息を飲んだ。

「勇者一行と魔王の戦いは打ち合わせなしの一発勝負。どんな展開になるかは蓋を開けなければわからない」バルドラスは噛みしめるようにつぶやく。「仲間を連れた魔王も、過去にはいた。おかしなことではないが……アニャエルさんは戦闘能力があったのか」

「魔法使いだ。俺と同じく。もちろん、俺には遠く及ばないが」

「魔法使いの誘拐となると、並大抵のことではないな。いかに不意をついたとしても簡単じゃない。そんなことが可能なのは――」

「そうだ。たとえ先に退避していた使用人を含めて考えても、俺とおまえたちだけになる」

「わからないわよ」ラーナが反論する。「その娘を誘拐して、山のどこかに潜んでる犯人がいるのかもしれないわ」

「仮にそうだとして」サヴァリアが冷静に言い返す。「今、世界中を見回して最高峰の魔法使いがここにいる。俺と、ラーナ・リンドール、おまえだ。さらに魔法族まで聞こえし聖拳士ギー。神器に選ばれし勇者バルドラス。これだけ相手取るには厄介な連中が、一堂に会する寸前だった。そのタイミングで犯行に及ぶ理由はなんだ? 俺なら、もっと前に誘拐する」さらに、と続けた。「最終決戦を邪魔されないよう、城の周りの警戒は平時の比じゃない。これをかいくぐり、魔王の娘を誘拐して勇者一行に何も勘づかせない。これだけの条件が揃えられる達人が在野にいるとは考えにくい」

「いや」短い否定。ギーだった。全員の視線が集中する中、格闘家は淡々と告げる。「僕ならできる。バルドラスもラーナもユミカも。カナタには難しい」

 除外された吟遊詩人が肩をすくめた。サヴァリアはにやりと笑う。こんな場合だというのに豪胆な、余裕すら感じる笑みだった。

「ま、そういうこった」

「気分のいい話じゃないわね」

 ラーナは顔をしかめる。隣のユミカも、口には出さないが不安を感じている。バルドラスは居心地の悪さをごまかすように身じろぎして、サヴァリアへ視線を戻す。

「しかし、おれたちがこうして机を囲んで話して、犯人が特定できるのか? 何も手がかりはないし、時間は残り少ないんだぞ」

「他にどうしようがある」

「まずは条件の一だ。二〇〇億ゴルドというとすさまじい大金だが、どうにかなるのか?」

 ちら、と勇者の視線は癒し手に向かう。ユミカは困ったように首を振った。

「私たちの路銀は、もうあんまり多くないよ。お金になりそうなものをすぐ売っても、たぶん三〇〇万くらい」

「おまえたちに金を求めてるわけじゃない」サヴァリアは苦笑気味に言う。「すでに銀行家には連絡した。城と土地を叩き売れば、ぎりぎりなんとかなるさ。十八時というのが、最終決戦が始まる予定時刻なのが嫌らしいな」

「お金持ちぃ」

「でもない」ラーナの歓声にかぶりを振る。「明日までに即金で買う奴を探すのは困難だからな。二束三文で足元見られまくりだ。公爵の称号も返上になるだろうよ」

「なおさら、身代金と交換して終わりというわけにはいかないな」

 バルドラスの言葉に、魔王はわずかに笑う。

「そうできればありがたい。さて、手がかりのことだが」

 サヴァリアは懐から円筒状に丸められた紙を取り出すと、机の上に大きく広げた。それは勇者たちも見慣れた、大陸地図である。

「娘のアニャエルは、おまえたち勇者一行に強い興味をもっていた。魔法族の領地から出て、頻繁に旅をしていた様子もある。つまり娘はおまえたちに接触した可能性が高い」

「それも、おれたちを疑う理由の一つか」

「まあ、そういうことだな。だが、もしこの中に誘拐犯がいたとしても、全員が共犯とは考えにくい。ここまでの旅路を無駄にしたがる奴が多いとは思えねえしな」

「……ようするに、犯人がこの中にいるのなら、炙り出したいってことね」

 ラーナは神妙な顔でつぶやく。

「そのために、おまえたちからは『旅路』について語ってもらいたい。印象に残っている少女がいればなおさらだ。アニャエルが何をしようとして、誰と接近していたのか……。それだけが手がかりだ」

 サヴァリアの指先が、地図の一点を指し示す。

「王都ヤーイント・セラ」バルドラスが応えた。「それなら、まずはおれから話そう」


 ◇


 どこから話せばいいかな。最初から? 悠長過ぎないか?

 ……そうか。おれたちの中に犯人がいれば、当然嘘をつくわけだ。語る内容が多いほど、その嘘が露見しやすいというわけだな。

 では、最初から話そう。

 おれ、バルドラス・ギギナグールは王都ヤーイント・セラ出身の剣士だった。どこにでもいるありふれた、と言ってもいい。今の時代、剣士の就職先というと王都の騎士学校を出て士官するか、地方の貴族に雇ってもらい傭兵となるか、あるいは民間委託の警備員にでもなるしかない。おれはどれも選ばなかった。

 『勇者の旅路』が近づいていたからだ。

 勝算があったわけじゃない。ただ、おれには英雄願望が少なからずあった。架空の英雄譚には幼い頃から心躍らせたし、それこそ三〇〇年前の、本物の勇者の旅路の記録にもわくわくした。格好いい、おれも英雄になりたい、という思いがずっと燻っていた。しかし今は暗黒の中世時代ではない。魔法族と人間は手を取り合い、よき隣人として交流をもっている。三〇〇年前の勇者のように、見かけた魔法族を片っ端から切り捨てるのは、当時は英雄行為だったとしても、今となってはただの犯罪でしかない。

 しかし『勇者の旅路』があった。

 おれは胸を高鳴らせながら、ヤーイント・セラの王城へ向かったよ。勇者選抜試験が行われる会場だったんだ。

「勇者志願者ですね」鎧を着込んだ若い男の兵士が、おれを上から下まで眺めた。「ふむ……。大丈夫でしょう。こちらの用紙に必要事項を書き込んで奥へ行ってください。あちらのテーブルに筆記具が揃っています。はいこちら整理券」

 ひとまず胸を撫で下ろした。勇者になるには厳しい選抜試験があるが、その前には年齢、身長、体型なども審査されるんだ。多少太っているとか痩せている程度なら最終決戦までにトレーニングで補えるんだが、あまりにも体格がよ過ぎたり、旅をするのにも困難な体力だろうと判断されると、その時点で落選する。特に最終決戦は映像にも残るから、ある程度の見栄えも気にしているらしい。

 おれは申込用紙に細かいことを書き込んで――身長、体重、経歴、特技、志願理由とかだな――奥へ向かった。試験会場にはすでに何百人、もしかしたら何千人の男たちが控えていて、兵士たちがみんなの申込用紙を回収していた。それが終わると、奥から兵士たちに守られた、貴族然とした壮年の男が出てきた。国王だったよ。

「諸君」王はよく通る声を張りあげた。「この度は、勇者選抜試験への応募、まずは礼を申しあげる。今回で第七十八回となる『勇者の旅路』は、通例通り人間と魔法族混合の運営委員会によって取り仕切られ、歴史あるヤーイント・セラの都より始まる。ここに集まった大勢の中からわずか一名。委員会によって勇者として相応しいと判断された、ただ一人の猛者だけが、『勇者の旅路』に旅立つことができる」ごほん、と一つ咳払い。『旅路』とは、と王は演説を続ける。「魔法族との融和を尊び、平和を愛する者たちが、過去の愚かな戦を忘れぬための式典として始めたものである。三〇〇年の間に手法はさまざまに変化を遂げてきたが、決してその信念は変質していない。戦を模したものではあるが、これは式典であり、儀式であり、運動競技であり、今や興行であり、娯楽でもある。私はもっとも優れた戦士が勇者として選出され、公平に世界中の人々に勇姿を魅せつけてくれることを望む」

 ようするに、『勇者の旅路』とは壮大な演劇のようなものだ。三〇〇年前の戦いに倣いながらも、これは戦争ではなく娯楽。命は賭けず、誇りを賭して戦を演出する。勇者とは、その人間側の主演俳優に過ぎず、脚本の大筋は始まる前から決まっている。

 勇者選抜試験は長く厳しいものだったが、それをすべて語る必要はないだろう。そうだ、魔王。君の娘のアニャエルはもちろん女性だろう。勇者には、男でなくてはなることはできない。アニャエルが試験に参加していれば目立つことこの上ないだろうが、少なくともおれ自身は試験中に女性の姿をまったく見かけていない。

 体力、知力、剣技、魔法力。そして協調性や正義感といった性格面まで審査は及んだ。審査だけで一週間。結果を待つのにさらに二週間。おれの何が委員会の評価を得たのかはわからないが、とにかく結果、おれが勇者に選ばれることになったんだ。

 暇潰しと生活費稼ぎに警備のバイトをしていたんだが、知らせが飛んできたときは何かの間違いじゃないかと思ったよ。ちょうど夜勤明けだったから夢でも見てるのかとね。

 とにかく、そうしておれは勇者になった。国王に呼ばれたり、装備を整えたりとやることは多かった。そういえば、支度金をもらって城から出たときだったな。待ち構えていた女の子に花をもらったよ。一抱えもある大きな花束で、色とりどりで綺麗だった。

 ん、その子? いや、おれは別に連絡先の交換なんてしてない。まあ、かわいい子ではあったが、少し幼い感じだったよ。そうだな、十四、五歳じゃないか。見た目? そんなに細かく見てたわけじゃないからな……。確か、長い黒髪で……声が特徴的だった。かわいらしい感じで。しかしもう一年も前のことだから、曖昧だぞ。

 ……アニャエルかもしれない? ……いや、特に変わったことを言われた覚えはない。

「おめでとうございます」少女は花のように笑顔を広げた。「あなたが勇者さまですね。どうぞ、花をお受け取りください。長くつらい旅路となることでしょうが、決して折れぬ心でやり遂げてくださいませ」うやうやしく花束が差し出される。

 おれはそれを受け取って礼を言った。誓って、それだけだ。

 それから、王国が選出した二人の仲間と顔を合わせた。ヤーイント・セラ随一の癒し手ユミカと、『勇者の旅路』のレポートを担当する吟遊詩人カナタだ。

 ユミカは勇者選抜試験とは別で、王国に関係する医療機関の中から推薦されて抜擢されたんだったな。彼女のアンブラン流医療魔法は素晴らしいの一言だ。命のやりとりがないとはいえ、殺陣もやれば旅路も険しい。医療面でのバックアップは欠かせない。

 カナタはユミカと違って、戦いや、彼自身が紡ぐ英雄譚に登場することはないが、大切な仲間には違いないよ。『旅路』そのものには干渉しない約束になっているが、ヤーイント・セラを出てすぐに地図役を申し出てくれた。ちょうど、この世界地図を広げて、道案内してくれることになったんだ。

 そうしておれたちは王都ヤーイント・セラを出た。

 大陸北端に位置する、魔王城を目指して。


 ◇


「ほぼ間違いなく」渋面の魔王サヴァリアはうなるように声を出した。「その少女が、娘のアニャエルだ」

 空になったグラスを無意識に傾けながら、バルドラスは首をひねる。

「勇者一行に興味があるとは聞いたが、随分と熱心だな。合格してから、王国関係者以外では一番に話しかけてきたぞ。おれはてっきり、国が用意した花かと思っていた」

「俺も予想外だ。が、アニャエルは思い込んだら一直線なところがあるからな。どういうつもりでおまえに接触したのかわかんねえが……」

「それが誘拐に関係している可能性もあるか?」

「『旅路』の失敗という条件と、おまえたちの城への接近を待っての誘拐。まず間違いなく、犯人は俺だけではなく、おまえたち勇者一行のことも意識している。アニャエルの意図も関係ある可能性は高いだろうよ」

「そうか……。話を続けよう。次におれたちが訪れたのは――」

「待って」と制止したのは、魔法使いラーナだった。全員の視線が集中する。彼女は帽子の広いつばを指先で下げた。「最初に訪れた場所といえば、ヤヌの里でしょ? それなら、今度は私が話すわ」

 バルドラスがうなずく。癒し手ユミカが席を立ち、サヴァリアからワインボトルを受け取ると、全員のグラスに注いで回った。それが終わるのを待ってから、ラーナは口を開く。

「バルドラスたち勇者一行が――『勇者の旅路』が最初に目指したのは、私が生まれ育った小さな集落――ヤヌの里だったわ」


 ◇


 ヤヌの里は魔法使いたちが集まる隠れ里みたいなものよ。別に物理的、あるいは魔法的に隠れているわけではないから、誰でも訪れることはできるんだけどね。よその街との交流は乏しいし、王都からの提携のお願いとかは全部はねつけてる、ようは頭の固い古い魔法使いたちの隠れ家って感じね。

 魔法族側も承知してるでしょうけど、『勇者の旅路』において勇者一行はさまざまな障害にぶつかるわ。三〇〇年前、当時は魔族と呼ばれて敵対していたあなたたちの祖先は、人間の集落をさまざまな方法で苦しめていた。それを再現するわけね。

 といっても、田畑を荒らしたり村人を殺したりなんてことをしたら、今では立派な犯罪。だから『旅路』が始まる前に、世界中の村や街の中から魔族襲撃予定地を選別することになるわ。畑一つにつきいくらとか、家屋一軒につきいくらとか、評価額が決まっていて賠償金が支払われるのよね。毎回襲撃されたい村や街が多過ぎて抽選になるそうよ。『旅路』の運営委員会には世界中から強力なスポンサーが多数ついてるから、賠償金の総額は天文学的数字になるのね。

 ……ええ、私たちがもらう報酬よりずっと大きいわね。

 別に、文句を言ってるわけじゃないわよ。

 ヤヌの里も、襲撃予定地に立候補した村の一つだった。

 里は優秀な魔法使いを世界中に送り出すことで名を馳せている。魔法族を含めても稀に見る精度の育成機関ともいえるわね。癒し手についてはヤーイント・セラに一歩劣るけど、それ以外の分野について負け知らず。あらゆる生活魔法、特定の分野の専門魔法、娯楽魔法、そして戦争魔法も。もともとは魔族との戦のために成長した技術だから、どうしても戦争魔法が頭一つ抜けてる印象がある。

 そんなヤヌの里が襲撃予定地に立候補した理由はね、ありていにいえば、村興しよ。

 魔法使い育成っていう特殊技能のおかげで名前だけは有名だけど、里は人材不足に喘いでる。前回の『旅路』でも魔法使い役は里から出すことができたけれど、二連続で同じ人を出演させるわけにはいかないし、かといって優秀な人材が溢れるほど残っているわけでもない。全盛期には世界の魔法使いのトップ三割が里出身なんて時代もあったのに、今では全体の二割を保つのが精一杯なの。前時代的な教育方針に子供たちがついていけなくなったとか、育てる側の慢心だとか、マニュアル化し過ぎたせいで個人の意識が低下してるとか、原因はいろいろ語られるけど、まあ全部当てはまるってところね。

 里はとにかく世間の知名度と好感度をあげる必要があった。今後のことを思えば、賠償金だっていくらでも欲しかったでしょうね。だから襲撃予定地に立候補して、さらに『旅路』に同行する魔法使いを出そうとした。

 けれど――そうね、バルドラス。そううまくはいかなかったわ――。

 勇者一行が来る、ちょうど一週間前の晩。里ではカンヴァーナが開かれた。古い言葉で、寄り合いとか話し合いとか、そんな意味らしい。里長を含めて権力のある大人たちと、魔法使い。そして彼らの弟子が一つの家に集まって開かれる会議のことだ。私も弟子の一人として参加して、里長の屋敷で車座に座った。

「さてついに、久方ぶりに勇者殿のご訪問を迎えるわけだが」口火を切ったのはたっぷりの白ひげを蓄えた里長だった。「この度の『旅路』において、里は魔族の襲撃を受ける手はずとなっておる」里長は威厳を誇示して話すものだから、とにかく慎重にゆっくり喋る。「勇者バルドラス殿、癒し手ユミカ殿の両名はこの難事に、里の魔法使いを加えて挑み、試練を乗り越えることとなる」里長は近くに座る壮年の男へ目を向ける。「ナオリよ」

「ええ」短い顎髭に手をやりながら、名前を呼ばれた男がうなずいた。「魔法族との打ち合わせはつつがなく。勇者一行には、私の一番弟子であるハリギュラに加わってもらうことになっております。ハリギュラ、挨拶を」

 高名な魔法使いであるナオリさんの後ろから、おかっぱ頭の銀髪が顔を出す。好奇心の強そうな金の目をきらきら輝かせて、彼女はその場のみんなに聞こえるように言った。

「ども、ハリギュラです。今回はおもしろそうなんで、魔法族側につくことにしました」

 よろしくっ、とハリギュラは満面の笑みを見せる。

「はっ?」ナオリ師が短く声をあげた。

 カンヴァーナ参加者全員が、ぎょっとした目をハリギュラに向けた。

 ――無理もないけどね。彼女は若い世代では一番の魔法使いとして里には知れ渡っていたのだもの。一応参加していた私も、勇者一行に加わるのはハリギュラだろうと疑いもしなかった。彼女が里長の孫娘であることとは関係なくね。

「いや、待て。ハリギュラよ。おまえが魔法族側についてしまっては」

 ナオリさんが慌てて弟子に声をかけた。

「ようはお祭っしょ?」遮って、弟子は気軽に言う。「あたしはおもしろいほうにつくよ。なんかね、勇者一行を困らせるためにみんないろいろ考えてんの。楽しそうだよ」

「楽しそうなどという理由でないがしろにしていい話ではない! 大体、魔法族の方々の仕掛けについても、我々は打ち合わせで確認済みだ。イレギュラーなことをされると多くの人に迷惑が――」

「師匠硬いっす」ハリギュラは顔をしかめる。「いいんだって。確認したもん。どんな問題に直面するのか、勇者一行には現地に着くまで伏せられるんでしょ。それも『旅路』の見どころだもんね。だったらアドリブ混じりはお互い様でしょ? それに仕掛ける魔法族の人たちも、人間側の裏切り者ってのはおもしろい趣向だって言ってたよ」

 んぐ、とナオリさんが声を詰まらせた。

 ――ええ、そうね。このときの私はよく知らなかったけど、ハリギュラの言うことは間違ってない。勇者は命のやりとりこそしないものの、各地でさまざまな問題に直面する。そしてそれには、答えが用意されているわけじゃない。だから直前になって出題をどう変えようが、勇者一行にはあまり関係がないことよ。

 カンヴァーナは紛糾した。腕を見込まれて里の代表に選ばれたハリギュラが、その栄誉から降りるとは何ごとか、と里長も憤りをあらわにした。でもあの子は――私より四つも歳下の天才魔法使いなんだけど――気まぐれなところがあるものの、決めたことは譲らない。勇者より魔族側のほうがおもしろそうの一点張りだった。

 翌朝から、ハリギュラは早速家を飛び出して、逗留してた魔法族のところへ行った。困ったのは里長たちと、私たち若い世代の魔法使いたちのほう。魔法族の仕掛けが変わるのは勇者が対応することだからいいとしても、ハリギュラの代わりを誰にするのかが問題だった。何しろ彼女は同世代では敵なしの天才だったし、そんな人が敵役に回ったうえで、打ち破れる人が勇者一行には必要になる。じゃあ誰かっていうと、もう熟練の魔法使いくらいしかいないわけよ。でも勇者がそうだったように、勇者一行の魔法使いにも条件が設けられてる。年齢だったら十三から三十五歳の間、とかね。里長はもちろん、ハリギュラの師匠であるナオリさんだって年齢制限を超えてしまう。

 毎晩カンヴァーナが開かれた。若い世代は誰もが嫌がった。ハリギュラの相手はしたくないし、彼女の代わりを務める自信もない。それでも指名されれば引き受ける気概はあったでしょうけど、里長たちも誰を指名すべきか決めあぐねてしまった。

 そうこうしている内に、勇者一行がヤヌの里を訪れた。ええ、そうよ。あなたたちが来たとき、まだ里から一行に加える魔法使いは決まっていなかったの。それでも魔族の襲撃は始まった。襲撃、というにはとても、緩やかなものだったけれど。

 一番初めに発覚した犠牲者はナオリさんだったわ。ハリギュラらしいわね。不安要素から潰しにきた――というよりは、一番楽しそうな相手から遊びに来たんでしょうけど。勇者たちが宿を取った夜の内に、ナオリさんは自室で襲撃を受けて死んだわ。……もちろん、『旅路』の中での話だから、死亡者役になった、とも言えるわね。

 ハリギュラと魔法族の出題は、ヤヌの里で毎晩起きる連続殺人を止めることだった。

 私たち残された若い魔法使いは、里の隅で顔を突き合わせて話したわ。集まったのは十人ほどだったわね。みんなお互いの顔は知っていて、男も女も、子供も大人もいた。私はほとんど積極的には発言しなかった。

「ナオリさんがやられたって」

「夜陰に紛れて……という問題じゃないな。争う音を誰も聞いていないそうだ」

「でもいくらハリギュラでも、師匠のナオリさんを音も立てずに倒すなんてこと」

「いやぁ、ハリギュラ姉ちゃんはとんでもないからなぁ」

「頭が回るっつーか、悪知恵が働くっつーか」

「魔法は使ってるわけだろう。痕跡を辿れないもんかな」

「ハリギュラは逃げ足の早さと痕跡消しが得意だからな」

 何人かの目がこちらを向いて、やがて全員の注目を集めた。私は眉根を寄せて、不機嫌そうな顔を作ったわ。

「何よ」

「ラーナ。君はハリギュラの行動に詳しいだろ。どんな魔法か見当がつくか?」

「知らないわよ。足音を消しても、ナオリさんは魔力を感知するでしょうし。存在を希釈すれば気づかれないかもしれないけど、そんな危ない橋……あの子なら渡りそうだけど……それじゃナオリさんを攻撃することもできないし」私は顔をしかめて首を振った。「そもそも、解決するのは私たちじゃなくて勇者さまご一行でしょう?」

 それもそうか、とみんなどこか安堵したような顔をした。

 二晩目にも別の犠牲者が出て、里長に正式な解決を頼まれたバルドラスたちは、里の中をうろつくようになったわ。解決のために動けるのは、勇者バルドラスと癒し手ユミカの二人だけ。襲撃された被害者の部屋や、その周辺を調べたようね。

 私は、『旅路』にも勇者にも興味はなかった。魔法の腕にしても、里の中では中の上くらい。間違ってもハリギュラの代わりに選ばれたりしないという確信があった。

 だからいつも通りに魔法の修練をして、家事をこなして、家畜に餌をあげて、農地に生活魔法で水をやって、同時に虫取りの魔法を――そこで、バルドラスに会った。

「すまないが、少し話を聞かせてもらえないか?」

 私は水遣りと虫取りの魔法をとめて、彼を見た。勇者が里に入っているのは聞いていたし、遠目に見たことはあったから、彼がそうなんだとはすぐに気づいたけれど、間近で見ると信じがたい気持ちもあったわね。何しろ線の細い少年のような人で、とても王国一番の戦士には見えなかったから。

「なんですか?」

「おれはバルドラス・ギギナグール。里長殿に依頼されて、連夜起きている事件について調べているんだ」

「はぁ」

「きみは?」

「……村人その一です。話っていうのは?」

「何か事件について知っていることや気づいたことがあれば、教えて欲しいんだ」

「特にないですね」

 私たち里の者は、もちろん勇者一行に正解を教えることは禁じられている。もっともこの場合、ハリギュラがどうやって夜中に物音も立てず人を襲ったのか知らないわけだから、教えようもないのだけど。

「ではきみたち里の人が集まる場所を教えてくれないか」

「集まる場所?」私は眉をひそめた。「どういう意味?」

「何かあったとき、集合する施設だ。会議や集会なんかのときに」

「カン――会議なら、里長の家に集まってます。それがどうかしたんですか?」

「それは全員が集まるものか?」

「……いえ。魔法使いとその弟子です。里には魔法に関わりない者もいますが、その人たちは出ません」

「関わりない者か。外から来た人かな」

「ええ。たとえば、魔法使いの妻になったけれど、魔法に興味のない人とか」

「魔法使いは全員集まる?」

「そうですね」

「その会合を開いてもらうには、やはり里長に言うべきかな」

「あの」私は痺れを切らして、少し声を大きくする。「何を気にしてるんですか? 事件の犯人なら、魔族でしょう。魔王軍が何か企んでるんですよ」

「そうだろうな。だがヤヌの里の魔法使いも一枚噛んでいる」

「……どうしてそう思うんですか?」

 私は声に動揺が出ないよう、細心の注意を払いながら聞き返した。

「話を聞いて回ったところ」バルドラスは腕を組んで、涼しい顔で言う。「一日目に襲われたのは、里の指導者の中でも頭一つ抜けている人だった。昨晩は、老獪な魔法使いの中でも腕利きと呼ばれる人だ。厄介な相手を選んで潰しているように思える。つまり、里の事情に詳しい」

「会議を開いて欲しい理由は?」

「誰が欠けているのか確認したい。おそらく魔族と協力している魔法使いは、会議に出てこれないと思うんだ」

「どうして? 私なら、疑われないように必ず出席します」

「うん。これは印象なんだが――里の人々は、魔族がどんな手で攻めてきているのか、本当に知らないんじゃないかな」

 事実だったけれど、認めることは許されていない。そんな決まり以上に、私はバルドラスの考えに興味をもって首をかしげる。彼は続けた。

「誰に話を聞いてもまったく要領を得ないものでね。普通、こういう謎はヒントを散りばめておくものだ。『旅路』において解かれない謎には意味がないのだから。君たちは本当に何も知らないから、何も言えないんじゃないか」

「そんな」私は不満の声をあげた。「そんな考え方、ずるいです。『旅路』の仕組みを逆手にとってる。勇者らしくないわ」

 バルドラスは私の非難に、薄く笑みを見せた。

「できることをしないのが勇者らしさだとは思わない」

 その言葉は、さりげなく出たようだったけれど、私は胸の奥を射抜かれたような気がした。

 できることをしないのが勇者らしさだとは思わない。できることをしてしていないのは私だ。魔法使いの娘として生まれて魔法に憧れ、一心に研鑽してきたはずなのに。歳下の天才に抜かされて諦めて、気を抜いて。本気にならなければ、敵わなくても痛みは少ないから、手を抜いて。里一番の魔法使いはハリギュラだからと身を引いた……。

「参考になった。里長に話をしてみるよ、ありがとう」

 この人は――少年のようなこの人は、王都の選抜試験を勝ち抜いてここにいる。この先へ向かう。私は選抜試験に向かうことすらしなかった村人その一だった。

 背を向けて歩き出すバルドラスに、私は慌てて声をかけた。

「あの、名前!」勇者は足を止め、顔をこちらに向ける。「私、ラーナといいます」

 長い髪に顔を半ば隠しながら、彼は微笑んだ。

「ありがとう、ラーナさん」

 その日、バルドラスは里長に交渉して、早速その晩にカンヴァーナが開かれることになったわ。私は師でもある母とともに出席した。

 カンヴァーナには三人の魔法使いが欠席していた。

 里長の家の広間。夜の闇を払う魔法の光がいくつも漂う中に、バルドラスは癒し手ユミカと吟遊詩人カナタを連れて現れた。

「それで、勇者殿」里長はゆったりと話し出す。「皆を集める意味とは一体……?」

「まず、誰か欠けている人はいないか確認して欲しいのです。いるとしたら理由を知っている限り教えて欲しい」

 バルドラスの落ち着いた口調。里長は車座になった一同を見回して、長いひげを弄ぶ。

「ふぅむ……。ナオリ、カガラナ、ハリギュラがおらんようだ」

「ナオリさん、カガラナさんは、夜に襲われた方でしたね。ハリギュラさんというのは?」

「ナオリの弟子よ。わしの孫娘でもある。腕利きだが、やや素行に問題のある子での」

 私は前に座る母の肩がぴくりと動くのを見ていた。気持ちはわかる。体面にこだわりがちの里長が、里の魔法使いの欠点をよそ者に話すのは珍しいことだった。

「ああ、若い世代の一番の使い手だと聞きました。なぜ欠席しているんでしょう」

「さぁの。気まぐれな奴ゆえ」

 里長の口調は淡々としているが、呆れているようにも聞こえる。ハリギュラは彼の孫娘だ。私たち以上に、彼女のことに詳しいせいだろう。

「誰か、ハリギュラさんの欠席の理由を知っている人はいますか?」

 しんと場が静まり返る。バルドラスは顎に手を当てて、その目をこちらに向けた。私はこの場で出番があるとは思っていなかったせいもあり、一瞬鼓動が跳ねあがる。

「おそらく」バルドラスは慎重につぶやく。「今晩の犠牲者がハリギュラさんなのでしょう」

 低いざわめき。カンヴァーナ参加者たちが顔を見合わせる。この場の誰もが、その推測が間違っていることを知っている。知っているからこそ、驚きではなくて、漏れ出る声は勇者への失望と、困惑だった。

 そしておそらく、それがバルドラスの答え合わせだった。彼は私たちを罠にかけたのだ。

「せっかく集まって頂いたので、皆さんに聞きたいことがもう一つ」バルドラスは意見を訂正するでもなく話を続けた。「ナオリさんとカガラナさん。そしてハリギュラさん。里の誰もが一目置く、超一流の魔法使いばかりだと聞いています。彼らの家に忍び込み、気づかれずに寝込みを襲うことは簡単なことではないと思います。しかし現場には争った跡がありません。魔法であれば、どんなものであれば実現可能だと考えられますか?」

 魔法使いたちは顔を見合わせ、小さな声で相談を始めた。じりじりと声は大きくなっていく。

「ラーナ」前にいた母が振り向いてきた。「あなたはどう思う?」

「私なら」考えるまでもない。「魔法は使わない。ナオリさんたちに魔力を感知されない自信がないもの。家に火でもつけるわ」

「さすが私の娘ね。同感よ」

 侃々諤々のカンヴァーナになった。誰もが自分の意見を披露しては、他の魔法使いに穴を指摘される。一流の魔法使いが揃っているからこそ、その上を行くナオリさんたちを破る方法が思いつかないようだった。

「正面から彼らを破るのは、やはり簡単ではないようですね」バルドラスは話しながら首をひねる。「しかし魔法使いも人間だ。たとえば頭を鈍器でごつんとやられて気絶。そのうちに魔法でとどめを刺されることはありえます」

「そもそも、鈍器で殴らせるほど近寄らせまいよ」里長が訥々と反論する。「ナオリはまだしも。カガラナは魔族が夜に襲って来ることを知っておった。警戒せん道理がない」

「では警戒しなくていい人が相手であれば?」

「ほ」里長がわずかに笑う。「家族や弟子が裏切りを?」

「人になりすます魔法というものがあると聞いたことがあります」

 それは無理がある、と私は思った。里の誰もがそう思ったようで、魔法に関して無知な勇者に、困ったような笑いが漏れる。

「幻装魔法ですな。姿形を真似る高等技術。無論、真似る相手のことを知り尽くしていなくては使えぬ技じゃ。相手の姿をよう見て、しぐさを知り、喋り方を覚え、癖を身につけ、その上でなお、成功しえぬのが幻装魔法。術者にとって『その人らしからぬ』という行動を取れば、魔法はたちまち解けるでの」

「……つまり、ナオリさんの家族に化けられるのはナオリさん本人くらいのもので、しかも彼を傷つけたりすれば『本人らしくない』から解けてしまうと?」

「いかにも」

「ではおれは正解にたどり着いたようだ」

 カンヴァーナに参加している誰もが、当惑しながらバルドラスを見た。

 彼の言動は、先ほどから的外れに感じられているだろう。そんな彼の結論が正しいとは思えないという様子だ。

 けれど私は、一人で、どきどきしていた。ハリギュラの内通を一人で見破った勇者は、何かとんでもない結論を導き出すのではないかと。

 バルドラスの目が、もう一度私を向く。

「ラーナさん」

 私はびくりと肩を震わせる。

「は、はい」

「里の魔法使い。実力順に上から三人を教えてくれないか?」

「それは……里長、ナオリさん、ハリギュラです」

「四番目は?」

「カガラナさん」

「つまり自分を除いて上から順番に。見破られる可能性の高い順に潰していったわけだ」バルドラスは里長へ視線を転じる。「そうですよね、ハリギュラさん」

 カンヴァーナは静まり返る。誰もがぽかんと口を開けて、里長を見ている。

 はっ、と笑い声がもれた。若い女性の声が、里長の口から。途端に、老爺の姿は叩き壊したジグソーパズルのように崩壊する。現れたのは若い世代を代表する天才魔法使いの少女だった。

 ひょいと身軽に、ハリギュラは一歩後方へ跳んだ。

「やるじゃん、勇者。なんでわかったの?」

「里の誰もが信頼を置く里長が密かに会いに来たとして、誰が疑う? まして幻装魔法とやらが困難極めるものと誰もが知っているなら、なおさらだ。里長の姿でナオリさんたちを一発殴ったら、その姿は失われるだろうが、もう隠す必要もなくなる。あとは魔法で始末をつけてもう一度幻装。里の誰かが内通してたのはわかっていた。そして里長に幻装できるのは、孫娘だという君がもっとも相応しい」

 里の魔法使いの欠点を話した里長。本物の彼はやはり、そんなことはしない。ハリギュラのもつお祖父さまのイメージの中で、彼女はよく小言を言われていたのかもしれない。

「もーちょっと遊べる予定だったんだけどなぁ」ちぇっ、とハリギュラは舌を鳴らす。「仕方ないね。派手にいこうじゃない」

 にやりと口角を吊りあげる。

 窓の外が輝いた。

 バルドラスが腰の剣を目にも留まらぬ速さで引き抜く。その後方に癒し手ユミカ。

「高速詠唱! 来るわよ!」

 私は思わず叫んでいた。

 魔力が渦を巻き、里長の屋敷へと一気に流れ込んで来る。私は飛びあがり、駆け寄って、唱えた。ただ一心に。手慣れた様子で詠唱を始めた天才よりは遅く、しかし確実に。

 破壊の戦争魔法が壁を突き破り、私の防護魔法が皆を包み込む。

 ――まあ、戦闘に関しては、いいわよね。

 魔族とハリギュラの連合は、勇者一行と里の魔法使い連合に敗れて一件落着。ハリギュラは本物の里長にこっぴどく怒られて、ナオリさんからも十二時間説教コースだったらしいわ。

 私はバルドラスに、勇者一行への参加を頼まれた。

「おれは役割上の英雄に過ぎないが、少なくとも本物に遜色のない英雄になるつもりだ」と、バルドラスは言った。「隣にいて欲しいのは魔法の天才じゃない。咄嗟にみんなを守ろうとする、信頼できる仲間だ。一緒に来てくれないか、ラーナ」

 私はもうとっくに腹なんてくくっていて、思わず笑ってしまうくらいだった。

 里を旅立つ前に、私は一人でハリギュラの元へ向かったわ。本来ならば彼女の役割だったのに、結果的には代わりをこなすことになったのだから、一言くらいは挨拶をしようと思ったの。

 ハリギュラは里長の屋敷の裏で、今回協力した魔法族と一緒にいた。背の小さな少女のような人で、長くて艶やかな黒髪と、ルビーのような赤い目が印象的だった。

「やあ、ラーナ」

 近づくと、ハリギュラは魔法族の少女との会話を切りあげて、こちらに笑みを向けてきた。少女は淡く笑い、私たちから一歩距離を取る。

「ハリギュラ。旅立つ前に、挨拶くらいしようと思ってね」

「律儀だねぇ」ハリギュラは苦笑する。「今回はあたしの実力不足だったわ。潰す順番を間違えたみたい。爺さんは計画上仕方なかったんだけど、師匠よりラーナが先だった」

「別に、私は何もしてないわよ。『旅路』に同行することになったのは、私の実力よりもあなたの素行不良が問題なんだから」

「気にしてんの? いいんだよ、あたしはこっちのが気楽なんだから。ラーナはあの勇者が気に入ったんでしょ。わかるけどさ、気持ちは」

「別に、そういうのじゃないわ。あなたが選ばない道に興味が湧いただけ」

「そ」短く流して、ハリギュラは神妙な顔になる。「ラーナは基礎がある。あたしみたいな飛び級タイプよりもね。強くなるよ」

「……ありがと。頑張ってみるわ」

「ただし。魔法は嘘。魔法使いはいつだって嘘つき。世界を騙して書き換えるせこい詐欺師。忘れないでね」

「ええ。肝に銘じておく」

 そうして、私は『勇者の旅路』に加わった。


 ◇


 厨房から運んだ簡単な酒肴をつまみながら、魔王サヴァリアはうなった。

「長い黒髪にルビーのような目の魔法族か」

 塩漬けの干し肉を削ったものと、香辛料たっぷりのピリ辛のスープ。食事というほど豪勢なものではないが、人数分がテーブルに並べられている。城の備蓄だという。

「アニャエルか?」

 白い頬をわずかに朱に染めながら、勇者バルドラスが訊ねる。あまりアルコールに強い性質ではなかった。

「その程度の特徴じゃ断定はできねえが、勇者一行の近くに現れたってことは、可能性は高いな。まさか『旅路』の仕掛け側に混ざってるとは思わなかったが」

「私たちの妨害が目的だったのかしら」

 魔法使いラーナは語り疲れたのか、少し気だるげにしている。

「どうだろうな。にしては手段が迂遠だが」

 手がかりの少なさに、サヴァリアは顔をしかめる。

「実際、こんな話し合いで誘拐事件の核心に迫っているのか? おれたちは呑気すぎるんじゃないか?」

 バルドラスだった。声には一抹の焦りが滲んでいる。明確な犯罪を前に、一歩も進めていない焦燥があった。

「一歩、間違いなく進むとすれば、身代金の受け渡しだろう」サヴァリアが冷静に応じる。「もしくは、別途連絡するとあった身代金の受け渡し方法。その報せによっては何か進展が望めるかもしれん。が、俺たちには時間がない。『旅路』の終焉は明日だ。期日をズラすわけにはいかない。ならここにいる面子だけで、どうにかするしかないだろ?」

 反論が浮かばず、バルドラスは口を引き結んだ。

 すると、癒し手ユミカがおずおずと手を挙げた。彼女はワインを飲んでいないため、暖房が行き届いているとは言い難い部屋で、一人だけ顔を白くしている。

「なんだ?」

「あ、あの」サヴァリアに問われて、ユミカはわずかに萎縮する。「さっきの、黒い髪に赤い目って特徴の魔法族なら、私もちょっと心当たりがあるんです」

「ほう」目をきらりと光らせて、サヴァリアは身を乗り出す。「話してみてくれ」

 はい、とうなずいて、ユミカは大きく深呼吸する。注目される状況が苦手なのか、彼女の頬にもかすかに、赤みが差してきた。

「あれは、ヤヌの里を出て十日後のことでした――」


 ◇


 長い黒髪にルビーみたいな目、十代なかばくらいの魔法族なら、心当たりがあるの。

 ヤヌの里の次に訪れた街のこと、覚えてる? うん。大きな街だったよね。名前は確か――リンテ。リンテの街。ここも『勇者の旅路』において立ち寄らなくちゃならないポイントの一つに設定されていた。

 『旅路』にはヤヌの里のように襲撃予定地として割り当てられた街や、仲間の候補となっている人がいる地に立ち寄らなくちゃいけない決まりがある。その他の寄り道はある程度許容されているし、立ち寄る順番が定められているわけでもないから、『旅路』のルートは必ずしも決められているというわけではないのだけど……。

 私は王都ヤーイント・セラから勇者バルドラス、吟遊詩人カナタと一緒に旅に出た。癒し手ユミカ・アンブランとして、勇者一行の医療を司る立場にある。

 アンブラン流医療魔法は確かに得意だけど、それが人と比べてどうかって考えたことはなくて……。王都にある医療院に勤めているんだけど、多くの人に推薦をもらって勇者一行に加わることになったものの、そんな重荷がきちんと背負えている自信はあまりない。見たこともない世界を自分の足で歩いて、聞いたこともない景色に直面しては一つひとつ解決していく。私にできることはそれだけ。

 リンテの街は、ラーナを仲間に入れて初めて立ち寄った大きな街で、大陸の南北を結ぶ要として商業の盛んな貿易都市を形成している。南は沖合に浮かぶ小都市国家から、北は年中冬景色の魔法族領の果てまでをつないで、さまざまなものが取引される巨大な街。

 そこでは、週に三度は攻め込んで来る魔王軍との直接衝突が繰り広げられていた。防衛軍と魔王軍の戦いは日に日に激化してきていて、街にも少なからず被害が出てる。……賠償金目当てに、ちょっと派手なイベントにしたって噂だけど。

 大規模な戦争といえど、優れた個人の能力は戦力の寡多をたやすくひっくり返す。圧倒的な能力の英雄が、多数の組織を打ち破るのが、私たちの戦い。バルドラスはリンテの防衛軍への協力を求められた。

 大規模戦争となると、バルドラスとラーナは得意分野だけど、私は後方支援に徹するしかなかったんだ。街中の警戒も合わせて、私は主にリンテの中の様子を見ていた。

 そのとき、街では問題が一つ起きてた。防衛軍の将校が、次々に街の中で闇討ちされていたの。リンテは巨大な防護壁もあれば、厳重な警戒も敷いている。けど戦時でも、貿易都市であることには変わらないから、どうしたって人は出入りする。内通者か、伏兵の魔族が入り込んでるんだろうって話になった。

 私たちは手分けをしてリンテの中を調べた。特に魔法に長けたラーナは、人間を欺く魔法の痕跡がないのか調べるのに忙しそうだった。防衛軍の人たちが、単純に襲われて負けるほど弱いとも思えなかったから。

 私は、得意なのは医術だけで、他にできることなんてあんまりないから、結構早く手が空いちゃって。みんなの支援方法でも考えようと思って宿に戻った。

 アニャエルらしき魔法族とは、ここで会ったんだ。

 繁盛する宿の食堂で名物のパフェを食べてたんだけど――。え、あ、うん。苺とバナナがたっぷりのやつで、魔法族領で取れた新種のベリーも乗ってて、すっごく美味しかったよ。べ、別にサボってたわけじゃないんだよ? ほら、宿屋って私たちみたいな異邦人も多いから、情報も集まりやすいでしょ? 情報収集だよ。

「あなた、勇者の仲間?」

 ごく自然に、初めからそこにいたかのように、少女は私の前に座った。

 商人、傭兵、普通の家族連れ、旅行者。さまざまな人々がごった返す大きな食堂で、彼女は特に目立つわけでもないのに目を惹く。長い黒髪とルビーのような赤い双眸。身長は小さく、体も子供のようなのに、なぜか艶かしさすら感じる。

「は、はい」

 私が少し驚きながらうなずくと、彼女は思いのほか人懐こい笑みを見せた。

「癒し手の人ね。ユミカ・アンブラン」

「そうだけど……あなたは?」

 私の名前が知られていることは、驚くことでもない。吟遊詩人カナタの報告は文書の形をとって、世界中で販売されているのだから。

「魔族よ」

「あ、駄目だよ。今は魔法族って呼ばないと」

「自分らで呼ぶ分にはいいじゃない。『勇者の旅路』の中では、当時の呼び方を踏襲して魔族って呼んでるんでしょう」

「そうだけど、それはあくまでも『旅路』での話だから」

「ねえ、ユミカ」少女はわずかに身を乗り出して、顔を覗き込んで来る。「勇者バルドラスって、どんな人?」

「どんなって……勇者だよ。誰よりも勇気があって、正義感が強い人、かな」

「強い?」

「ちょっと並大抵の剣技ではないよ。魔法力も高いし、剣技との組み合わせも達人レベルだから……その辺の軍人さんじゃ太刀打ちできないと思う」

「へえ。結構評価が高いのね」少女は考えるようなそぶりを見せ、口の端で笑う。「ね。バルドラスって、格好いい?」

 ああ、と私は腑に落ちる思いがした。背が高く、過度に筋骨隆々でもなく、美しく整った顔立ちと、理知的な言動。勇気と智慧にあふれ、強く、紳士的な振る舞い。バルドラスが女性を引きつけない理由はない。

 実際、ここまでの旅路においても彼は何度となく女性に迫られているようだった。もっとも私は、彼がそれを頑なに断っている場面しか見たことはない。

「格好いいけど、今はあまり、色恋沙汰には興味はないみたいだよ」

「そうなの? 恋人とかは?」

「大きな仕事の最中だし、一年くらいは旅をするんだもん。なかなか決まった人はつくれないんじゃないかな」

「行く先々で、ってわけでもないみたいね。それじゃあ、好みの女性ってどんな人かしら」

「あのね」私はパフェ用の長いスプーンを置いて、少女を見据える。「私はバルドラスの女性の好みなんて知らないし、知っていたとしてもあなたに教える義理もない。それに彼は、難しい立場にあるの。今はね。恋人なんてできたら世界中に報道されるんだよ」

「隠れてつき合うことはできるわ。私みたいな子には興味ないかしら」

「少なくとも」少々語気が強まるのは抑えられない。「まったく知らない幼い女の子に手を出すような人ではないと思ってる」

「ふぅん。信頼してるのね」少女はどこか妖艶に笑う。「じゃあ、あなたは?」

「私はバルドラスの仲間だけど、恋人じゃない」

「なりたくない? 恋人に」

 思わず眉をひそめた。

「……私がバルドラスを好きなんじゃないかってこと? それとも、『勇者』を所有したいのかってこと?」

「意外と言うのね」少女はおどけて目を見開いてみせる。「でも前者のほう。彼、魅力的だと思わない?」

「それは……男性としては、珍しい人だとは思うけど……。きれいな顔してるし、中性的な声も素敵だし……強くて優しいし……」

「好き?」

 脳裏にはバルドラスの顔が浮かんで、心臓はいつもより少しだけ早く鼓動する。けれど、私は首を振った。

「人としては好きだけど、恋人にしたいわけじゃないかな」

「案外、選り好みするのね」

「ば、バルドラスに魅力がないってことじゃないんだよ。ただ私は……その、彼とは絶対にうまくいかないと思う」

「へぇ。どうして?」

「それより」私はスプーンを取りあげて、ぬるくなりつつあるパフェに突っ込む。「あなたはバルドラスのファン? 彼に話があるのなら、直接話しかければいいよ。私はバルドラスの恋人を遠別する窓口じゃないの」

「私が勇者をどうこうしようって話じゃないわ」少女は見た目の年齢に似合わず、大人びた表情で肩をすくめる。「吟遊詩人カナタの報告書――勇者バルドラス・ギギナグールの英雄譚。読んでるわ。この街であなたたちも見かけた。そしたら興味が湧いただけよ。勇者はどっちの子を選ぶのかなって」

「どっちって。私と、ラーナ?」困惑気味に聞き返すと、彼女はにこりと笑ってうなずく。私はすくいあげたパフェの残りを口に入れて、スプーンをくわえる。「別に……そういうのじゃないし」

「でも憎からず思ってる。勇者のほうはどうなのかしらね」

「そ、それは、わかんないけど……」

「動揺してる。もしバルドラスのほうがあなたのことを好きだったら、どうするの?」

「そんなこと――」

「ないとは言えないわ。彼も健康的な男の子だもの。英雄、色を好むとも言うしね」

「い、色って……」

 まっすぐに見つめて来る名前も知らない少女の目は、吸い込まれるような美しいルビーの赤だった。目を見れば人がわかる、なんてうそぶく人もいるけれど、少なくとも私にはなんの判断もつかない。

 私は――。


 ◇


「……で?」

 恐ろしく真剣な眼差しで癒し手ユミカを見つめるのは、魔法使いラーナだった。いつになく力のこもった眼差しに、ユミカは思わず身を引く。

「で、って。アニャエルらしき女の子と話したのは、そのときだけだよ」

「肝心の話の内容が途中だけど?」ラーナの声は強張っている。「バルドラスがユミカのことを好きだったとしたら……どうなの?」

 ユミカは思わず助けを求めて向かい側の二人を見るが、おやおや、と吟遊詩人カナタは楽しげに肩をすくめていた。格闘家ギーは無反応で、黙々と酒杯を煽っている。褐色の肌にはさして赤みも差していない。

「それはおいておこう」と口を挟んだのは勇者バルドラス本人だ。「今はとにかく、アニャエルの動向を追うほうが大切だ。誘拐事件なんだぞ」

「少なからず真剣な奴がいて涙が出るね」魔王サヴァリアはわざとらしく天を仰ぐ。「『勇者の旅路』は長旅だからな。同行したメンバーがのちに結婚したなんて話はいくらでもあるが――悪いがその話は後回しだ。アニャエルはバルドラス、ラーナ、ユミカの順番で接触を図ってきたわけだ。目的は何か思いつくか?」

「それはこっちが聞きたいところだが」バルドラスはユミカへ視線を向ける。「ユミカ。リンテの街で、将校たちが襲撃された事件。あれを解決したとき、手がかりは君がもってきたんだったな。情報の出処については特に聞かなかったが、もしかして……」

「あ、うん。あの子にヒントをもらったんだ。でも、直接答えを聞いたわけじゃなくて。人だけじゃなく、リンテに出入りする荷物にも注目してみれば、って言われて。事件の起きた現場の近くに共通して運ばれてるものを調べてみたの」

「そして、あの精巧な魔法人形に辿り着いたわけですね」カナタは意を得たりと顎を引く。「あれは実に見事なものでした。魔法族の技術は素晴らしいものがありますね」

「ああ、おまえのレポートにあった人形か」サヴァリアはその内容をそらんじてみせる。「『姿形が美しいことは当然。魂までも宿ったかのような壮絶な完成度は、そこに誰かがいるのだと錯覚せざるを得ない。事実、彼らは魔力を得て動き出すのだ』ってやつ」

「そうだ」バルドラスが応えた。「魔族側の伏兵は魔力で命令を実行する人形だった。それほど強力な敵ではないんだが、何しろ動くとなおさら人形には見えず、見目形は魔性かと疑うほど美しい。ようは、騙し討ちされたんだろう」

「ヒントを与えたってことは、うちの娘はリンテの仕掛けにも関わってた可能性があるわけだな」それに、とサヴァリアは続ける。「アニャエルの興味が、勇者一行というよりバルドラス、おまえ個人に向いていたようにも思える」

「おれ個人に? どういう意味だ?」

 ラーナとユミカの視線がバルドラスを捉える。ラーナはどこか責めるような強い目で、ユミカは当惑しながらも目を離せないような揺れた視線だった。

「そりゃあおまえそのものだよ。ここの女性陣には大変申し訳ないが、アニャエルの目的が『旅路』でも勇者一行でもなくおまえ一人に向いてたとしたら、それが成就した可能性は充分ある」

「成就。つまり、おれがアニャエルに惚れたというのか」

「アニャエルは幼い。だが魔法族の魔法使いだ。並大抵の人間とは考え方も、できることも違う。ユミカが言ったが、歳に相応しくない色気を感じただろ。誘惑の魔法というものもある。同性にそこまで感じさせるなら、間違いなく使っていただろうな」

「卑怯よ、そんなの」ラーナの声は硬い。「好きな人を振り向かせるのに魔法を使うなんて人の道を外れた行いでしょ」

「かもしれん。が、そういう手段があることは事実だ。男の性欲を刺激して、本能的に求めさせたのかもしれん」

「あ、あのねぇ、魔王」

「サヴァリアだ」

「サヴァリア。あなたの娘が知らない男のものになったのかもしれないのよ。よくそんな冷静でいられるわね」

「あいつが望んだのなら大した問題じゃない。気にするべきは、誘拐犯とやらに何か意に反したことをされていないか、だ」

「……それは同感だけど。けど、永続する魔法なんて存在しない。たとえバルドラスの心を一時的に偽らせることができても、ずっと傍に居続けるのでもなければ、持続させることはできないわよ」

「だからこそ、俺はこの話をしたのさ」サヴァリアは不快そうに、鼻にしわを寄せる。「魔法が解けてみれば、自分に惚れて強硬手段を取った少女が一人。その父親は魔法族の有力者で金もある。女にいいようにされた苛立ちだってあるだろう。魔が差すには充分じゃねえか?」

 ラーナは不安げに、バルドラスを見る。

 見られた彼のほうは、困ったように両手を広げた。

「おれはアニャエルに何もしていない。誘惑の魔法にもかかっていない」

「おまえがアニャエルを誘拐していても、していなくても、その返答になるだろうよ。あくまで可能性の話だ」

 空気が凍りついたように、急速に冷え込んだようだった。残り少ない干し肉を飲み込んで、ユミカはどうしようもなく息苦しさを覚える。

 サヴァリアは誘拐犯が勇者一行の中にいると考えている。こちら側には、それを否定したい気持ちはあるが、確たる証拠はもち合わせていない。事実として、魔王と勇者を出し抜ける人材など世界中を探してもそう多くはないのだ。

 何か状況を動かす一言を、あるいは証言を話せればよかったが、ユミカにはほとんど材料がない。迷って目がさまよった。

 すると向かい側で、寡黙な格闘家ギーが穏やかに口を開く。

「ない」

 サヴァリアがギーを見やり、首を傾げた。

「……何がないんだ?」

「バルドラスがアニャエルを襲う可能性。ないよ」

「どうしてそう言える? 男である以上、本能を刺激する魔法には――」

「違う」ギーは言下に断定する。「バルドラスには効かない」

「ギー」

「バルドラス」ギーは勇者を見つめる。「話すよ」

 触れてはならないような、緊張をはらんだ沈黙が降りる。勇者と格闘家は短い時間見つめ合い、やがて勇者のほうが折れた。目を伏せ、苦痛に耐えるように顔を歪める。

「……そう、だな。おれのわがままを通している場合じゃない」

「ごめんね」

「いや、ギーは何も悪くない。おれのためにここまで話さずにいてくれたんだからな」

「神妙そうだが」サヴァリアが怪訝そうに訊ねる。「なんの話だ?」

 ユミカにもわからず隣を見た。しかしラーナも、向かいのカナタも、話の流れが飲み込めずに不思議そうな顔をしている。

「僕の話を聞いて」

 緊迫した食堂に、ギーのささやくような声が響いた。


 ◇


 僕はギー。自然のもつ力と、人間のもつ力の融合を信念とする遊牧民族ライトゥヤに生まれ育った。

 ライトゥヤは春と秋に住処を変える遊牧民で、空気の薄い高地に住んでいる。バリョと呼ばれる布地の厚い巨大なテントを張り、牧畜と農業、伝統工芸と芸術、そして武芸の腕を鍛えながらの傭兵稼業で生計を立てているんだ。

 僕はそこで魔法格闘術を学んだ。生まれついてのライトゥヤだから、幼い頃から修練を重ねて、練りあげてきた技でもある。

 春の移動を終えてしばらくして、ライトゥヤは魔族襲撃地に選ばれた。僕たちには技を磨く、あるいは披露する格好の場となったんだ。

 他の街とは違って、ライトゥヤを襲った魔族の取った戦法は、ただ単純な戦闘の繰り返しだった。高地の麓から攻めあがって来る彼らを迎撃するのが、僕たち魔法格闘家の仕事となった。

 ……ちょっと待ってね。……うん、あまり長く話し慣れてないから……。大丈夫。

 バルドラスたち勇者一行が来たとき、戦いはすでに始まっていた。彼らは即座に参戦してライトゥヤを助けてくれたから、諸手を挙げて歓迎された。客人用の立派なバリョを当てがって、ご馳走が振る舞われ、襲撃のない夜は必ず宴会になった。ライトゥヤはお祭り好きの騒々しい人たちばかりだから、歌って踊って飲んで食べての大騒ぎさ。独自に進化した音楽も伝統の踊りもある。吟遊詩人のカナタがいてくれたのはよかったな。お互いの知らない歌を歌いあって盛りあがった。まあ、僕はあまり、騒ぐ性質ではないのだけど。

 バリョはテントだけど、街の人たちが使うような貧弱なものじゃない。嵐にも耐えられるし、ほとんど揺れないくらい頑丈に固定する。中には家具だってあるし、人によってはベッドも置いてる。

 そんなバリョの一つに、風呂場がある。水はけのいいように改良された特別製で、木製の大きな浴槽があって、魔法仕掛けのシャワーもある。一日に一度は魔法をかけ直さないとお湯が吸いあげられないから、街の水道には劣るけれど、それくらいなら不便でもない。

 僕は宴会を見るのは好きだけど、参加して歌ったりするのは苦手だ。だから隙を見て――歌え踊れとせっつかれる前に――輪から抜け出して、風呂場に向かったんだ。昼間は魔族との戦闘もあって、大いに汗をかいていたから。

 僕たちライトゥヤの文化の一つに、刺青がある。特に魔法格闘や聖霊演舞に秀でる人は必ず入れているし、それを見せるため肌を露出している人が多い。僕は刺青は好きだけど、肌を見せるのは苦手だったから、風呂場にはいつも一人で訪れていた。

 油断していたのは否定できない。少なからず酒も飲んでいたし、宴会で気分が高揚もしていた。だからと言って、風呂場に誰かがいることに気づかないなんて、我ながら迂闊だったと思うよ。

 風呂場は脱衣場と浴槽が厚手の布で仕切られている。僕は手早く服を脱いでカゴに放り込むと、浴槽との間仕切りを開いた。

 長い銀髪が見えた。驚いて振り向く小さな頭。細い背中。丸い胸。女性だった。

「ごめん」

 僕はさっと一歩下がり、素早く布を張り直した。

「い、いえ、あの」仕切り越しに、動揺の滲む声が聞こえる。中性的な高音。「こちらこそ、すみません」

 そのときはそれだけだった。僕は謝って、そそくさと服を身につけて脱出したし、彼女が見慣れない女性であることなんて気にもしなかった。ライトゥヤは開けた民族だから、旅行者を受け入れることなんて珍しくもないからね。

 おかしなことに気づいたのは、翌日のことだった。再び魔族による波状攻撃が始まって、僕たちは勇者一行とともに前線へと赴いた。

 バルドラス・ギギナグール。夜天の星のような銀の髪に、透けるような白皙。美しく整った鼻梁に、控えめな笑みと理知的な態度。筋骨は細いけど、補ってあまりあるほどにまとった穏やかな霊子。勇者に相応しい彼の姿を間近に見て、僕は思わず呼吸がとまった。

「よろしく。バルドラスだ」

 公平な態度で、握手を求めて来る。僕は顔を伺った。きっと複雑怪奇な表情をしていたのだと思う。彼の向こう側には、談笑する魔法使いと癒し手の姿もある。手を握ると、バルドラスは僕にだけ聞こえるようにそっと言い添えた。

「昨日は見苦しいところを見せてすまない。秘密にしてもらえれば助かるが、君の良心に従ってくれていい。覚悟はある」

 彼は、彼女だった。


 ◇


 バルドラスは神妙な面持ちで、テーブルを囲う全員の表情を見回していた。

 ラーナとユミカの女性陣二人は、ぽかんと口を開けている。ギーの告白がどんな意味をもつのか、理解が追いついていないのだろう。ギーは言わずもがなの鉄面皮。隣のカナタは眉をひそめ、額に手を当てている。演者よりも運営側に近い立場の吟遊詩人からすれば、青天の霹靂と言うより他ない。サヴァリアは、腕を組んで顔をしかめ、なにやら言葉に迷ったようではあったが、開口する。

「つまり」言いづらそうにゆっくりと。「勇者バルドラスは女だってのか」

「そういうことだ」バルドラスの声にも力がない。「騙していて、すまなかった」

「俺は別に害を被ったわけじゃねえが……。そういうことなら、本能を刺激する魔法にかかる道理もまずないってわけだ。それはいいが」サヴァリアは困惑を隠し切れない様子で、勇者一行を見る。「『旅路』につく勇者は男でなくてはならない。そういう決まりじゃなかったか?」

「その通りだ。だからおれは、自分が女であることを隠し通してきた。露見したら最後、勇者という役割から降ろされることは間違いない」バルドラスは苦いものを飲み込むような、痛みに耐えるような顔だった。「それでも……性別を偽ってでも、おれは勇者になりたかった。『勇者の旅路』に勇者役で参加したかった。幼い頃から英雄に憧れていたというのは本当なんだ。ただ当たり前の女の子のように、その英雄に守られたいとは思わなかった。おれが――わたし自身が、英雄になりたいと焦がれてしまった」

「それでなってしまうのも、大したものではありますが」カナタが呆れ気味の声を絞り出す。「さすがに問題ですよ。『勇者の旅路』は三〇〇年前の本物の勇者の活躍を真似るもの。旅路そのものは同じ道程というわけでもありませんから、個人的には勇者の性別など大きな問題ではないとは思いますが……それでも決まりは決まりです。勇者は三〇〇年前と同様に男性でなくてはなりません」

「すまない。弁明のしようもない。わたしのわがままだ」

「実際、大したもんだろ」サヴァリアが言う。「神器の声を聞き、勇者として認められる実力があることは疑う余地もねえんだ。線の細い男だとは思ってたが、そもそも男じゃなかったってわけだな」

「声が中性的だとは幼い頃から言われていたんだ」バルドラスは照れたように口元に拳を当てる。「筋肉がつかない体質はどうしようもなかったが、幸いなことに胸も大きくは育たなかったし、厚手の旅装をしてしまえば体でばれる心配はほとんどなかった」

「名前は? バルドラス・ギギナグール。本名じゃねえんだろ」

「セピア・ヘイリンワースだ」

「セピア」

「セピアちゃん」

 脱力したような声で、ラーナとユミカがつぶやく。

「で、でも」ラーナの声は震えていた。「まだ女だと決まったわけじゃないでしょ?」

「いやいやいや、本人が言ってるしな」

「魔王は黙ってて。私はバルドラスと話してるの」

「ラーナ」バルドラス――セピア――は首を振り、椅子から立ちあがると、頭を垂れた。「君を騙したいと思っていたわけじゃない。信頼していなかったわけでもない。みんなもだ。でも結果的には、わたしのわがままで騙す形になってしまった。本当にすまなかった」

「そんなこと――」

 ラーナは声を詰まらせる。口を開くが、言葉にならない。震える指先で帽子のつばを下げようとして、それよりも先に雫が胸元へ落ちた。大粒の涙がぼろぼろと頬を伝っては落ちていく。

 勇者一行はぎょっとして身をすくませた。

 気丈な彼女の涙など、見たことがある者はいない。

「あ――あれ、えっと」

 言葉が出てこないラーナの腕にそっと触れて、ユミカはかぶりを振る。

 サヴァリアが大きく息を吐いた。

「休憩にしよう。みんなも腹減っただろ。食べるものを用意する。ラーナ、ユミカ、奥に厨房があるから一緒に来い」

 気まずい雰囲気のまま、三人が席を立った。


 ◇


 厨房は広く、想像以上の設備が整っていた。

 水道が引いてあるのはもちろんのこと、魔道具も充実している。大気中の霊子を変換し、魔力として流しこむことで発動する貴重な器具だ。純粋な魔法使いであるラーナにはもちろんのこと、治療魔法しか扱えないユミカでも簡単に使うことができる。ようするに、魔法の応用で火がついたり水が流れたりする調理器具である。

「料理人は城を離れている。俺には料理はできないが、何かできそうか?」

 サヴァリアが訊ねて来る。いまだ涙がとまらず、うつむいたまま蹌踉とした足取りで進むラーナには、何も応えようがない。ユミカは彼女の背中をさすりながらうなずいた。

「大丈夫だと思う。食材はどこにあるのかな」

「こっちだ」

 奥に見えていた壁にサヴァリアが手を当てると、魔力に反応して開いてく。冷蔵庫になっていた。中には新鮮な食材が大量に――とはいかないが、備蓄としては申し分ない品揃えとなっている。

「肉は一通り。牛、豚、鶏、馬、カミスラーゲ、ドリンアゲルパ――」

「待って?」指差しながら言うサヴァリアを、ユミカが制止する。「何か聞き慣れない物体が混ざってたような気がする」

「鶏か? 卵も産む便利なやつだぞ。人間社会にもいたと思ったが」

「……まあ、いいよ。私もラーナも料理自体は慣れてるから、なんとかする。全部食用には違いないんだよね」

「当然だ。どの食材を使っても構わないが、まるごと全部使い果たすのはやめてくれ」

「こんなに使い切れないから安心して」ユミカはラーナの背中を軽く叩く。「ほら、ラーナ。みんなのご飯作ろう? 話も聞くから。大丈夫だから。ね」

 ひくっ、と引きつるような声を出しながら、ラーナはうなずく。サヴァリアに示されて冷蔵庫の前に立つと、充血した目で食材を吟味し始めた。

 ユミカは思わず、サヴァリアと顔を見合わせて肩をすくめてしまう。

「バルドラス……勇者のことが好きだったんだな、彼女は」ラーナに聞こえないよう、サヴァリアは囁くように言う。「おまえは大丈夫なのか?」

「私は」ユミカは声を抑えながら、自らの胸に手を当てる。「私は、さっきも言ったけれど、バルドラスを恋人にしたいなんて思ったことないから……」

「別に恋人じゃなくとも、一年連れ添った仲間の性別が違っていたってのは、それなりに大事件だと思うがな」

「でも私」ユミカはのろのろと動くラーナの背中を見つめる。「バルドラスが女の子で、戸惑ってるところがあるの。ううん、あなたの言う、仲間の性別を間違ってたっていうのももちろんショックなんだけど。それよりもっと」手のひらの中で、鼓動が早まってしまうのを感じる。「アニャエルに、バルドラスのことを好きなんじゃないかって聞かれたとき、私はそんなはずないって思ったんだ。それは本当。でもバルドラスに気持ちが惹かれてるのも、わかってた。彼のことを好きになるなんてありえないのに、どうしてどきどきしちゃうんだろうって、ずっと不思議で、認められなくて、悔しくて」

「そんなに悪い男には見えなかったがな。男だとしても」

「男だとしたら、ありえないの」

「……つまり?」

「私、女の子しか好きになれないから」

 サヴァリアが天を仰いだ。

「ユミカ」湿った声で、振り向いたラーナが呼んで来る。「ねえ、これなんの肉かしら。あんまり見覚えがない気がするんだけど」

 ユミカはサヴァリアの傍を離れて、両目を泣きはらした仲間の隣に駆け寄った。

「うーん。これはたぶん、羊かなぁ」


 ◇


 すくいあげた細切れの肉を口に含むと、予想外の食感だった。味は決して悪くないが、奇妙な感触にセピアは思わず眉が寄ってしまう。

「変な味だった?」

 なぜか煮込み料理に手をつけず、じっとこちらを伺っていたユミカが訊いて来る。

「いや……慣れない食感だっただけだ。おいしいよ」

「よかった」

 何やら安心したような顔で、彼女もスプーンに手をつけた。

 ラーナとユミカが作ったのは、肉と野菜をふんだんに使った煮込み料理だった。短時間で仕上げたため煮込むというほどの時間はなかったはずだが、具材にはよく味が染み込んでいる。

「つっても」サヴァリアが唐突に声をあげた。「堪能してる場合じゃあねえんだよ」

「そうだ」セピアは和みかけた空気に喝を入れるように、表情を引き締める。「問題は今、まさに誘拐されているアニャエルのことだ。わたしが言うのもなんだが、この際勇者が女だったという問題は後回しにしてもらいたい。罰は受けるし、勇者の役を降りろというならそれも仕方がない。が、人命よりも優先することじゃない」吟遊詩人のカナタからも異論が出ないのを確認して、続ける。「わたしたち全員に、アニャエルとの繋がりがあったことはわかった。まったくの無関係とは、もう言えない。その上で、このままこれまでの『旅路』を追うことに、それほど意味があるとは思えない」

「他にいい手があるのか?」

 煮込みを銀のスプーンでかき混ぜながら、サヴァリア。

「いい手というほどのものじゃないんだが……最初に魔王、きみが言ったように、アニャエル誘拐の容疑者はかなり絞り込めるとは思うんだ。除外できるのはまず、三日前からいなかった、この城の家人。アニャエルが今朝、魔王に会っているらしいからだ。次に、わたしたち勇者一行と魔王の魔力感知や、培ってきた勘をくぐり抜けられないであろう一般人。これは言うまでもなく実行不可能だから。それから魔王自身だ」

「ほう。俺の狂言ではないというわけだ。ありがたいが、理由は?」

「『旅路』を妨害したいなら、君自身が行方不明になったほうが手っ取り早い」

「俺に落ち度なく『旅路』を滅茶苦茶にしたいのかもしれないぜ」

「だから娘の狂言誘拐で、責任を逃れようと? だとしても夜中に慌ててわたしたちを招集する必要がない。むしろ事件の発覚は決戦ギリギリのほうが、わたしたちにも運営委員会にもダメージが大きいわけだから」

「筋は通ってるな。突拍子もない理由ならでっちあげられるが、考えてもキリがねえか」

「そうだな。きみが容疑から外れるのは、犯人の目的を簡単に達成できる立場にあるのに、より面倒な手をとっているから――ということに尽きる。きみが初めに言った通り、動機から追うのは無理があるんだ。わたしたちは、手段から追わなくちゃならない」

「アニャエルを誘拐した方法ってことかな」

 ユミカは顎に指を当てながら言う。

 サヴァリアは腕を組んで、小ぶりなシャンデリアのぶら下がる天井を見上げた。

「手段か。俺が最後に娘を見たのは、今朝のことになる。おまえらにはちょくちょく接触していたようだが、この城に来てからはほとんど外出もしていないはずだ」

「城の」一度鼻をすすり、くちびるを曲げながらラーナが訊ねる。「城の防御は。セキュリティはどうなってるの?」

「俺がかけた防護魔法で覆われていた。三日前、使用人たちを出してから張って、おまえたちを迎えに行ったときには消失していた。威力反射、魔力緩衝、実在感知の三枚重ねだ」

「堅固ですねぇ」カナタが感心したような、呆れたような声を出す。「攻撃は反射し、大威力になりがちな魔法は吸収。侵入者を押し返しつつ、何者かが近づいたら警報が鳴るというわけですか」

「本気で堅牢にするならもっとやりようはあるが、ギリギリ突破されなきゃ意味ねえからな。とはいえ、どの防護も働いた形跡はない。それなのに消失していた。俺にも気取られずに防護魔法を解除した奴がいたと考えるしかないな」

「検討してみよう」セピアは食べ終えた煮込みの皿を追いやる。「魔王の防護魔法を一瞬で無効化する方法といえば、何があるかな」

 全員、思案顔になった。

 三枚重ねの防壁は飾りではない。『旅路』の最終決戦を目前とした最後の障害だったはずなのだ。魔法族においてもっとも優れた魔法力の持ち主である彼の魔法を破るとなると、生易しいことではない。

「銀剣」カナタが漏らすようにつぶやき、視線が集まった。「銀剣デネボラであれば、できませんか?」

 セピアは視線を落とした。腰の剣帯からは外したが、愛剣は側にある。テーブルに立てかけていた銀色の長剣は、一見するとシンプルで装飾も少ないただの鋼に見えた。

「噂の神器か。どれほどの力をもっているんだ?」

 サヴァリアの問いかけに、カナタがセピアを見つめて来る。隠し立てすることはもはや何もない。セピアはうなずきを返した。

「私が見た、デネボラの力をお話ししましょう」


 ◇


 私――吟遊詩人カナタ・ドロウズは、王都ヤーイント・セラから勇者バルドラス、癒し手ユミカとともに旅立ちました。

 吟遊詩人というのは、勇者や癒し手、魔法使いや格闘家たちとは違い、『勇者の旅路』において出演する役者ではありません。彼らの活躍を記録し、報道するのが本分です。基本的には文字の形で彼らの道筋を書き記し、専用の魔法を使って全世界に配信しています。仕組みとしては魔法使いが使う念話に近いものです。私は記録を文字に、文字を丸めて魔法に乗せて配信役に飛ばす。これは誰にでも飛ばせるわけではなく、魔力パターンを記録した配信役にしかできません。そんなところも念話と一緒ですね。受け取った配信役はさらに遠くの配信役へ拡散させていく。伝言ゲームのようですが、根本的に私の書いた記録がねじ曲がることがないのが特徴ですね。もちろん、最終的には世界各地の集落や街で本や新聞の形を取って販売されます。それが運営委員会の資金になるというわけですね。

 御存知の通り、私は基本的には『勇者の旅路』運営委員会に立場の近いものです。あくまでも『旅路』本文の中には登場しない傍観者に過ぎません。しかし、その立場ゆえに見えて来るものもあります。

 ――ええ。さまざまです。三〇〇年前、いわば人類の希望としての精鋭軍隊だった勇者一行と、現在の勇者一行は違います。どうしたって真剣味に欠ける。いえ、バルドラスたちが不真面目だというわけではありません。

 襲う魔法族側も、それに対抗する側も、どうあっても相手の命を奪おうという意味での真剣味は存在しない。むしろ命を奪うのはご法度ですからね。これは演技であり、演劇であり、物語を紡いでいるに過ぎない――そんな思いが少なからず存在します。

 だからでしょうか。ここ数十回、百年ほどの間、神器が勇者の声に耳を傾けることはありませんでした。神の意思に寄り添うと言われる神器は、勇者を演じているだけの人間などに興味はもちません。

 しかし今回、バルドラス・ギギナグールは神器の声を聞いた。彼が――便宜上、そう呼ばれてもらいます――それを強烈に欲していたからでしょうか?

 前置きが長くなりました。バルドラスが銀剣デネボラを手に入れたのは、魔法格闘家ギーを仲間にしたライトゥヤの集落を出てすぐのことでした。魔王の住む魔族領へと向かった勇者一行は、大陸北部のアルネイジ山脈を越える必要がありました。現地の人々の協力を得て準備を整えた一行が山越えに挑戦すると、その道の半ば、魔族の襲撃に遭いました。

 激しい戦闘が行われ、山の地形が乱れると、大きながけ崩れが発生したのです。どこまでを魔族側が計算していたのかはわかりません。下手をすれば、もちろん事故にもなりかねない事態ではありましたが、その程度のアクシデントであれば越えられると踏んでいたのかもしれませんね。一行は混乱の中散り散りになりましたが、結果としてこうして全員が集うことができたのですから。

 私は幸いにも、勇者バルドラスと道をともにしました。他のみんなはそれぞれ分かれてしまい、合流する道を探して歩いていたはずです。いずれにしても山を越える道を選ぶしかありません。バルドラスは襲い来る魔族と戦いながらの山越えを敢行しました。

 その途上のことです。

 北のアルネイジ山脈は峻険です。山道といえるほどはっきりした道もなく、その険しさに素人には越えることもままならないことで有名です。

 そんな山の中腹に、なかば朽ちた神殿がありました。古い信仰を祀ったもので、現代に伝えられる神の名は一つも見当たりませんでした。我々はそこで野宿をしました。ほとんど崩れているとはいえ、一応屋根は残っていましたし、やはり人間は建物の中にいられると安心するものです。

 保存食を飲み込んで眠りにつきましたが、私は夜中にふと目を覚ましました。おそらく午前三時頃でしょう。月は欠けが進んでいましたが、澄んだ空気のおかげか星々の明かりがまぶしいほどで、歩くのに支障はありませんでした。

 見回すと、寝ていたはずのバルドラスの姿がない。何か起きたのかと私は身を起こし、神殿の中を見て回ったのです。

 偶像の類は一つもありませんでした。泥棒に持って行かれた可能性もありますが、おそらくはそもそも、神々が人の姿に似ていると考えられるより、さらに古い時代の信仰だったのでしょう。神はより恐ろしく、より抽象的な姿をしていたのです。

 聖堂は小ぢんまりとしたものでしたが、往年は美しかったのだろうと想像させるような、精緻な細工の彫られた壁が続いていました。獣でも住んでいたのでしょうか。すでに枯れていましたが、巣のように木々を敷き詰めた一角もありました。

 奥にはささやかな祭壇。崩れかかった屋根から差し込む星の光が魔法のように、そこに立つバルドラスを照らしていました。そこでどんなやり取りがあったのか、私は正確には知りません。ただ背後から喊声があがり、私は驚いて振り向いたのです。

 朽ちた扉を蹴り飛ばし、突撃してきたのは魔王軍でした。数はおよそ二十でしょうか。我々が体を休めるのを待っていたのか、たまたま見つけたのかはわかりません。圧倒的に不利な状況でしたが、むしろ落ち着いていたと思います。あの瞬間の勇者は。

 振り向くと、彼は腰の剣を引き抜き、差し込む星の光に当てました。

「銀の煌星」鋼であるはずの刃が、確かに銀のように鈍く光りました。「デネボラ」

 振り下ろすと、刃が降り注ぎました。虚空から出現したとしか言いようのない、銀色の巨大な刃です。柄も鍔もない刀身だけが、猛烈な勢いで降り注ぐと、魔族と我々を遮断するように幾筋も突き立ちました。数は七。

「な、なんだ!」

 先頭を走っていた魔族の青年が困惑の声をあげました。

「未知の魔法なら!」

 後方にいた魔族の女性が手を掲げ、高速詠唱。

 彼女が放ったのはよく見る、衝撃波のような魔法でした。手の先からまっすぐに飛び、ぶつかったものを弾き飛ばす物理衝撃の魔法です。刃の群れを飛び越えて撃たれたそれを、バルドラスは手持ちの剣を一振りして薙ぎ払いました。

 私はこのとき初めて、剣で魔法を斬るという現象を目の当たりにしたのです。もちろん、物理的な衝撃を生む以上、剣でそれを受けることや、流すことはできなくはないでしょう。しかしそういった対処とは違います。彼の剣はもはや鋼ではなく、銀――それは神の代名詞として知られる聖銀でした。間違いなくその剣は、魔法を破壊したのです。

 神器を得た勇者の前に、魔族の部隊はあえなく壊滅。バルドラスは夜明けを待って山越えを再開し、無事に仲間たちと合流を果たしました。

 百年もの間、誰にも語りかけることのなかった神器が、現代の勇者に渡されたのです。


 ◇


「魔道具というものもあるわ」ラーナの声には疲れが滲む。「魔法っていうのは、自然に溶け込む『霊子』っていう力を『魔力』に変えて『詠唱』で姿を与えるものよ。同胞が言うには、最小限の単位で世界を騙して現実をすり替える詐術。魔道具は、魔力を作ることさえできれば、それを流し込むことで『魔法っぽい力』を発揮できる道具のことよ。この城の厨房にもあったわね」帽子のつばを下げる。「剣や武器の形をして、実際そういう用途で使われる魔道具もある。それはもちろん魔力を帯びているから、魔法と相対することもできるわ。物理的な衝撃だけじゃなくて、もっと魔法らしい魔法相手でもね。ただそれは含んだ魔力の相殺だから、もっと派手だし、爆発現象も起きる。その点、銀剣デネボラは穏やかね。斬られた魔力は力を失って霊子に戻る。詠唱による造形も、魔力への変換も全部なかったことにする問答無用のマジックアイテム。でも」ラーナの視線はセピアの側から柄頭を覗かせている剣に向かう。「剣は剣。神器でも、七本の刃を生み出せても、その効力は刃の及ぶ範囲からせいぜい数十センチ。七本全部展開しても数メートル。城を丸ごと覆う防護魔法を破るには、小さ過ぎるわ」

「もしわたしが、剣で防護魔法を斬ったらどうなる?」

 セピアの一人称に慣れないのか、ラーナは顔をしかめる。

「斬った部分だけ壁が消えて、すぐ修復が始まるか、あるいは欠損部分から崩壊するか。魔法の強度にもよるけど、魔力が霊子に戻る現象っていうのは、霊子を魔力にする現象と過程が同質なのよ。私やユミカが魔法を使うときの道筋を逆に辿るだけ。つまり」ヤヌの里、里長の家でラーナ自身が襲撃に気づいたように。「発動済みの魔法とは違って、魔力感知ができる。あなたが斬ったのなら、魔王が気づかない道理はないわ」

「つまり、デネボラでは三枚の防護魔法は突破できないというわけですか?」

 カナタが首を傾げる。

「正確なところはわからないわね。私はその防護魔法を見ていないし。たぶん自己修復の激しいやつとかを用意していたんじゃないかしら」

 ラーナが見ると、サヴァリアは曖昧な笑みを浮かべる。ネタばらしをしないほうが、犯人を特定しやすいとでも考えているのだろう。

「魔法分解は?」穏やかな声音で訊ねたのはギーだ。「前に二人でやった」

「同じ魔力量を流し込んで相殺させるやつね。調整さえうまくいけば、爆発も起きないいい手だわ。三枚重ねの防護魔法と同じ量の魔力となると、ちょっと想像がつかないけど……私とギーならできるわ。逆に、私とギーでなければおそらく、できない」

 ユミカが心配そうに隣のラーナを覗き込む。

「そんな、自分の首を締めるようなこと」

「いいのよ。検証だもの。できるからやったって話じゃないの。それに防護魔法を破ったとしても、アニャエル本人をどうやって連れ出したのかっていう問題が残るわ」

「それなら、もっとシンプルに考えるのはどうだ」魔王が囁くような声で言う。「たとえば、アニャエルは自らの足で出て行った」

「本人の狂言誘拐か?」セピアは眉をひそめる。「なんのために――いや、動機はおいておくとしても。アニャエルが自ら出たとしても、実在感知の魔法にはかかるだろう」

「だから消した。うちの娘にそこまで器用なことができるとは思えねえから、協力者がいた可能性はある。それに狂言と決まったわけでもない」

「……誰かに呼び出された?」セピアは細い顎に指を当て、訝しげに目を細める。「しかし、どうやって」

「さっきのカナタの話を聞いてて思いついた。記録の配信ってのは、固有のアドレスを知ってる相手にしか届かない通信魔法だろう」吟遊詩人のうなずきを待って続ける。「念話も同じだ。お互いの固有アドレスを知らなければ連絡は取れない。俺が銀行家に連絡したのもこの手段だ。しかしアドレスを知っていて、ある程度魔力の扱いに長けていれば難しい魔法じゃない。アニャエルはこの場にいる全員と面識があった。誘拐犯は、アニャエルとアドレス交換を済ませていた術者だとしたらどうだ」

「城の近くまで来て、なんらかの理由でアニャエルを個人的に呼び出した……。その際には防護魔法まで分解して? そんなことができるのは――」

 セピアは声に出しながら、自然と視線が特定の人物へ向くのをとめられなかった。みんな、同じことを考えたのだろう。魔法の扱いに長け、念話も分解も可能な人物は多くない。

「私だって」視線を遮るように、ユミカが席を立った。「ラーナだけじゃないよ。私だって念話はできる。習ったもの」

「ユミカ」ラーナはため息混じりに仲間を呼ぶ。「あなたには念話はできるわ。体系立てて魔法を習っているものね。でも分解はできない。そんな使い方は学校では習わない。そんな邪道が使えるのは、私とギーみたいな実戦型の魔法使いだけよ。そしてギーの魔法は格闘術と織り交ぜて使う武の技。彼に念話はできない」つまり、とラーナは嘆息する。「両方ができるのは私だけ。そういうことね」

「でも、できることと、それをすることは全然違うもの。ラーナは誘拐なんてしない。……しないでしょ?」

 まっすぐな信頼が照れくさいのか、ラーナは帽子のつばを軽く下げて視線を隠した。

「当たり前よ」

「確かに、できることとすることは違う」セピアが淡々と言った。「他にどんな手段を用いれば三重防護魔法が破れて、アニャエルを誘拐できるのか。考えてみるしかないな」

「だが」サヴァリアが首を振った。「今のも可能性の一つだ。状況に合致し、実行もできる。それに、ヤヌの里には金と知名度が必要なんだろう」

「それが何よ」

「身代金も、誘拐事件解決の立役者という立場も手に入れられる絶好の機会だ」

「あんたね――」

「サヴァリア」セピアが席を立ち、二人を手で抑えた。「そこまでにしてくれないか。非常時だろうが、仲間への侮辱を見過ごすつもりはない。ラーナ。今はこらえてくれ。人命を優先する」

 今にも殴りかかりそうな勢いで椅子を蹴ったラーナだったが、落ち着いたセピアの目でじっと見つめられ、威勢をくじかれたようだった。不満げなまま、椅子に座り直す。

「ふう」と安堵の息をついたのはカナタだった。「少し空気を変えましょう。厨房はこの奥でしたね。何か簡単なデザートでも作りますよ」

「悪いな、カナタ」

「いいえ。勇者一行を万全の状態に保つのも、私の役目ですから」

 にこにこと笑みを残して、カナタは厨房へと消えていく。

 残されたセピアたちは、のしかかるような重い空気の中で、目を合わせるでもなく口を閉ざす。意味もなくスプーンを持っては煮込みの皿に当たり、かちゃかちゃとこすれた音が響いた。

 ふと、セピアは壁に目を走らせる。高い位置に貼られた大きな丸い時計は、今が午前三時を過ぎていることを知らせてくれる。眠気がないわけではないが、脅迫状の示した刻限まではあと十五時間しかない。情報は出て来るものの、推測は証拠に欠け、アニャエルの姿をつかむには材料が乏しい。

 一年に及んだ旅路が――世界中の人々が楽しみにしている『勇者の旅路』が、危機に瀕しているのだ。できることはあまりに少ない。

「うわああああ!」

 突然、夜のしじまを裂いたのはカナタの悲鳴だった。

 セピアは剣をつかみ、椅子を蹴り飛ばすと厨房へ飛び込んだ。

 意外なほど広い空間。整った設備。尻餅をついているカナタ。開いた大きな扉の冷蔵庫。

 みんなが慌てて駆けつけて来る足音を聞きながら、セピアは何も言うことも、することもできなかった。

「アニャエル!」

 やはり、と思う。叫んだのはサヴァリアだ。

 霜がつくほど冷え、肌までも凍りついた少女。微動だにしない胸。固く閉じたまぶた。確かめるまでもないほど明確な死。

 冷蔵庫から転がり落ち、四肢を広げていたのは、行方不明のはずのアニャエル・ラグだった。

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