勇者の旅路

火野秋人

序章

 深い雪に覆われた山が、星々の明かりで薄く輝いている。中腹に顔を覗かせる白亜の尖塔が、そこに建つ城の存在を主張していた。

「バルドラス?」

 呼ばれて振り向いたのは、麓から山を見上げていた人影だ。防寒用の外套に身を包み、細い体を隠している。銀の髪は胸より下に届くほど長いが、紐で一つに縛られていた。

「ラーナ。どうした?」

「あなたこそ。いよいよ明日は決戦よ。肝心の勇者が体を休めなくてどうするの」

「おれは平気だ。体の丈夫さだけが取り柄だからな」

 いつもの少しかすれた声で、バルドラスは答える。

 心配そうに側に立ったのは、黒ずくめのゆったりとしたローブ姿に、つば広の三角帽子を被った女性だった。ラーナと呼ばれた彼女は、かじかんだ手を口元に近づけて暖める。

「はー……。ほら、こうすると、少し寒さが和らぐわ」

「きみは魔法を使ったほうが早いだろう」

「まぁね」ラーナは微笑んで肩をすくめる。「何を見てたの?」

 問われて、バルドラスはもう一度雄大な自然を振り仰ぐ。

 月は煌々と光を放っているが、木々の向こうに隠れた城の全容を望むことはできない。

「あそこに塔が見える。魔王城のものだろう」

「ああ、そうね……。ついに、私たちもここまでたどり着いたのね」

 ラーナは目を細め、感慨深げに吐息した。

 大陸の北端に位置する魔王城は一年を通して雪に閉ざされており、低い気温が肌を刺す。厚い防寒具に身を包まなければ、人が活動するのも難しい極寒の地だ。

 赤くなった指先を、ラーナは迷ったようにバルドラスに向けては、引っ込める。

「明日か」

「……そうよ。英気を養っておかないと」

「おれは、うまくやれるだろうか。世界中の期待を背負って」

「できるわ。あなただけじゃない。私も、ユミカも、ギーも。みんな、きっとうまくやる」

 仲間たちの名前を呼びながら、ラーナはようやく勇気を出して、そっとバルドラスの腕に手を添えた。それに気づいているのかいないのか、バルドラスはラーナに視線を移した。

「……ああ。そうだな」怜悧さを感じさせる顔に笑みが浮かぶ。「ありがとう、ラーナ。さあ、明日は忙しい。早く戻って寝てしまおう」

「ええ」

 少しさみしげに笑い、ラーナは踵を返した。

 バルドラスはその背中を見送り、もう一度冬の山を仰ぐ。その風景にはなんの変わりもない。一年中冬だというこの地域であれば、恐らく一年を通していつでも、そんな光景なのだろうが。

 バルドラスは自分の指先が震えていることに気がついた。寒さのせいではない。武者震いか緊張か、あるいは恐怖かもしれない。拳を握りこんで、それを隠す。

 体を休めるべく、仲間たちのところへ戻ろうと振り返った。

 先を歩くラーナの背中が見えるはずだった。

 そこに、黒い衣服を身にまとう長身の男がいた。月明かりの下、腰まで届く暗く青い長髪と、金色の目が見える。表情は険しいが、整った顔立ちの男だ。

「おまえが勇者か」

 男が、どこか気だるげに開口する。

「あなたは……?」

「魔王サヴァリアだ。もう一度聞くぞ。おまえが勇者か?」

「なっ」

 バルドラスは言葉を失い、魔王と名乗る男の肩越しに、異変に気づくことなく遠ざかっていく仲間の背中を見つける。声をあげるべきか逡巡して、彼は自制した。

「確かに、おれが勇者バルドラスです。しかしなぜあなたがこんなところに」

「緊急事態だ。仲間を集めて今すぐ城へ来てもらいたい」

「そんな」うろたえ、バルドラスは視線を泳がせる。「決戦は明日の予定ですよね?」

「それどころじゃねえんだよ。勇者――いや、勇者役のバルドラスくん。よく聞けよ」

「はい」

 魔王は苦々しく表情を歪め、吐き捨てるように言う。

「俺の娘が誘拐された。おまえらも容疑者だ。明日の最終決戦を延期したくなけりゃ、娘の捜索を手伝え」


 ◇


「待って待って。ちょっと整理させてよ」

 雪に覆われた山道を、靴を濡らしながら登る。何度目かわからない魔法使いラーナの困惑した声。ざくざくと雪を踏み抜きながら、先頭を歩く魔王サヴァリアはまったく歩みを緩めず、振り返りもしないまま返事をした。

「何度目だ。魔法使いの……ラーナだったか? いいか、俺の娘――血は繋がってないが――養女のアニャエルがいなくなったんだ。明日には勇者一行との戦いが控えてる、この日にな」

「だからって誘拐っていうのは短絡的過ぎないかしら」

 二番目を歩くラーナが食いつくように反論するが、サヴァリアはひるまない。

「娘が自分から姿を消す理由はない。最終決戦手前で俺たちの邪魔をする理由なら、ある奴にはある。そうだろう?」

「一理あります」

 最後尾から、吟遊詩人カナタが同意する。その前を歩く格闘家ギーも静かに頷いた。サヴァリアが意を得たりと続ける。

「脅迫状の類でも届いてるのかも知れない。城の中を徹底的に探索したいんだが、それには人手が足りない。うちの連中はほとんど出払ってるからな」

「出払っているというのは? 明日は大事な決戦だというのに」

 ラーナの後ろから、勇者バルドラスが不思議そうに訊ねた。魔王は軽く肩をすくめる。

「最終決戦は映像も撮るだろ? 使用人が映ってたんじゃ台無しだからな」

「身の回りの世話をする方たちもいないのですか?」否定するようにかぶりを振って、バルドラスは言い直した。「いや――いないのか?」

「いい心がけだ、勇者。『旅路』を終えるまで、俺とおまえは魔王と勇者だからな。変に畏るもんじゃない」こんな状況だというのに、魔王はふてぶてしく笑みを覗かせる。「質問のほうだが、確かに俺は公爵家の人間だが、自分のこともできないほど子供でもないのさ」

 話しながらも、一行は雪の山道を急ぎ足に進む。

 先頭から魔王サヴァリア、魔法使いラーナ、勇者バルドラス。その腕にしがみつくようにして癒し手ユミカ、後ろに格闘家ギー、そして吟遊詩人カナタと続く。ユミカは持ち前の人見知りを発揮して、魔王に対しては警戒心をあらわにしていた。

 真夜中の雪山を登るのにも、彼らは苦心する様子もない。鍛えられた脚と体力は、長い旅で培われたものだ。明かりは月だけではなく、ラーナが魔法の光明を中空に漂わせていた。

 一行の荷物は吟遊詩人と格闘家がまとめて持っている。いずれもラーナが扱う、物体の重さをごまかす魔法によって重量が減らされていた。質量欺瞞といわれる高度な技術だ。

「それにしても、段取りが狂ったな」

 バルドラスが嘆くと、サヴァリアはふん、と鼻を鳴らした。

「段取りなんざ後からどうにでもなる。解決したら、城に入るところから撮り直せばいい」

「しかし、魔王。緊張感は薄れるんじゃないか? おれたちは臨場感のために、アドリブを重視して、ここまで顔合わせもしていなかったというのに」

「演技力が求められるな。だが、事は人命に関わる。俺の娘の命にな。影響を最小限に抑えるためにも、今夜は協力して欲しい」

「……確かに。いたいけな少女の命には変えがたい」

「おまえ、そういう趣味じゃねえだろうな?」

 バルドラスは怪訝な顔を返した。

「そういう、と言うと?」

「幼い女に欲情する性質じゃねえかってことさ」

「まさか。女性と子供は守るべきだと考えてるだけだ」

「なら、いいんだが」

 そんなことを話しているうちに、道が開けた。

 無数の冬枯れの木々に囲まれた広場は、地面がならされて平らになっている。その奥に城が鎮座していた。塀はなく、唐突に現れたような印象を受ける。

「これが、魔王城……」

 バルドラスが感慨深げになったのも無理はない。都を出て一年。この旅は決して平坦なものでも、平穏なものでもなかった。命の危険を感じることはほとんどなかったが、それすらも皆無ではない。長い道のりだった。

「左右の塔。独特の意匠格子の丸窓。黒塗りの壁面」ずっと黙っていたユミカがささやくように言う。「古ゴルサルド様式。綺麗なお城……」

「わかるか」魔王は人見知りの癒し手を一瞥する。「維持に大金がかかってるからな。古いくらいが取り柄だ。とにかく入れ。中は少し暖めてある」

 魔王はためらいもなく入り口に向かい、巨大な鋼鉄の門扉を押し開く。ぎしぎしと重厚な音が響く様は、まるで巨大な生き物が口を開くかのようだった。

 勇者一行は顔を見合わせて、城主に続いて門をくぐった。

 入ってみると、魔王の言う通り暖房が効いている。

「暖めてあるから入れ――って言われて魔王城に入っちゃうのは、どうなのかしら」

「言うな、ラーナ。緊張感が薄れる」

 勇者がたしなめる間にも、ロビーの壁燭に次々と明かりが灯っていく。サヴァリアの魔法に違いないが、鮮やかな手並みだった。

「悪いが、落ち着くのは後だ。城内の探索を頼みたい」

「わかった。だが指示は頼む。おれたちが勝手に探すより早いだろう」

「そうだな」魔王は夜露に湿った青い髪をかきあげる。「勇者はロビーから直結してる部屋だ。左の塔を格闘家、右を吟遊詩人。二階の左を魔法使い、右を癒し手。俺は二階奥を調べる。これでどうだ?」

「よし。みんな、いいな?」

 魔王の指示に、勇者一行が頷く。それぞれの持ち場に散った。

 バルドラスが担当したのはロビーから続く部屋だったが、どの部屋も普通の家が三軒ほどは入りそうな広さがある。

 それぞれ食堂、その奥の厨房、客室が二つ、喫煙室、遊戯室だった。異状は認められない。強いて言えば厨房に見慣れない瓶がいくつも置いてあったくらいだ。街では見かけない、魔法族らしい不可思議な物体だった。ジャムのようにも見える。さまざまな濃い色の瓶の中は見通せなかったが、まるで実験室の標本のようで、中身まで覗く気は起きない。人体でも浸かっていそうな雰囲気があった。もちろん、そんなはずはないのだが。

 最後に覗いた遊戯室にはバーカウンターまでついており、壁についた棚には世界中の酒瓶が並んでいた。いずれも人の姿はない。撞球台に薄く積もった埃を撫で、バルドラスは嘆息した。

「みんな!」

 声が響く。遊戯室を出ると、ロビーにユミカの姿があった。それぞれの持ち場から、ぞろぞろと一行が姿を現わす。

「これなんだけど……」

 緊張の面持ちで、ユミカは一枚の紙を差し出し、バルドラスがそれを受け取った。

「……読みあげよう」バルドラスは魔王に見えるように紙を持ちあげた。「魔王の娘アニャエル・ラグの身柄は預かった。無事に返して欲しければ、次の要求を飲まれたし。一、明日の十八時までに現金二〇〇億ゴルドを用意すること。受け渡しの方法については別途連絡する。二、勇者との最終決戦において、魔王サヴァリアは全力をもって勇者を撃破。魔王側の勝利に終えること」顔をあげると、誰もが困惑と動揺を露わにしていた。バルドラスは続ける。「……なお、この二点のいずれかが破られた時点で、アニャエル・ラグが無事な姿で帰ることはない」

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