スクール・ジョーカー〈熱血はずれ教師お笑い系〉

@DUMAS

第1話

 

1 先生は芸能人失敗男


① VIVA素人コメディアン


お笑いにはそれなりに自信があった。

 とてもプロほどのレベルではないが、素人としては面白いことを言う男であると自分で思っていた。

 ネタもそれなりに結構持っていてうまくしたらプロにでもなれるかもしれないなどと勘違いしていた。

 ともかく、お笑いのライブをやってコメディアンまがいのことをするのは何よりも楽しく充実感を感じることであった。

 その当時、テレビやラジオで売れ始めていた小堺一機、関根勤の2人がライブの場を求めて原宿に小さなスペースを設けてそこでお笑いのライブ活動をやっていた。

 看板はこの2人のみで、その他はこのライブに興味を持って集まった素人や、新人でこのライブは構成された。

 普段は喫茶店で、金曜日の夜だけこのライブをやっていたのでこの名をとってペニーレインライデーナイトライブと呼んでいた。

 小堺一機・関根勤以外は皆こういうライブは初挑戦の素人ばかりであったから、フライデーナイトライブはとても作品とはいえないような素人丸出しのものや客にツッコミを入れられてしまうようなものも多かった。

 そんな中、私は、そういう素人芸人的なものよりはいくらかなりとも評価されていたようで、小堺一機・関根勤のパフォーマンスがメインであるその直前あたりの前座をやらせてもらうことが多かった。

 普段、友人や仲間にくだらないことを言って笑わせることはよくやっていたが、全く会ったこともない初対面のお客さんを前にパフォーマンスをして笑ってもらうことは何よりも快感であった。

 自分の前の人のパフォーマンスがすごくウケていたりすると自分ので盛り下がってしまうとイヤだなと思ったり、自分の前の人のパフォーマンスが全然ウケないと、その日の客はノリが悪いから自分もウケないかもしれないと、自分の番の直前はいつもとても不安な気持ちに襲われる。

 しかし、いざ、観客の前に立ち、笑ってもらえる予定のところで笑ってもらえるとホッとするばかりではなく、ドッと会場全体でのまとまった笑いは私に日常では味わえぬ快感と絶大なる勇気を与えてくれた。

 知人でもない見知らぬ人たちに笑ってもらえるという感覚に浸ることは病みつきになっていた。

 大体いつも、何とかそうやってお客さんを笑わせて前座でも後ろの方の順番を保っていた。


② 女子高生がコワイ


 しかし、その日は全くダメだった。

 私はサラリーマンの男の哀愁をテーマにした。パフォーマンスをした。

 リハーサルではなかなか評価されて、その日も前座の中では後の方の順番になった。小堺一機・関根勤の2人のトークがメインに控えるその直前である。

 リハーサルでのスタッフのウケを見れば、今日もそれなりに前座として良い役割は果たせるだろうと思っていた。

 ところが、私は、夜になって客入れした後のその客席を見てアゼンとした。

 その日は冬休みが始まった頃だったからであろうか、何と普段と違い女子高生が客席のほとんどを占めていた。

 ライブにやっと慣れてきた私だったが、女子高生が占める客席を前にパフォーマンスするのは初めてだ。

 しかも、大人の男の悲哀が彼女たちに通じるだろうか。普段の何倍もの不安を感じた。

 元々、ネタとしても女子高生にウケるようなものではなかったかもしれないが、それ以上に、不安な気持ちはそのままステージでの私の姿にも表れていたようで、その日のパフォーマンスは、ウケて盛り上がるようなものとは、とても程遠いものであった。

 自分の番が始まり、まずしょっぱなのツカミの部分でウケず、自分自身のテンションも上がらず、むしろヒヤ汗で青くなるといった心理状態であった。ヤバイと思うと余計その後のところもヤバクなってしまって結局、ずっと盛り上がることなく自分の持ち時間が終わってしまった。

 前座でも後のいい所に置かれて少しばかりいい気になっていたプライドも吹っとんだ。自分はお笑いの素人であることを自覚した。女子高生という、私にとって高いハードルを予想通り乗り越えられずその会場の雰囲気に完璧に呑まれてしまった。そんな自分が情けなくてペニーレインの会場の片隅で打ちひしがれていた。

 ステージではメインの小堺一機・関根勤のトークとパフォーマンスが展開されていた。

 2人のステージは凄かった。

 リハーサルでは、サラリーマンやOLを対象というイメージでやっていたようだったが、客席が女子高生中心ということがわかるとすぐに内容を女子高生が喜ぶようなものにバージョンチェンジしてステージを進めていた。当然のごとく会場はいつもと変わらずの盛り上がりであった。私はその時、これがプロなのだなと痛感した。

 私などは、用意してきたネタをやるので精一杯だったが、プロは違う。

 ネタ以前に「お笑い」としての力があり、それにその日のネタを付け加えてステージを作り上げているのだ。

 だから、客席がサラリーマンであろうがOLであろうが女子高生であろうがたとえ子供であってもきちんと盛り上がるステージを作れるのだ。その盛り上がり方は安定している。

 素人である私は自分のペースで事が進んでいるときはいいが、ちょっとペースを乱されたり、思ってもいない状況においては、その空気を取り込んでまでトークやパフォーマンスを進めていくことがなかなか困難なことであった。

 「お笑い」にいくらか自信を持っていた私は、その時、その自信をすっかり失い、プロと素人との差を歴然と感じたのだった。


③ お笑いのプロとは


 素人で面白い人間はいくらでもいる。しかし、「お笑い」のプロと面白い素人との差は歴然としている。

 その違いは一体どこにあるのだろうか。

 思えば、小堺一機も関根勤も元々は素人であった。素人として「銀座NOW」(TBS系)の中の『素人コメディアン道場』に挑戦してそれで勝ち抜いてそれがきっかけで「お笑い」のプロになったと聞く。

 そもそもプロとして活躍している人たちも必ず素人の時代がある。

 素人がプロになって行く上で、何がどう変わり、どのようにしてプロと素人の違いが埋められていったのだろうか。

 勿論、そこには才能という重要な要素がある。

 「お笑い」の世界も、才能がないのに誰もがプロになれるほど甘いものではない。人間誰でも平等で、訓練されれば誰でもどうにでもなるなどと思ってはいない。

 どの分野においても、プロになる資質、ひいてはプロになる資格のある者とそうでない者がいてそれに値する者がプロになっている。

 そういう意味では、小堺一機・関根勤はじめ、プロとして活躍している多くの「お笑い」のプロはプロになる資格のある者だからその道で活躍しているという事ができる。

 では、この私はどうなのか。


 おそらく、そこまでの才能があったわけでもなく、また努力もそれほどしていなかった。

 ただ、常識にとらわれることなく、少々非常識な視点と思考をもっていてそこから発するユニークな部分はあって、それが仲間達を笑わせたり喜ばせたりしていることがあった。

 ただそれだけで「お笑い人」になったつもりになっていた。

 才能が無くとも、努力である程度のものはフォローできるという見方もあるかもしれない。

 しかし、それこそ、漫才界の大御所のオール阪神巨人が言うように、目を覚ましている時間はほとんどずっとお笑いのことを考えているというぐらいの姿勢でなくてはならないだろう。そうしてこそ築き上げられる芸というものを私はもちあわせているわけではなく、ただ少し器用にお笑いのABCをかじっただけなのだった。


④ コメディアン失格


 私にとってペニーレインのナイトライブショーで女子高生の客席を前に流した冷汗は、自分自身の甘さと至らなさを物語るトラウマになるほどの衝撃であった。

 実際、それまでの自分は、ウケない時の逃げも作っていて深く心に傷を負っていなかったが、こういったライブにおけるステージでは、「笑わせる」ために出てきている以外何もないわけで、逃げ道はなく、女子高生の客席にウケなかったことでかなり心に傷を負った。

 そして、たったそれぐらいのことで傷つく自分が「お笑い人」として何と甘くて情けないことかともう1人の自分の攻め文句にも傷ついた。

 自分を「情けない」と責めながら、それ以後、このペニーレインフライデーナイトライブの舞台に立つ勇気が湧かなかった。

 冬休みが終わり、客席はサラリーマンやOL、同世代中心になってもそのステージに立つ力は沸き起こってこなかった。

 ウケるべき所でウケない恐ろしさが身に浸みていた。

 それからしばらく時間がたつと、ウケるべき所でウケない恐ろしさは消えないものの、ウケた時の快感は忘れられず、ウケたいという欲望が日々高まっているのを感じた。

 しかし、女子高生を前にウケない自分ではどうにもならない。そのトラウマを克服しなければ、ステージに立つわけにはいかない。

 甘かった自分が負った心の傷を修復、いや超越しなければならないと思った。


⑤ 笑いのイロハ


 そんな時、ナイトライブをやっていたスタッフが、今度は、新宿のショッピングモール誕生のイベントとして、屋外のライブをやるという話を出してきた。

 屋外でのライブは、屋内のショースペースでやるよりもウケるための条件は悪く、きついものであるらしい。

 というのは、通りがかりの通行人を相手にするわけだから、通行人を引き止めるインパクトが無ければいけない。引き止めた上で興味をもって耳を傾けてもらい、そして笑いを取らなければならないのだ。

 しかし、私にとって、笑うためにショースペースに来ている人達を笑せられなかった重圧に比べれば、つまらなければ通り過ぎてくれてしまう通行人相手の方が気持ちはラクであった。通行人は通り過ぎてしまって元々だということで、考え方によってはそんな逃げ道のある屋外ライブは入っていきやすいと思った。


 新宿のショッピングモール完成イベントの一つ、特設ステージお笑いライブショーは、ペニーレインフライデーナイトライブのメンバーがほぼ出場することになり、勿論、その司会は小堺一機・関根勤のお二人であった。

 二人の軽妙なトークと司会ぶりは見事なもので、たちまち歩行者の足を止め、観客が集まってきた。

 二人は今ほど有名ではなかったが、「欽ちゃんのどこまでやるの」でコーナーをもっていて、顔が売れ始めていた頃だった。

 テレビ等で見かけた顔がいるというだけで歩行者はとりあえず足を止めるけれども、それはきっかけで、絶妙のトークが展開されていればこそ、その足を本当に引き止められる。

 小堺さん関根さんは、普段の小さなライブでやっているのと同様、その状況に応じたトークで見事に通りがかりの人達を楽しませ、しっかりとその場に足を止めさせている。

 足を止めた通行人が興味をもって耳を傾けそしてその期待に応えて笑わせる――それが確実にできるのである。

 ネタの部分もあり、アドリブの部分もあり、それがいついかなる時でも発揮される。これこそが「笑いの実力」なのだと思った。

 才能なのか努力なのかわからない。でも、とにかく凄いと思った。これがプロの力なのだと思った。(そしてそんな力を自分もたしなみたいと思った。)

 さて、司会の二人の紹介で次々とお笑いを目指す若者たちのパフォーマンスが始まる。

 こういう屋外での通行人を相手にしたライブでは、やはり何より人目を引く奇抜なものが手っとり早い。ウケやすい。

 このステージでもそういうキャラクター勝負のものが多かったが、しっかりとネタが練られていないと、単なるびっくりの笑いで終わってしまう。

 私と同レベルの素人同然のメンバーのパフォーマンスだから、実際、単に人目を引くだけのちょっとびっくりの笑いに終始していた傾向のライブであった。

 屋内のミニステージのライブではウケたものがこういう屋外の通行人相手だとあまりウケなかったりと、笑いというもののむずかしさ、そして環境を含めたその空気作りの重要性を痛感した。

 お笑いのパフォーマンスは、そのパフォーマーの姿、形、しゃべりから発するばかりでなく、そのパフォーマーの登場している場、そして背景、その全体に与える空気と一体となって成り立つものであることを感じた。

 同じ演者が同じネタを同じ格好してやったとしても、その演者のトーンやテンションが違えば観客に与えるものは全然違ってくる。

 また、同じ演者が同じネタを同じトーンや同じテンションでやっても、服装や格好が違うだけでも観客に与えるものは違ってくる。

 更に、同じ演者が同じネタを同じ格好して同じトーンや同じテンションでやったとしても、観客の場や空気が違えばその反応は全然違ったものになるのだ。

 屋外でやるときのやり方や、酒場でやる時のやり方や、そしてサラリーマン中心の客席の時にやるやり方や、子供中心の客席でやるやり方や、それぞれをあえて言えば「空気」としてわきまえていることが重要なことである。

 ネタやパフォーマンスは根本として必要であるが、それだけではなく、場をわかる感性こそ「お笑い人」にとってそれと同等あるいはそれ以上に必要なたしなみであるといえる。

 私は、女子高生中心の客席を前にして全くウケなかった理由が、この時、ごく当然のこととして、スッキリハッキリと見えてきた気がした。


⑥ コメディアン魂復活!?


 この当日の私のパフォーマンスは、単なる一人しゃべりの漫談でとりわけインパクトのあるものではなかった。「うちのバカ親父」というマヌケな親父という設定のドジ話をしたが、とりあえず、集ったお客さんをその場に止めておくことはできた。また、ドッという爆笑ではないものの、ウケるべきところではちょっとした笑いもとれたことでまあ自分では納得してホッとした。

 司会の関根さんからは、「空気をよくわかってやっていた。」という評価もしてもらい、出場者の半数以上の人がもらう参加賞レベルの賞ではあったが、一応、特別賞のうちの一人に入れてもらえた。

 私は、失いかけていた自信をいくらか取り戻した気分ではあった。

 しかし、今の自分はこれが精一杯であるということも悟った。

 小堺さん関根さんらプロとの力の差は歴然としていて、こういう場であるから出場者のうちの一人として成り立っているが、それ以上のものは自分にはない。素人として自己満足に浸っているだけではやはり寂しい気分であった。

 やはり、やるからにはプロでなければ仕方ない。

 そのためには何が必要か。

 それは何よりキャリアであると思った。

 自分に才能があるかないかはよくわからない。

 週に一回だけでも、フライデーナイトライブのステージに立つことはとても重要なキャリアにはなる。その部分に関してはそこに関っただけのいくらかのキャリアは持てた。しかし、年代の違う、特に若い世代の人達をもっと知らねばならない。

 同じ年代の中でもどちらかというと冷めていて老けた考え方をしていた私には、たったの10年とはいえ10才年下の世代の感覚とはギャップがあったように思う。

 その辺を何とか埋められる修行をしなくてはならないと思った。

 10代の女子高生らにウケない辛さはもう味わいたくないと思った。


⑦ 実は塾の先生


 私は、当時、「お笑い」についての自信はそこそこであったが、本当にもっと自信をもっている事があった。

 それは「英語」という教科の指導であった。

 学生時代から、友人が創設した塾で英語講師として手伝っていた。塾では、オリジナルの英語指導法を構築し、それは効果的で顕著な実績をあげることができた。

 私が指導すればどんな生徒でも英語を得意にさせると豪語して確実に結果も出すことができた。

 塾ばかりでなく、家庭教師も依頼されるようになり、常時5~6件は担当していた。

 だから、「お笑い人」を目指して停職に就いてはいなかったが、アルバイトにあくせくしたりせず、効率よくそれなりの収入は保たれていた。

 さて、そういう教育関係の仕事をしていると、10代の生徒たちと接するのだから、10代の若者のセンスも吸収しやすいのではないかと思われるかもしれない。

 しかし、その頃の私はそうではなかった。

 学生時代に始めた教師だったが、それゆえ私は塾では学生らしからぬ先生像を作っていた。  

 今考えると、学生は学生なりで、20代の若造は若造なりで良いと思えるのだが、その当時は、「先生」として、生徒との距離感を出そうと懸命になっていたような気がする。

 若さを前面に出すのではなく、若さというイメージをどちらかというと隠し、落ち着いた先生像を無理に作って生徒に接していた。

 塾では父兄の面接も常時やっていたが、この時も、いかにもベテランをきどるくらいの意識で接していた。見る人から見れば「若造」たる部分は見透かしていたかも知れないが、「若造」ではなく、「先生」らしく見られるように繕うことにエネルギーを使っていた。

 塾での私の授業は、どちらかというと自分の人間ぽい部分を出さず、ともかく英語をわかりやすく教えることに終始していていわばティーチングマシーン的であったかもしれない。

 対応も柔軟ではなく厳しく、独自の英語指導法をきちんと生徒全員に施すことによって成果をあげていた。

 生徒は私の授業を受けて、確かに英語がわかるようになり、そういう意味で塾で名物講師にはなっていたが、私の人間としての部分に面白さを感じたわけでもなく、生徒たちが心を開いて日常の事を色々話してきたりするわけではなかった。

 私は、英語の教え方で生徒をうならせ納得させれば良いとしか思ってなかった。

 私の中で、「お笑い人」としてライブに立っている時の自分と、塾で「先生」をやっている時の自分は全くリンクしていなかった。

 むしろ、全く対照的な自分の姿と認識してそれで自分なりの人格のバランスを保っていたようにさえ思う。


⑧ 単なる教える人でいいのか!?


 私は、フライデーナイトライブで女子高生にウケなかったことは、その事それ自体ショックであったが、そればかりでなく、広く色々な意味でショックであり、色々と考えさせられた。

 自分は、生徒を把握しきっている、そして生徒は自分を理解し、親しみ尊んでいる、また生徒の心を掴んでいると思っていたのは、英語の教師としてだけの事であるのが明らかだったからである。

 塾や家庭教師をしていて、生徒の反応はほぼ期待通りのことばかりであった。英語という指導を通じてはそれが成り立っていたが、「先生」と「生徒」という関係だけのものであり、自分も「英語を教えている生徒」以外の何も見えてなかったし見ようともしていなかった。

 だから、「英語を教える先生」としては機能していたかもしれないが、それ以上のものを私は何も感じたり、わかろうとして関わっていなかったという事である。

 ライブで女子高生の客席が期待通りの反応をしてくれなかったことで、そんな事も痛感していた。

 日常の中で、教師として十代の生徒たちと接しているのに何ともったいないことだろうとも思った。

 とはいえ、「じゃあ、明日から考えを改めて違った先生をしよう。」なんてことはできるものではない。

 何年も塾の教室で貫いてきたパーソナリティは容易に変えられるものではない。頭の中でわかっていて少し変えてそれを実践しても生徒たちにとってはそれは違和感にしかならない。

 英語指導にすべてをかけている熱血教師像から外れることは、生徒たちに許してもらえない関係が蓄積されている。言ってしまえばその指導力の部分でのみ信頼されている関係である。唐突に自分の私生活の部分を話したり冗談を連発することは、生徒に違和感を与えるだけである。ある意味では、よく言えばそれくらい英語指導のプロに徹してきたつもりはある。「笑いの場では笑いを、指導の場では指導を」という自分の引き出しの一つの部分に徹してこそ役者でありエンターティナーであると思っていたからだ。

 また、塾や家庭教師の仕事のニーズは、あくまでも教科の指導にあるわけで、時間の内で、いかに効率よく教材の内容を伝授して習得させるかということがすべてであり、それが実現できている状況の中で、それ以外のことをやろうとすることは妥当ではないと思っていた。

 それゆえ、思い立ったからとはいえ塾や家庭教師の仕事をするにあたり、違った先生像にはなりえなかった。

 ただ、私のイマジネーションの中では、単に教科指導に熱心な自分のパーソナリティ以外の教師像がふくらんでいった。


⑨ パフォーマンスとしての先生


 様々なシチュエーションにおいて、イマジネーションの中で色々な教師としてのあり方をシミュレーションする。それによって生徒の反応も随分様々に違ってくるであろう。

 生徒の注意を引くにしても、先生の表情、言葉、声のトーン、間の取り方……すべての

所作のあり方によって生徒の反応は違ってくる。その所作の一つ一つは先生のその人たるパーソナリティから発する表現であり、生徒は先生の所作一つ一つを見てそこからその人のパーソナリティを見い出そうとする。

 そこから、先生と生徒の関係、ひいては人と人との関係ができる。

 本当はそういう人間たる部分こそが人と人との関わりの醍醐味であり、沢山の生徒に関わっていながら、そういう部分を考えることもなく、ただ機械的に英語を教える存在にしかすぎなかったことは何ともったいなかったことであろうか。


 自分の中で、お笑いのパフォーマーをやっているときと、塾で英語教師をやっているときは、明らかに自分という人格を使い分けていた。そしてそれをスッキリと使い分けていることこそがパフォーマーとしてのたしなみであると考えていた。

 塾の生徒が、私が実はお笑いのショーに出ているなんてことは微塵も想像さえつかぬように振る舞っていた。また、お笑いをやっているときは、この人が英語の教師であるはずなど考えられる余地がないように努めていた。

 だが、ふとしたときに、いずれも、正面に人間を相手にしている時間であるなと思った。

 また、いずれも、正面にいる人間に、何かを伝えることをしている時間であることが共通しているなと感じた。そして、その人たちに何かを与えていることも同様であるということを痛切に感じた。

 そういう意味では、英語の教師は、ただ英語についてを生徒に伝え、教えるだけではなく、パフォーマンスの絶好の舞台ともなりうるのである。

 その方が、無味乾燥なティーチングマシーンという人格より、あるいは単なる熱血教師であるより、生徒に対する人間的な関わりもより血が通ったものになるにちがいない。

そんな発想がみるみる頭の中を渦巻いた。

思いっきりパフォーマンスティーチャーという新しい自分を自己実現してみたいという思いが募った。


⑩ 先生の悩み


 しかし、塾の教師というのは、あくまでも生徒の教科の指導においていかに効果的であるか合理的であるかということこそ問われる。

 その点に関しては、たとえティーチングマシーンであっても、我ながらプロとして成り立っていたように思う。

 多くの生徒が私の指導で英語がわかるようになり救われたと言ってくれ自分でもその感触を得ていた。塾長にも評価され、テキストも指導法もすべてをまかされていた。

 だから、塾での教師としての姿は、むやみに変えるわけにはいかなかった。

 序々にパフォーマンスの要素を取り入れていくことは不可能ではないが、急に、パーソナリティが違ってしまうことはその塾にとっても生徒たちにとっても良いはずはなかった。

 だから、塾で生徒というお客さんを前にしても、彼らを観客という扱いにしてパフォーマンスティーチャーを演じるには至らなかった。


⑪ お笑いの世界の実情


 エンタテナー、パフォーマーとして最も重要なことは観客がいる場でキャリアを積むこと――ともかくそう考えていた。

 とはいえ、なかなかそんなチャンスはあるものではない。

 場がなければ始まらない。場があっても、観客が集まってくれなければ単なる自己満足である。知人や友人を呼んでもそれは自分に都合良いだけの場であり修行にも何にもならない。

 最近でこそ、吉本興業が東京に進出して以来、お笑いのためのショースペースはけっこう増えてチャンスは広がった。

 吉本興業ばかりでなく、大手芸能プロダクションもコメディアン志望の若者たちに今では大きく門戸を開いている。そしてそれが今日のお笑い芸人が多数輩出される土壌となっている。

 一早くそれを察知して場を提供してくれていたのは、東京では浅井企画と渡辺プロであったと思う。

 私が小堺一機・関根勤の出演する原宿ペニーレインのフライデーナイトライブに出演していたのも、二人の所属する浅井企画が、東京のお笑い界の活性化の必要性を痛感してショースペースとして企画されたことによる。

 また、テレビ創世記から言わゆる「お笑い番組」に貢献してきた老舗、渡辺プロも、吉本興業が東京進出して席巻する前の東京で、新しい笑いを開拓しようとB・T(ビッグサーズデー)というお笑い専門の集団を設立して、後の第三次お笑いブームを見越しそれに備えていた。

 このB・TからはABブラザーズの中山秀征やホンジャマカの恵俊彰、石橋英彦らが輩出され現在も大活躍中である。

 実際、私がお笑いの修行をしたいと思っていた時代以前は、浅草などのストリップ劇場でという方法ぐらいしか発想はできなかった。


⑫ お笑い一筋になれず


 お笑い志望の私であったが、教師としての自分は捨てられなかった。

 当時、収入は塾の教師と家庭教師として得たものがほとんどであった。

 本来なら、お笑いの修行に没頭するのが妥当であったと思う。しかし、英語の教師をやれば評価され、収入も容易に得られていた。

 バブルの時期ではあったが、良い時は時給にして1時間7000円以上で英語教師をやっていたので教師は捨てられなかった。

 そういう意味では志の割にハンパなあり方であった。芸一筋でお笑い修行することにはならなかった。

 浅井企画とも渡辺プロとも関わってはいたが、ネタ見せの機会はどんどん減るばかりで。、ステージに立つ機会も減る一方であった。

 客観的に見るならば、誰もが英語の教師としてやっていくのが良いと思ったはずである。


 私は、塾の教師や家庭教師をやりながら、フラストレーションはたまっていた。収入を減らしても時間を作ってお笑い修業をしたかったが、家庭教師は評判をきいたと頼まれるとそれはそれで粋に感じて引き受けた。塾の他に常時5~6件受けもっていた。

 塾も家庭教師も、生徒達が学校から帰ってきて以降の仕事だから、夕方以降がスケジュールはタイトになる。

 お笑いのパフォーマンスのショーや集ってする練習も夕方以降に行なわれるのがほとんどであったから、物理的にも教師を捨てない限り、お笑いとしての自分を確立させることはままならない状況であった。そしてそんな中、私は気持ちはエンタテナーでも実際は教⑬半端な立場ですごしていた。


⑬ 真昼のお笑い修業


 そんな折、電光石火のようにアイディアが浮かんだ。

 日中の空いている時間にお笑い修業ができないものだろうか。

 いや、そうではない。日中の空いている時間に教師はできないものだろうか。

 そうだ、学校だ。学校がある。

 学校はデイタイムの仕事だ、学校なら教師としての自分の技能を生かせる。

 塾教師、家庭教師をしてこれだけ評価されている私が学校の教壇に立ったなら、それこそ単なるサラリーマン教師らが淡々とやっている授業とは比較にならないほどのものができるはずだ。どんな授業をやっていてもクビにもならない安穏とした公立学校に革命を起こせるかも知れないと思った。

 そしてそれ以上にもっと大きく学校という場に魅力を感じたことがある。

 学校には常に教室に満員の観客がいる。生徒という観客がいる。

 「学校をパフォーマンスの場にしよう。」

 いささか、いやかなり不謹慎ではあるが、そう思った。

 私がフライデーナイトライブで苦労した女子高校生、更にはそれよりもっと年齢のギャップがある中学生、そういう彼ら彼女たちの感性を掴むことはパフォーマーとしての自分にとって最も喝望することである。

 学校こそ私の修業の場として最適である――そう確信した。

 同時に、それまでの自分の教師としての反省もふまえて、単に効果的に教えるティーチングマシーンのような自分ではなく、もっと人間ぽくそして個性的な、パーソナルな部分が問われる血の通った教師をやりたいと思った。

 仕事としてではなく、生の自分の本気の部分で生徒と関わり、自分とギャップのある世代の感性を盗みたいと思った。

 教室での生徒たちの前でのパフォーマンスこそ何より修業になるだろうと思った。

 そう思った時、私にとって、学校は、キラキラと輝くとても魅力的な所に感じられた。


⑭ 公立中学校が舞台だ!!


 私の潜在的意識のどこかに、学校の教師になりたいというものがあったのかもしれない。

 大学時代に英語の教育免許状を取得していた。だから教員採用試験に合格すれば教師になることは可能であった。

 早速、母校の大学の教職課へ相談に行った。

 1988年4月、当時私が28歳の時であった。

 教員免許状をもっていても、教職関係に全く知識がなく、翌年4月の採用のための教員採用試験が7月に行なわれることも私はその時初めて知った。

 実際、全くそのための勉強をしてなかった私が、わずか数カ月で合格するのはむずかしいのではないかと言われた。

 そして、それよりも、実は丁度今、東京都のある学校で一人英語の教師が病気で倒れてしまい、その代理の英語教師を探しているところだという話があった。

 たまたま、私の母校の出身の英語教師がその学校に勤務しており、パートナーのもう1人の英語教師が倒れて困っている状態だったので、母校にも代理候補はいないかと藁をもすがる思いで問い合わせていたようだ。

 実際、新学期が始まったばかりで各学校のシフトも固った状況でのことだったらしく、教育委員会も、すぐに代理の教員を手配できずにいたらしい。

 私が母校の大学の教職課にふと思いつきのように立ち寄ってそれからわずか一週間もしないうちに、何と私は、公立中学校の英語教師として、母校の大学の先輩の英語教師のいる海浜中学校(仮称)に勤務することになったのである。

 我ながらこのトントン拍子には本当にびっくりしている。

 一週間前には、学校の教壇に立つなどということは現実に考えもしなかった事なのだが、わずか一週間で、私は中学校教師になっていた。この時の事は今でも不思議な流れだったと感じている。まさに奇跡的な現実であった。


⑮ 演技力の実験


 新たに公立中学校の教壇に立つことになり、とりわけ何の準備もプレッシャーもなくその日を迎える。

 英語の指導法には自信をもっていたからである。

 授業の作り方は、どうするかなどについては全く考えて悩んだりする必要を感じないぐらいゆとりがあった。

 しかし、中学校教師として仕事をするにあたり、中学生を前に、どのようなパーソナリティで関わろうかということについてはその準備にかなり色々と考えを及ばせた。 

 そしてそれは(不謹慎であるかもしれない)ある実験をしてみようということで心の整理をつけた。

 生徒はどのようなタイプの先生にどのように反応するであろうか、どのようなパーソナリティの先生が生徒たちに最もウケるのか、そしてどのような先生が生徒たちに支持され、また、教育的に効果をあげられるのだろうか。

 これを身をもって学校現場で実験してみたいと思ったのである。

 そこで、先生としてのパーソナリティを単純に2つの尺度によって4つの型に分けて考えてみた。

 まずは、恐い先生か優しい先生かということ。そして、もう1つは堅い先生か面白い先生かという尺度である。

 私は、丁度、その年度四つのクラスを受けもつことになった。

 そこで、一つのクラスでは恐くて堅い先生、もう一つのクラスは恐いが面白い先生、そしてまた別のクラスでは優しくて堅い先生、そして更にもう一つのクラスは優しくて面白い先生という四つのタイプを使い分けてそれぞれ生徒の反応の違いを引き出してみようと考えた。これは、私にとって、演技力の真価が問われるとても楽しみなことであった。

 学校の教壇に立って仕事をする前に、このことは自分で準備してから入ろうと思った。


 そしてもう一つ心の準備としては、どのような生徒に対しても常に気後れすることなく積極的に関わろうということであった。余計なことと思われようが鬱陶しいと思われようが、ともかくむやみにコンタクトしようと思った。ただ単に教室で授業するだけではなく生徒たちとぶつかるぐらいに執ように関ってみようと思った。そうしてこそ、表面だけでは見えないいろいろなものが見えてきて、そういう年齢のギャップのある者たちのセンスがいくらかでも体得できるだろうと思った。


 さて、四つのタイプの先生として、身につける衣裳によってそれぞれチャラを立てることはできるはずであるが、学校で各時間ごとに着ている物を替えるわけにはいかないので服装については、とりわけキャラ立ては考えずにシンプルにした。

 ただ、塾で仕事をしている時は、二十代だったがどちらかといえば老けた落ち着きのあるイメージという方向性の服装を心掛けていた。

 父兄と面接をするときもあり、ともかく若く見られてしまわないようにいう意識であった。

 しかし、学校の教壇に立つに至り、落ち着いて見られるようにしようという意識はなくむしろ、生徒の年齢に近い方向性を主眼においた服装を心掛けた・「落ち着いた」や「きちんとしている」よりも、「若々しさ」や「格好よさ」を身なりについては重視した。

 ほんの数日ではあったが、学校の教壇に立つ前にこれらのことだけは心の中で準備をした。それ以外のことは考える余地もなく、すぐさま私の中学校の教師としての生活が始まった。

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