少女と絵描き
第2幕 第3話 少女と絵描き
つばの大きな白い帽子で夏の強い陽射しを遮りながら、女の子は昼下がりの町を歩いていた。陽射しで熱されたアスファルトを、彼女の履くサンダルに付いたヒールが叩くたび、小気味よい固い音が鳴った。女の子が一歩足を踏み出すたびに、首から下げられた古ぼけたカメラが小さく跳ねた。彼女のそばを車が駆け抜けると、車を追いかける慌ただしい風が女の子の白いワンピースにぶつかってすそを揺らす。
気温が高かった。いよいよ夏も本番を迎えているらしい。小さな町だったが、町の中は人と車で溢れかえっていた。街路樹も花壇の花々も太陽の恵みをいっぱいに浴びてきらきらと輝いていた。あちらこちらへ忙しなく飛び回る小鳥たち、列を成してせっせと食料を運ぶ働きアリ、人々の喧騒。世界は光に満ち、生命のにぎわいで溢れていた。
女の子は陽の照るアスファルトの道にときおり現れる建物の影や、街路樹の影を見つけるとその中に避難した。影から影へ移動するようにして歩いて行く。女の子は木陰の中でしばらく立ち止まった。肩から下げた白い鞄の中から薄桃色のハンカチを取り出すと、顔や首の汗を拭う。女の子は、まるで身体の中にこもった熱を吐き出すようにして、深く長い息を空中にゆっくりと放った。一向に身体の熱は逃げていかなかった。いま瞳に映る、光輝くこの景色は決して悪いものではなかったが、この暑さはどうともならない。
女の子は周囲をきょろきょろと見回した。ちらほらと飲食店はあるのだが、一度そこに入ってしまうと中の快適な冷気の誘惑に負けて、旅を中断してしまいそうなので女の子は敢えてそれらを選択肢の中から除外した。ハンカチで絶えず流れ出てくる汗を拭いながら、女の子はこれからどうするか考えていた。
女の子の耳が、かすかに何かが水面に叩きつけられる音を捉えた。その涼やかな音の方を見てみる。女の子のいる場所からすこし行ったところに小さな公園があるようだった。そこの噴水から、音は響いていた。適度に休むにはちょうど良さそうだった。
彼女はハンカチを鞄に仕舞い込むと、木陰から出た。焼けつくような太陽の光が彼女の白い肌に射す。女の子はいそいそと早足で公園へと歩いて行った。
公園には若草色の芝生の絨毯が敷き詰められていた。休むためのベンチはちょうど木陰の中に設置されていた。女の子はすぐ、空いているベンチに腰を下ろした。
白い帽子を脱ぎ、パタパタと扇いで涼む。公園の中央では、噴水が絶えず涼やかな音を鳴らし続けていた。こうしていると心地良いが、一つ言うなら、車道を走る車の走行音が耳障りだった。
女の子は身体をベンチに預けた。深く呼吸をする。
木々や草花が空気を浄化しているのか、ここの空気は新鮮だった。ここに比べればいままで歩いて来たアスファルトの道のなんたる空気の悪さであろうか。熱された排ガスをずっと吸いながら歩いてきたのだと思うとぞっとする。だがそれにも慣れてしまって、それが普通だと思い込んで、なんの違和感も抱かなくなっていた。
浄化された自然の空気を深く吸い、身体に満たしながら女の子はぼんやりとそんなことを考えていた。
右の足がむずがゆくなった。
なにかと思い、女の子は自分の右足に視線を落とした。そのむずがゆさの犯人は、間違えて女の子の足に登ってきてしまった働きアリだった。女の子はドキリとしながら手で黒い小さなアリを払いのけた。アリは突然の猛襲に驚き、生命の危機を感じたのか大慌てで走り去っていった。
女の子はその様子を見ながらまた考えた。
あの小さな生物も自分のように思考し、生きているのだろうか。世界はどんなふうに見えているのだろうか。さきほどのことに対してどう思い、どういう判断をしたのだろうか。
そんな、答えの出ない疑問をぼんやりと頭の中に思い浮かべていた。
近くで泣き声が聞こえた。自分よりも小さな男の子が地面に倒れ込んでいた。女の子は手にしていた白い帽子をかぶり直すと、その子の方へ近付いていった。
女の子はだれかに、人を助けることを教わった記憶がある。その内容だけが本に書かれた文字のようにして思考の中にあった。記憶は助けるべきだと自分に言っていた。だが少女は、助けるべきだ、助けなければならないという、他者や世間から教え込まれた強制的な観念で身体を動かしたわけではなかった。
助ける。ただそれだけだった。
自分が助ける。この場における自分の行動の選択肢の中から、それを選択し、行動した。
「だいじょうぶ?」
女の子は優しく声をかけた。男の子は泣き声を懸命に抑えて女の子を見た。
男の子は膝をすりむいていた。傷口からは微量に血が滲み出ている。
「血が出ちゃったね。すこし待ってて。」
男の子は小さくうなずいた。女の子はそれを確認して、噴水の方に駆けて行った。
女の子は鞄から薄桃色のハンカチを取り出すと、空中に打ち上げられた無数の飛沫の中にハンカチを手ごと突っ込んだ。ひんやりとしていて心地良かった。飛び散る飛沫の中でハンカチを洗う。ぎゅっとハンカチを絞って水を切り、それを手に女の子は男の子のところへ戻って来た。
「ちょっと滲みるかもしれないけど、がまんしてね。」
男の子はまたうなずいた。女の子は極めて優しく、紅く滲んだ傷口を薄桃色のハンカチでとんとんと叩くようにして、幹部にくっついた砂や土といった汚れを簡易的ではあるが拭い取っていった。男の子はときどきうめいたが、もう泣かずにじっとこらえていた。
「はい。あとはちゃんと消毒して、手当てするんだよ。」
「うん。ありがとう。おねえちゃん。ぼく、バナードっていうんだ。
おねえちゃんの名前は?」
男の子は真っ直ぐな目をしていた。その瞳は女の子と同じで、蒼く煌めいていた。
「バナード。かっこいい名前だね。わたしは、オフィーリア。」
「うん! 覚えた! ありがとう。」
「気を付けてね。」
男の子は手を振りながら元気に走り去っていった。
女の子はそのうしろ姿に手を振りながら見送った。彼がやがて前を向き、手を振るのをやめると、彼女も手を下ろした。女の子は手にしていた薄桃色のハンカチに視線を落とした。ところどころに、紅が滲み込んでいた。彼女はまた噴水へと向かった。
女の子は先ほどと同じように、ハンカチを噴水の水で洗った。吹き上げられた水が叩きつけられて打ち砕かれ、霧状になり、辺りに漂っている。その細かな水が熱を吸収しているのか、噴水の周辺は他と比べて温度が低かった。
女の子はハンカチを絞って水をしっかり切ると、白い鞄の中に元通りに仕舞った。それから女の子は噴き上がっては、水面に叩きつけられる水を眺めていた。
女の子はやがて噴水から離れて、木陰のベンチへと戻ろうと歩き始めた。その途中で一人の男性とすれ違った。もう若くはない男性だった。青いジーンズに、黄緑色のパリッとした生地のシャツを着ていた。
彼は右手に単行本サイズの手帳のようなものを持っていた。表紙はワインレッドで固そうだった。
その男性を気に掛けながら、女の子はベンチに座った。座ってからも、女の子はその男性を見ていた。彼は立ち止まって周囲をうかがっていた。すぐにどこかへ移動する。そしてまたすぐに立ち止まって周囲をぐるりと見回す。それを何度も何度も繰り返していた。
女の子は彼に対して興味を抱き始めた。彼がなにをしているのか、なにをしようとしているのか、そのことが気になり始めた。そしてそれと同時に、なにやら自分に近しいものを感じた。どこかが、自分と重なり合っているような、そんな不確かであいまいな共感だった。
無意識に彼女はその男性の方へ歩き始めた。
「あの。」
女の子は男性の背後から声をかけた。男性は驚いた様子で振り返った。
「なにしてるんですか?」
「ああ、絵を描こうとしているんだけど、いい景色が見つからなくてね。
決して、怪しい者じゃないよ。」
彼は額の汗を手のひらで拭いながら応えた。
「お嬢ちゃんは、写真を撮りに来たのかな?」
女の子が首から下げたカメラを見て、男性は言った。
「ううん。すこし休憩に。」
「そうかい。」
「いい景色って、どんな景色なんですか?」
女の子の質問に対して、彼は悩んだようだった。眉間にしわを寄せてくちびるをとがらせ、低い声でうなりながら中空に視線を泳がせる。
「ぼくが描きたいって思う景色、かな。なかなか、見つからないんだ。」
先ほど、女の子が彼に対して抱いたあいまいな共感は確信に変わった。
自分が写真を撮りたいと思う景色に出逢えないときと同じだった。以前の、胸の内にまったく流動が生まれない頃の自分ではいまいち理解ができないことであったろうが、いまの女の子には彼の気持ちがよくわかった。そのもどかしさと、流動が生まれたときのなんとも言えない胸の高鳴りに共感を抱くことができた。
「じゃあ、わたしと同じなんですね。」
女の子はカメラにそっと右手を添えた。
「お嬢ちゃんも、撮りたい景色が見つからないのかい?」
こんどは女の子が考える番だった。確かに旅をして、その思い出や景色を写真に撮っているが、撮りたい景色を探して旅をしているわけではなかった。
「撮りたい景色を探してるわけじゃないから、それとはちょっと違う、かな?」
「なるほど、ね。」
「スケッチブック、見せてくれませんか?」
「ああ、いいよ。」
二人は熱い陽射しを避けて、並んで木陰のベンチに腰を下ろした。
彼からスケッチブックを受け取ると、女の子はさっそく表紙をめくった。一ページ目の画用紙には彼の名前が鉛筆でLow・Roland,と書かれていた。それが彼の名前だった。その下には彼の住所と、このスケッチブックを使い始めた日にちも記してあった。
「ロウ・ローランドさん?」
「そう。」
「かっこいい名前ですね。」
「ありがとう。」
「あ。オフィーリアといいます。」
「へぇ。良い名前だね。オフィーリアかぁ…。」
ロウは腕組みをしてなにかを考えているような、小難しい表情をしていた。
女の子はそんな彼の表情を横目でちらと見ていた。視線をスケッチブックに戻して、次のページへ進む。
そこには色鉛筆で描かれた赤いリンゴがあった。どうやら木に生っているところを描いたらしく、細い木の枝と緑色の葉っぱも映りこんでいた。リンゴの表面はつやっとしていてとてもみずみずしかった。光を反射していて、新鮮さがよく伝わってくる。このままもぎ取って頬張れば、芳醇な果汁が口いっぱいに広がって、乾いた喉を気持ちよくくすぐってくれるだろう。女の子は無性にリンゴが食べたくなった。葉も丁寧に描かれていて、葉脈の刻みまで鮮明に浮かび上がっている。
きれいな絵だった。
彼の描く絵はきれいだった。繊細で、触れると崩れ去ってしまいそうな、ガラス細工のような透明感のある色使い、線だった。優しさが絵全体から溢れ出ている。それは物や景色だけではなく、人物画にしてもそうだった。
「ハムレットって、知ってるかい?」
ロウが訊いた。
「いえ、知りません。」
「そうかぁ…。」
ロウはふらりとベンチから立ち上がった。女の子の座るベンチから距離を取ると、日向で振り返った。その様子を女の子は不思議に思い、スケッチブックから目を離して見ていた。彼はジーンズのポケットに手を入れたまま、じっと女の子を眺めている。
その奇妙な空気の中で、女の子と彼の視線の交錯はしばし続いた。
先に膠着状態を破ったのはロウの方だった。彼は表情に活力を溢れさせながらベンチに戻って来た。
「きみは、ジョナサンっていう画家は知ってるかな?」
「知らないです。」
「ははは。そっか。ぼくの友人なんだよ。いまでもよくケンカしてるんだけどね。
彼はね、ぼくが絵を描いて見せたら決まって、こう言うんだよ。
きみの絵はきれいだ。それは認める。だけど、衝動が無いんだよ。
きみの絵は、きみが優しい心でモチーフを描いてあげただけに過ぎない。
って、ね。こう言うんだよ。」
ロウは笑いながら言った。女の子はあまり笑えなかった。胸の内に熱湯がふつふつと湧き出ているような、そんな激情を抱いた。
「ひどいじゃないですか。こんなに、あったかい絵なのに。そんなこと…。」
「もちろんね、ぼくも言うんだよ。きみの絵だって、きみが好き勝手に、
自分の衝動のままに描いた絵じゃないか。モチーフへの愛が足りない。ってね。
でもねぇ…。」
ロウはすこしだけ声を落ち着かせた。
「彼の言うことが、ようやく、ようやくわかった気がするよ。
実は、彼の言うことを実践してみようと、衝動が起こるまで描かないと決めたんだ。
そしたら、まったく描けなくなった。それから、ぼくは描きたくなるものを探した。
そしていま、ようやく彼の言う衝動というやつがわかったんだよ。
もしよければ、いまこうしてここに座っているきみを描かせてほしい。」
彼は静かに強く言った。
「いいですよ。その代わり、描いてるところ、撮らせてくださいね。」
女の子は森の妖精のようにいたずらっぽく、そして、愛らしく笑った。
→第4話へ続く
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