感応

第2幕 第2話 感応



 夜、オフィーリアは満足げに手を大きく振りながら、自分の居場所に帰ってきた。その後ろを、茶色い毛並みをした子猫が追いかける。彼女はマイケルを気にかけながら、歩いて行った。家のドアを開けると、マイケルは遠慮がちに中へと入って行った。続いて、オフィーリアも家の中に入った。

 彼女は部屋の中央に設置されたテーブルに、白い鞄、首から下げていた古ぼけたカメラを置いた。着ていた服を脱いで、クローゼットの中に仕舞う。それから真っ白の就寝用のワンピースを身に着けた。食器棚の中から青と白のカップを取り出して、料理台に置く。続けて小さな手鍋に水を入れてコンロの上へ。つまみをひねって火を点けた。水を熱している間に、ポットと茶こし、茶葉を出してくる。マイケルはテーブルの上で丸くなって眠ってしまっていた。

 手鍋の中の湯がぼこぼこと泡を吹き上げ始めた。オフィーリアはポットに湯を満たした。しばらく放置して温めると、その湯はすべてシンクに流した。それからもう一度、ポットを熱湯で満たした。そこに、茶葉を入れて蓋をする。余った鍋の湯をカップに注いで、カップもあたためる。二分ちょっと茶葉を蒸らし、オフィーリアはカップの湯をシンクに流した。カップとポットを持って、テーブルへ移る。茶こしで茶葉がカップに入らないようにしながら、紅茶をカップに注ぐ。すぐに良い香りが部屋に満ちた。その香りに、マイケルが少しだけ目を開けてオフィーリアの持つカップを見た。そしてすぐにまた目を閉じた。

 一口、紅茶を飲む。レモンの香りが付けられたフレーバーティーだった。爽やかな香りと、ほどよい渋みが広がる。彼女は紅茶を飲みながら、日記帳にペンを走らせ始めた。今回の旅のことを事細かく記していく。

今回はいい旅だったと、記憶を振り返りながらオフィーリアは思った。いままで自分の中に見つけることができなかった、不思議なものが沸き上がった旅だった。そのこともオフィーリアは書こうと思った。

だが、ペンは止まった。どう文字にすればいいのかわからなかった。それらをあらわす言葉を、彼女は知らなかった。いや、知っていたのだろうが、どの言葉がどれに該当するのかがわからなかった。

オフィーリアは長いこと悩んでいた。

 そのうち、カップが空になってしまった。オフィーリアはポットから紅茶を注ぎ足した。飲みながら、また考える。やはり答えは出なかった。感情というものの部類に含まれていることはわかるのだが、その中のどれなのかがわからなかった。

嬉しい、悲しい、さみしい、苦しい、楽しい、愛しい、わびしい、もどかしい、恐ろしい、好ましい、知っている言葉を書き出していってみた。

やはり、どれがどういうものなのかわからなかった。

 オフィーリアは結局、答えを出せなかった。

やがて、なぜかまぶたが勝手に視界を遮り始めた。自分の認識している世界が途切れ途切れになっていく。自分の意識が曖昧になり始めた。それは彼女が睡眠を求め始めたということだったが、彼女はそれがわからなかった。

いままでこんなことはなかった。ただ、夜には眠るものだという知識と記憶があったので、その知識と誰かの言いつけに従いベッドへ横たわっていたのだった。

 彼女はこのままここで気を失ってしまうのはあまりよろしくないと思ったので、椅子から腰を上げてベッドに向かった。

やわらかなベッドに倒れ込むと、まくらを抱き締めた。いい心地だった。旅先でも同じようにして眠ったが、この不可思議な身体の状態で眠りにつこうとするのは、それよりもはるかに心地良かった。身体がふわふわと宙に浮いているような、それでいてやわらかな地面に沈み込んでいくような、なんとも言えない感覚だった。

 思考が次第に麻痺してくる。

オフィーリアは、眠りについた。


​♪♪♪


 また、オフィーリアは限りなく蒼い空と、その蒼を鏡のように映し出す大海原の前に立っていた。太陽は変わらず、蒼い空の中空に燦々と輝いていた。

オフィーリアは以前にもここに来たことがある。そのことはわかった。

鮮烈な青を覚えていた。

オフィーリアはまず、海底に咲く青いバラのことを思い出した。記憶が連鎖し、青いバラの咲き乱れる、エスの庭に囚われている彼女のことも続けて思い出した。青いバラを手折り続けている、真っ白の長い髪に七色の瞳をした悲しい表情の少女、イド・リビドー。彼女のこともはっきりと思い出した。

 オフィーリアは少しだけ、海の方に近付いた。高い崖の上に自分は立っていた。見下ろせば海は遠く、危険だと判断した理性が無理やり身体を引き下がらせようとする。その高さに対して、オフィーリアはなんとも思わなかった。なにも思わないのに、身体は止まる。

やはりどこかがおかしい。オフィーリアはそう思った。

どうも最近の自分はおかしい。そう思い始めていた。

「また、来てね。」

イドは別れ際に言った。その言葉がオフィーリアの止まった足を動かした。

気付いたときにはすでに彼女の足は地面を踏み外していた。

 海に引きずり込まれるように、オフィーリアの身体は真っ直ぐ落下していった。すさまじい浮遊感とともに、空間を切り裂いてオフィーリアの身体はぐんぐん海面へ近付いていく。

今回は見える景色が違っていた。前回に見たのは、どんどん遠くなっていく空だった。いまオフィーリアの蒼い瞳に映るのは、どんどん近付いていく、深く、青い海だった。オフィーリアはそのまま海面に激突した。

 痛みは無かった。激しい着水音はすぐに、水中の粘り気の強い音に掻き消された。

前と同じようにして、オフィーリアは海底に到着するのを静かに待つことにした。身体の中の空気を吐き出して、海水で満たした。空気と海水を交換するたびに、身体は沈む速度を速める。

 海には少し流れがあるらしかった。前回には海流は感じられなかったが、どうも先ほどから身体を見えない力で押されているような感覚がある。その力が通り過ぎると、オフィーリアの金色の髪が揺れ動いた。

 しばらく沈むと、クジラの鳴くような重い音が海中に響いた。なんと言っているのかは依然として解読できなかった。ときおり、小魚がオフィーリアのそばを通り過ぎた。銀色の鱗をわずかに鈍く輝かせながら、どこからともなくやってきては、どこへともなく去っていく。群れではない。一匹ずつだった。

 オフィーリアの視界には次第に太陽の光が届かない、深淵のような闇が広がってきていた。このまま沈めば間違いなくあの闇の中へ行くことになる。

 おかしい、と、オフィーリアは思った。

イドのいた、青いバラの咲き誇るエスの庭は闇に閉ざされてはいなかった。

目の前の暗い水底に、本当にエスの庭はあるのだろうか。このまま沈んでいっていいものか。このまま沈めばあの場所に辿り着けるのだろうかと、オフィーリアの心の中にざわざわとした落ち着かないなにかが沸き上がった。

腕で水を掻いて、身体を海面の方へ向けた。もうすでに、ずいぶんと太陽の光は遠くなってしまっている。

オフィーリアは引き返そうかと思ったが、すでに海水で身体の中は満たされており、少しも浮上する力は残されていなかった。それに海面へ浮き上がることができないのは、前回すでに実証済みだった。海底をどれだけ強く蹴って、もがいてみてもまったく浮上しなかった。

オフィーリアはまた腕を動かして、海底の方へ身体を向けた。

 やがて視界の青は黒に塗り潰された。いつしか水中に響いていた重い鳴き声も途絶えた。ただ一筋の光も存在しなかった。すべてが等しく静止して、音も光も存在しない世界に、オフィーリアは沈み続けた。

自分の身体が引き寄せられる黒い壁の向こうを必死に覗き見ようとする。彼女の蒼い双眸はなにも捉えない。身体の感じることでさえ、曖昧になってきた。自分の身体が沈んでいっているのか、それともその場に漂っているのかさえ、いまや判別できなかった。

 オフィーリアはぼんやりと闇を眺めていた。太陽の光を失ってからずいぶんと経った。こうも時間の経過を感じさせるものが無いと、その程度を計るのは難しいが、それでもずいぶんと経ったと思うくらいには時間が経った。それを示すように、暗黒の中から青い光が射し始めた。

初めは針の穴ほどの大きさだったが、それは次第に拡大していった。

オフィーリアは青いバラが海底一面に咲き乱れる、エスの庭に到達したのである。

 彼女は姿勢を元に戻して海底に着地した。青いバラの滑らかな感触が足の裏に伝わる。

彼女の着地と同時に脆いバラの花弁が散り、海底から天使の羽根のように舞い上がった。それらはオフィーリアの周囲を少しの間だけ漂うと、海水に溶けるように消えていった。

彼女は周囲を見渡した。青の中に、唯一浮かび上がる白を探す。

 前にここを訪ときと同じように、白い焔ははるか遠くに揺らめいていた。オフィーリアはそちらの方に歩いて行った。

イドはオフィーリアに背をむけてしゃがみ込み、相変わらず青いバラを駆逐しているようだった。来訪者にかまうことなく、青いバラを手折り続けていた。前回ここを訪れたときと比べて、青いバラの面積は減っているようには思えなかった。二人でバラを手折ったのがどこかわからないが、見渡してみても、海底の地盤が見えている個所は無かった。

「ひさしぶり。」

オフィーリアが声をかけた。その声に反応して、イドは手を止めて振り返った。七色の瞳が煌めいていた。

「また、来てくれたんだ。」

イドは嬉しそうに言った。

「うん。進んでる?」

イドは顔を伏せた。

「だめ。どれだけ引き抜いても、

また生えてきちゃう。」

イドは手近にあったバラを引き抜くと、水中に投げ捨てた。

「きみは、どうしてた?」

オフィーリアはイドの隣に腰を下ろした。

「日本っていう国に行ってみたよ。」

オフィーリアはバラを引き抜いて、その花弁を眺めながら言った。

「どうだった?」

「いい旅だったと思う。」

「そっか。きみはいいね。

行きたいところに行けて。」

イドが湿っぽく言った。オフィーリアの引き抜いたバラが花弁を四散させ始めた。その様子を彼女はじっと見つめていた。

「イドは、さ。」

オフィーリアは花弁の無くなったバラを投げた。

「ここから出られたら、

どうするの?」

「地上に、わたしのお庭を

作りたい。」

「そっか。じゃあ、

わたしも手伝うね。」

「ありがとう。うれしいよ。」

イドはにっこりと笑って言った。


――― うれしい ―――


オフィーリアはイドのきれいに笑った顔を見ながら、うれしいという言葉について考えた。自分の胸の内に沸き上がった、身体を勝手に動かす不可思議な流動のうち、どれがその、うれしいという言葉に当てはまるのかを懸命に考えた。

いま目の前で笑っているイドの状況を、自分が胸の内に流動を感じたときの状況に代入してみる。

真っ先に思い浮かんだのは、おじさんと大きな魚を釣り上げたときのことだった。いまのイドと非常に似た表情をしていたと思う。それよりも更に近いのは、旅へ出発する前に青い花を帽子のリボンに挿しこんで、一層きれいになった帽子をかぶったときの流動だ。オフィーリアはそのときの表情をいま一度、イドの表情を見ながら再現してみた。

無意識に身体が動いて形作ったものを、記憶を頼りにして意識的に作るというのは想像以上に困難なものだった。それはつまるところ、嘘を吐くということだった。自分の外側をあざむき、自分の内側を偽るという行為だった。それはオフィーリアにとって、非常に難しいことだった。

旅の出発前、帽子のリボンに青い花を飾り付けたときはすんなりとその顔ができたはずなのに、いまは顔をその形にしようとすると並々ならぬ労力と神経を使ってしまう。そしてせっかくそれに似た表情を作り上げても、すこし気を抜くとすぐにあっけなく崩れ去る。

オフィーリアは、無理に表情を作ることをやめた。

イドの表情はころころと変わる。まるで七色の瞳が角度によってその輝きを変えるように、長く白い髪が光の当たり具合と色合いで、その白を変化させるように、そのときどきで常に変化し続けた。

オフィーリアは注意深く、イドの表情を追った。イドの中では常にその流動があるようだった。目、ほお、口元、まゆ、鼻、などが彼女の中の流動に合わせて細かに動き、表情を変化させる。よく観察していないとわからないほどの小さなものもあった。

そしてそこから更に観察するうち、流動によって変化するのは表情だけではないことを発見した。手先や姿勢、呼吸、声に至るまで、その存在すべてが変化する。それほどまでに、胸の内に湧き出る流動は強い力を持っているようだった。

不思議なことが起こった。イドが笑うと、オフィーリアの中にも流動が沸き上がった。そして無意識にイドと同じような顔をしてしまった。相手と、笑い合ったのだ。オフィーリアはこの流動が、感応し合うものであることを知った。

「ふふ、うれしいな。」

イドがバラを抜く手を止めた。そして、オフィーリアに初めて向き合ってそう言った。

「どうして?」

「こうやって、だれかと

笑い合ったのは初めてだから。

たとえそれが…。」

イドがそこまで言ったとき、その次を遮るようにオフィーリアとイドの下から気泡が現れた。それを認めると、イドは表情を曇らせた。目を伏せ、口をつぐむ。

また、海底から空気が沸き上がった。あとを追うように、次々と白い泡が無数に現れ出ては上昇していく。

 青いバラが侵蝕するようにしてイドの身体を絡めとり、海底に縛り付けた。イドは悲しい表情をしていた。空気の泡はオフィーリアに襲い掛かり、体内に侵入し、彼女の身体を海面へと持ち上げにかかる。

オフィーリアは懸命に、青いバラに囚われたイドへ腕を伸ばした。

 不思議なことが起こった。イドは、泣き顔で笑っていた。

「ああ、オフィーリア…。」

か細い声は掻き消され、青い視界は白へと塗り替えられていった。


​♪♪♪


 オフィーリアは目を覚ました。その視界は滲んでいた。

両の目じりからしずくが伝い落ちていて、金色の髪を濡らしている。彼女は小さな手で目をこすった。彼女はまだ起き抜けでぼんやりとした意識の中で考えた。

 またあの夢を見た。夢の中には前回と同じ人物が出てきて、しかもその夢は前回に比べて進行していた。内容は事細かく覚えている。

イドは別れ際に、苦しそうな顔で笑っていた。先の夢で、胸の内に沸き上がった流動というものは他人に伝播し、感応し合うものであることをオフィーリアは知った。

自分の胸が苦しいのは、あのイドの顔に自分が感応したからではないかとオフィーリアは考えた。彼女があんな顔をするから、自分も苦しいのだと、そう解釈した。

そう考えてすぐ、オフィーリアはそれを否定した。

感応したのであれば、自分はいま、苦しみながら笑っていなければならなかった。だが自分はいま、笑っているようには思えなかった。

この水の正体はわからなかった。

オフィーリアは、自分の瞳から流れ出た水を、あの夢の中で飲んだ海水だと思った。

 オフィーリアはふと、自分の小さな胸に重さと息苦しさを感じた。それと同時に心地良い振動とぬくもりも感じた。掛け布団をそっとめくってみると、いつの間にか胸の上でマイケルが丸くなって眠っていた。

オフィーリアは無意識のうちに微笑んだ。彼女は寝息を立てる茶色い毛玉をそっと撫でてやった。

「きっと海水を飲んだから、

それが出ちゃったんだね。」

オフィーリアは眠っているマイケルに話しかけるように独り言をこぼした。




→第3話へ続く

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