少女と釣り人
第1幕 第4話 少女と釣り人
よく晴れていた。初夏の太陽はちょうど青い空のまんなかにあり、そよそよと心地よい風が大きな川の水面を揺さぶりながら吹いている。その風に合わせて、川岸に生い茂った背の高い草がゆらゆらと揺れていた。水面も背の高い草も、強い日差しを受けてキラキラ光り、遠くに見える山々は少し青く霞んでいる。
そんな、初夏の川べりを、つばの大きな白い帽子をかぶった女の子が一人、軽快に歩いていた。帽子の深緑のリボンには、青い花が飾り付けられている。首からは古ぼけたカメラが提げられていた。女の子が歩くごとに、かわいらしいサンダルに踏まれた砂がじゃりじゃりと音を立てた。女の子はどこに向かうでもなく足の進むまま、といった感じで歩いていった。
しばらく歩いて、川の幅が少し大きくなったところまで来たとき、何かが風を切る鋭い音が聞こえてきた。そして次の瞬間には何かがポチョンと水面に落ちた。女の子が音のした方向を見ると、やはり何かが水面に落ちたらしく、遠くで波紋がゆらゆらと広がっている。女の子はその広がっていく波紋の真ん中にぷかぷかと浮かぶ細長い棒のようなものを見つけたが、それが何なのかわからなくてじっと熱心に見つめていた。
すこし時間が経った時、その棒が突然川の中に引き込まれたかと思うと、少し遠くから興奮に満ちた声が聞こえてきたので、女の子はその声の方を向いた。そこには、真剣な表情で釣竿をしっかりと握り、あわただしくリールを巻いている、首に青いタオルを掛けたおじさんがいた。
「あ、釣りしてる。」
女の子はすぐに理解した。そして、おじさんが懸命にリールを巻くのをまた熱心にじっと見つめていた。
竿のしなりはいよいよ強くなり、かかった魚がよほど大きいのか、なかなか釣り上げることができない。おじさんの顔はトマトみたいにもう真っ赤だ。
女の子は必死にリールを巻き続けるおじさんをじっと見つめていた。水面が激しく飛沫を上げた。その飛沫の中、激しく揺れる水面に一瞬、キラッと銀色の光が反射して見えた。かかった大物が、もうすぐそこまで引き寄せられたのである。おじさんと大物の格闘を見守っていた女の子は、大物がおじさんに釣上げられるのか、はたまた大物が水中に逃れるのか、その勝負の決着を待った。
「大物が勝つほうに賭けよう。」
その勝負を眺めながら賭け事をしていた。
初夏の暑い太陽にも負けないような熱戦である。そしてこの勝負は女の子の勝ち、大物の勝ちとなった。ピンと張っていた細い透明な道糸が、大物と竿先の真ん中あたりで、ぷつり、と音を立てて切れた。すると、竿を大物に持っていかれまいと、思いっきり竿を後ろに引いていたおじさんは、そのまま豪快に、素っ頓狂な叫び声をあげながら、ひっくりかえってしまった。お見事としか言いようのないしりもちだ。それを見ていた女の子は思わず声を上げて笑ってしまった。その笑い声が聞こえたのだろう、砂利の地面に思い切りお尻を打ちつけたおじさんは、女の子の方を向いて恥ずかしそうにしながらよろよろと立ち上がった。手には糸の切れた釣竿がしっかりと握られている。おじさんは恥ずかしさをごまかすように、いてて、と言った。
女の子は、今回の旅を楽しいと感じた。それは初めて実感として自分の内側に現れた。いままでも様々な場所を訪れたが、自分の身体の中で説明しがたい衝動が生まれたのは初めてだった。その衝動は、笑いとなって女の子の外側に現れた。
「ざんねんだったね。」
女の子はにこにこしながら、照れ笑いをしているおじさんに話しかけた。
「恥ずかしいとこをみられちまったなぁ。お嬢ちゃんは、お散歩かい?
いや、違うか。外国の子だもんなぁ。日本語わかるのかい?」
おじさんは首にかけた青いタオルで顔の汗をぬぐいながら、相変わらず少し恥ずかしそうに女の子に応えた。
「旅行しているの。日本語、は、なんとなくわかるよ。なぜかわからないけど。
さっきのは日記に書いておくね。あ、写真撮っていい?」
女の子は首から提げられた古ぼけたカメラをさっと構えた。
「いやいや、せめて何か釣れてからにしてほしいなぁ。いま、仕掛けを直すから。」
おじさんはそう言うと、いそいそと近くに置いてあった釣具の入っているらしい道具箱のところまで行くと、よっこらせ、と言ってしゃがみこんだ。女の子もついていった。
浅黒い、チョコレートのような色の木で組まれた道具箱は、中でいくつかに部屋が分けられていた。部屋ごとに釣り針、おもり、金具といった具合に、いろんなものが種類ごとに入れられている。
おじさんは釣り針、おもり、それから変な形の金具を二つに、ウキを取り出して仕掛けを作り始め、ものの五分ほどで作業を完了した。その手際のよさに女の子はすっかり感心している。次におじさんは道具箱の近くに置いてあった小さなプラスチックの入れ物のふたを開けて、中からうねうねと動くミミズのような生き物を取り出した。これには女の子も少し抵抗があるのか、うわ、と小さな悲鳴を漏らして二歩下がった。
「これはね、アオイソメっていうんだ。」
おじさんはうねうねと動くアオイソメを釣り針につけ、川とは反対の方に竿をぐっと倒して仕掛けを投げ込む体勢を取る。
「投げるから、もう少し離れといで。」
女の子は素直に少し離れた。
おじさんは竿を軽く振り、仕掛けはさきほど女の子が耳にしたのとまったく同じ音を立てて飛んで、ポチョンと水面を揺らして着水した。その地点に細いウキがぷかぷかと浮いている。おじさんはリールを少し巻いて、たるんだ道糸をピンと張った。これから魚がエサに食いつくまで待つのだ。そのことは釣りをよく知らない女の子にも感じられた。
少し緑がかった大きな川は音も立てずに流れていく。ただ風が吹き、背の高い草が揺れる静かな音だけが辺りに満ちていた。きれいな景色だった。女の子はまるで、その静寂の空間を壊さないように、そっと、古ぼけたカメラを構えた。そして、釣りをするおじさんと初夏の太陽の日差しをキラキラと反射する、少し緑がかった川と、そのむこうにそびえる青く霞んだ山々、そして白い雲を浮かべた大空をフィルムに焼き付けた。
あたりに、カシャ、というシャッターを切る乾いた音が鳴って、すぐ静寂に溶けて消えていく。女の子は、それもまたきれいだなと思った。そしてその自分の中に生まれたなんとも言い難い感情を、写真のように残せないことが残念に思われた。
女の子はまたそっと、カメラを下ろした。
「いいところだろう。」
おじさんはにっこりと笑って言った。女の子もまたにっこりと笑って首を縦に振る。
自分はこんなに自然と笑えただろうか。
女の子はかすかな疑問を抱きながら、景色を眺めた。ゆっくりと流れていく川と、空に浮かんだ白い雲が、そのままここの時間の流れのようだ。
「今日は、なにか釣れたの?」
女の子は遠くの山を眺めながらぼんやりと訊ねた。
「いいや、さっきのが初めての当たりだな。」
「釣れなくても楽しいの?」
「うーん。」
おじさんは少し考えている風だ。左手で竿を握って、右手であごを掻いている。
女の子は、おじさんが思ったよりも考え始めたので少し驚いた。そして、その答えに興味と期待を抱いた。おじさんはしばらくの沈黙のあと、こう、答えた。
「釣れなくても楽しいぞ。何かを釣ろうと思って釣りをしてるんじゃないからなぁ。
釣りをするために、何かを釣ろうとしているんだ。
釣りの時間は、釣りを楽しむための時間だからねぇ。
ははは、お嬢ちゃんには、わからないかも知れないなぁ。」
「うーん。」
今度は、女の子が考える番になった。
言いたいことはわかる。つまり釣りをするという行為自体が楽しい、と、おじさんはこう言っているのだ。それを楽しむためには、なにかを釣るために竿を握らなければならないということもわかった。そこまではわかっても、釣れないのに楽しいということが、女の子にはいまいちピンとこなかった。
それも、初めて感じたことだった。いつもならば、言いたいこと、理論がわかれば、それ以上に問題は出てこない。それは一つの数式を公式に当てはめて、解を導き出したときによく似ている。解が出れば、それ以上に求めることはない。だが、どうやらいまの自分はそこから更に踏み込んで、なぜそうなるのかという途方もない原理に挑みかかっているらしかった。
おじさんはニコニコしながらも、ウキの方を向いている。しばらく考えたのち、自分にはわからないという結論に達し、彼女はまたプカプカと浮かぶウキに視線を戻した。
それからしばらく、会話はなかった。二人ともじっとウキを見つめたまま無言だった。あまりになにも起きないので、女の子は退屈な気分になってきていた。なぜこんなことをしているのだろうか。暑いし、釣れないし、動けない、この釣りという行為が途方もなく無駄なもののように感じられ始めた。
女の子が、もう行こうかと考え始めた時である。それまで静かに水面に浮かんでいたウキが、クンックンッと上下に震動したかと思うと、勢いよく水中に引きずり込まれた。
「きた!」
おじさんは嬉しそうに声を上げると、一度大きく竿を振って懸命にリールを巻き始めた。女の子はさきほどまでの退屈な気分など忘れて、水面を凝視した。
「嬢ちゃん、タモを取ってくれ。そこの虫あみみたいなやつだ。」
女の子は急いで道具箱の近くに置いてあったタモを拾い上げた。さきほどのように逃げられないためには、自分があみですくい上げなければならない。女の子は真剣な顔つきになった。
やがて、バシャバシャと飛沫を上げて、さっき見たのと同じ、銀色に輝く鱗を持った魚がすぐそこまで引き寄せられてきた。
「よし。」
女の子は眉間にしわを寄せて水中で暴れる魚との間合いを計る。そしてゆっくりとタモを水の中に入れて、魚の真下まで持ってきた。
「今だ!」
おじさんの指示と一緒に、女の子は魚をあみの中に入れてすくい上げようとした。しかし魚は、暴れるのと重いのとで女の子のか細い腕ではどうにもならない。女の子は歯をくいしばって重心を後ろにやった。それでも魚のほうが強い。
どうしよう、どうしよう、このままではさっきみたいに逃げられてしまう。
女の子の心に一瞬、不安がよぎった。しかし次の瞬間、さっきまでリールを巻いていたおじさんが竿を放り投げて女の子の持つタモを掴んで一緒に魚をすくい上げてくれた。魚はとうとう水から引き離されて、その銀色に輝く体をあらわにした。大きな魚だった。
「やったぁ!」
女の子は両手を打って喜んだ。おじさんも、やった、やったと言いながら道具箱のほうへ駆けて行き、巻尺とボロボロのタオルを持ってきた。タオルで魚を掴んで硬い口にひっかかった釣り針を外してから、巻尺で魚の大きさを測る。魚は銀色の鱗に、大きくてとがった立派な背びれを持っていた。
「これはなかなかでっかいな。五十一センチだ。」
「なんて名前なの。」
「こいつはね、スズキっていうんだ。若いやつらはシーバスって呼んでるな。
白身で美味しいぞ。煮付け、刺身、から揚げ、なんでもできる。
ちなみに出世魚で、俺たちはセイゴって呼ぶことが多いかな。」
「写真、撮らせてね。」
「いいとも。」
おじさんはスズキをしっかりと持って、川を背にして満面の笑みを浮かべている。女の子も、なんだか幸せな疲労感を感じながら、そっと古ぼけたカメラを構えて、シャッターを切った。
カシャ、という乾いた音が、静寂の中に響き、溶けて消えていった。
「ありがとう、おじさん。」
女の子はカメラを大事そうに抱えながら言った。
「こちらこそ。」
おじさんも目を細めて応えた。そして、魚を川から少し離れた地面に置くと、おじさんは釣竿を片付け始めた。日はまだ遠くの山のほうへ傾き始めたところだ。
「もう帰るの?」
「ああ、楽しかったし、こんなのも釣れちまったしな。
一度家に持って帰らないと腐っちまう。お嬢ちゃんは、これからどうする?」
女の子は少し考えてから、はっきりと答えた。
「わたしはまた、歩く。」
「旅行してるんだったね。次はどこに行くんだい?」
「それは、わたしにもわからないね。」
「そうかい。」
女の子はお別れを言うと、またどこへ向かうでもなく歩き始めた。
女の子の右側を流れる川は遥か彼方にまで続き、緩く左にカーブしている。このままずっと下って行けば海に着くのだろう。女の子はずうっと、歩いて行った。
♪♪♪
あれから、ずいぶんと時間が流れてからだった。
おじさんに、不思議なことが起こった。
ある朝、おじさんはいつものように郵便受けを開いて中のチラシやら封筒を取り出して縁側に座った。近々催される少し遠くの町の花火大会のお知らせ、親戚からの暑中見舞いの便り、などなど。その中に、小さな花が印刷された、薄い若草色のかわいらしい封筒があった。そこには差出人の名前、住所とともに、かわいらしい筆致でおじさんへ、と書いてあった。あまり日本語を書き慣れていないのかたどたどしい。住所は外国だった。
彼はすべてを理解した。彼は封筒の紙を傷つけないように、慎重に封を開けた。中には淡い桃色の便箋が一枚、それから写真が入っている。おじさんはまず写真を見た。輝く川と、山々と、大空を背景に浅黒い肌の男が、大きな魚を持って満足そうに笑っている。
あのときの写真だ。
少しその写真に見入った後、丁寧に折りたたまれた桃色の便箋を開いた。
『おじさんへ。
あの時はありがとうございました。とても楽しかったです。
おじさんのおかげで、とてもいい旅ができました。
ときどき、釣りをしている人を見るのですが、
釣れないとやっぱり退屈です。
釣れないのに楽しいというおじさんがふしぎです。
いつかまた、一緒に釣りをしましょう。
お元気で待っていてください。
Ophelia, 』
女の子らしい、丸い字で書かれていた。おじさんは唯一、異国の言葉で記された女の子の名前と住所は読むことができなかった。そこをしばし、眉間にしわを寄せて見つめていた。
おじさんは、女の子がこの手紙を書いている姿を思い浮かべながら読み終えると、また元の通りに便箋を封筒に戻した。そして大事そうにふすまの中に置いてある金庫の中にしまった。それからまた縁側に戻ってくると、今度は座らずに遥か遠い空を見上げて微笑した。
「待ってるよ。」
そう、呟いた。
「おうい! ちょっと手紙を書きたいんだが、便箋と筆はどこいった?!」
おじさんは家の奥に向かって呼びかけた。
空は今日も白い雲を浮かべて、よく晴れていた。
→第5話へ続く
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