深海の夢


​第1幕 第3話 深海の夢





夢を、見ていた。きっとそう。

夢をみていた。きっと夢を見ていた。

わたしは、夢を見ていた。

夢を、見ていたんだ。

水底に沈んだ意識の中で、

無意識な夢を見ていた。

わたしは、無意識に夢を見た。

夢を見ようなんて思わなかった。

夢を見たいなんて願わなかった。

目が見る景色の中に、

いつの間にか映りこんでいたんだ。


​♪♪♪


蒼い空に、雲は一つも浮かんでいなかった。風は冷たくなかった。太陽が燦々と、手の届かない遠い空に輝いていた。

少女は生地の薄い、白いワンピースを着ていた。寒くはなかった。非常に良い気温だった。軽やかな風が、彼女の金色の髪をなびかせた。でも、それだけだった。オフィーリアは、それ以上にはなんとも思わなかった。彼女は高い崖の先端に素足で立っていた。それに対しても、なんとも思わなかった。目の前に広がる見たことがないような蒼い大空、その身を横たえ、空を映し出す大海原、こなたからかなたへ吹き抜けていく風、それら一切に対して、感情というものを抱かなかった。真っ先に頭の中に浮かんだのは、ここから帰らなければならないという焦燥と、わずかな恐怖を包容した、もっと別のものに向けられた意識だった。だが、それはあくまで意識であり、心が感じていることではなく、もっと理論的に思考された分析結果のようだった。

オフィーリアは表情を変えなかった。実際、焦ってもいないし、怖くもなかった。そういった感情一切を持ち合わせていなかった。蒼色の瞳を眼前の青から引き剥がすと、それらに背を向けて歩き出した。

 身体が宙に浮いた。見ることをやめたはずの大空が、自分の視界いっぱいに広がった。オフィーリアは強い浮遊感と恐怖を覚えた。だが、せっかく理論が抱いたその恐怖も、いま自分の身に起こったことに対する恐怖ではなかった。ここから帰るのが遅くなってしまう、ここから自力で帰ることができなくなってしまう、そのことに対する恐怖だった。身体を包む浮遊感、同時に感じる落下による風圧、それらはオフィーリアにとっては問題ではなかった。どうでもいいことだった。

 その一瞬の浮遊感の後に、岩の崩れる音が静寂を切り裂いた。だが、岩が砕け、ぶつかる音に引き裂かれてバラバラになった静寂は、またすぐに再生した。

今度は、耳元で強い風鳴りの音がオフィーリアの耳を塞いだ。静寂は再びオフィーリアから奪い去られた。

 背中に衝撃が走った。どうやら背中が水面に叩きつけられたようだ。自分の身体が打ち上げた海水の飛沫がきらきらと光った。水滴はすぐにまた、元の通りに海と一体になる。もう海の中に、さきほど跳び上がったしずくを見つけることは不可能だった。

ひんやりとした温度。視界には相変わらず、だだっ広い蒼空と、瞳を刺すような太陽があった。オフィーリアは着水してからただの一度も身体を動かさなかった。

やがて、身体が重くなった。身に着けた衣服が海水を含んで重くなり、深海から伸びてきた腕に引きずり込まれるようにして、オフィーリアの身体は海の中に沈み始めた。

 オフィーリアは、一切の抵抗を行わなかった。海を受け入れてみようと思った。やがて顔を海水が覆った。体内から、今まで吸わされていた外の空気が気泡となって出て行った。息苦しくはならなかった。閉じられたくちびるを、少しだけ開けてみた。すぐに塩辛い海水が口内へと押し入ってきた。それと引き換えに、そこに納められていた空気は押し出される。排出されたオフィーリアの呼吸は一様に気泡となって海面目掛け、浮上していく。それに対して、オフィーリアの身体はどんどん光の届かない深海へと向かっていく。彼女は一度だけ、自分の細い腕を動かしてみようと思った。いまから自分の到達するであろう場所を、一目でも見ておこうと思った。だが、その意思は腕には伝達されなかった。

 青い世界。いま彼女の瞳が映し出す世界は青かった。

海面から射し込む太陽の光が、空の色を借りた海水を照らし出していた。

少しずつ、その光が遠くなっていく。海面の揺らめきがかすかに、かなたに残る。なにも見えなくなっていく。なにもわからなくなっていく。知らない場所へ自分は向かっていく。光の届かない水底へ、身体はゆっくりと降下していく。

広大な海の中には生き物の影は認められなかった。不思議なことに小魚一匹泳いではいなかった。だというのに、どこからともなく音がした。生き物の声だった。それは、海水の詰まった耳によく響いた。

それが生き物の声であることは、その音が持つ肉感的な重みのせいですぐにわかる。それは、まるでクジラの鳴くような単調な響きで、オフィーリアにはなんと言っているのか解読できなかった。その声はやけに、彼女の耳に残った。

ついに、太陽の光さえも見えなくなった。

一切は闇に閉ざされた。

いや、閉ざされたわけではなかった。

ただ、彼女が光の届かないところへ来ただけだった。しかし彼女には、闇に視界が閉ざされたように感じられた。

オフィーリアは変わらず、少しずつ下方へ自分の身体が降りて行く感覚を認識しながら、絶えず聴こえてくるクジラの声のような重い音を聴いていた。まだ、海底には着かないようだった。すでに視界にはなにも映っていない。もはや瞳を開けておく必要はなかった。オフィーリアの空と海にも似た蒼い瞳は、なにも捉えることができないでいた。彼女はまぶたを下ろした。

依然として、身体は降下を続けていた。


​♪♪♪


オフィーリアは暗闇の中で意識を取り戻した。

いつの間にか気を失っていたらしい。瞳を開けた。そこには光は無かった。だが、真っ暗ではなかった。青い世界だった。世界を照らし出す光が無いというのに、瞳は世界を捉える。実に不可思議な空間だった。

オフィーリアは自分の背中に、地盤を感じた。それ以上に身体は下方には進まなかった。どうやら一番下の方に着いたようだった。

まだ、夢の中にいた。そのことを認識すると、オフィーリアはまた焦燥と恐怖を感じた。オフィーリアはここを夢の中だと認識していた。現実世界の時間や出来事は一切関係ない。彼女の心配事や恐怖というものは、ここにまでは侵蝕してこない。だが、オフィーリアはそれでも心を圧迫するほどの恐怖を感じた。それほどまでに、思い出すことができない領域の記憶にこびりついたそのことはオフィーリアに深い根を張っていた。このときの恐怖は今度こそ、心が抱いた感情であった。早く帰らなければ。そのことばかりが彼女の頭の中で旋回した。それと同時に、オフィーリアは、はてと首をかしげた。感情というものを、初めて体験したような気がした。

オフィーリアは両手を地に着いて上体を起こした。やはりまだ海の中にいるらしく、水の弾力のある抵抗が身体にまとわりついてくる。手にやわらかな感触があった。水を少しだけ含んだシルクのような、滑らかな感触だった。周囲を見渡すよりも先に、手元へ視線を落とす。青いバラが咲いていた。その色は空と海の青が花弁に滲み込んだようだった。咲いているのはオフィーリアの手元だけではなかった。辺り一面、見渡す限り青いバラが絨毯のように咲き誇っていた。その真っただ中に彼女は降りてきたのだった。

もう、クジラが鳴くような重い音は聞こえなくなっていた。オフィーリアは青バラの海底に自分の両脚でしっかりと立った。小さな足の裏にやわらかな花弁の感触が伝わる。そのやわらかな感触に混じって、鋭い痛みが走った。バラの棘が刺さった。オフィーリアは不快に思ったが、どこへ足を置こうともバラがはびこっているのでどうしようもない。それに、苦痛というものにはある程度、慣れてしまっていた。

オフィーリアはその場でぐるりと周囲を見回した。

自分のいる場所からかなり離れた場所に、白い影がゆらめいた。青一色の空間の中で、その白だけが焔のようにゆらゆらと漂っていた。オフィーリアはその白を認めて恐怖に駆られた。その恐怖は、それそのものに向けられていた。彼女は自分の辿って来たであろう上方を見上げた。その先では青が藍となり、紺となり、やがて黒となって帰り路を覆い隠していた。ここに至ってオフィーリアは、自分がずいぶんと遠くまできてしまったことを知った。

オフィーリアは試しに、膝を曲げて青バラの海底を思い切り両足で蹴ってみた。そのときに、自分の身体の動きに合わせて呼吸をした。しかし、自分の体内から出てきたのは海水のようで、本来出るはずの気泡はただの一つも排出されなかった。思い切り海底を蹴ったはずなのに、身体はその場から全く上方へは跳ね上がらなかった。腕と脚を必死に動かしてみるが、成果はあまり得られなかった。多少は元いた場所から浮き上がることはできたが、少し休めば身体はまた海底の方へ引っ張られてしまう。オフィーリアはもがくのをやめた。身体を導く力に従って青いバラの絨毯に着地すると、さきほど見つけた白い焔のような影を探した。

 白い影はすぐに見つけることができた。青しか色のない世界の中で、それを見つけ出すことは簡単だった。見つけることはできたが、ここからでは離れすぎていてそれがなんなのかを識別することはできなかった。オフィーリアはしばらくその場から、それを観察していた。

 白いということしかわからなかった。ここからでは動いているようにも見えない。もっと目を凝らしてよく見ようと思った。

そのときだった、海中の水が動いた。それは海流のようで、大きな流れだった。オフィーリアの背中を直撃して、彼女の身体をその白い焔の方へと押しやった。その力に負けて、オフィーリアは自然と足を踏み出した。なおも、動き出した海水の流れは変わらない。海流に押されて、一歩、また一歩と流されるようにしてオフィーリアは近付いていく。オフィーリアはやはり、なにも感じなかった。それはそれでいいと思った。このまま流されて行って、あの白い焔の正体を見ればいいと思った。

 そう思ったならば、ことは早かった。オフィーリアは流れに乗って、進行方向へと自分から歩き出した。青いバラの海底を蹴る。少しばかり浮いた彼女の身体を海流が押し流していき、どんどん加速していく。スキップするようにしてオフィーリアは白い焔のような影に近付いていった。

 青いバラの絨毯はどこまでも続いていた。ときおり、その棘が素足をひっかいて淡い痛みが滲んだが、オフィーリアは気にしなかった。

白が近付くにつれて、それがはっきりとした輪郭を描いた。白く揺らめいていたのは、白馬の尾にも似た長い髪だった。その長い髪が水中で焔のようになびいていたのだった。

人がいた。髪が長く、真っ白な人物が青バラの海底に座り込んでなにかをしていた。オフィーリアはもっともっと近付いていった。

 もう、軽く声を発したら会話ができるところまでオフィーリアは近付いた。その白い髪の人物との距離が狭まってくると、自然と背中を押す海流は弱まっていった。オフィーリアは少しだけ距離を取って、その人物の前に立った。

うしろ姿を見る限り、自分と同じくらいの歳の少女のようだった。その人物は黒いワンピースを着て、ずっと座って、うつむいて、なにやら手を動かし続けていた。

「なに、してるの?」

オフィーリアが恐る恐る語りかけると、その人物は手を止めた。そして、座ったまま首だけを動かしてオフィーリアを振り返った。

その顔を見てオフィーリアは驚愕した。気のせいかも知れないが、その人物の顔は恐ろしいほどにオフィーリアによく似ていた。相違点を挙げるのならば、瞳と髪。それだけだった。髪は真っ白で、とてつもなく長かった。瞳は一瞬、青かと思ったのだが、その人物が動いて、瞳を見る角度が変わると、七色にその色が変化する。虹色の瞳だった。

オフィーリアによく似た不思議な人物は七色に色が移り変わる瞳で少しの間だけ、泣きそうな顔でオフィーリアを見ていた。ついにそのまま表情を変えることなく、一声も発することなく、やがてまたうつむいた。うつむくと同時に、止まっていた手を動かし始める。

 オフィーリアはそのうしろ姿を黙って見つめていた。

よくよく見てみると、その人物の周囲の青いバラは手折られていた。オフィーリアはその人物の正面へと回った。一生懸命に手を動かし続けている。その手元には青いバラで作られた花かんむりがある。それはまだ途中のようで、その人物は手近にあったバラを更に手折って、その花かんむりの中に織り込んでいく。

オフィーリアはしゃがみこんで同じ目線になった。オフィーリアは、この子ならきっと自分に危害を加えたり、いやなことをしてきたりしないだろうと判断して、もう少し話しかけてみることにした。

「きれいね。」

また、目が合った。今度は相手の瞳は黄色だった。瞳のふちにすこしだけ緑色が滲んでいる。

「そう?」

相手が言った。声まで、オフィーリアと非常によく似ていた。相変わらず表情は泣き顔だった。そこからは他のどんな感情も読み取れなかった。だが、敵意や害意は感じられない。それだけでもオフィーリアは安心できた。

「わたし、オフィーリア。」

オフィーリアが名乗った。

「…………イド・リビドー。」

彼女はそう名乗った。イド・リビドー。非常に変わった名前だった。

女の子らしくない。オフィーリアはそう思った。

イドは名乗り終えると、またうつむいて花かんむりを作り始めた。オフィーリアもその場に座ってバラを折り、イドと同じようにして花かんむりを作り始めた。

「手伝ってくれるの?」

イドが顔を上げて言った。表情こそ変わらず悲しそうなままだったが、その声は決して泣き声ではなかった。喜びのようなものが感じられた。だが、オフィーリアにはいまいち彼女がなにのことを指して言っているのか、よくわからなかった。

「手伝うって?」

オフィーリアは手を止めて顔を上げた。イドも同じようにして手を止め、顔を上げる。その瞳の色は、今度は緑色に移り変わっていた。

「この青いバラを、折るの。」

「花かんむりのことじゃなかったの?」

「これはただの遊び。」

「なぜ折るの?」

「これがあると、わたし、

ここから出られないから。」

「そうなんだ。」

「手伝ってくれる?」

「いいよ。」

オフィーリアはイドの願いを聞き入れた。イドは初めて笑ってオフィーリアにお礼を言った。

 それから二人はせっせと青いバラを手折っては花かんむりを作っていった。オフィーリアはときどき、七色にその色を変えるイドの不思議な瞳を横目に見た。異なる色がその瞳に集結して共存している。きれいな瞳だった。

あるときオフィーリアがふと、手を止めてイドの瞳に見入った。イドがその視線に気付いて顔をこちらに向けた。

「なに?」

「イドの瞳は、きれいね。」

イドはうつむいて、また青いバラを手折った。

「わたし、自分の瞳を見たことないから、

わからないや。」

言いながら、バラを花かんむりに織り込んでいく。

「虹色で、とってもきれいよ。」

「そうなんだ。」

「なんでこんなところにいるの?」

「ここが、わたしの居場所だから。」

「なんでバラがあると、

ここから出られないの?」

「バラが絡みついてきて、

上へ行かせてくれないから。」

イドが青いバラの花かんむりを一つ完成させた。それを自分の頭に乗せた。イドはまた新しくバラを手折って、次のかんむりを作り始めた。

 イドの頭に乗せられた青いバラたちは、しばらくするとその青い花弁を散らした。海中にゆらゆらと力なく漂うと、まるで水に溶けるようにして消えていった。

イドは残念そうな顔をして溜息を一つこぼした。彼女の体内からも、空気は出てこなかった。ただ、その湿っぽい嘆息の音だけが聞こえてきた。一瞬だけ彼女は手を止めて海水に混じって消えていく青い花弁を眺めていたが、やがてそれらが失せてしまうと、また同じように作業を再開した。

 オフィーリアは手折ったバラを一輪だけ持って、観察してみた。きれいなバラだった。

遺伝子組み換えの技術が発達するまで青いバラは存在せず、人工的に作り出すことも不可能と言われていた。それゆえに、花言葉は不可能であった。

オフィーリアはまだ青いバラを現実で見たことがない。なのに、夢の中に見たことのないものが出てくる。オフィーリアはつくづく今日の夢は不思議な夢だなと思った。オフィーリアの小さな手の中ある青い花弁を広げたバラは、一枚、また一枚とその身にまとった花弁を切り離していく。なにもしていないのに、自然と花弁が水中に漂う。そして少しずつ少しずつ透けて、やがて氷が水に溶けるように消えていく。

「ここは、どこなの?」

オフィーリアが花弁を全て失ったバラの残骸を投げ捨てながら訊いた。

「エスの庭。」

イドはずっと手を動かし続けている。

「エス? それ、なに?」

オフィーリアは疲れてしまって、脚を投げ出して座った。そんなオフィーリアを気に留めることもなく、イドはせっせと作業を進行しながら答えた。

「わたしも、知らない。」

オフィーリアはまた一本、バラを取った。やはり、空の色を全体に映した海のように青い。海の青を滲み込ませたようだった。また、音も無く花弁が本体からし始めた。

ふと、オフィーリアは周囲を見渡した。どこまでも、青が続いていた。ところどころ、自分とイドがバラを引き抜いたところは、海底の地肌が見える。ごつごつとした固い岩肌だった。

 海底は実に静かだった。心を乱すものは何一つとして存在しなかった。恐怖を掻き立てるものも、苦痛をもたらすものも、とにかく自分の思い出せない記憶に刻み込まれている恐怖や不快という感情を想起させるものは、なに一つとして無かった。


 突然、海底からか、はたまた海底を覆うバラたちからか定かではないが、とにかく下からわずかに気泡が立ち上った。空気が湧き出たのだ。そしてそれは一カ所からではなく、そこかしこ、周囲一帯からだった。

「もう、時間が。」

イドはつぶやいた。オフィーリアにはその言葉の意味がわからなかった。

 ひときわ大きな空気の玉がオフィーリアの顔に当たった。オフィーリアの体内に、わずかに空気が入った。オフィーリアの心に、少しだけ恐怖がよみがえった。早く、帰らなければ。そのことが頭の中に突如として現れた。ますます湧き出る空気の量は増えていく。それは、オフィーリアをそのまま海面まで押し上げんばかりの勢いだった。

 オフィーリアの身体が、ついに海底から浮いた。オフィーリアは強い嫌悪感を抱いた。なんとかしてここに留まろうと考えた。とっさに、イドの方へ腕を伸ばす。だが、イドは四肢を青いバラのツルに絡めとられていた。彼女の言った通り、彼女は青いバラによって、ここからは動けないようだった。

イドは海底に縛り付けられていた。必死に腕を伸ばすオフィーリアを、気力の失せた七色に輝くその不思議な瞳で見つめた。

「また、来てね。」

イドはそう言った。オフィーリアはこのとき、自分が涙を流しているような気がした。だがそれは、海の中でのお話。海中で涙を探し出すことなど、できはしなかった。

 青い視界は、一気に白へ塗り替えられた。轟音と共に、オフィーリアの細い身体は、すさまじい勢いで海底から押し上げられていった。


​♪♪♪


 オフィーリアは静かに目を開けた。さきほどまで鼓膜を打ち破ろうかという勢いで耳元に迫ってきていた轟音はきれいに消え去っていた。ずいぶんとたくさん、海水を飲んでしまったような気がする。

彼女は真っ白な天井を眺めながら、夢のことを思い出していった。

青い、海の底の夢。青いバラの夢。七色の瞳をした、自分によく似た少女の夢。その少女が最後に言った、また来てねという言葉。会話も不思議とそのほとんどを鮮明に覚えていた。実に、不可思議な夢だった。

 オフィーリアは白い羽根布団を押しのけて上体を起こした。いつも自分が寝起きしている、自分の部屋だった。床も壁も一様に白かった。ベッドのそばにある窓には白いカーテンが垂れており、日光を丸い感触に変えて少しだけ中に入れていた。

部屋の中央にある木のテーブルには飲みかけのコーヒーが残った、水色のカップが置かれている。そのすぐそばでは、分厚い日記帳とペン、そして年代物の古いカメラが主の目覚めを待っていた。

彼女は眠りにつく前、なにをしていたのかをすぐに思い出した。今回の旅の日記を書いていたのだ。一応、すべて書ききってから眠った。彼女はベッドから降りると、就寝用の白いワンピース姿のままテーブル席に着いた。そして木のあたたかい木目の上に転がされた白と金のペンをとると、日記帳の次のページに夢のことを書き始めた。

 書ききって、残ったコーヒーを飲んだ。一晩おかれていたのですっかり冷え、しかも酸味が強くなっていた。その強烈な味で一気に眠気が吹き飛んだ。彼女はカップを持って椅子から立ち上がった。銀色のシンクへ行くと蛇口をひねり、水を出す。カップをきれいに洗うとよく水を切り、白い布で拭いて食器棚に仕舞った。

 彼女は身支度を整え始めた。顔を洗い、歯を磨き、長く、くせのある金色の髪をくしでとかす。それを終えると今度はクローゼットを開けてそこに納められていた、たくさんの衣服の中から着るものを選定する。

緑色のノースリーブ、白のワンピース、ヒールが付いたブラウンのサンダル。

服を着替え終えると、革紐に吊られたカメラを首から下げる。そして、土星を半分にしたような真っ白のつばの大きな帽子を斜めにかぶる。土星のリングのように帽子を一周するリボンは深い緑色だ。胸元には銀色の縁の中に青い宝石が埋め込まれた音符のネックレス。これで、身支度は整った。姿見の前に立っていま一度、自分をチェックする。問題はなかった。オフィーリアはモデルのように、いろいろなポーズを鏡の前でとってみた。珍しく、楽しいと感じた。

 オフィーリアはモデルごっこに満足すると、白い鞄を肩から下げて家の外へのドアを開けた。いい天気だった。庭の植物たちは太陽の光をいっぱいに浴びて、その緑色の手をきらきらと輝かせていた。きまぐれな風も機嫌がいいらしく、彼女の金色の髪と戯れていた。

 少し、風の戯れが過ぎたらしく、オフィーリアの白い帽子が飛んでしまった。彼女は急いで帽子を追いかけた。白い帽子は太陽の光の中を少し滑空すると、草の上にふわりと舞い落ちた。オフィーリアが帽子を拾い上げた。帽子の下では、青い野花が咲いていた。そのかわいらしさに、彼女はしばしその花を見つめていた。

 彼女は野花を摘んで、帽子のリボンに飾り付けた。嬉しそうに笑ってみた。

また帽子をかぶった。帽子の大きなつばに日光が遮られた。オフィーリアは初夏のすがすがしい朝の景色の中に溶けて消えていった。





→第4話へ続く

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