少女と夜

第1幕 第2話 少女と夜



 初夏の太陽は、黒い峰のとがった頂に突き刺さっていた。その名残惜しそうな黄色い残照を、鏡のような湖の水面が鋭く反射していた。夕方になってすこし冷えた風が、森の乾いた葉をこすれさせて哀愁漂う細かな音を鳴らしていた。その風はそのまま黄色く輝く湖面を波立たせながら、つまらなさそうに過ぎ去っていった。

 そこには静寂があった。太古から営まれ続けた音だけが存在していた。

 別の音が一つ鳴った。それは乾いた、単調な音だった。その音は一瞬だけわずかに空気を震わせると、どこへともなく消えていった。音が生まれ出た場所には、つばの大きな白い帽子をかぶった少女が一人、首から下げた古ぼけたカメラをかまえて立っていた。さきほど鳴った乾いた音の正体は、古ぼけたカメラのシャッター音だった。少女はカメラを下ろした。風がまたやってきて、彼女の金色の髪を空中で輝かせながら過ぎ去っていった。少女の白いワンピースがわずかに揺れた。

 少女は無表情だった。それは少女が一人でいて、だれかに感情を示す必要がないこととは関係がなかった。少女のその端正な顔には、おおよそ感情や心の流動というものが一切見受けられなかった。まるで人形のようだった。肉質的なあたたかみがまったくなかった。それがかえって少女の美しさを際立たせていた。

 少女は沈む夕日に背を向けて、森の小道へと歩き出した。

少女はすぐに脚を止めた。

湖から離れたところに、古ぼけた廃城が聳え立っている。少女の蒼い瞳は、その豪奢な遺物を捉えていた。

少女はしばらく城を眺めていた。その瞳、表情、身体に変化は無かった。ただ、じっと見ていた。

 巣に急ぎ帰る大きな鳥が城の彼方へと飛び去って行った。その影が彼女の視界の中を通り過ぎた。少女はまた前を向くと、トンネルのような森の中へと入って行った。


​♪♪♪


 少女が町に着いた頃には、とっくに日が暮れていた。町にはすでに夜の静寂が入り込んでいた。人の往来も途絶え、か細い外灯が星の光のようにちかちかとまたたき、石畳の夜道を照らしていた。少女の履いているサンダルに付いたヒールが石畳を鳴らす固い音が、夜の静寂の中に響いていた。

のどかな町だった。大きな建物や高層ビルなどは無く、いまの時間は車もまったく走っていなかった。

月は、紺色の夜空の中空にあった。短剣の切っ先のようにとがった月だった。煙のように薄くたなびく雲が、やさしい乳白色の月の光に照らされて、夜空に白く浮かび上がっている。

 ずいぶんと夜は深くなっていた。もうとっくに一日は生まれ変わっていた。少女のような年齢の子供は、もう眠りについていて然るべきである。少女は眠くないようだった。人影の絶えた石畳の道を小股で急がずゆっくりと歩いて行く。ときどき立ち止まって、街路樹を見上げたり、はるか遠くの天空に浮かんだ月や、かすかにまたたく星々を眺めたりした。

少女は大きく息を吸い込むと、宙に向かってゆっくりと吐いた。彼女の息は完全に空気と同化していて、その流れを見ることはできなかった。動かない透明な空間を少しだけ見てから、少女はまた歩き始めた。


​♪♪♪


 岬に建つ白い壁の小さな家が、少女の家だった。家の周りには庭があり、背の低い樹木が潮風を遮ってくれている。花壇では、花々がそれぞれの色の花を咲かせ始めていた。別荘のような、すこし浮世離れした雰囲気の家だった。

少女は家の前まで来ると、その周りに咲く花壇の花、地に根付いた野花などに視線をやった。少女の表情はやはり動かなかった。なにを考えているのか、なにを見ているのか、なにを想っているのか、そしてどうしたいのか、それらが彼女の表情には欠片も現れていなかった。幼い少女らしからぬ表情だった。少女は結局、しばらく花々を顔色一つ変えずに眺めたのち、金色のドアノブに手を掛けてドアを開け、中に入って行った。

 少女の家は一軒家だった。月からこぼれた明かりが窓から入り込んでおり、部屋の中はぼんやりと明るい。彼女は部屋の中央に設置されたテーブルに古ぼけたカメラを置いた。それからクローゼットの方へ行き、着ていた服と帽子を仕舞い、就寝用の白いワンピースに着替えた。ヒールの付いたサンダルも仕舞い、その代わりにかわいらしい桃色のスリッパを履く。それから食器棚から鍋とポット、水色のカップ、そしてインスタントコーヒーの瓶を出してきた。

鍋に水を入れてコンロの火にかける。そこまですると、少女はテーブルの椅子に腰を下ろした。テーブルには日記帳とペンが置いてある。日記帳の表紙には金色の字でOpheliaと書かれている。彼女は日記帳を開き、紙にペン先を走らせ始めた。

 少女の書く文字は単調だった。あったこと、見たもの、行ったところなどを、ただただ記しただけのものだった。そこに、彼女の感じたことや思ったこと、気持ちといった、本来書くべきはずの事柄は一文字も出てこない。さながら報告書のようだった。きっと彼女の旅行記なのだろうが、そう呼ぶには程遠いものであった。

 やがて、加熱され続けた鍋の中の水が気泡を発生させて、囁くような音を発し始めた。沸騰したようだ。

少女は一旦、ペンを置いて料理台の方へと向かった。湯をポットに移し替え、カップにインスタントコーヒーの粉を入れる。そこにお湯を注いで出来上がり。少女は鍋とポットを洗って拭き、コーヒーの瓶とともに食器棚に仕舞った。黒い液体の入ったカップを持って再びテーブルに着く。一口飲む。少女は眉一つ動かさなかった。平然としている。少女はまた日記帳に向かった。

 今回の旅は近場を巡ったようだった。旅が良いものだったのか、いまいちだったのかは、彼女の書く日記から読み取ることはできない。ときおり彼女はなにかを思い出すかのように宙に視線を投げることがある。そのときも、もちろん表情は変わらないが、それが唯一の、彼女の人間らしい温度を持った動作だった。

 彼女はペンを置いた。そして両手で日記帳を持って、さきほど書いた真新しい日記を最初から読み返した。読みながら、カップをときおり口元に運ぶ。

 今回の日記をすべて読み終えた少女は日記帳を閉じると、歯を磨き、窓際で留められたカーテンを引いて、そのままベッドへと向かった。スリッパを揃えて脱ぐとベッドに上がり、白い羽毛の掛け布団の中に華奢な身体を滑り込ませた。ふかふかのまくらに、頭を預ける。少女は特に眠くはなかった。だが、知識として頭の中にある、夜は眠るものだという習慣、教えに従い、彼女は眠ることにしている。このときもそうだった。

少女は目を閉じた。そのままじっとしていると、次第に自分の認知している世界がぼやけてくる。意識が曖昧になってくる。そしてそこでプツンと、記憶は途絶えるのである。

 彼女は、眠りについた。




→第3話に続く

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