No.93『ボタン連打で暖簾を押せ!』


根岸「近頃めっきり暖かくなってきましたがね、皆さんいかがお過ごしですかね。―――あたし? あたしはもうね、枯れちゃってますから。暖かいも寒いもわかったもんじゃあないんですよ。朝起きたら布団が汗で濡れてるのを見て、ああいつの間にか春が来ていたんだなぁなんて思うもんです。……おねしょじゃないですよ?―――あ、こらそこの人、今笑ったね。あたしよりも先に天国に行っちゃいそうな顔して。

―――そうそう、布団といえば低反発枕なんてものがありますね。頭を乗せると、やわらか~く押し返してくれて、ほどよ~く支えてくれる。人と人との関係も、かくありたいものだ、なんて思うんですがね、これがなかなか難しい。ほとんどはこっちの空回り、暖簾に腕押しってなもんですよ。

―――弟子の佐原が、これがまたボケたやつでね、やわらか~さも、ほどよ~さも、無いってなもんで。こないだもこんなことがありましてね―――おい、おい佐原、おいってば」


佐原「はいはい、なんでしょう師匠」


根岸「……」


佐原「なんですか? 枕で枕の話をしたことに対するツッコミが欲しいんですか?」


根岸「そうじゃない。そうじゃあないよ。あんたね、あたしは今、落語っぽいことをやろうとしていたわけだよ」


佐原「はいはい」


根岸「あたしが左を向いて、おい佐原と言えば―――」


佐原「なんですか?」


根岸「いやだからお前が応えちゃいけないんだよ。あたしが佐原を演るんだから」


佐原「なんですって!? じゃあ僕は師匠を殺りますね」


根岸「……」


佐原「扇子を鼻から脳にブスリと!」


根岸「何物騒なこと言ってんだい」


佐原「殺られるまえに、殺らなければ」


根岸「違う違う。あたしが、佐原を演るんだよ」


佐原「殺されるんですか僕」


根岸「殺さない。あんたね、ちゃんと字を見なさい字を。音で聴くんじゃない」


佐原「……。―――一子相伝の技を引き継ぐためにどちらかが死ぬ展開かと」


根岸「落語っぽいものにそんな技は無いよ。―――前も言ったろう、字を見なさいって」


佐原「気をつけます」


根岸「とまあ、こんな具合で、どうも身が入っていない。師匠が一度言ったことは、次から気を付けないといけないだろうに。甘やかしすぎたかねぇ。期待したことが何も帰ってこない」


佐原「師匠は厳しいですよ」


根岸「そうかねぇ」


佐原「同じことを何度も何度も言う。おボケになられている。これは厳しい」


根岸「ふつうだねぇ。―――お前というやつは、どうもこう、育ちが大らかというか、大雑把というか。―――そういえば朝頼んでおいた買い物はどうしたい、済ませたのかい? ―――へ―――」


佐原「へ? 何か頼まれましたっけ?」


根岸「……」


佐原「……へ?」


根岸「いや、いきなり落語っぽいことに戻ったあたしも悪いんだけどね。あたしがこう左を向いて話かけたら会話が始まるんだよ。あたしと佐原の」


佐原「始まってるじゃないですか。またもう師匠はボケちゃって」


根岸「師匠をボケ扱いするんじゃないよ。―――まあとにかく黙って座ってなさい。あたしが佐原を演るんだから」


佐原「じゃあ僕は師匠を演ります!」


根岸「そうじゃない。そうじゃあないんだ」


佐原「―――おい、おい佐原」


根岸「どうしたんだい師匠、大きな声を出して。―――って違う、違うんだよ。あたしがこう右を向いて声を出せば、それが佐原なんだよ。だからあんたが返事をする必要はないんだ」


佐原「なるほど、わかりました」


根岸「返事はいいんだから。まあそこで聞いてなさい。これも勉強だ」


佐原「はい」


根岸「とまあ、こんな感じで、バカだけど返事はいいんだよこいつは。根もいいやつなんだけどね、問題はこのあとってわけです。―――聞いてなさいと師匠が言ったってのに、すぐに寝ちまうんですよ。それも座ったまま」


佐原「……」


根岸「目はぱっちり開いてるのに、いびきまでかいて、器用なもんだよまったく。―――おい、おい佐原。起きなさい」


佐原「寝てませんよ?」


根岸「……」


佐原「寝てませんよ?」


根岸「だからね、あんたが応えるんじゃないの。あたしが佐原役もやるんだから」


佐原「ややこしいなあ、呼んだじゃないですか」


根岸「あたしが呼んだのは、あたしが演る佐原だよ。今そこで寝てたほう。あんたじゃない」


佐原「師匠には僕が二人いるように見えてるんですか!?」


根岸「演りづらいったらないねほんと」


佐原「こりゃ大変だ、はやく僕が師匠の座に就かないと」


根岸「こらこら、何を言ってるんだい、まだ半人前のくせに」


佐原「僕が半人前でも、二人いるなら一人前です! やってみせますよ! 安心してボケてください!」


根岸「ボケないってのに、なんだろうねもうこれは」


佐原「ふたりがかりなら、殺れる!」


根岸「そこに熱意を持つんじゃないよ。熱意を持つなら落語っぽいことに持ちなさい」


佐原「……」


根岸「こら返事をしなさいよ」


佐原「今のはこっちの僕に言ってたんですか」


根岸「そうだよ。ああもう、ややこしいね」


佐原「ややこしくしたのは間違いなく師匠ですよ。なんですか右向いたら別の僕とか」


根岸「そういうものなんだよ、左を向いてあたしが話しかければあたし、右を向いて声を出せば別の人」


佐原「逆です、逆ですよ師匠。ふつうは下座のほうを向いて話すのが目上の人です。師匠のは師匠側から見た右左でしょう」


根岸「またすぐボケ扱いして、困ったものだねこいつは。いいかい、これは落語じゃあないんだ。あくまでも落語っぽいものなんだよ」


佐原「実際、弟子でも師匠でもないですしね」


根岸「そうそう、雰囲気というやつだね。雰囲気は大事だよ。それっぽくなる」


佐原「カラフルな羽織なんか買い揃えちゃって」


根岸「―――ああそろそろ本物の落語の時間だよ、弟子よテレビをつけとくれ」


佐原「はいはいおじいちゃん、じゃなかった師匠。ベッドも起こしますよー」


根岸「うむうむ」


佐原「DVD再生しますよー」


根岸「うむうむ」


佐原「……」


根岸「お、これは初めて見る落語家さんだね」


佐原「そうですねー、何十回目かの初めてですねー」


根岸「……」


佐原「……」


根岸「あたしもね、もう長くないのはわかってるんだよ」


佐原「……」


根岸「だから、師匠として、お前に残せるものは残してやりたいと思ってる。あたしの落語っぽいものの全てを……」


佐原「……」


根岸「……」


佐原「……」


根岸「佐原、きいてるのかい?」


佐原「あ、聞いてませんでした」


根岸「だからね、あたしの落語っぽいもののすべてを、お前に残そうかって話だよ」


佐原「いや落語っぽいものを全部残されても困りますよ」


根岸「ほどよ~く、かい。わかったよ適当に見繕って残そうじゃないか」


佐原「いや全部いりませんよ?」


根岸「……ああもう、あたしはお前に残してやりたいってのに」


佐原「いや、いりませんよ」


根岸「まったく、暖簾に腕押しってやつだよ!」


佐原「おあとがよろしいようで?」




閉幕




揺れる幕




根岸「暖簾に腕押しってやつだよ!」


佐原「師匠それ暖簾じゃない暖簾じゃない」




閉幕

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