6話 錨の引き上げ

 周りの人たちを心配させ、ときには傷つけていることは重々わかっていた。


 それから二人で会話を続けたが、ぼくが意味が通じない言葉を喋り出した。

ぼくはただ、感情を受け流そうとしていた。

 ソウ君は意味ありげな眼差しを向け、立ち止まった。


「ゆきは一人じゃない……」


 ぼくも足を止める。ソウ君はぼくに向かって訴えている。

 台詞自体はよく聞くけれど、どこかで聞いたことがあった。


「いい人もわるい人もいる。人に裏切られたと思っても、自分自身を信じられるようになったらどうかな」


 目には慈愛と励ましがあった。

 頭の中で場面がフラッシュバックする。


 ――入学式の朝だった。その日も工事があって遠回りした。言った人はソウ君だ。肝心の内容が思い出せない……。けど、


「ありがとう、あったかいよ」


 ぼくはできるだけの笑顔を返した。それはソウ君を安心させるためであるし、何よりもうれしかったからだ。気づけばぼくは、うっすらと涙を流していた。あのときの感情と重なっていたからだ。


 ソウ君は口元を引き上げ、ニコりと微笑んだ。


 ぼくの心の中にあったアンカーが、少しだけ引き揚げられた気がした。


***

 

 ぼくは自宅に帰り、上着を脱いで学校のワイシャツだけになった。まだ寒さ残る季節だけれど、梅雨入りしてからは、だんだんと暑くなる季節だ。単に着替えるのがめんどうだったからでもある。夕飯前までに着替えればいいだろう。

 机の椅子に座り、頭の上で腕を組んだ。「ごめんなさい」ポーズのような状態で机に突っ伏した。胸が当たって窮屈だったから、背筋の角度を変えることで調節する。


 絵梨香さんのことは、……いいや。それより自分のことだ。

 彼女と問題があるようだけれど、もっと大きな問題は、自分自身と向き合えていないこと。絵梨香さんとの問題は気になるけれど、女の子になったことへのショックを引きずってはいけない気がした。


 ……受け入れるしかない。この世界は清濁が交わる水のようなもの。だからきれいなことだけ、汚いことだけといったどちらか一方だけを選ぶことはできない。

 ゆきになったことへの反発のせいで、周りの人たちを傷付けてしまっている。それは自然に逆らうことだから、自重すべきなのだろう。ならぼくは、ゆきになることを受け入れることが、無難なのか? これがとものりという自己を否定することになるのか?


 けどぼくには、問題の根元がそこではない気がした。


 上体を静かに起こし姿勢を正し、数秒沈黙した。そしてスクールバックから教材を取り出し、復習に取りかかった。


 

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