第15話 あなたのおかげで生きてるよ



 6月12日金曜日

 


 目を開ける。

 何も見えない。

 なんか、いい匂いがする。

 甘い香り。

 顔を上げてみた。

 目の前にアイラの顔があった。


「…………」

 アイラに抱きしめられて横になっている状態。

 狭いソファで、二人一緒に寝ている。 

 なぜこんな状況になった。

 記憶を辿ってみる。

 …………。

 ああ。

 あのまま眠ってしまったのか。

 起こしてくれればよかったのに。

 アイラは起こすのを悪いと思ってくれたんだろう。

 そんな妹の寝顔を眺める。

 安らかで、穏やかな表情だ。

 

 あ、起こさないとな。

 今起きないと学校に間に合わない。

 ――今日学校があるかは分からないが。

 とりあえず準備しておくに越した事はないだろう。

 

「ん…………」

 起こす前に、アイラが瞼を開いた。

「おはよう」

「おはよう……ございます」

 まだ寝惚けているのか、ゆっくりとした返事。

「…………」

 数秒、眠そうな瞳で黙るアイラ。

 抱きしめ合ったまま、至近距離で見つめて待つ。

「あ、え、と……ご、ごめんなさい……! きのう、起こしちゃ悪いかなって思って、それで、そのまま寝たらこんな感じになってしまって……! 一緒に寝たいと思ってしまったのもあるんですけど……!」

 慌てたアイラは捲し立て、言わなくていい事まで口からすっぽ抜けていく。

 顔を真っ赤にしている妹は、やっぱり。

 かわいいと思った。

 



 その後は何とかアイラを落ち着かせ、朝食をとり、学校へ向かった。

 連絡は何もなかったから、休校とかそういうのは多分ないと判断した。


 校門へ着くと、いつも通り。

 進んで行く。

 学校内も、いつも通りに登校中の生徒が歩いている。

 そうして。

 何事もなく教室に着く。


 中に入ると、いつもの教室だった。

 死体など一体もない。

 床や壁にこびり付いた血も、一滴すらない。

 滅茶苦茶に倒れた机や椅子も、元の位置に戻っている。

 

 大罪戦争を始めた奴ら、悪魔の隠蔽か。

 今こんな完璧な隠蔽をするのなら、なぜ最初の頃の変死体は隠さなかったのだろうか。

 度が過ぎれば隠すがそれ以外は関与しないとかそういうのか。

 結局、確認でもしなければ分かりはしないけれど。

 どうでもいいことか。

 俺はそんな奴らの思惑をぶっ潰すだけだ。

 すべてを救うんだ。

 まだ、諦めてはいけない。

 何も終わってないのだから。

 

「おはよっす」

「おはよう」

 津吉の挨拶へいつも通りに返す。

「和希」

 立ち止まり、一転変わって真剣な表情になると、津吉は俺の名を呼んだ。

「なんだよ改まって」

 いつもと違うその態度に、調子が狂う。

 たった一言俺の名を呼んだだけなのに、場の空気が変わった気がした。

 その雰囲気が真剣すぎて、こいつは一体何を考えているんだ、なんて思ってしまう。

 そして、一呼吸の後。

 津吉が一言放つ。


「まだ、頑張れるか?」


 …………。

「どういう意味だ……?」

 意図を計りかねた。

 だから問うた。

 だけど。

 ――頑張れよ――

 今の言葉は、前に一度聞いた津吉の言葉と、同じ響きを持っていた。

 

「どういう意味って聞かれると少しばかり困るんだが、そうだな……。最近巻き込まれてる苦難、それから護り通せる意思がまだあるか。みたいな感じかな」

「最近巻き込まれている苦難…………」

 もしかして。

 津吉は、大罪戦争の事を知っている?

「お前は……」

「おっと何も訊かないでくれ。俺も言えたら最初から言っている。でも無理なんだ」

 両手を前に出して拒否の意思を表現する津吉。

「どうして」

「それも言えないんだ」

 複雑な、遣り切れないような笑みを浮かべる友人。

「自分の意思で言わないのか? それとも、自分の意思とは関係ない他の要因で言えないのか?」

 それは、知っておきたかった。友人を疑いたくなんてない。

 だけど。

「…………」

 沈黙。

 それも、言えないってか。

「その、何も言えないお前は俺に何を求めてるんだよ」

 釈然としなくて、少し棘がある言い方になった。

「俺としては、お前にちゃんと頑張ってほしいんだよな。今よりも、もっともっとな」

「なんだよそれ」

「酷なのは解ってるさ。十分にな。でもさ、お前以外にいないんだよ。お前以外に、出来るようなやつを知らねえんだ」

「なんだよそれ」

 同じ言葉を、吐き出した。

「だから頼む。俺が、お前が、庵子あんこちゃんが、アイラちゃんが、春風が、みんな笑って生きている。そんな結果を出してくれ」

「随分勝手に言うんだな」

「ああ、勝手だ。ひでえやつだ。でもな、俺じゃどうしようもないんだよ」

「ははは、そりゃお前程度じゃな」

「言ってくれるな」

 思わず憎まれ口を叩いてしまった。

「まあ」


 今までだって必死に頑張ってたよ。

 その一言は、言わなかった。

 これ以上どう頑張れってんだ。

 その二言目も、言わなかった。


「俺に出来ない訳がない」

 すべてを、救うんだ。


 数秒呆然として、津吉は黙った。

 そして。

「お前はほんと、変わらねえなあ」

 苦笑いをしながら、そんな言葉を発した。

「なんだよ、それ」

 三回目の同じ言葉を、思わず吐き出す。

「ま、あれだ。結局こんな話には大した意味は無い。俺がとうとう言いたくなっちまっただけだしな。話をしただけで、敵を倒せるわけじゃないんだ」

 津吉は背を向ける。

「最後にもう一回伝えとく、頑張れよ。俺は最後まで信じてるぜ、親友」

 そうして自分の席へ、戻っていった。

「なんだよ、それ」

 俺は結局、そんな事しか言えなかった。

 

 ………………。

 …………。

 ……。


 昨夜ここで死んだ生徒や教師たちは、行方不明ということになっていた。

 朝のホームルームで、そう伝えられた。

 生き残った者たちは、操られていたので記憶が無く、目覚めたら病院にいたとの事。

 その結果、騒ぎは大したことにはならなかった。

 こうして、大罪戦争は誰にも知られる事はない。

 一部の者以外には。



 気分が悪い。

 一時間目が始まってから、耐えがたき嫌な感情が限界に近くなってきた。

 この教室で、昨夜、たった十数時間前に、蕪木が死んだんだ。

 血に染められた光景が思い出される。

 思考から追い出そうとしても、脳に吸い付いて離れない。

 俺が今使っている机も、誰かの血に汚れていたものかもしれない。

 そう思うと、吐き気がする。


 ――くそっ。

 俺はこの程度の事で屈しない。屈しはしない。

 まだ救える誰かがいる。

 だったら俺は、その人を救うだけだ。

 俺はやる。

 やるんだ。

 だから、蕪木、ごめん。

 お前の事は忘れないけど。

 今は、考えないようにするよ。



 一時間目後の、休み時間。

 俺はこの教室から少しの間でも離れたくて、席から立ち上がり教室の外を目指す。

「カーズくんっ」

「どわっ……!?」

 後ろから、両肩にバシンと手を乗せられた。

 その人物は――真白は俺の前に回ると。

 笑顔をパッと輝かせ。

「何かお喋りしよーよ」

 そんな事を言った。


 ――辛い時こそ笑え。

 確か真白は、前にそう言葉を発していた。 

 これも、その一環なのだろうか。

 やたらと、元気そうだ。

 でも、俺は真白みたいには出来ない。

 人が死んだんだぞ。

 しかも、関わりのない完全な他人とは違う人が。

 笑えるかよ。

 気落ちしてても仕方がないのは分かるけどさ。

 でも笑えねえよ。


「カズくん、ここは日常だよ」

 真白は笑顔だ。

「……わかってるさ」

「非日常なんかじゃない、一緒に楽しく過ごした場所だよ」

 とても自然な笑顔だ。

「ああ……」

 わかってるはずだ。

「全部終わったら、その時思いっきり泣けばいいよ」

 笑顔を保っている。

「…………ああ」

「その時はわたしも付き合うから。一緒に泣くから」

 元気な、こちらも元気を貰えるような、表情。

「ああ」

 ずっと明るい笑顔のまま、真白は喋った。

 

 笑えない、笑えねえけど――。

 そこまで言われたら、出来ない事もやってやろうって気になってしまう。

 だから、無理矢理、不敵な笑みを作った。

 真白は、別に無理に笑えといっている訳ではないのだろう。

 落ち込んでても良い方向には行かない、みたいな事をいいたいのだろう。

 だけどまずは、形からだ。

 不敵な笑みの俺は、言葉を発する。


「で、なんか話すんだろ?」

「ぁ……うん! それでね――――」

 俺の変化に嬉しそうに頷き、真白は話し始める。  


 日常は、過ぎていく。

 休み時間になる度に、真白は元気よく話し掛けてきた。

 内容はどれもくだらない話だったが、楽しくはある。

 いつか来る不穏を孕みながら、それでもいつも通りに平穏が、そこにあった。 


 ※


 一人の、少年がいた。

 少年は、過去に異常者に誘拐された。

 そして、人肉を食べさせられ続けた。

 少年は助け出された後、人肉以外を受け付けなくなっていた。

 病院に入院し、通い、ようやく普通の食事を問題なく食べれるようになった。

 しかし。

 人肉以外を、美味いとは思えなくなっていた。

 いつも飢餓感に苦しんでいた。


 ただ、それだけの話。


 ※


 授業は上の空のまま過ぎて行き、昼休みになった。


 弁当を持って椅子から立ち上がり、教室を出て廊下を歩いて行く。

 今日はアイラと昼飯を食べられる日だ。

 最後の階段を上り、屋上の扉を開ける。

 足を踏み出すと、ベンチに座っているアイラがこちらに視線を向けてきて、俺だと確認すると笑みを零した。

「よっ、アイラ」

「はい、和希さん」

 一言言葉を交わすと、アイラの隣に腰掛ける。

 弁当の包みを解き、蓋を開けた。

 今日もアイラの、美味そうな弁当。

「いただきま――――」



 ドクンッ――。



 鳴動。

 鼓動。

 脈動。

 罪科異別が、発動された。


 今か。

 今来るのか。

 まだ、昼間だ。

 また、昼間だ。

 前回昼間に罪科異別が発動された時は、何の被害もなかった。

 だからといって、今回もそうだなんて希望的観測もいいところだ。

 そもそも何の根拠もない。

 行かなくては。

 早く、誰かが死ぬ前に。

 

 弁当に蓋をして脇に置き、立ち上がる。

「アイラ、すまん。俺行かなくちゃいけないところが出来た」

「……っ。和希さん……」

 アイラは一瞬面くらい、すぐに俺が最近やっていること関連だと理解したのか心配そうに名前を呼んでくる。

「それじゃ、いってくる」

 走り出そうとした。

 けれど、一、二歩進んだだけで止まる。

 後ろに引っ張られたのだ。

 その後ろへ、振り返る。

 アイラが、俺の服の袖を掴んでいた。


「行かないでください…………」

「なんでだ……?」

 アイラはいつも、いってらっしゃいと言って送り出してくれた。

 なら、なぜ今止める?

 必ず帰ってくる。

 あの約束を、信じてくれるんじゃないのか?

「今日の和希さん、いつもより、なんというか、辛そうというか、悲しそうというか、ボロボロなまま無理に動こうとしてる人みたいで……このまま行かせたら、帰ってこないような気がして…………だから、とにかく今だけでも、行かないでください。少なくとも、元の和希さんに戻るまでは……約束のことは、わかっています、でも…………」

 アイラは、悲痛な表情で話した。

 そして、言葉を切らして俯いた。

 

 みんな、俺の様子をすぐに解ってしまうんだな。

 津吉も真白も、そうだった。

 でも。

 辛いとか、悲しいとか、それがどうした。

 だからって、やらない理由にはならない。

 俺は、やりたいことをやるだけだ。

 アイラとの約束は必ず守る。

 生きて帰る。

 だけど、やりたいこともやり通す。

 救うんだ。すべてを。

 一人でも多くを。

 立ち止まってる暇なんて、ない。

 今すぐ救いに行かなくてはならないんだ。

 そうしないと、救える命が減ってしまう。

 だから――。


「ごめんなアイラ。それでも行きたいんだ。絶対に帰ってくるから、信じて待っていてくれ」

 そんな言葉だけを残して、アイラの手を出来るだけ優しく振り解いて走り出す。

「あ――和希さん……!」

 アイラが呼ぶが、立ち止まらない。

 立ち止まるわけにはいかない。

 今にも人が、死んでいるかもしれないんだ。

 ほんと、ごめんなアイラ。

 ごめんなさい。 



 学校の階段を走り下りながら、携帯で真白に電話する。

 数コールで出た。

「カズくん、どうしたの?」

「罪科異別が発動された。集合場所は校門でいいか?」

「うん、わかった。今すぐ行くよ」

 真白は即座に状況を理解し、そう返してくる。

「そうしてくれ」

「一人で行かないでね……?」

 念を押すような言い方。

 さすがの俺も、学んでるっての。

 それに前の時だって、結局一人で行かなかっただろ。

「わかってる」

 電話を切り、携帯をポケットに仕舞って走る速度を上げる。

 全力で走る俺に向けられる、生徒の驚きと奇異の視線を無視しながら、進んで行く。

  

 アイラにはああ言ったが。

 死なない保証なんてある訳がない。

 そんな事は解っている。

 相手が俺を上回ってくるか、運が悪かったらそれで終わりだ。

 それでも。

 俺に出来ないわけがないんだ。

 俺は、すべてを救うのだから。

 約束は、守る。

 

 

 

 真白と校門で合流し、駅まで走り、電車に乗って移動した。

 たった一、二駅ほどだが、こちらの方が速い。

 今回は、いつもより少し遠くで罪科異別が発動されたのだ。

 だから、急がないと手遅れになる。

 少しでも早い方法を取らなければならない。

 

 そうして。

 その場所に、着いた。

 隣町の高等学校。

 見ただけで、すぐに異様だと解った。

 だって。


「カズくん、この学校、結界張られてるよ。それも全域に」

 真白が表情を険しくしてそう言った。

 違う、俺が言いたいのはそうじゃない。

 結界とやらも今初めて聞いたし、気になるが、それじゃない。

 

 俺の目の前、校門前には人だかりが出来ていたんだ。

 学校の敷地内の、校門前に立ち尽くす人。

 壁なんて在るように見えないのに、見えない壁を必死に叩く人。

 俺たちの姿を見止めて、助けを求める為に大声を上げているように見える人。

 こちらには何一つ音は伝わってこないけれど。

 非常事態だという事は、嫌でも伝わった。

 そして、このまま見ていても何にもならない。


「真白、その結界とやらは入れるのか?」

 それが問題だ。

 入れなければ、手の出しようがない。

「これを見た限り、わたし達みたいな存在なら入れそうだよ。もっと詳しく言うなら、大罪戦争に関わっている人なら入れるんじゃないかな」

 真白がヴァイオレット色の瞳を純白に煌めかせて言った。

 見た限りの推測でしかないが、目に何かの異別でも使ったのだろう。

「そうか、なら問題ないな」

 拳を掌に叩き付け、気を引き締める。

 一呼吸。

「行くぞ、真白」

「うん」

 二人して足を踏み出す。

 

 結界内には、少しの違和感と共にすんなりと入れた。

 いきなり霧が充満した空間に放り入れられたような、そんな違和感だった。

「お、おい! あんたら自由に行き来できるのか? だったら助けてくれよ。外に出られないんだ……!」

 平然と入ってきた俺たちに、声が掛けられる。

 見た目から判断するに、この学校の男子生徒だろう。

「なんかわけのわからん化け物が、みんなを殺したんだ! ちくしょう……!」

「早く私を助けて! でないとアイツが来ちゃう!」

「死にたくない!」

「助けて!」

 次々と周りの者が近づいて来て、言葉が放たれる。

 皆、必死な表情。

 藁にも縋る思いなのだろう。

 だが、これでは前に進めない。

 押し退けて進んで行くしかないか?

 真白も考えあぐねているようで、困ったと顔に出ている。

 鬱陶しい。

 俺は急いでるんだ。今安全な者にかまけている時間はない。

 と。


「みんな、少し落ち着いて! というか落ち着けなくてもいいから黙って!」

 鶴の一声。

 その声が聞こえた直ぐ後、全員が静かになった。

 生徒たちの間から歩いてくる女性。

 俺たちの前で立ち止まる。

「ごめんなさいね、うちの生徒が。こんな状況だから、どうか許してあげてほしいわ」

「あ、いえ! 大丈夫です。怒ってませんから」

 真白が答えた。

 俺は咄嗟に答えられなかった。

「私はこの学校の教師です。今が普通の状況ではない事は一応理解しています。そして、この外から入ってきた貴方達が普通ではないのだろうとも思っています。だから話を聞いていただけませんか?」

 女教師が真剣な大人の顔で言葉を発する。

 さっき一瞬で静かになった生徒を見るに、よっぽど信頼されているのだろう。


「問題ないですよ。俺たちがなんとかしますから」

 俺は静かになった生徒たちの間をすり抜けて走り出す。

 そんな事に時間を使ってる場合じゃないんだ。

 要はここにいる大罪者をぶっ倒せばいい。

 それで解決だろ?

 殺さずに、無力化する。

 俺に出来ないわけがない。

 俺に任せろ。


「あ、カズくん! ――ごめんなさい! ちゃんと何とかしてきますので!」

 後ろで真白が追いかけてくる足音。

 心配するな真白。一人で行くつもりなんてないさ。

 走る速度を次第に真白に合わせて行き、二人並ぶ。

「よかった。せっかく電話で言ったのに一人で行かれちゃうかと思ったよ」

 ほっとしたように真白が言う。

「まあ、ついてくるのが遅かったら置いて行ったかもな」

「え!? ほんと油断も隙もないね……」

「冗談だ」

「……冗談に聞こえない冗談はやめてほしいよ」

 げんなりして呟く真白。

 そんなことを話している内に、昇降口に着く。

 そのまま進み、校舎に入った。


 直後。

 空気が変容したように感じた。

 気分が悪くなってくる空気だ。

「カズくん、ここからはもっと警戒してね」

 真白もそれを感じ取ったのか、注意を促してくる。

 ならば先に、武器を出しておいた方が良いだろう。

「『総ての救済を望む傲慢な愚者よ、殺戮し、終わりの理へと導け』」

 左眼が翡翠色へと輝き、右手に柄も鍔も刀身も翡翠色の短剣が現出した。


 周囲に気を向けながら、足を踏み出す。

 逸る心を抑えながら、警戒して進んで行く。

 一階の廊下には、誰もいない。

 なら、教室を一つ一つ確かめるよりは、上の階に行った方が良いだろう。

 校門で少し聞いた話に寄れば、廊下に何も無いなんて事は無いと思うから。


「……っ」

 二階へと続く階段に差し掛かると、微かな異臭を感じた。

「カズくん、これは」

「ああ」

 一段一段上る度に、その嗅いだ事のある嫌な臭いは増していく。

 だが、そんな事で足を鈍らせている暇はない。

 速さを緩める事なく、進む。

 真白も並んで、進んで行く。

 そうして。

 二階へと辿り着いた瞬間、目に入ってきたものがあった。


 ――赤。

 赤色だ。

 いやな臭いの、赤色だ。

 さらに足を進めると、廊下に出る。

 校舎の二階廊下。

 そこに、そいつはいた。

 廊下一帯を血に染め、死体が散乱した中心に、荒い息を吐きながら立ち尽くす男。

 右眼をオレンジ色へと光らせ、右腕を黒き無貌むぼうの獣へと変化させた大罪者。

 マンイーター。

 人を喰う者。

 本名は、知らない。

 

 と。

 視界の端に、動くもの。

 見ると、死体に囲まれ、血を浴びた女子生徒がへたり込んで震えていた。

 逃げ遅れたのか……っ。

 動けないようで、瞳を恐怖に染めたまま立とうともしない。

「カズくん、あの子を護らないと」

「わかってる」

 女の子の前を通り、庇う様にマンイーターと女の子の間に立つ。

 真白も女の子の前方へと立った。

 その間、奴は何もしてこなかった。

 先までと変わらず、手負いの獣の様に、ただ荒い息を吐きながら立ち尽くしている。

 

「よお。マンイーター。話が聞けるなら今すぐ人を殺した事を懺悔して投降してくれないか?」

 こんな言葉、意味は無いだろう。

 現に奴は何も反応を示さない。

 でも、言わなくたって同じだ。

 だから俺は、言いたいから言った。

 言葉を発せずにはいられなかった。

 そうしないと、今すぐにでも冷静さを欠いて殴り掛かりそうだったから。

 沸々とした怒りは、収まらない。

 死体が目に入る度、それは加速した。

 憎悪さえ、顔を出しそうになる。 


「――なぜ、殺す。こんなに、沢山の人を。食べる、とか前に言ってたな。だったら好きに飯食ってろよ。なんで、人を殺すんだ!?」

 マンイーターは、静かに佇んでいる。

 なにも言葉なんて返ってこない。

 そう思っていた。

 しかし。


「君は、飢餓を感じた事があるか?」

 返答が、あった。

 静かな、荒々しい暴食とはかけ離れた声音。

 食人鬼は、話を続ける。

「三大欲求を極限まで高められた人間は、本能に逆らえない。それは抗えない自然の道理だ。そして、僕は人間以外では満たされない。普通の食事で体に必要な栄養は摂れても、心が飢え続ける。それが続けば、僕の精神は死に至るだろう」


 マンイーターは、流暢に話した。

 わけのわからないことを、当然のように。

 だが、ここで嘘を吐く理由がない。

 こいつのその感覚は、俺には想像できないけれど。

 逸脱した、理解できない存在に思えた。

 人を喰う事でしか満たされない?

 どうやったら、人間がそうなるんだ。

 奴がそうなってしまった経緯など、知ったところでどうなるわけでもないが。


「だから、人を殺すのか!?」

「そうさ」

「そんなの、間違ってる……!」

「僕は生きる為に喰らっているだけだよ」

 そうなのだろう。

 それは理解できる。

 人が生きる為に食事をするように、こいつは人でしかその食事が出来ない。

 そうする事でしか、生きられない。

 マンイーターとは、そんな存在なんだ。 

「それでも俺は、人を殺すお前を認める事は出来ない」

 認めては、いけないんだ。

「ならば僕に死ねと?」

「そうは言っていない」

「でもそういうことだろう。僕は人を食べなければ生きていけない。そして君は食べるなと言う。何が違う?」

「他の方法を探せばいい。人を殺さなくてもいい方法を。それが見つかるまでは俺から削ぎ落とした肉を食ってもいいぞ」

「足りないよ。人間の治癒速度は遅い。肉が補充されるまで待てるわけがない。削ぎ落とした肉が元に戻る前に君の全身を喰らってしまうよ」

「……だったら、治癒速度が、再生速度が恐ろしく早い異別者でも見つければいい――そういう能力を持った人っているか?」

 真白に尋ねた。

「どこかには居ると思う。でもすぐには見つからないかも。それに、あなたの肉をくださいとでも頼むつもりなの? 絶対断られるよ」

「……確かに、そうだな」


 そんな簡単な事にも、さっきは思い至れなかった。

 焦っている証拠だ。

 焦るな。

 冷静になれ。


「だから、わたしの力じゃ無理だけど、他の天使の力を借りれば肉体の少しの損傷なら即座に治療できるから、それで飢えを凌いでもらうって方法があるけど…………本当にいいのカズくん……?」

 心配するような、思いつめたような、信じられないと言いたいような、動揺したような、複雑な表情をしている真白。

「ああ」

 俺は間を置かずに頷いた。

 痛いのは嫌だが、それで誰も死なずに済むのなら、仕方がない。


「…………もう遅いんだよ。そんな事できる段階はとっくに過ぎている。話は終わりだ」

 マンイーターが、周囲の死体を眺めながらそんな言葉を発した。

 直後。

 この場は、戦場と化した。

 

 マンイーターの右腕、その黒き獣が不意打ち気味に飛び掛かってくる。

 俺と真白は、瞬時に戦闘態勢へと移行し、左右へと跳んだ。

 すぐ横を、黒き塊が通過する。

 髪に掠った。質量が通過した影響で、風が吹き付ける。

 俺達から狙いを外した黒き獣は、床のタイルを砕け散らせた。

「話は、もう出来ないって事か」

「もとより最初から、意味なんてなかったよ。話をしたところで結局はこうなる――僕達は、敵同士なのだから――!」

 マンイーターは黒き獣を蛇の様に撓らせ、引き戻す様に、Uターンさせる様に、俺の背へと獣の牙を突撃させる。

 学校の廊下はそう広くない。

 だから、右斜め前へと跳んだ。

 擦れ擦れで避ける。

 俺が床に着地するかしないかの時。

『貫きを為す攻性の羽』ティアティス

 真白が、白く煌めく鋭利な羽を数本射出した。

 マンイーターは後ろに下がりながら自らの右腕の陰に隠れ、楯とする。

 数本黒き獣に刺さったが、奴にはほとんどダメージは入ってないだろう。

 マンイーターはさらに下がって行き、俺は深追いすると不利になると判断し、短剣を構えて立つ。


「いい加減お前の戦い方も見飽きてきたな」

「それはこちらも同じだ」

 だが、どうする。

 奴との戦いは三度目と言ってもいい。

 今言葉を交わした様に、お互いの手の内は割れている。

 迂闊に同じ手を打つと、足元を掬われるかもしれない。

 それは相手も、同じ事だが。


「出し惜しみしている場合ではない、よね……あとの戦いに響くだろうからあまり使いたくなかったんだけど、ここで負けたら何の意味もない。そう、僕は君らに二回負け掛けた事を認めなければならない」

「……っ」

 厭な予感が、した。

 目の前で、魔力とやらが膨れ上がったような感覚があった。

「カズくん気をつけて!」

 真白の忠告の言葉の後。


「『暴食よ、狂食と成れ』」


 詠唱の言霊が紡がれる。

 そうして。

 そこに。


 総てを喰らい尽くす、魔の暴食が体現した。

 

 マンイーターの左眼もオレンジ色に輝き出し、両目が魔眼と化す。

 ――バキゴキガギゴギ。

 骨が折れる様な、成長する様な異音を奏でながら、マンイーターの左腕が右腕と同じ黒き無貌の獣と成る。

 ――バキゴキガギゴギガゴバグベガギガゴギ。

 されどそれに止まらず、両腕の黒き獣は膨脹し、二回りも巨大化、変形、角の様な物が生え、大口が腕の半分ほどまで裂ける。

 

 マンイーターが右腕を振るう。

 黒き化け物が、突進してきた。

 いや、突進などという猪でも出来る、程度の低いものではない。

 ただただ喰らおうと、絶対の捕食者は食事をしようとしているだけだ。

 この化け物にとって、人間だろうと、特殊な能力を持った異別者だろうと、己の捕食対象でしかない。

 人一人の全身を呑み込むほどの巨大な大口が、迫ってくる。

 

 今までで最大級の警鐘が、頭の中を掻き回すほど鳴らされる。

 死ぬ。

 死を、覚悟した。

 このままだと数瞬後には、絶対に死ぬ――っ!


 完全に、咄嗟だった。

 我武者羅に短剣を大口の中に投擲し、全身全霊で必死に、横へと跳んで身を投げ出す。

 後の事など考えない、今のこの一撃だけを全力で避ける為にした、本能的な行動だった。

 しかし、結果的にその行為は幸運に傾いた。 

 短剣が口内に刺さったのか、一瞬黒き化け物が怯んだ。

 そのおかげで、俺は喰らい付かれる事なく済んだのだから。

 されど、完全に避ける事は出来なかった。

 黒き化け物の身体に跳ね飛ばされ、壁に叩き付けられる。

 そのまま床に伏した

 

「カズくん――っ!」

 真白が叫ぶ声に反応して顔を上げると。

 

 もう一体の、左腕の黒き化け物が眼前に迫っていた。

 ここから避ける事は、不可能だ。

 

『行かないでください…………』


 アイラの、俺を引き留めた時の悲痛な顔が脳裏に浮かんだ。

 俺は、死んではいけない。

 こんなところで、死ねないんだ!

 

『護り為す白き羽』ティアティス!」

 真白の言霊。

 目の前に、白き羽が集まって生成された楯が展開された。

 黒き化け物が白き楯へと真正面から喰らい付く。

 一瞬の硬直。

 後。

 白き楯は、呆気なく破砕された。

 そのまま突っ込んでくる黒き化け物。

 僅かに勢いが衰えていたのと、楯を壊した時に口を閉じたのが良かった。

 受け身を取れば、なんとか叩き飛ばされるだけに済ませる事が出来るはず。


 いや。

 よくない。

 全く、良くない。

 この化け物は、前までの獣とは違うのだ。

 

 兇悪きょうあくな、黒き一本角が生えている。

 

 突撃が、直撃した。

 胸に、強い衝撃。

「か――はっ――」

 血が散る。足が地から離れた。

 胸を黒き一本角が貫通し、背中から生えている。

 俺を貫いた後も勢いは止まらず、黒き化け物は魚雷の様に進み続ける。

「カズくんっ!」

 真白の、悲鳴のような声が聞こえた。


 やば――い。

 やばい。

 やばいやばいやばいっ!


 この傷は、まずい。

 この怪我は、致命的。

 痛い。

 痛い、痛い、痛い。

 どう、すれば。

 うご、けるか……?

 わからない。

 でも動け。

 でなければどちらにしろ、終わる。

 死ぬ。


「『総ての……救済を望む、傲慢な愚者よ……殺戮し、終わりの理へと……導け……』」

 先に投擲して無くなった翡翠色の短剣を、新たに右手に呼び出した。

 同時。

「きゃっ――!」

 背に何かがぶつかる。

 真白だ。

 黒き化け物は、俺を刺し貫いたまま真白を跳ね飛ばし、まだ進む。

 真白に角が刺さらなかったのが、不幸中の幸いだ。

 

 どこまで、伸びるんだよ。

 この、化け物が……っ。

 自らの手に持つ、翡翠色へと目を向ける。

 ここで能力を使えば、倒せる。

 いや。

 たおせる。

 だが、マンイーターは死ぬ。

 しかし、ここでやらなかったら俺が今にも死ぬ。

 でも。

 それでも。

 でき、ない……。

 できない?

 本当に?

 違う。

 俺は、殺すのか?

 いや、だ。

 嫌だ?

 

 頭の中が、滅茶苦茶になりそうだ。

 もう、何でもいいから刺そうと思った。

 瞬間。

 黒き獣の勢いが止まり、胸から一本角が抜け、運ばれていた勢いのまま吹き飛んだ。 

 床に落ち、転がる。

 体が血で汚れる。

 自分の胸と背から溢れた血なのか、周りの死体の血なのか、判らなかった。

 

 二体の黒き化け物が、引き戻されていく。

 前に飛ばす力を溜める為だろう。

 この僅かな時間に、何かをしなければ。

 チャンスは何度も、やってこない。


 ああ……。

 ああ…………。

 でも。

 ははっ。

 動けねえや。

 胸に空いた穴から赤い液となって命が零れていく。

 立ち上がろうとしても、膝が震えて立てない。

 視界が霞み掛ける。

 痛いのかもあまりわからなくなってきた。

 くそ。

 くそ、くそっ。

 根性でもなんでもいいから、動いてくれよ。

 ちくしょう。

 

 両腕の黒き化け物が、解き放たれた。

 

 すべてを喰らい尽くすため、暴食の怪物は俺達に迫る。

 廊下全体を覆い尽くす二体の黒き化け物の巨体。

 壁が迫ってくるようなものだ。廊下内では、避けようがない。

 当然、未だに震えて動けない、女の子もだ。

 なんとか、しねえと。

 なんとかしないと、いけないというのに。

 立て、ない。

 動けない。

 歩けない。

 走れない。

 役立たず。

 無力。

 今の俺は、そんな程度のやつだ。

 俺に、出来ないわけがないんじゃなかったのかよ。

 でも。

 かろうじて、右手に握った短剣だけは、離していない。

 強く強く、俺は握る。


 真白は、動けない女の子を教室に放り込んだ。

 ほとんど投げていた。

 それほど必死に、助けた。

 だが、そうしたことで。

 自分が教室内に逃げ込む時間が無くなっている。

 

『護り為す白き羽』ティアティス!」

 純白の翼から白き羽が射出され、真白の前に集積し楯と成る。

 白き楯に一体の黒き化け物の、その一本角が突撃。

 ガラスの様に、数秒も持たずに楯は破砕された。

 左腕の半ばまで裂けた大口が、真白を捉える。

 真白は純白の翼で閉じられる顎に抗った。

 しかし、兇悪な黒き牙は純白の翼に食い込み、白を穢す。

 危ういところを保っているだけだ。

 現に強靭な顎は徐々に閉じていっている。

 このままでは、真白は確実に――。


 俺の方にも、右腕の黒き化け物が迫ってくる。

 今の俺は、真白みたいに抗えない。

 あの大口が俺を捉えた瞬間、即座に喰われて死を迎えるだろう。

 

 ――いや。

 一つだけ、ある。

 俺の、唯一の武器。

 翡翠色の短剣。

 柄も、鍔も、刀身も、全てが翡翠色の、超常の武器。

 その能力。

 人には使いたくない。

 だから、人間の敵相手ではただの短剣でしかなかった。 

 規格外の能力を持ちながら、俺は使わなかった。

 しかし。

 冷静に、普通に考えて。


 ただの短剣一本で、あんな化け物を倒せるとでも思っていたのか俺は。


 無理だろう。

 どうやってこんなちっぽけな刃物で倒せと。

 でも人を殺したくない。

 今そんなことをいっている場合か。

 今やらなければ、俺だけじゃなく真白が死ぬ。

 アイラとの約束も守れなくなる。

 それでいいのか。

 選べよ。

 敵を生かすか、真白を助けてアイラとの約束も守るか。

 即断しろよ。

 考えている暇はない。

 黒き化け物は、もう目の前だ。

 

 俺は、すべてを救うんだ――!

 無理だ。解ってただろ。

 今は、どちらかしか生かすことは出来ない。

 真白か、敵か。

 大切な仲間か、大切じゃないどうでもいい存在か。

 簡単だろ。

 簡単じゃない!

 簡単だ。 


「うああああああああああああああああああああああああああ!!!!」


 叫んだ。

 どうしようもなくて、ただただ、叫んだ。

 叫ばずには、いられなかった。


 ――――脳裏に浮かぶ光景。

 赤の海。

 むせ返るような厭な臭い。

 倒れている、誰か。

 二人。いや、三人。

 そして、その中心に、立つ者。

 冷徹で冷血で鋭い眼をした、誰か。

 俺を、嘲笑う様な瞳で、見下ろしていた――。


 今のは、なんだ……?

 前にも、少し見た。

 これは、記憶?

 ……そんなことは、どうでもいい。


 真白とアイラの姿が、頭を占める。

 真白の太陽のような笑顔と、アイラの花開くような笑顔を思い出す。

 失われるようなことは、あってはならない。

 何をおいても、絶対に嫌だ。 


『だから頼む。俺が、お前が、庵子ちゃんが、アイラちゃんが、春風が、みんな笑って生きている。そんな結果を出してくれ』


 ――――。

 誰かから聞いた、誰かの言葉。

 なぜか、唐突に思い出した。

 覚えてもいない、誰かの言葉のはずなのに。

 ……なあ、知らない誰かさん。

 それって、大切な人達に生きていてほしいってことだよな。

 俺も、そう思うよ。


 ――大切な人を殺す奴なんか、死んでしまえ。

 違う。

 俺は、すべてを救うんだ!!

 戯言だよ。


「戯言なんかじゃ、ねえよ……」

 俺は、それを目指すんだ。

 理不尽に潰される青い理想だろうと、俺はそうしたいんだ。


 でも。

 今は。

 今だけは。


 何も考えない。


「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」


 叫んだ。

 叫んだ。

 思考を全て蹴散らす為に。

 一つの事を完遂する為に。

 

 真白を護って、俺も生きて帰る。

 そのただ一つだけを、行動原理として。

 考えず。考えず。叫びながら。

 前を見据える。


 迫るは、頑強な一本角を生やし、腕の半ばまで裂けた大口を開き、兇悪な牙と奈落の底の様な口内を見せつけて前進する、黒き化け物。

 相対するは、胸にあなが空き血だらけな、満身創痍の俺。

 

 一瞬だ。

 一瞬で、この勝負は決まる。

 

 黒き化け物が、獰猛に飛び掛かる。

 俺は、膝立ちのまま翡翠色の短剣を握り込む。

 

 黒き化け物が俺に喰らい付いた。

 短剣を持った右腕を振り上げる。  


 俺の背と脛に、漆黒の牙が食い込む。

 コンマ数秒すらない後、俺は牙に串刺しにされるだろう。

 ――されど。

 

 翡翠色の短剣、その切っ先が黒き化け物の口内に突き立つ。

 ――俺の方が速い。


「『殺害せよ』」


 短い一言の、言霊。

 それが発された刹那。

 世のことわりとして、現実が定義される。

 今、この瞬間、刀身が突き立っている存在は死ぬ、と。

 以前填め込んだ楔が効果を成し、広がる。

 死の概念を、絶対として定義され、逃れられない現実と成る。

 

 そう、それこそが『殺戮終理さつりくついりの魔眼』という、規格外の異別のチカラ。

 人間相手では、ただの短剣として腐らせていた本質。

 本来この剣は、殺す為に在るのだから。

 

 結論。結果。

 マンイーターは、死ぬ。

 名前も知らない男は、命を散らす。

 

 黒き化け物は消滅し、視線の先で敵が倒れるのを見止める。

 死体を確認するまでもない、奴は死んだ。

 本能で理解している自分の能力が、いやでもそう伝えてくる。

 終わった。

 今回の戦いは、これで、終わった。




 黒き化け物が消滅した事で、解放された真白が少しふらつきながら歩み寄ってくる。

 俺は座り込んだまま、動けない。

 視界が霞む。

 体の感覚が、なくなってきた。

 俺、死ぬのかな。

 まだ、死ねないんだけどな。

 アイラとの、約束があるんだ。


 …………。

 考えないようにしていた事が、頭の中に戻ってくる。


 俺は、ただ、救いたかった。

 誰かが理不尽に死んでしまう事が、嫌で嫌で仕方がなかった。

 だって、人が死ぬって悲しい事だから。

 悲しくて悲しくて、耐えられないくらい認められない事だから。

 俺は止めたかった、助けたかった、護りたかった、救いたかった。

 なのに。

 なのにこのざまだ。

 誰も救えない。

 死んでいく人ばかり。

 

 俺が、殺した。

 被害者面は、赦されない。

 俺は、俺の目的のために、人を殺した。

 敵に向かって、人殺しなんてもう言えない。俺も同じなのだから。


 …………。

 でも。

 それでも、人を殺させたくない。誰も死なせたくない。

 自分が殺しておいて、何様だとは思うけれど。

 まだ、そんな理想を諦められない。

 少なくとも、自分の周りと、その時目の前にいる命だけは、救いたい。

 だって、人が死んでいくのが当然だなんて、あんまりじゃないか。

 それは寿命でいつかは死ぬだろう。

 けどさ、理不尽に殺されて終わりなんて、悲しすぎる。

 俺は、認めない。

 そんなのが、仕方がないと諦められる世の中など、ふざけている。

 自分が諦めて、真白だけを選んだくせに。

 それでも、だ。


 真白が目の前で膝を突く。

 純白の翼が、俺の身体を包んだ。

『包み癒す擁の翼』ティアティス

 光が、流れ込んでくる。

 胸に空いた孔、死を身近に感じる大怪我、そこから生じる闇のような恐怖。

 それが、癒されていく、暖かい。

 でも、治ってる、みたいな感覚はあまりない。

 大怪我は治せない、と真白は前に言ってたか。

 だったら俺は、どうなる……?

 まあ、いいや。

 よくない気がするけど、いいや。


 真白が、正面から抱きしめてくる。

 甘くいい匂いが、した。

「カズくん、これだけは言わせて」

 真白が言う。


「助けてくれて、ありがとう。わたしは、カズくんのおかげで生きてるよ」


「…………っ」

 心が、震えた。

 俺は、救いたかった。

 なのに、俺が救われている。

 罪はどうやっても消えない。

 どれだけ取り繕っても、俺はさっきまで絶望していた。

 だというのに。

 たった一言で、救われてしまった。

 真白の、たった一言で。

 俺は、完全な絶望から、少し、引っ張り上げられる。

 心が、少し軽くなった。

 一筋、涙が落ちていた。  


「ぁ……」

 視界が、暗くなってくる。

 意識が、途切れそうだ。

 腕一本上げるのも億劫な状態。

 視界も、狭まってきた。

 と。  


 視界の先。

 真白の後ろ。

 廊下に、白い足と、黄金色の髪が翻ったように見えた。  


 意識が完全に落ちる前。

「ごめんね。わたしじゃ、助けられないよ…………」

 真白の、悲しそうな声が聞こえた気がした。


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