第14話 嫉妬の罪科



 6月10日水曜日



「カズくん、多分精神操作系の大罪者は学校関係者だよ」

 一時間目終わりの休み時間。

 真白に屋上まで連れていかれたと思ったら、開口一番そう切り出した。


「何で分かった?」

「昨夜会った操られてた子がね、「あの人から離れて」ってわたしに言ったんだ」

「ふむ」

「つまりわたしと関係のある人から離れてってことだから、必然的にわたしの行動範囲内にいる。そして、あれほど叫んで言うぐらいだから、ごく最近にも頻繁に一緒にいる人の可能性が高いよね。わたしが最近関わってるのはカズくん、アイラちゃん、津吉くん、この三人。全員この学校に通っているし、会う機会もこの場所が一番多い。だからその大罪者も学校にいる可能性が高いと思う」

 真白の予測は理に適っているだろう。

 俺もその説明を聞けば、敵は学校関係者としか思えない。


「カズくんに心当たりはない?」

「ない」

「なら、津吉くんとアイラちゃんの知り合いをまずは調べてみようか」

 俺は賛成の意を示す為に首を縦に振った。 


「今すぐ探そう」

「今? もう休み時間終わるけど……」

 少し困った表情で首を傾げる真白。

「何悠長なこと言ってる。授業よりも人命の方が大事だろ」

「それは当然だよ。でも授業中に動いても生徒はほとんど教室の中だから何も聞き出せないし、先生に見つかったらお説教くらって余計に時間をロスすることになると思うな」

「ぐっ……」

 それは正論だ。

 でも、敵が近くにいるのに直ぐに何もしないでいることが、もどかしくて堪らない。

 無意識に両手を、痛いぐらいに握りしめていた。

 

「とにかく教室に戻ろ? 今動いてもしょうがないよ」

「…………ああ」

 真白の言葉に辛うじて同意すると、教室への道を歩き出す。

 気分を切り替えていかなければ、実際、真白の言っていることは正しい。

 俺の自制心が脆弱なだけだ。

 深呼吸をしながら、真白の後ろを進んで行った。




 二時間目後、三時間目後の休み時間は真白と手分けして学校内を探索する。

 アイラと津吉の知り合いを本人二人から聞き出し、二人の友達や知り合いの生徒を観察したり、最近行動や様子が変じゃないか他の生徒に訊きまわった。

 しかし、休み時間は短い。

 学校中を探索しきることはまだできていなかった。


 昼休み、屋上。

 真白と共に昼飯を食べながら、成果をお互いに報告し合う。

 俺はアイラが作ってくれた弁当、真白は購買のパンを食べている。

 メロンパンとクリームパンという甘々なメニュー。


「こっちは成果なしだ。俺が見た限り誰も変じゃないし、誰に聞いてもいつも通りで変な所はないという」

「わたしの方もそんな感じだったね」

 状況は芳しくない。

 俺の方で全然収穫が無い時点で大方そうなるだろうなとは思っていたが、何割か期待していただけに少し落胆する。

「まあ、二人の知り合いは全滅だったとはいえ、まだ学校全てを調べたわけじゃない。昼休みもこれ即行で食い終わってまた調べるぞ」

「うん、喉詰まらせないようにしなよ?」

「わかってる」

 

 

 ドクンッ――。



「――っ」

 魂に直接伝わるような鼓動。

 知らされる超常。

 その意味は、罪科異別の発動。 


 来た。

 ここだ。

 この場所だ。

 真昼間から、それも学校で能力使いやがった馬鹿がいる。

 まだ、人が何百人もいるというのに。

 こんな所で戦闘なんかした日には、血の海が出来る。

 少なくとも誰かが死ぬ。

 ――そんなこと、させるか。


「真白、罪科異別が使用された。今、この学校内で」

「え!?」

 真白の驚愕の声を置き去りに、俺は即座に走り出す。


「ちょっ!? カズくん、わたしも行くよ! 一人だと危ないでしょ!」

 真白もすぐに俺を追いかけてきた。


 屋上から校内に戻り、行き交う生徒の目と様子を確認しながら走る。

 あいつは。

 目を向ける。

 ただ歩いているだけの普通の生徒。

 あいつは。

 首を向ける。

 談笑している二人の一般生徒。

 あいつは。

 目を巡らす。

 教室に駆け込む男子生徒。

 一瞬だったので顔が見えなかった。

 怪しい。

 知らないクラスの教室まで追い、男子生徒の首根っこを掴む。


「お前! 大罪者か! なぜ教室に駆け込んだ!」

「な、なんだよ!? 急いでるんだからやめてくれよ!」

「人を殺す為にか」

「は……?」

「人を殺す為に急いでるのかって訊いてるんだ!」

「なに物騒で訳の分からないこと言ってるんだ!? 今ダチとゲームの途中なんだよ、遅れると俺に不利な細工される可能性がある、だから放してくれ」

「そんな誤魔化しは訊いていない!」

 突然横合いから手が伸びてきて俺の手を掴み、男子生徒を拘束していた手が離される。

「カズくん、少し落ち着いて! この人は違うよ!」

 その間に男子生徒は再び教室に入っていった。

「魔眼は発動を解いちゃったら確かに普通の目と見分けがつかないけど、様子だって別におかしなところはなかったよ」

 真白は力強い目で俺の目を見て、勝手な行動はさせないとばかりに掴んだままの手に力を込めてくる。

 数秒の間。


 冷水を浴びせられたかのように、はっとした。

 落ち着いて行く。

「…………あ、ああ、そうだな、そうだった……悪い、気が動転してた」

「今から冷静になってくれればいいよ」

 微笑んで俺の手を放す真白。

「それは任せとけ」

 真白の言葉に答えると、再び走り出し、二人で探していく。

 廊下全体に視線を回す。


 誰も彼も、平穏に昼休みを送っていた。

 



 校内を駆けずり回った俺たちは、へとへとになりながら人気のない校舎裏でへたり込んだ。

「見つからなかったね……」

「くそっ……」

 そう、誰も様子が変じゃなかった。

 魔眼を光らせているやつも、いなかった。


「でも、何も起こってないならまだいい方だよね」

 真白は安堵した表情。

「…………」

 真白の言う通り、騒ぎなど一切なかった。

 誰も恐らく、死んでいない。

 そう信じたい。

「だが、誰も見ていないところで一人か二人殺された可能性もある」

「それは、確かにそうだね……」

 安堵の表情が曇る。 

「でもそれならすぐにわかるよね、放課後に調べよう」

「ああ」

 何も、なければいい。


 ――――。


 何もなかった。

 本当に誰も殺されていなかった、死んでいなかった。

 アイラに先に帰ってもらい、放課後に真白と共に教師や生徒に聞いて回ったところ、誰も昼休み以降にいなくなったなんてことはないらしい。


 誰も死ななかったのは良かった。

 それは本当に良かった。

 けれど。

 

 だったら、大罪者は何の為に罪科異別を発動したのだろう。


 

 


 夕食後。

 アイラの淹れてくれた紅茶を飲んでいる。

 湯気に乗って運ばれてくる香りを堪能し、ちびちびと口を付ける。

 今日もアイラの紅茶は美味だ。

 甘い物が好きな俺がミルクも入れず、砂糖も入れないほどの香り。

 その香りを薄めたくないと思えるんだ。

 落ち着く。   


「これってリラックス効果でもあるのか?」

「はい、ありますよ。日本で一番親しまれてる紅茶であるダージリンの効能です」

「今日も美味いよ」

「ありがとうございます」


 微笑むアイラの顔を見ながらさらに一口飲む。

 美味い。

 

「ふうーーーーー……」

 溜まったよどみを排出するように息を吐いた。

 

「お疲れですか?」

 アイラも紅茶を一口飲んだ後訊ねてくる。

「……ああ、まあ、そんなところだ」

 妹に言われて気づいたが、確かにそうかもしれない。

 今日も、何も解決できていないのだし。


「全部は言わなくてもいいですけど、話だけでも聞きますよ」

「何を言ってるかもわからない変な愚痴になると思うぞ」

「それでもいいですよ。和希さんが少しでも楽になるのなら」

 妹の優しさに甘えていいものか、迷った。

 数十秒ぐらい、悩んだ。

 その間、アイラは静かに待っていてくれた。

 俺はそれに安心感を覚えてしまって。

 ストレスとか色々溜まっていたのか。

 自然と口が動いていた。


「なんでなんだろうな……」

 返答を望んだ言葉ではないことを察したのかアイラは何も言わない。


「なんで、傷付けるんだろうな。なんで、分かり合えないんだろうな。誰も辛い思いなんてしたくないし、死にたくもないはずだ。なのに、なんでその嫌なことを押し付けるんだ。結局自分さえ良ければそれでいいのか。全ての人間がそれを否とし、優しさを望んで相手に向ければそんなことは起こらず幸せがそこかしこで生まれそうなのに、なぜ辛いことばかりで、それを回避する為に他人を犠牲にして悪いことばかりが起きる。こんなの間違ってるだろ。どうすればこの負の連鎖が絡まってどうしようもなくなった世界を良くできるのか、一人の人間が考えたところでどうにもならないのかもしれないが、誰も考えなかったら確実に何も変わらない。でも、一人ではただ悩むだけで終わる。だが人を動かす力も俺にはありはしない。もう自分で自分が何を言ってるのかわからなくなってきたが結局のところ俺が言いたいのは」

 一つ息を吐いた。 


「傷付けるのをやめてくれ。わかり合いたい。みんなで幸せになろうじゃないか。


 ――――――いや」

 紅茶を一口飲む。


「さっきまでの言葉全部、綺麗事だ。本当は俺、多分そんなこと思っちゃいない」

 最近分かったことだ。

 アイラは黙って聴いている。


「俺は、本当は……


 本当は…………」


 その先の言葉は、言えなかった。

 言葉に出してしまったら、それが完全に真実になってしまいそうで。


 まだ戻れる。 

 言ったら意識がその考えに浸食されて戻れなくなりそうだ。

 俺はすべてを救う。

 誰も殺させない。

 誰も殺さない。

 

「…………もう、いい」

 話したいことはない。

 俺の戯言はここで終わりだ。

 

「楽になりましたか?」

 アイラの穏やかな声音。

「どうだろうな……もやもやは晴れていないが、確認にはなったのかもしれない」

「それなら私は、少しは役に立てましたかね」

 苦笑するような、微妙に違うような表情。

「俺はアイラに聴いてもらえて嬉しかったよ」

「そう言ってもらえるなら、私も嬉しいです」

 今度は安心したような微笑み。

 紅茶を一口飲む。

「また、頼ってくれてもいいですからね」

「ああ」

 アイラに答えたその言葉は、自分の中で曖昧だった。

 本当に頼っていいのか?

 アイラが不幸になることは、絶対に避けたい。

 巻き込んで死なせるなんてありえない。

 だから、わからなかった。

 今みたいに話すぐらいならいいだろうか。

 アイラも嬉しそうだし、それぐらいならいいかもしれない。

 アイラのおかげで、気持ちが晴れなくとも、整理は出来たのだから。

 

 


 6月11日木曜日



 ドクンッ――。


 夜中。

 暗闇の刻。

 それは、来た。

 

 罪科異別の発動、感知。


「アイラ、ちょっと出かけてくる」

「はい、いってらっしゃい」

 一言いって、アイラに背中を見送られながら家を走り出た。

 

 そのまま感知した方向――学校へと急行する。

 


 今日は、朝から普通に過ごしていた。

 結局のところ、罪科異別の発動を感知する以外に確実性のある対処方法はない。

 相手はしたたかだ、昨日の時点でボロを出す可能性が低いことは分かっている。

 無駄な労力を使うよりは体力を温存しておくべきだとなった。

 真白と二人で話して、そういう方針にしたのだ。

 そして。


 今、動く時が来たんだ。


 絶対に、止める。

 死なせてたまるか。



 

 ――夜の学校。

 俺たちの通う、明日明あすめい学園。 

 今日は、一段と不気味に見えた。

 校門に着き、一つ息を吐く。

 心の準備を整えていく。気持ちを切り替える。

 完全な戦闘態勢に。

 

「カズくん!」

 真白もやって来た。

 前回同様、真白には走っている途中に電話してある。


「行くぞ」

 挨拶もせずに俺は地を蹴る。

「あ、カズくんっ、急ぐのはいいけど気負いすぎないようにね!」

 真白も言葉を発しながら追いかけてくる。

 わかってるさ。

 多分。

 


 校舎に入ると、一層不気味さが増した気がした。

 罪科異別を発動したのが学校ということは分かったが、具体的な場所までは判らない。

 廊下に足を踏み出す。

 しらみ潰しに探すしかない。


「慎重にだよカズくん」

「わかってる」

 奇襲を掛けられる恐れもあるからな。

 慎重に廊下を歩いて行く。

 まずは一階からだ。

 足音を極力立てないように。

 完全に音を立てないことなど、戦闘の熟達者ではない俺には無理だが。

 それでも極力抑える。

 周囲に意識を巡らせたまま進む。

 死角から致命的な一撃が来ても対応できるように。

 

 神経を使いながら一階の探索は終わった。

「誰もいないね」

「ああ」

「次は二階に行こう」

「ああ」

 二階へと続く階段を上った。

  

 静かな廊下を、また歩いて行く。

 教室の中を覗き込む。

 一階同様誰もいない。

 静寂のみが支配し、机と椅子が並んでいるだけ。

 職員室にも、誰もいなかった。

 誰一人、見つからない。


 戦闘音も聞こえない。

 罪科異別を発動する状況ということは、誰かと戦闘する時を意味する。

 なのに、何も聞こえないというのはおかしくないか?

 もっと上の階だからなのかもしれない。

 それでも、今の静か過ぎるほどに静かなこの建物では、微かな音ぐらいは耳に入りそうなものだが。

 屋上なら聞こえないだろうか。

 校舎に入る前に聞こえるのでは。

 いや、戦闘が一旦止まっていたのかもしれない。言葉を交わしていた可能性もある。

 それならその会話の音が聞こえてきていないとおかしいか?

 そこまで俺の耳はいいだろうか。

 ただ聞こえていなかっただけ。

 そうかもしれない。


 駄目だ、神経質になり過ぎている。

 こんな思考に意味は無い。

 結局、進んで行けばわかることなのだから。

 

 歩く。

 教室を確認する。

 誰もいない。

 歩く。

 教室を確認する。

 誰もいない。

 

 嫌な予感がする。

 今までとは比べ物にならないほどの、暗い何か。

 どろどろとした不安が重く圧し掛かってくる。

 なんだ。

 何がそんな気分にさせる。

 いつも通りに戦えばいいだけだ。

 会話ができそうなら説得すればいい。

 説得できそうな相手なんて今までいなかったけれど。

 敵をぶちのめして誰も死なせなければいいだけなんだ。

 

「気負わないさ……気負わない、問題ない」

 静寂の中誰も聞こえないほどの小声で呟く。

 真白に言われるまでもない。

 俺は最強だ。

 できないはずがない。

 

 三階に上った。

 俺たちのクラスのある階だ。

 進んで行く。


 と。

「――っ」

「あれはっ……」

 前方に人影。

 真白と同時に立ち止まる。

「男子生徒、か……?」

「多分、そんな風に見えたけど……」

 その、恐らく男子生徒が、すぐそばの教室へと入っていった。

「鍵が掛かってないのか?」

「みたいだね」

 鍵を開けるような動作もタイムラグも無く入っていったということはそうなのだろう。

「大罪者だよな」

「ここにいるなら、その可能性は高いけど、操られた人の可能性もあるよ」

 ああ、そうだった。

 精神操作系の罪科異別を持つ大罪者。

 その場合も考慮しなければならない。

 

「行くか」

「うん」

 立ち止まっていた足を動かす。

 心臓の脈動が早まった。

 嫌な予感は、足を進める度に高まっていく。

 月明かりぐらいしかないほど暗く、さっきまで気が付かなかったが。

 進んで行くと、男子生徒が入っていった教室が自分たちのクラス、2年A組の教室だと分かった。

 胸の苦しさが、さらに増す。


 一直線に前だけ見据えて、いつも自分が通っている道を歩いて行く。

 教室の前まで着いた。

 教室内は闇の様に暗いが、さっき見た男子生徒が真ん中にポツンと突っ立っているのは分かる。


「ねえ、カズくん、わたしすごく嫌な予感がする。だから一旦戻ろう」

 俺の耳元で真白がそんなことを言った。

「は? なんでだ。もう敵はすぐそこなんだぞ。ここで退いたら何にもならないだろ」

「それでもだよ。それでも戻らないといけない気がするくらい嫌な予感がするんだよ」

「曖昧だな。お前のその感覚は信じていいのか?」

「わたしの勘は当たる。今度わたしの知り合いに聞けば同じことを答えると思うよ」

「ほんとかよ……」


 半信半疑、というのが正直なところ。

 でも、信じた方が良いのだろうか。

 仲間の言うことは、信じるものだ。

 忠告は、聞いておくべきこと。

 なら、ここは一旦退くか。  

 しょうがない、また考えて行動方針を練ればいい。

  

「わかった。今は退こう」

「ありがと。そうしてくれると助かるよ」

 安堵した様に真白は息を吐く。


 そして。

 二人で踵を返した。

 同時。


「きゃああああああああああああああ」

 女の子の悲鳴。

 聞こえた。

 耳に入った。

 瞬時に理解する。


 誰かが殺されそうになっている。

 死にそうになっている。

 ――――そんなこと、認められるか。

 

 踵を返した足をさらに返し、教室内に入る。

 恐らくこの中から悲鳴は聞こえた。


「カズくん!!」

 後ろで真白も走って追いかけてくる音が聞こえる。


 教卓前に、そいつはいた。

 女子生徒の首に包丁を突き付けている男子生徒。

 俺たちを視認すると、包丁を突き付けたまま即座に片腕で女子生徒を拘束した。

 左眼が、濃いピンク色に輝いている。

 精神操作系の能力の魔眼。

 こいつは、本体か、それとも操られた一般人か。

 

「その子を放せ」

 俺の言葉には一切反応せず、沈黙している。

「しょうがないなカズくんは」

 そうぼやきながら真白は純白に煌めく一対の翼を背から生やした。

 俺も戦闘態勢に入る。

「『総ての救済を望む傲慢な愚者よ、殺戮し、終わりの理へと導け』」

 左目が翡翠色に輝き、右手に全てが翡翠色の短剣が握られた。

 

「和希先輩……助けて」

「……っ」

 人質のその声は、聞いたことがあった。

 この前、俺に告白してくれた後輩だ。

 伸ばしっ放しの野暮ったい、黒色のかなり長い髪。

 暗い印象だが、それでもかなりの美少女。

 蕪木美子かぶらぎみこの特徴。

 間違いない。


「今すぐ助ける。待っていろ」

 まずは、あの包丁をどうにかしなければ。

「放してもらおうか」

 男子生徒は一切喋らない、動かない。

 こちらが動いたら突き刺すぞと言わんばかりに、蕪木から包丁を離さない。

 一歩でも近づこうものなら躊躇いなく刃は蕪木の肌を抉る。

 そんな気がして堪らなくなった。

 

 数秒の静寂。

 膠着状態が続くかと思われた。

 だが。

 変動はすぐに訪れる。


 男子生徒が蕪木に突き付けていた包丁を投げた。

 真白に向けて、投擲したのだ。


 馬鹿が。

 それは悪手だ。

「――っ」

 真白は難なくそれを避ける。

 その光景を見止めると同時。

 俺は蕪木を拘束している男子生徒に向けて疾駆する。

 武器を自ら手放した相手は、隙だらけだ。

 投擲した姿勢を戻す合間に、目の前まで俺は移動した。

 こいつが素手で蕪木をどうにかする前に、片を付ける。

  

 翡翠色の短剣、その柄頭を男子生徒の顎に叩き付けた。

 男子生徒は脳震盪を起こし、意識を失って倒れる。

 蕪木は拘束から解放された。


「よし……」

 息を吐く。額の冷や汗を拭う。

 なんとかなった。

 振り返る。

「蕪木、大丈夫――――」


 身体に小さな衝撃。

 蕪木の身体が、密着している。

 俺の背中に両腕を回し、強く抱き付いてきた。

 安心させようと頭に手を伸ばす。撫でてやろうと思った。

 瞬間。


「つーかまえた」


「え?」

 戦慄。

 そんなものが、全身を走った。


 今の声は、どこから聞こえてきた?

 自分のすぐそばから。

 蕪木からだ。

 まるで。


 まるで、罠に嵌まった間抜けを嗤うような。

 そんな声だった。


 ――ガタ。

 少し離れた場所、この教室内ではない場所から、扉を開くような音が聞こえた。


 ガタ。

 ガタ。

 ガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタ。


 扉の開く音が何度も聞こえてくる。

 断続的に、連続的に。

 嫌な予感が爆発的に警鐘を鳴らした。

 

 バタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタ。


 集団の足音。

 うるさいほどに、耳に入る。

 今すぐ、この場から離れろ。

 心の奥の俺は、そう叫んだ。

 でも、動けなかった。

 蕪木のような、華奢な女の子の拘束程度すぐに解けるというのに。

 茫然としたまま、即座の判断が出来なかった。

 脳の理解が追い付いていなかったのだ。


「カズくん!」

 真白がこちらに走ってくる。

「こないで!」

 蕪木が、叫んだ。

 真白がその声に一瞬怯む。

 

 そうして、この教室に雪崩れ込んでくる。

 何十人もの人間が、集まってきた。

 皆総じて、左眼を濃いピンク色に輝かせている。

 その姿は、この学校の生徒や教師に見える。

 操られた人達だ。

 

 なぜ、ここに来るまで気づけなかった……!

 どこに潜んでいたんだ。

 周囲に注意を払いながらここまで来たというのに。


『貫きを為す攻性の羽』ティアティス

 真白が純白の翼から、複数の煌めく鋭角な羽を射出した。

 その白き刃は蕪木へと殺到する。


 蕪木は俺を突き飛ばし、その反動を利用して後ろに跳んだ。

 白き刃達は空を裂いて黒板へと突き刺さった。

  

 走ってきた真白が俺の手を握る。

「飛び降りるよ!」

「ここは三階……」

「なりふり構ってられる場合じゃないよ!」

 言われるまま引っ張られて足を動かす。

 今、俺は木偶でくと化していた。

 無能。

 そんな単語が脳裏を過ぎる。

 馬鹿な。

 違う、俺は……。


 真白が窓を開ける。

 目の前に、人が降ってきた。

「なっ……!?」

 真白が驚愕する。

 ロープを持って、左眼を濃いピンク色に輝かせた人達が上の階から降下してきたのだ。

 何人も、窓に張り付いた。

 真白は俺の手を引いて後ろに下がる。


 窓からも精神操作された人達が雪崩れ込む。

 後ろには、操られた人達、前にも、操られた人達。

 俺たち二人は、教室の真ん中へと追いやられた。

 

 囲まれた。

 逃げ場は、ない。


「和希先輩、こっちに来てください」

 蕪木が、言葉を放ってきた。

「なんでだ……」

「私は和希先輩に仲間になってほしいんです」

 俺を、懇願するような、嘆願するような瞳で見つめてくる。

 濃いピンク色に、左眼を輝かせながら。


 その魔眼は、禍々まがまがしく、深く、なにか、可笑おかしい気がした。

 何が可笑しいか。

 乖離性かいりせい

 そう、人の目に、人の一部として、あの魔眼が存在している事にこの上ない違和感を覚えた。

 人に御し切れるモノとは思えない感覚。

 膨大なる、異の存在。

 今、そこに立っている女の子は本当に蕪木なのだろうか。


「だったらなぜこんなことをした」

 蕪木の言に対して返す。

 その一言にしか、集約しない。

 普通に言ってくれれば、そんな事は二つ返事のようなものだったというのに。

 目的が競合しないなら当然すぐ承諾した。

「和希先輩だけ、来てほしいからです」

「……どういう意味だ?」

 わかってる。

 それでも、訊いてしまった。


「そこの女は消えて、そして二度と関わるな」

 真白に向けて、言い放つ。

 ドスの利いた、昏い声音だった。

「それは無理な相談だよ」

 真白も一言、毅然と言い返す。

 それを無視して、蕪木は俺に視線を戻し言い募る。

「お願いです和希先輩、私の傍にいてください」

「俺はフッたはずだぞ。それに、こんなことまでするほどなのか」

 あの時告白されて、断った。

 俺に関わるのは拒否しないが、こんな方法なんて受け入れられるわけがない。

 大罪者になるのは意思とは関係ないだろうけれど、罪科異別を使ってまで。

「なにをしてでも、それでも傍にいてほしいんです」

 分からない。俺には蕪木が分からない。

 人に害を与えてまでする価値を、恋愛に見いだせない。

 蕪木のそれは、本当にそういう感情なのか?

「ならこんな事は止めろ。操ってる人達を全員解放しろ」

「それは出来ないですよ。そうしたら和希先輩は何をします?」

「お前を拘束するだろうな」

「なら出来ないです。私はそれを望んでいませんので」

「こんな事をしても俺は思い通りにならないぞ!」


「だったら……どうすればよかったんですか……」

 その声は、どこか弱々しかった。


「ただ仲間になりたいって言いに来ればよかったんだよ。こんな方法は駄目だ」

「なんで…………」

 小さく、蕪木が言葉を零した。

「なんで! なんで来てくれないの! 私はこんなに好きなのに!」

 癇癪を起こした子供のように、体を荒々しく振って叫ぶ。

「こんなやり方をしたからだ! 今ならまだ間に合う。今すぐこの人達を解放してくれ。話はそれからだ」

「和希先輩、なんでなんでなんでなんで!」

 蕪木は俺の言葉に耳を貸さない。

 なぜそこまで、蕪木は俺を。

 俺なんか――。

「わかってくれよ蕪木」

「わからないです!」 


 くそっ。クソッ!

 わからねえ。

 わからねえよ。

 蕪木はどうしたいんだよ。

 

「蕪木さん」

 真白が、荒れた海に静止の波紋を落とすように蕪木を呼んだ。

「カズくんは、ちゃんと正面から向き合って話せばわかってくれるよ。だからこんなことやめよ?」  

 優しく微笑みを浮かべて、説得の言葉。


 だが。

 けれど。

 されど。

 蕪木は。


「お前が……」

 昏い声で小さく言った後。

「和希先輩をそんな風に呼ぶなあああああああ!!!」

 思い切り叫んだ。


 その瞬間。

 左眼を濃いピンク色に輝かせた人達が、一斉に動いた。

 真白に殺到する。

 圧殺するかの如く、濁流の様に押し寄せる。


「くっ……。蕪木さん、大丈夫だから。わたしも話を聞くから。信じて」

「うるさいっっ!!」

 真白の決死の言葉も、蕪木は受け付けない。

 

 真白は能力を使わず、身構える。

 操られているだけの一般人を、殺す事はしたくないのだろう。

 真白を直接助けようにも、この数を殺さずに何とかする事は不可能。 


「待て蕪木! やめろ。やめてくれ。時間を掛けてじっくり話せばわかる」

「いやあああああああああ!!」

 だから、真白に殺到した事で出来た人の隙間を通って、蕪木に掴みかかって至近距離から言葉をぶつける。

 蕪木は俺の声が耳に入っていないのか、ただ意味もなく叫んだだけだった。


 真白が人の波に呑み込まれた。

 悲鳴は聞こえない。


「蕪木!」

「放して! 放さないとそこの女を殺しますよ! ここにいる人達も殺しますよ!」

 俺の手を引き剥がそうと、いやいやをするように首を振りながら抵抗する。

「話を聴いてくれ!」

「放して!」

「どうしてなんだよ! なんで聴いてくれないんだよ!」

「いや!」


 ――――――――――。

 きっと。

 もう話は通じないのだろう。 

 何を言っても、今は無駄。

 ならば。


「……っ!」

 蕪木が目を見開く。

 俺が短剣を振りかぶっているからだ。

 殺しはしない。

 何回かやったように、顎に柄を叩き付けて気絶させるだけだ。

 でも。


 蕪木は、俺が殺そうとしているように見えたらしい。


「いやああああああああああああああああ!!!!」

 蕪木が、咆哮の様な悲鳴を上げると同時。


 血飛沫が、舞った。


 何、が。

 起きた?

 

 次々と、赤の噴水が上がった。

 机が、椅子が、床が、壁が、血に染まる。

 机と椅子が大きな音を立てて、滅茶苦茶に倒れる。

 いつも過ごしていた日常が、汚されていく。


 状況が移り変わり過ぎて、脳が、追いつけない。

 追いつけないが。

 それでも動け。

 適応しなければ、死ぬ。

 

 一瞬にして教室を血の海へと変貌させた存在。

 目に入る。

 黒。

 黒の獣。

 それは、黒い四つ足を持つ、百獣の王に似た体形の黒獣。

 

 恐らく、魔獣。

 また、魔獣か。

 大罪者の罪科異別で創り出されたであろう魔獣。

 ここで、またお前が来るのか。

 ふざけんなよ。


 血の不快な臭気が鼻を刺激した。

 今、この広くはない部屋に何体もの死体が転がっている。

 それを作り上げたのは、蕪木でもなく、俺でもない。

 魔獣。

 どこかでこの状況をほくそ笑んで知っている、大罪者だ。

 


 ああ、そうか。

 これが、罪科異別。

 俺は今まで普通に使っていた。

 強力な力だとは、思ってはいた。

 けれど、ここまでなんて。

 非道で、残虐で、醜悪な事が簡単に出来てしまう能力だなんて認識までは、理解はしていたけれど、実感が無かった。

 今まで、何度も見てきてはいた。

 それでも、ここで初めて本当の意味で実感した。

 罪科異別は、在ってはならない力だ。



 黒き魔獣が、凶哮する。

 学校中に響き渡るのではないかと思うほどの、咆哮だった。

 その所為せいで。

 その所為せい何かにはしたくないけれど。

 とりあえず。

 とにかく。

 俺は。

 一瞬怯んだ。

 いや、盛った。数秒だ。 

 数秒、動けなかった。


 数秒あれば、戦闘中の隙として大きすぎた。

 そして。

 動けなかったのは、蕪木も同じだった。 


 薙がれる魔獣の前足。

 衝撃。

 吹っ飛ぶ。

 蕪木と共に、机を薙ぎ倒しながら吹き飛び転がる。


 しかし、大して痛くなかった。

 痛かったといえば、机で身体を打った痛みくらい。

 でも。

 生暖かい液体で、俺の両手が濡れている。

 

 蕪木が目の前に、転がっていた。

 背中から脇腹まで、裂傷。

 魔獣の爪で裂かれた、一目で致命傷と分かる怪我。

 けれど俺は、ほとんど無傷。 


「あ…………」

 気づく。

 俺はきっと、死んでいた。

 逆だっただけで。

 魔獣が腕を振る方向を、逆にしていただけで。

 少し運が悪かっただけで、俺はあっけなく死んでいた。

 蕪木の代わりに。


 魔獣の咆哮。

 やつは絶対強者として、この場にその異様を誇示させていた。


 ――――――――――。

 ――――――――――――――――――――。


 ――今は、何も考える必要はない。

 考えてはいけない。

 俺は立ち上がる。

 翡翠色の短剣、その柄を、強く握り込む。

 やるべき事をやるだけだ。

 殺す。


 一足で飛び掛かってくる魔獣。

 その速度は、普通の人間がこの距離で避けれるものではない。

 獣の疾駆とは、それほど速いのだ。


 されど。

 俺は、負けるなどとは少しも思わなかった。


『護り為す白き羽』ティアティス

 飛来した白く煌めく羽が、俺の目の前で刹那の間に楯と成る。

 真正面からその楯に激突した魔獣は、頭が跳ね上がり、四足がたたらを踏む。

 ここから体勢を立て直すまでに、奴は二、三秒程度必要だろう。

 ごく短い時間。

 けれど。


 二、三秒あれば、十分だった。


 魔獣の目を見る。【ロックオン】

 概念のくさびが、カチリとめ込まれる。 

 右手に握った翡翠色の短剣を、魔獣の額にぶっ刺す。

「『殺害せよ』」

 短い詠唱の後。

 死の概念が顕現、定義、決定、確定。広がる。

 魔獣は瞬時に絶命。

 消滅した。



 途端に教室内は、静かになる。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 荒い息を吐く。

 何もかも、ギリギリだった。

 だが、まだ全部終わっていない。


 血の水溜まりを踏んで、ぴちゃぴちゃと音を鳴らしながら俺は歩く。

 周囲に目を動かす。

 ほとんどの、操られていた人達は死んでいる。

 それでも数人は、生きているようだった。

 その数人は、座り込んで微動だにしていない。

 真白はほとんど怪我を負っていないように見えた。

 俺はよく見ていないが、人の波に呑まれた時も自分で何とかしたのだろう。恐らくマンイーターに巻き付かれた時の様に翼で防御したのだ。

 そうして、倒れている蕪木の前まで来た。


「かず、き、先輩…………」

 生きているか、確認しに来たのだが。

 もう、虫の息だ。

「真白、治せるか」

 返答は分かっている、それでも聞いた。

「無理、だね……」

 真白は悲しそうに、申し訳なさそうに、小さく言う。

 

 俺は、前みたいに取り乱してみっともなく騒いだりしなかった。

 ただ、何もできずに、蕪木を見ていた。


 なにかを言いたげに、俺を見つめ返す蕪木。

「せん、ぱい……」

「なんだ」

 俺は、聴く。ちゃんと、耳を傾ける。 

「私、あの時から和希先輩のこと……」

「あの時?」

 数秒、蕪木が固まった。

「覚えて、ないんですか……?」

「え……」

 なんの、ことだ……?

「あ、あははは……私、馬鹿みたいですね。覚えられてなかったなんて」

 親において行かれた子供のような、酷く寂しそうな表情。

「待て、今思い出す。蕪木と前に会ったことがあるんだろ?」

 前に廊下ですれ違った時、それが最初の、蕪木との邂逅だと思っていた。

 でも、その時に何か引っかかっていたはずだ。

 頭にしこりが残るように。

 あの時は思い出せなかったが、今なら。

  

 思い出せ。

 思い出せ。

 思い出せよ。

 

「……すまん……ヒントをくれ」

 いくら頭をこねくり回しても、出てこない。

 蕪木は弱々しく笑った。


「悪いやつらから助けてくれたヒーロー」


 その一言だけを呟いて、目を伏せる。

「悪いやつらから、助けた……?」

 助けた、黒髪で、髪の長い女の子…………。

 ぁ……。

「もしかして、あれか?」

 あの時の、女の子なのか?

「なあ、蕪木、もしかしてお前――――」


 蕪木は、目を開けない。

「おい、蕪木」

 肩に触れた。

 微動だにしない。

「おい」

 痛いかもしれないが、揺すった。

 動かない。

「おい」

「カズくん、もう……かえろ」

 真白の言葉なんて、耳に入らない。

 入っちゃいけない。

 認めてはいけない。

 それが揺るぎない真実となってしまうから。

「おい、まてよ」

 せっかく、思い出せたのに。

 今から少しでも、こいつの心を救ってやれたかもしれなかったのに。

 傲慢か?

 それは傲慢なのか?

 ふざけんな。

 ふざけんなよ。

 ここでなにも、伝える事さえ出来ずに死んだら。


 何も、救いがないじゃないか。


 俺は、救うんだ。

 俺に、出来ない筈がないんだ。

 救わなければならないのに。

 どうしてだよ。

 なんなんだよこれ。

 もう、頭の中滅茶苦茶で、本当に、なんなんだよ。

 

 いつの間にか、俺の頬には熱い透明が流れていた。

 俺は、何もできないのか…………。

 そんなわけない。

 だって俺様だぞ?

 無敵のヒーローだ。

 無敵のヒーローが死なせちゃいけない人死なせるかよ。

 すべてを救う?

 全く、お笑い草だ。



 背中から、暖かい感触。

「カズくん」

 真白が後ろから、抱きしめてきていた。

 柔らかく、落ち着く香りがする。

「すべてを救おうとする気持ちは、すごいと思う。美しいと思う。尊いものだと思う。だから、とめたりはしないよ」

 ぎゅっと、腕の力が強まった。

「でもね、救えないときもあるんだよ。どんなに頑張っても、失敗するときもある。だから、潰れないで。悲しくても、それを目指したなら前を向いて。すぐに忘れて次に、なんて言えないけどさ、とにかく、まだ失っていない大切なものに目を向けて」

 …………。

 そうだよな。

 真白の言う通りだ。

 わかってる。

 そうなんだけどな。

「わたしも、ちゃんとそばにいるから。耐えられなくなったときは、頼ってくれていいから。投げ出したくなったときも、恥なんて捨ててわたしに言ってくれていいから。わたしは、許してあげるから」

「ああ……」

 少し、心が安らいだ。

 


 ははっ。

 でもな真白。

 俺は、最初から。


 すべてを救えるなんて、思っちゃいなかったよ。


 多分。

 きっと。

 くだらない、理想。

 現実の前には脆く儚い、幻想。

 理不尽に、不条理に、あっけなく潰される。

 そんなものだと、心の底では解っていた。


 だから、すべてを本当に救えるなんて、思っちゃいない。

 けれど、理想って一番そうなったらいいことだと思うから。

 誰もが望む、真実の最上だと思うから。

 だから誰もがそれを諦めてしまったら、それこそ終わりなんだ。

 目指す事を、諦めたくない。間違っているなんて、思いたくない。目指すからには、思っちゃいけない。

 俺は誰も、死なせたくないんだ。

 すべてを、救いたいんだ。 

 俺はそうでしか在れないし、そう在りたいのだから。



「ありがとうな……」

「ううん……」

 真白も、何も思わない筈がない。

 だって、体が微かに震えている。

 それなのに、俺に言葉を掛けることを優先してくれた。


 俺の肩から出している真白の横顔に視線が行く。

 いつもとは違う、大人びた表情をしていた。

 ヴァイオレット色の瞳は、神秘さが増しているように見える。

 流れる髪は、純粋な白。月明かりに反射していた。

 こんな時なのに、綺麗だ、なんて思ってしまう。

 それでいて、こちらの胸が締め付けられるような切ない顔。

 辛さと悲しさを抑えた、狭間の美しさを湛えた姿。

 彼女も耐えている。

 耐えている。

 耐えている。

 俺は数秒間、真白の横顔を見つめていた。


 

「カズくん、帰ろっか……」

「ああ……」

 俺達二人は蕪木に、そして死体達に黙祷を捧げてから、血の匂いが充満する教室を後にした。

 まだ生きている操られていた人達は、昇降口辺りまで背負って移動させた。

 それぞれの家までは分からないけれど、あの場所に留めて置くよりは良いと考えたからだ。

 少しは、安全な筈だ。 


 明日は、どうなるのだろうか。

 休校か。

 それとも、大罪戦争を起こした奴らが隠蔽するか。

 ――――。

 どっちでもいい、と思った。

 知るか。

 

 

 俺は、家に力無い足取りで帰った。

 玄関を開ける。

 リビングに入ると、アイラがソファに座って小説を読んでいた。

 アイラが本を閉じてこちらを見る。

「おかえりなさい」

「ただいま」

 アイラの前に立つ。

「? 和希さん?」

 妹は不思議そうな顔。

 俺は膝を突く。

 アイラの腹に顔を埋める形で抱き付いた。

「わひゃっ!? 和希さん?」

 アイラの匂いは、落ち着く。

 柔らかさと暖かさも、それを助長する。

 少しすると、慌てていたアイラが。

「大丈夫です」

 抱きしめ返してきてくれた。

「私はちゃんとここにいますからね」

 情けねえよな、俺。

 でも、落ち着いたら、頑張るからさ。

 今は、こうさせてくれよ。

 もう少ししたら、強い俺に戻るから。

 その程度、俺に出来ない訳がないのだから。

 まあ、いつもの俺が強いかどうかは、わかんないんだけどな。


「好きなだけ、こうしてていいんですからね」

 その言葉が、ありがたかった。

 しばらくそのままでいると、安らぎの中で自然と意識が闇に落ちる。

 ゆっくりと、眠った。


 

 ――――――――――。

 ――――――――――――――――――――。

 ――――――――――――――――――――――――――――――。



 俺が、中学三年だったかの頃。

 路地裏を、何かの理由かそれとも気まぐれか、通った時がある。

 その先で、複数人の声が聞こえてきて。

 男の中に一人だけ女の子の声が聞こえた気がして。

 気になって歩いて行った。

 

 そうして顔を道の角から出すと、俺は、それはもう驚いた。

 強姦未遂現場なんて、本当にあるんだな。もうすぐ未遂じゃなくなるんだろうけど。

 そんな暢気な言葉が頭に浮かんだ。

 すぐに思考を切り替え、近づいて行く。

 俺はすべてを救うんだ。と心の中で唱えながら。

 

「おい」

「ああん?」

 女の子の服を脱がし掛けていた手を止めて、下種野郎共が振り返る。

 三人か。

 余裕だな。

「今すぐ失せろ」

「は? なに言ってくれちゃってるわけ? このガキが」

「あんまりチョーシくれてっと死ぬぞ?」

「お家に帰って震えてろ。サツにチクったらぶっ殺しに来るからな」

 俺の言葉に耳を傾けるはずもなく、べらべらと不愉快な言動。

「警告は一応したぞ」

 こんな奴らにそんなもの必要ないとは思うが。

 

「お前らやっちまえ。俺はこいつを抑えておく」

 上の立場っぽいやつが女の子に逃げられない様に体を押さえつける。

 残りの二人が近づいてきた。

「じゃあさっそく、痛い目みてもらおうか」

 右ストレートを放ってくる一人目。

 それを難なく掻い潜り、顎にアッパーを決めた。

 あっけなく一人目は気絶。

「なんだ、こいつ……くそっ!」

 二人目が蹴りを放ってくる。

 その蹴り足を取り、引っ張って転がす。

 仰向けに倒れた男の顎に蹴りを入れて、意識を刈り取った。


 ――――体を横に逸らして、後ろから来た突きを避ける。

 飛び退きながら振り返ると、残り一人の男がナイフを持っていた。

 無言で近づいてきた事から前の二人よりは出来るようだが。

 ナイフが突き出される。

 だが、動きは全然だ。

 手首を掴み取り、背負い投げへと移行。

 投げ飛ばした。

 背中を打ち付けられた男は呻き声を上げる。

 そしてまた顎を蹴り飛ばし、脳震盪を起こして意識を落とさせた。

 

 終わった。

 簡単だ。

 この程度のやつらに後れを取ったら、今まで俺は何をしてきたんだ、となってしまう。

 でも。

 なんだ、この充足感は。


「立てるか?」

 壁に背を預けて座り込んでいる女の子の前まで歩いて行き、手を差し伸べる。

「はい、ありがとうございます……」

 俺の手を握って立ち上がる女の子。

 長めの黒髪の、女の子。

 怪我は何もしていないように見える。

 大丈夫そうだ。

「じゃあな。これからは人の多い道を歩けよ」

 特に関わる理由もなかったので、そのまま背を向けて歩き出す。


「あ、あの……っ!」

 すると後ろから声を掛けられた。

 振り返る。

「なんだ?」

「な、名前を、教えていただけませんか……?」

 それぐらいなら問題ない。

「相沢和希だ」

「相沢、和希さん……」

「聞いたからには覚えて置け。いずれすべてを救う者の名なんだからな」

「はい……」

 女の子は顔を綻ばせ、微笑んだ。

 

 そうして俺は、立ち去る。

 心の中は、一つの事で塗り尽くされていた。

 

 これだ。

 これこそが、俺が求めていた救いだ。

 人を、命の危機、またはそれと同レベルの状況から助ける。

 それこそが、俺がしたかった救済行為。

 

 俺の、すべてを救いたいという漠然とした曖昧な目的が、しっかりと明確に、意味を持って定まった瞬間だった。

 興奮が冷めやらない。

 噛みしめていた、自分の生きる目的を。

 偶然とはいえ、俺に道を示してくれた女の子の事を忘れて。



美子side



 男達の下卑た笑い声。

 押さえつけられる身体、抵抗は全力でした。両腕や両足を力の限り振り回そうとした。 けど無理だった。

 やめてといった、でも当然やめてくれない。

 叫ぼうとしたら、口を手で押さえられた。

 ここまでやって、わかった。

 逃げる事は無理そう。


 …………。

 もう、どうでもいい。

 いつもそうだ。

 悪い事ばかり。

 嫌な事ばかり。


 両親は最初から、私に興味持ってないし。

 ネグレクトっていうんだっけ? どうでもいいけど。

 一応生活はさせて貰ってるけど、全然関わってこないなら意味が無い。

 仕事仕事仕事ばっかりで、話し掛けてもほとんど無視される。


 学校も学校で、イジメっぽい事に遭うし。ぽい事というかそのものだけど。

 それも、わけのわからない理由で。

 なんだよ、陰気だから、暗過ぎるからって、わけわかんないよ。

 

 だからもう、どうでもいい。

 好きにすればいい。

 どうせ私を大切に思ってる人なんていない。

 私も大切な人なんていない。

 だったら、何が起こっても気にする事なんてない。

 

 終わるまで。全てが終わるまで、目を瞑っていよう。

 適当に時間でも数えてたら、いつの間にか終わってるんじゃないかな。

 終わったら、そのまま寝るか帰るか、何でも好きな方を選べばいい。

 どっちでも、構わない。

 知らない。

 そのまま殺されてもいい。

 むしろ殺して。

 何もかも、どうでもいい。  

 

 私の服に手が掛けられる。

 これから剥かれるのだろう。

 どうでもいい。私には関係ない。

 そうして、目を閉じようとした。

 時。


「おい」


 下卑た男達とは違う、男の子の声。

 目を閉じるのをやめて、声が聞こえた方を見る。

 私と歳の近そうな、男の子だった。

 結構かっこいい。


「今すぐ失せろ」

 私を襲った男達も何か言うけれど、その男の子の声しか耳に入らなかった。

 視界にもその人しか、映らなかった。

 なぜか、すごく胸が高鳴った。

「警告は一応したぞ」

 そう最後に一言告げると、男の子はバッタバッタと悪いやつらを倒していく。

 ナイフまで出されたのに、あっさり倒してしまった。

 

 そうして男達を気絶させた後、男の子は私に近づいてきた。

「立てるか?」

 座り込んでいる私に、手を差し伸べてくれる。

「はい、ありがとうございます……」

 礼を述べて、男の子の手を握って立ち上がった。

「じゃあな。これからは人の多い道を歩けよ」

 そのまますぐに背を向けて歩き出してしまう男の子。


「あ、あの……っ!」

 私が声を掛けると、振り返った。

「なんだ?」

「な、名前を、教えていただけませんか……?」

 聞かずにはいられなかった。

 だって、この人は、今まで会った人とは何もかも違ったから。

「相沢和希だ」

「相沢、和希さん……」

 その名前を噛み締める。

 記憶に刻みつけるように、心の中で反復する。

「聞いたからには覚えて置け。いずれすべてを救う者の名なんだからな」

「はい……」

 最後に言ったことの意味は分からなかったけど、すごくかっこいいと思った。


 再び背を向けて去っていくその姿は、とても輝いていて、眩しくて。

 ヒーロー。そんな言葉が頭に浮かんだ。

 私を助けてくれた、かっこいいヒーロー。

 こんな私に、初めて優しさを向けてくれた人。

 本当に、ほんの僅かな時間しか話さなかったのに、初めて大切だと思える人。


 一緒にいたい、と思った。

 でもそれ以上、声は掛けられなかった。

 その背を引き留める言葉が、出てこない。

 ここにきて、臆病になってしまう。

 拒絶されたらどうしよう。

 そうしたら、また生きていても意味の無い生活に逆戻りだ。

 それが怖かった。

 迷っている内に、相沢和希さんはもういなくなっていた。

 


 それからは、ずっとその人の事だけを考えていた。

 簡単に言うと、好きになってしまった。

 一目惚れと言えるか、ちょっと違うかわからないけど。

 とにかく、好き。

 いつまでも、ずっと、一緒にいたい人。

 そばにいてほしい人。

 高校生になって再会した時は、嬉し過ぎて飛び跳ねそうになった。

 それでもしばらく、話し掛けられなかったけど。



 ――そうしてある日。

 魔眼が宿った。



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