第17話
「皆さん、テンション高めで行きましょう。」
「はいッ。」
晴三郎は、少し緊張して聖名の病室のドアを開けた。
正午前の陽が、聖名のベッドに射し込んで眩しい。一番に窓架が、枕元に飛び付いた。鮮やかな緑色の髪が跳ねる。
「おっはよー!兄ちゃん!」
「ミナ~、お祭りに行こ~!皆準備出来てるんだよ~。」
晴三郎は、聖名のベッドの脇に腰掛けて覗き込むように話しかけた。
今朝もバイタルチェックは正常。聖名は相変わらず薔薇色の頬を微動だにせず、今にもぽっかり開きそうな瞼をふんわり閉じている。綺麗に上に向かってカールした濃い睫毛が光っている。晴三郎は、我が子ながら溜め息が出るくらい美しい寝顔だと思った。
「ちょっと、わざとらしくないかね?」
ここにきて和二郎が鼻白んで言う。正一郎はただ、腕を組んでその様子を見ている。
晴三郎の背後から、パッと飛び出した窓架が浴衣の袖を広げてみせる。
「兄ちゃん、見て見て!」
窓架は帯の結びを見せるために、その場でくるりと身を翻した。沖崎の言うとおり、高めのテンションでアクションも交えてみせる。
「襟人君に着付けてもらったんだよ~、ねっ?」
二人の後ろに控えめに立っていた襟人は、突然話を振られて慌てた。
「えりりんは、皆揃って浴衣着て来るの恥ずかしいって言ってたんだけどね。」
「そっ、そんなことは無いよ。ただ、家から着てこなくても、ここで着替えればいいって・・・。」
「ここで男ばっかりワイワイ着替えても、聖名が困るだろ。」
窓辺にもたれた有馬が、ケロリとした
「お前な。ここに来るまで僕が何度お前の着崩れを直したか・・・。」
そのやり取りを見ていた晴三郎は、聖名に話しかける。
「二人とも背が高くて肩幅もあるから、着こなして格好いいよね。有ちゃんなんか、日に焼けて胸板も厚いからモデルさんみたいだよね!」
「みんな超イケてるでしょ。兄ちゃんも着たいでしょ。」
窓架は言いながら、晴三郎に目配せする。そして満を持して薄紅梅の浴衣を取り出し、聖名の前に広げて見せた。
「じゃーん!!ミナの浴衣もあるんだよ~!山吹色の帯と、絞りの鼻緒が可愛い草履も用意しちゃった。ね、ミナ、早く着て見せて。きっとすごく似合うよ。」
「有ちゃんの横に立ったら、カップルみたいだよね!」
おどけた調子の窓架が、有馬の手を引いて笑う。
「そうだ!お揃いの布で巾着も拵えたんだ。」
晴三郎はトートバッグから、浴衣と同じ薄紅梅色の巾着を取り出した。
「見てみてミナ。カワイイでしょ?」
晴三郎は、聖名の髪を優しく撫でながら話しかけた。
「髪、伸びたね。浴衣を着たら、髪も結って・・・皆で行こう。ずっとずっと、楽しみにしてたじゃないか。」
こうして、自呼吸もできているのに、何故眠ったままなんだろう。
何度も何度も考えた。本を読み、ネットで似たような事象を調べて、いろいろ試してみたけれど、聖名は応えくれなかった。
眠ったままの息子の髪を洗い、顔や体を拭き、床ずれしないように寝返りを打たせ、オムツを替えて、まるで赤ん坊に戻った息子をもう一度育てるように・・・それから、決して決して涙を流さないように。
一度でも泣いたら、ポッキリ折れてしまいそうだったから。
妻を亡くした時みたいに悲しみに負けて、諦めてしまいそうだったから。
妻は、自分に二人も子供を遺してくれた。
彼女が消えた瞬間から、晴三郎は父親であると同時に、母親にもなると決めた。自分と彼女の魂は同化したのだ。そう考えれば、寂しさも和らいだ。そうであれば、彼女も子供たちの傍に居られる。
「そうだ。兄ちゃん、これ。」
窓架が浴衣の袂から取り出したのは、ロザリオだった。
古いロザリオは、母・ジュリアがその母親から譲り受けたもので、祖母はそのまた母親にもらったものだと聞いている。
聖名にとっては、唯一無二の母の遺品であり宝物だった。どこに行くときも肌身離さず持ち歩き、家族全員、聖名がどれ程ロザリオを大切に思っているか知っていた。ロザリオは聖名の一部、皆そんな風に思っていた。
そのロザリオが、いつの間にか聖名の傍から消えていた事を、家族は誰一人気付かなかった。今にして思えば不思議なことだ。
聖名はそのロザリオを早和に渡していた。
彼を守り、救うために。
晴三郎は聖名を誇らしく思う。
「聖名、早和ちゃんが、ごめんって。」
そう言って、そっと聖名の手にロザリオを握らせた。
「早和ちゃんはね、今日は熱が出ちゃって来られないんだけど・・・昨日、初めて話してくれたよ。あの日、何があったかを。」
聖名と早和は従兄弟だけれど、もしも同い年じゃなかったとしても、たとえ血の繋がりが無かったとしても、必ずどこかで出会って親友になっていただろうと、晴三郎は思う。
「僕ら、ちゃんと見つけたよ。」
「やっぱり馬鹿馬鹿しくてやってられん。」
突然の良く響く低い声に、聖名のベッドの周りに集まっていた皆が振り返る。
病室のドアを背にして、ずっと黙っていた正一郎だった。
「悪いが先生、やはりこの実験は時間の無駄ですよ。」
「しかし、氷川さん・・・。」
手のひらを返したような正一郎の態度に、流石の沖崎も戸惑いを隠せない様子で、予想外の言葉に息を呑んでいる家族たちへ視線を泳がせている。
「これ以上は親のエゴってもんだ、晴三郎。」
「何で急にそんなこと言い出すんだよ?」
皆が呆気にとられている中、襟人が語気を強めた。突然の正一郎の心変わりの理由を問い質す。しかし、正一郎は、晴三郎から視線を反らさず、
「聖名は死んでない。でも、生きても、いない。」
と言い放った。この残酷とも思える物言いに、晴三郎は一瞬ひるんだかのように見えたが、しかし一歩も引かず言い返す。
「生きてるよ!心臓も動いてるし、自分で呼吸もしてる。」
「晴・・・」
鋭い兄の視線に、何か言いようの無い不穏な空気を感じて、晴三郎は身構えた。何か言われる前に言い返さなければ。
「し、身長も、伸びてる。」
「昨日、話したよな?『意識は何処にあるか』。確かに身体は生きてるかもしれない。でも心はどこにある?聖名は今、どこに居る?」
「居る!ここに居るよ。だって昨日、ミナの脳波に変化があったんだよね?」
「脳波はただの数値だろ。心は数値じゃない。」
じわり、と額に汗が湧く。鼓動はどんどん早くなる。
「・・・正さん、何が言いたいの?」
焦るあまり必死になって、聞いてしまってから、晴三郎は息をのんだ。
「このまま、何も変わらないのなら、聖名の治療は打ち切る。」
モニターの脇に立ってバイタルサインを見守っていた沖崎は、正一郎の突然の宣言に、エッ、と小さく声を上げた。
「マジかよ?」
と有馬も驚いて、窓に凭れていた背中を浮かせる。晴三郎は、目の前が真っ暗になった気がして、その言葉をすぐに受け止めることが出来なかった。受け止められるはず無かった。
「お、お金のこと!?」
晴三郎は唇を噛んで、
「だったら治療費は僕が負担する。これ以上、正さんに迷惑かけない。」
混乱した晴三郎の言葉に、正一郎は目を見開いてジッと見つめ返し、やがて自虐的な笑みを浮かべて嘆息した。
「そいつは
ドアの前から動かない正一郎と、聖名のベッドを挟んで晴三郎が睨み合い、対峙している。乗り出した晴三郎の肩を、和二郎が掴んで、
「落ち着け、晴。正さんも、何もそんな結論を急がなくてもさ」
「わっくんにも、迷惑かけない。」
晴三郎は和二郎の手を振り払って、正一郎を見つめた。
正一郎にそう言われる日が来ることを、ずっと恐れていた。
でもなぜ?なぜ今、急にそんなこと言うんだ!?
「僕が働く。」
その声に我に返ると、襟人がベッドの前に歩み出て、正一郎と向き合っている。冷静で思慮深い彼でさえ、動揺を隠せない。何時に無く落ち着きの無い早口で続ける。
「大学を休学してもいい。ずっと、考えてたんだ。休学すればバイトだって自由だろ?僕が働けば、聖名の治療費の足しになるし、ちょうど、教授の知人で、来年弁護士事務所を開業する人がいて、手伝いを募集してるって・・・」
「襟人!」
父の眼光が襟人を射抜く。
「あんまり親を馬鹿にすんじゃねえぞ。黙ってろ!」
皆の頭から爪先まで、ビリビリと電流が走る。正一郎が襟人に大声を上げることは、今までに無かった。晴三郎は狼狽えて襟人の背中を見つめた。拳を握り締めて肩を震わせている。その拳に暴力の気配を感じて、晴三郎は咄嗟に有馬に視線を送った。が、なぜだか有馬は動こうとしない。堪らず晴三郎はベッドの前に飛び出して、襟人の腕を掴んだ。
「駄目だよ。」
眼鏡の奥の、いつも穏やかな目は血走って、見せたことの無い激しい眼光を放っていた。襟人はその手を振り払って、父親に向かっていく。
「父さんこそ!馬鹿なこと言わないでくれよ!聖名のこと、何で急に見捨てるようなこと言うんだ!」
「見捨てる?このままじゃ、何も変わらんと言ってるだけだ。」
何としても態度を変えようとしない正一郎に、襟人は焦れた。
「おい、話が違うだろ!?揃って浴衣まで着て、聖名を驚かすんじゃ無かったのかよ?こんな、こんな驚かせ方あるかよ!?目を覚まさないなら治療打切るぞって、ただの脅しじゃないか!」
正一郎は、そんな息子の様子を見ても、やはり微動だにせず、こちらを見据えている。皆誰も、何も言わない。言えないのだ。
「沖崎先生のお話聞いて、何でそんな結論になるんだよ。なんかあるなら、ちゃんと説明しろよ!!」
長い父子の睨み合いは、病室の時間を止めたようだった。気が遠くなるほど長く感じたその沈黙を破って、正一郎がゆっくりと口を開いた。
「晴、あきらめろ。」
諦めろって?治療を打ち切るって?これ以上の回復は望めない、聖名はずっとこのまま目覚めないってこと?
「そんな言い方ないんじゃないの。」
「和二郎、俺だって正解はわからん。」
「大体、今回のこと、言いだしっぺは正さんじゃないかよ?」
「あきらめるってのは、『明らかに』『見極める』ことだ。」
「そんな言葉で逃げないでさ・・・」
和二郎は言葉を呑んだ。
「・・・まさか、最初から諦めさせるつもりで?」
皆の鼓動が聞こえる。その場にいた全員が、正一郎の返答を待っている。
「夢だな。」
深く長い嘆息のあと、正一郎は吐き出すように話し始めた。
「俺たち全員が見たあの夢だよ。聖名の願いは・・・」
現実主義者の兄が、夢での体験を確信するほど、危殆に瀕しているのか。
「あれが、早和を救ってくれってメッセージだったってことは、察しがつくよな?」
一人一人の夢の中で、聖名は必死に自分達に訴えていた。
「その早和が、俺たちに話したんだ、全部。あんなに傷ついてまでも。」
「早和のことは、結果聖名が望んだ通りになった。おかげで全部カタがついたよ。聖名だって、ホッとしてんじゃないのか?」
和二郎が、張り詰めた空気を緩ませようと配慮しても、正一郎は尚も言葉を選ばなかった。
「まさに本懐を遂げたってことだよな。」
「そんな言い方・・・。」
「ロザリオをもここにある。それでも、聖名は目覚めない。これ以上、どうしろと?」
正一郎と和二郎は見つめあったままそれ以上何も言わなかった。
「ゼロじゃ・・・ない。」
唇を噛んで、俯いていた晴三郎がつぶやいた。
「可能性がゼロでない限り・・・。」
「ゼロだ。」
正一郎は無残に言い切った。余りに惨く、そして突然の宣告に、晴三郎は今度こそ言葉を失くした。
「・・・ここまで言っても、ダメか?」
正一郎の視線が、晴三郎の心を抉るようだった。案じた襟人が振り返ると、ただ呆然と、真っ青な顔で立ち尽くしている。と、突然、
「お前だよ、晴!」
感情の緒が切れたのか、正一郎は拳をドアに叩きつけ、真っ直ぐ晴三郎を指差して声を荒げた。雷に打たれたように、皆が正一郎の指す先を見つめた。
「《お前が》変わる可能性がゼロな限り、治療を続けても無意味だって言ってんだ!」
突然、自分の名を呼ばれたことにも反応できず、晴三郎は頭の中は真っ白になった。訳もわからず、いきなり法廷の被告席に引っ張り出された様に立ち竦むだけだった。
わからない。
全然わからない。
僕の、何が変わらないと無意味なんだ?
「言わせやがって・・・聖名の可能性を、お前が打ち消してんだよ!」
「オイオイ正さん、落ち着けって。」
和二郎の仲裁の声すら届かない。正一郎は舌打ちをして鼻から荒い息を吐いた。
「なっ・・・んで、僕?」
「お前、本当に聖名を救いたいって思ってるか?」
「父さん!」
尚も続く言葉の暴力に、襟人が怒りを露にする。それを制して、晴三郎は整然として言い切った。
「当たり前だ!救いたいよ!僕の命に代えても・・・!」
晴三郎は、ずっと兄に畏れを抱いてきた。
「命に代えてもって、どう代えるんだ?」
それは、物心ついたときからの根深い思いだったが、子を持つ父として、どうしても譲れない思いもある。
「子供を生み出すのは確かに俺たち親だ。でもな、生まれちまったら、もう別の命なんだよ。聖名には聖名の、お前にはお前の、ジュリアさんには彼女の、ひとりだけの命なんだ。」
全身が震えた。それが怒りからなのか、畏れからなのか、彼に判別する心の余地はもう残っていなかった。
「たとえ親でも、その命に代えて、別の命を生かすなんてことはできねえんだ。それが親のエゴなんだってことを、解れよ、晴三郎。」
愛するもののために生きることが、エゴ?
「お前の命はお前の命でしかない。」
「・・・治療を打ち切るなんて、諦めるなんて、できない。僕は、聖名が帰ってきてくれるって信じてる。」
言葉を口にした途端、脆くなった心から、何かが剥がれ落ちて行く感覚に、晴三郎は咄嗟に震える手で口を覆い、正一郎から目を逸らした。
ベッドに向き直って聖名に問いかけてみても、何も答えてはくれない。
「晴三郎。お前は昨日、何を見てた。」
正一郎の声が響く。
「昨日、早和のこと見てて、まだわかんねえか?」
もう声を出せない晴三郎の背中に、正一郎は容赦なく言葉をぶつける。
「あんなにボロボロになって、嫌で嫌で堪らない自分のことを、ちゃんと俺たちに見せたよな?愛想つかされたらどうしようとか、許してもらえなかったらどうしようとか、不安に押し潰されてペシャンコになって、それでも全部、俺たちに預けてきたよな。」
痛い。痛い。昨夜感じた胸の痛みが甦るなか、晴三郎は壊れそうな心を何から護っていたのだろうか。
「大人だからとか、子供だからとか、窓架の前だからとか・・・親だからとか、関係ねえぞ。家族だろ!人間だろ!守りたい?信じてる?勝手にやってろ!誰かにどうして《あげたい》じゃねえ、お前は、どう《したいんだ》!?ちゃんと言え!ちゃんと自分の望みに向き合え!俺たちを見る前に自分を見ろ!子供のためじゃなく、ジュリアさんのためじゃなく、自分のために生きろ!」
いけない。
望みを口にしてはいけない。
自分は、全身全霊で、愛するものために生きると決めたんだから。
僕は父親だから。
でも、こんなに弱くて脆い人間だ。
支える側の人間でいなければいけないのに、支えられてばかり。
望みを口にしたらそこから折れてしまう。
分かっているから想いを集めて蓋をした。
自分の心なかに自分の望みを集めて鍵をかけた。
そこには、決して近付かないように。
誰にも気付かれないように。
そしてそんな場所があったことなんて、忘れてしまえばいい。
「ミナに会いたい・・・!」
どうしよう、涙が止まらない。
どこから来るのか、想いが、言葉が、止まらない。
「ミナがいないと嫌だ・・・寂しい・・・生きてるだけじゃ嫌だ。早く目を覚ましてお父さんって言って欲しい。一緒に家に帰りたい。お喋りしたい。抱きしめたい。喧嘩したい。ごめんねって言いたい。一緒に浴衣着て、髪を結って、夏祭りに行って花火見て・・・ずっとずっとミナと、マドと、皆と、一緒に笑っていたい・・・。」
気がつくと、支えられなくなって傾いた身体を、襟人が支えてくれていた。頼もしく、温かい腕だった。
「ミナ・・・ミナ・・・!目を開けてよ、こんなに待たせて酷いじゃないか!寂しいよ・・・ここにいてよ・・・。」
ボタボタと晴三郎の涙が、聖名の頬を濡らした。
ねえ、ジュリア。
命を懸けるなんて、自分の命を懸けるほど大切に思う人がいるなんて、全部エゴなのかな。
ジュリアは亡くなって、この世から身体が消えちゃって、残ったのは、別の誰かの思い出の中の君だけなのかな。
でもそれって、君であって君でない、僕の中の君だ。
身体さえあれば、君の中の君でいられるのに。
変だね、僕が君を、僕の中に残しておきたいと思うのは、君を忘れたくないっていう、僕のエゴだ。
でも、それって、愛に似ていない?
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