第16話
車を降りると、まだ午前中だというのに、アスファルトが太陽光をフルチャージしている。今日も暑くなりそうだ。
天気予報では最高気温が今年の夏最高だと言っていた。
横浜中央病院本館夜間通用口のインターフォン前に、車から降り立った浴衣に下駄の出で立ちの男たちが並んでいる。
「おはようございます。10時から面会を予約しておりました、氷川聖名の家族、6名です。」
晴三郎が言うと、
『少しお待ちください。』
と、インターフォンの向こうで守衛らしき応答の声がして、少しするとオートで解錠する音がした。先頭の正一郎が重い鉄扉を開けると、ひんやりした空気が流れてくる。真っ直ぐ進むと守衛室の窓があり、そこで入館時間と氏名を記入する。先刻インターフォンに出た人物らしき年配の守衛が、彼等の出で立ちを見て目を丸くした。次いで氷川・氷川・氷川・・・と並ぶ名簿を見て、物珍しそうにこちらを見ていた。
各々渡された入館証を首から下げ、エレベーターホールへ向かう。カラコロと、窓架の履いた下駄の音が響くので、守衛は気に入らない顔で「静かにね。」とだけ言って、奥に消えた。
薄暗い通路を右に折れると、その先は明かりが落ちており、非常灯だけが光っていた。更に左折したところに、貨物運搬兼病人搬送用の大きなエレベーターが現れた。4階の、いつもの正面玄関のエレベーターホールから上がるのとは、逆側から聖名の病室へ向かうわけだ。
エレベーターの中は、無言だった。通常、一つ一つ上がってゆく文字盤の点滅を眺めて無言になるのは、知らないもの同士が乗り合わせた場合だ。しかし今日はこの小さな箱の中に家族しか乗っていないにも関わらず、誰も喋ろうとしない。
独特な気まずさを味わいながら、四角い閉鎖空間は4階に着階すると、どこからともなく嘆息が聞こえた。
***
今朝のこと。
着付けの後、和二郎が勝手口で煙草を吸っていた時、正一郎が珍しく沈んだ声で話しかけてきた。
「和二郎、お前、晴からなんか聞いてるか。」
「ん?何かって?」
「あ、そ。やっぱ何にも言わねえんだな、お前にも。」
和二郎と晴三郎は、四つ歳が離れている。一方、晴三郎と正一郎は十以上も離れている。昔から、何かあればツルむのは歳の近い二人で、正一郎は如何にも「長男」という感じで近寄り辛かったし、その発言力も絶対だった。
「晴が、どうかした?」
「いや、どうもしないよ。どうもしなさすぎっつーかな・・・。」
そう言うと、正一郎は帯に挟んだアイコスを取り出して、
「なあ、あいつって、昔もっとびーびー泣いてたよな?」
と急に遠い目をして和二郎に問う。あんたが泣かすことはよくあったよな、と思いつつ、
「まあそうかもな。でも今も結構泣いてね?」
と思ったまま返答すると、正一郎はまだ首を傾げて納得できないような顔をしている。
「あいつのアレは、アレだ。もらい泣きとか、うれし泣きとか。涙腺が緩いだけだろ。」
「・・・。そう言われれば、そうかも。」
和二郎は何とも答え様が無くて、苦い煙を吐き出す。
それきり黙って、正一郎は煙草をもみ消しても、まだ台所を出て行こうとしない。何を考え込んでいるのか。
「何だよ、らしくないな。オニイチャン。何かあんの?」
二本目の煙草を差し入れて、正一郎はぼんやりと言う。
「今日さー・・・俺、あいつのこと苛めるかも。」
いつも自信満々の兄が珍しく、自分の行動に自信が持てない口ぶりだ。
「全然話がわからん。正さんが晴を苛めて、それでどうすんの?てゆーか、アラフォーのおっさんを苛めるって、何?」
和二郎は、正一郎が煙を吐き出しながら、その煙の向こうを見つめる、思案に満ちた瞳を覗き込んだ。
「和二郎、宜しく頼むわ。」
来た来た。
「何かよく分からんが、正さんが何かするつもりだな。別に止めないけど・・・また俺はフォロー役な訳ね、了解ですよ。」
「いつも悪いな。」
「いや、持ちつ持たれつ。」
二人は同時に煙を吐き出して声無く笑った。
全く、兄弟てのはどこまでも付き合わなきゃならないもんなのだな。
しょうがないか、血が繋がってんだから。
***
トートバッグの中には、洗顔用の化粧水とコットン、マッサージクリームとオールインワンの美容液。聖名のお気に入りのハチミツ入りのリップクリーム。タオルと綿棒、ティッシュケース。そのまんま、女子のお泊りセットだ。
個室に移ってからと言って、息子の化粧品を置きっぱなしにするのは、やっぱりなんだかな、と毎回持って帰ってしまう。
聖名は生まれつきアレルギーがあり、特にアトピー性皮膚炎で肌がとても弱かった。だから晴三郎も妻のジュリアも、聖名のスキンケアには人一倍気をつけてきた。
聖名のアトピーは、成長するにつれ症状は和らいだが、思春期になった聖名は、毎日欠かさず、低刺激性の基礎化粧品で女子並みにスキンケアをしていた。その甲斐あってか、聖名の肌はいつもピカピカで、同じ年頃の女子のそれより綺麗だった。
小さい頃は、母親の真似をしているんだ、位の感覚で微笑ましく思っていたけれど、中等部に上がってすぐ、ジュリアの服を着て、鏡を見つめている息子を見てしまった時、晴三郎は本当に驚いた。
母親を亡くしたショックで、そんな行動に出たのかと、無理矢理納得しようともしたが、どうやらそうじゃないらしい。
念入りなスキンケアも、女物の服を着るのも、彼がしたくてしているということ。
そしてそれに、彼自身、何の迷いも矛盾も恥じらいも感じていないということ。
聖名にとっては、ごく当たり前の事だったのだ。
しかし当人はまだ、肉体との相違が問題にならないほど、性に対して未熟だった。
親である晴三郎は混乱して悩んだ。この先の彼の人生を考えると、どうしようもなく不安になったが、ただ息子が、あるがままを受け入れる強い精神の持ち主であることは解った。そのうち、聖名の、あまりにもあっけらかんとした乙女な様子に、なんだか悩んでもしょうがないのかな、なるようになるかなと、彼を見守ろうという心の余裕が生まれた。
ただ、親として息子が傷つくのは見たくないので、ひとつだけ聖名と約束をした。
学校を卒業するまで、「女の子」になるのは、家の中だけにすること。
聖名の通う学校はミッション系で、中等部から男子部・女子部に分かれる。
初等部までの制服も無く、私服登校になるので、彼の個性が際立って悪目立ちするかもしれない。聖名を信じているけれど、その潔いまでの真っ直ぐな思いが、もしも他人の感傷で折れてしまったら残念だ。
彼がどう生きていくのか、将来を自由に選択できるようにするには、それが今できる最良の方法ではないかと思ったのだ。
晴三郎が、トートバッグの中から覗く、薄紅梅の浴衣を見つめながら、そんなことを思い返していたその時、着階の音がして、エレベーターの扉が開いた。聖名の病室の前に、背の高い白衣の男性が立っている。脳神経内科医の沖崎医師、聖名の主治医である。
「おはようございます。」
頭を下げた正一郎に気付いた沖崎は、
「やあ、浴衣ですか!皆さんお揃いで、夏らしい。」
大袈裟に思えるほど破顔して言う。
「おっきー、見て見て!」
マドがカラコロと走り出て、先生の前でくるりと回ってみせる。
「こら、マドっ。沖崎先生でしょ!・・・すみません、先生。」
次男の天真爛漫加減に、ハラハラさせられて、晴三郎は深々と頭を下げた。
沖崎が、なぜだかこの愛称が気に入った様子で、ニコニコと返事をしてくれるものだから、窓架はちっとも反省しない。親としては、もう中学生なのだから、少しは年長者を敬うという感覚を身に付けてもらいたいと思う。末っ子として甘やかしてしまった結果かと溜め息が漏れる。
「あの、昨夜兄から、息子の容体に変化があったとお聞きしまして・・・今朝は早くから、立ち会って頂いてありがとうございます。」
「やあ、私も是非、お手伝いをさせて頂きたいと思っております。ええと、とりあえず、私も浴衣、着た方が良いんですかね?」
大真面目でそう答える沖崎に、一同思わず笑みが漏れる。
「それにゃ及びませんよ。ちゃあんと、策は練ってきましたから。」
ドラマの悪役のような言い回しで、腕組みをした正一郎が沖崎の前に進み出た。
「ほほう。昨日の脳波変動が何に起因するものか予測がついたと?」
「いやあ、ハッキリ言って昨日の原因は分かりませんが。難しい理屈は抜きに、ぶっちゃけ、聖名を昨日以上に驚かせりゃ良いんでしょう?」
「ざっくりしてんな。」
有馬が素直な意見を口にすると、
「そんなんでいいんです。」
沖崎は眉一つ動かさずキッパリ言った。
「王子様のキスでお姫様が目覚めるっての、あるでしょう?」
「は?」
「キスって、唇でしますよね?」
「はあ。」
「唇は、人間の皮膚の中で、一番敏感な部分なんです。」
「何の話・・・?」
耳打ちしてくる和二郎に困って、晴三郎が首を傾げていると、沖崎は急に饒舌になった。
「唇ってすごく皮膚が薄いですよね。それは人間の唇が、粘膜が外にめくれ上がった形状をしているからです。神経や毛細血管の量で言えば、唇より指先や踵の方が敏感だということになるんですけど、刺激が神経を通じて、脳に伝達されるまでの速度は、皮膚の厚さに左右される。粘膜に直接刺激を与える接吻は、物凄いダイレクトな脳への刺激になるわけです。つまり」
有馬はポンと手を打つ。
「成程。じゃあ、聖名にキス・・・。」
「違う。」
突っ込みは襟人に任せたが、話の流れ的に有馬の短絡志向も分からなくは無い。
「つまり?」
「王子様のキスでお姫様が目覚めるのは、御伽噺ではないということです。」
「相応の刺激を与えれば、脳は覚醒する。」
正一郎は、沖崎の言葉を受けて結論を述べた。
「相応の・・・。」
キスは、触覚からの脳への刺激だということを、晴三郎は理解した。意を決し、トートバッグから薄紅梅の浴衣を取り出すと、沖崎の前に差し出して見せた。
「事故にあう前、皆で浴衣を新調したんです。息子はこれを着て夏祭りに行くことを本当に楽しみにしていたんです。あ、あの、先生は遠足の日って、ワクワクして目覚ましより先に目が覚めたってことありませんでした?」
「私は緊張して前日に眠れないタイプでした。」
「息子が、目を覚ますような、状況を、作り出すことは、何らかの、脳への刺激になるんでしょうか?」
「氷川さん、今朝は何を召し上がりました?」
「はっ?」
沖崎の質問はいつも突飛だ。晴三郎は必死で付いてゆこうと真剣に答えた。
「はいっ、白米と卵焼きと、鯖の塩焼きです。あと、付け合わせにほうれん草の胡麻和えと・・・味噌汁の具は豆腐とワカメにしました!」
「大変結構です。卵焼きとは何と宇宙的な。実にエントロピーが大きな食べ物です。素晴らしい!」
「えんと・・・何ですか?」
「entropy.乱雑さ、無秩序の度合いのことです。」
「ムチツジョ・・・。」
「俺は目玉焼きの方が好きだなぁ、半熟のやつ!」
「窓架くん、卵をボールに割って掻き回してしまうと、もう目玉焼きは作れないよね?」
窓架は痴呆のように口を開けたまま頷いた。
「目玉焼きだと、エントロピーが小さいんだ。黄身と白身がハッキリと別れているからね。卵を例として『エントロピーは常に小から大へ向かって進む』という物理学的法則が立証できます。」
「ええと、溶き卵ですね?」
「そう。その法則を意識現象にも適用してみましょう。」
沖崎の話に辛うじてしがみ付いているのは、襟人と晴三郎だけで、早々に脱落した窓架と有馬、和二郎は目玉焼きにかけるのは醤油かケチャップかで言い争っている。
「意識の発生には、脳のニューロンのエントロピー増大が必要だと言う実験結果があります。さて、では聖名くんを覚醒状態にするには?言い換えれば、最も無秩序なニューロンの接続パターンは?」
「その、ニュートンだか入門だかってのは、《ここ》にあるんでしょう?」
と、正一郎は自分の額をつついてみせた。すると沖崎は、
「ニューロン。脳神経細胞ですね。」
と訂正したうえで頷いた。
「先生昨日、脳に意識が在ると限らない、てなこと言ってたじゃないですか。」
「・・・あっ、『あなたは脳じゃない』ってやつ?」
晴三郎も、昨夜の話を思い出して言った。
「確かに。」
すると、沖崎は更に饒舌になって、
「脳の
「ヤバい、宇宙出てきちゃったよ。」
「ビッグ・バンだね!」
二対一で醤油に軍配が上がって論争が落着した三人が、ヒソヒソと賑やかしていると、沖崎は突然手を打ち嬉しそうに笑いだした。
「いいね!真にビッグ・バン。我々の脳は小宇宙なのだよ!」
ビッグ・バンしてんのは沖崎のアタマじゃないのか、と誰もが思う中、
「果して意識とは、小宇宙の偶然の産物なのか。謎は深まるばかりです!」
と一人神妙な面持ちで頷き、やっと黙った。
「皆さんは、今夜揃って浴衣を着て、夏祭りへお出掛けになるのでしょう?」
「そういうコンセプトです。」
「いいですね、お祭り。実に無秩序です。」
脳神経内科医が、物理的に(聖名の)脳内にビッグ・バンを起こそうと言っている。「
世紀の大実験か酔狂か。しかし、
「可能性がゼロで無い限り、やるべきだと思います。」
沖崎の言葉で皆背中を押され、結局、疑問は何一つ解決しなくても、奮い立たされたのは事実だった。
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