第15話

 前を走る車を見ながら、ハンドルを握る晴三郎が苦笑する。

「前の車、重そう。」

 襟人は助手席から乗り出して、正一郎の車を眺めた。

 有馬の後頭部と運転席の父、助手席に和二郎が見える。皆身長180センチを越える人たちなので、車内空間が狭く見える。

 何がそんなに可笑しいのか、大の大人が三人で、爆笑して車体を揺らしている。

「こっちはハンドルが軽いなぁ。」

「どれどれ?」

 後部座席の窓架が乗り出して、ハンドルに手を伸ばす。

「窓架、危ないよ。ちゃんと後ろでシートベルとしてなさい。」

 襟人が注意すると、窓架は膨れて、

「さっきから、お父さんとえりりんばっか喋ってて、ズルい。」

 と、助手席にしがみついてくる。

「マド、襟人君のゆうことを聞きなさい。」

「ちぇー。」

 文句は言うものの、結局窓架は父親の言うことには従う。

 一般的な中学生男子は、反抗期真っ只中で、扱い辛い年頃のはずだ。しかし家族は皆、彼の学校での呼び名や振る舞いを知らない。家族の前で見せる、末っ子としての甘え上手な顔。それしか知らない家族は、彼はいつまでも幼いものだと錯覚している。

 子供には子供のコミュニティがあって、皆他人の中で自己を確立していく。「皆の中の自分」と「自分の中の自分」を育み、やがてリバーシブルな顔を作り上げるのだ。人間であればこその、表裏一体のコミュニケーション能力。群れで生きる生物の知恵。

 自己と他者の関係における感情のコントロールは、義務教育課程において、一般的に標準装備されるものだ。しかし襟人にとっては、他者が構築した建前の仮面などに、ほぼ意味は無かった。平たく言えば、ものすごく察しが良かったのである。勿論、心が読めるわけではなく、限界はあったにせよ、彼に虚言などの類は通用しなかった。幸い、彼は他人ひとの嘘に、いちいち傷付くセンシティブな性格でもない。むしろこれまで、彼はそのスキルによって、他人との無用な争いを事前に避けてきた。他人の本音に見当がつけば、そこを攻めるも避けるも、自分に有利に動けばいいのだから。対人関係を円滑に進めるに当たり、このスキルは大変重宝した。

 しかしどんなものにもイレギュラーは存在する。

 不幸なのは、それが実の兄だということだった。

 いや、それとも、その自由すぎる兄を持った代償に、襟人はこのスキルを身に着けたのかもしれない。

 我が末弟は、家庭の顔と学校の顔とを使い分けている。そう思っていた。

 だがしかし、それ故、信じたくは無いが最近、どうやら窓架が、兄と同じ類の資質を秘めていることにも気付いてしまった。

 同じ屋根の下、兄がもうひとり・・・想像するだけでも恐ろしい!

 が、彼はまだ十四歳である。思春期を経て、是非、兄とは異なる道を歩んでもらいたい。そう切望して止まない襟人だった。


 前置きが長くなったが、成長過程の窓架は置いておき、問題はその父親だった。

 いま正に、隣で運転しているこの男、氷川晴三郎。38歳。いつ見ても笑顔。

 面の皮が厚い、訳ではないようだ。

 裏の顔があるにも関わらず、それに気付こうとしない。

 なぜいつも、幸せそうに振舞うのか。

 なぜいつも、相手本位に行動するのか。

 なぜいつも、自分の願望を口にしないのか。

 なぜいつも、全てを受け入れるのか。

 なぜいつも、実兄であり、襟人の父である正一郎の言うことに、ニコニコと従うのか。

 納得できない、というか・・・理解不能だ、気に入らない。

 気に入らない!

 恥ずかしがってあまり話してくれないが、二十代の頃、舞台役者をやっていたと聞いたが・・・余程演技が上手いのだろうか?

 

 男が九人もで暮らす氷川家を支えているのは彼だ。晴三郎が居なければ、皆食事ができず、きちんとした身なりができず、清潔な家で暮らすことはできない。自分はただ、そんな彼を見かねて、手伝っているに過ぎない。

 一番、ものを言う権利があるのはこの人なのに。

 一番、我儘を言っていいのもこの人なのに。


 有馬と襟人の母、氷川あきは家庭的な母親ではなかった。

 決して家族を蔑ろにする様な人間ではなかったが、父と結婚しても家庭に収まるような気質でもなかった。父はそれを理解していて、夫婦と言うより同志という関係だったようだ。

 元々は検事と弁護士という敵対する立場であった。それがなぜ、夫婦になったかはさておき、お互い法曹界では能力を高く評価され、それぞれの仕事に情熱を注いでいた。兄弟はそんな両親を素直に尊敬していたし、感謝もしていた。

 襟人は母の生前より、仕事の帰りが遅ければ食事を作り、休日は早く起きて母を起こし、家事をする生活に慣れていた。しかし、当然まだ子供だった彼には、それが我慢ならない時もあった。そんな時は黙って勉強に打ち込んだ。元々勉強は嫌いではなかったし、何より早く大人になって、父や母の様に社会的地位や経済力を手に入れ、家を出て一人で生きていきたかったのだ。

 勉強はある意味、彼なりのストレス解消になっていたのかもしれない。


 仕事に打ち込み、家庭では自分に甘える母を見て育った為か、女性に対して期待するだけ無駄だということを、既に襟人は学んでいた。そしていつしか、襟人の中には「理想の母親像」が出来上がる。

 栄養バランスが取れた美味しい食事を作ってくれて、シャツにはきちんとアイロンをあててくれる、綺麗好きで笑顔の優しい母。花が好きで、紅茶が好きで、煙草は吸わない。指が長くて、桜貝のような爪の手が綺麗な母。かつて理想の手をしている親戚の女性がいた。幼かった彼は密かに憧れた。初恋だったのかもしれない。

 しかし、母もその女性も、もうこの世にはいない。


「襟人君?」

 急に名前を呼ばれて驚いた。襟人は頬杖をついて窓の外を眺めていた。

「どうしたの、ぼんやりして。」

「いや、別に。」

「心配?」

「え?」

 赤信号で車を停車させた晴三郎がこちらを見る。

「揃って浴衣まで着て、聖名が目を覚まさなかったらって、心配?」

「いえそんな。」

「えりりん、作戦が失敗すると思ってる!?」

 窓架がシートベルトに逆らって、身を乗り出してくる。

「窓架まで、何だよ。」

「だって、窓の外ばかり見て溜息なんかついて。アンニュイだからさ。」

「お父さん、あにゅいって、なに?」

「ん?んー・・・ビミョーみたいな?」

「あにゅい・・・あにゅい!今度使おう。」

「アン・ニュ・イね。」

 信号が変わり、晴三郎は苦笑しながら車を発進させる。

「別に不安でもアンニュイでもありません。ただ、成功しなかった場合、次の手を考えないと。」

「襟人君らしいなあ。」

 晴三郎は困ったように笑う。

「大丈夫だよ!もし駄目でも、それは来なかったりっくんのせいだから!」

 失敗したときのための逃げ道を用意するあたり、窓架は父親思いなのである。


 ***


 突然、後部座席から搾り出すような声が聞こえてきた。

「え、何?気持ち悪いな。」

 声の主は有馬だった。肩を震わせて押し殺すように笑っている。

「・・・思い出し笑い。」

「ええ、何の?」

「早和の顔!」

 ああ。確かにあれはひどかった。納得。

 すると、運転席の正一郎まで噴き出した。親としてどうかとは思うが、自分の息子の顔を笑われているのに、つられて和二郎も笑い出してしまった。

「人間の顔って、あんなに腫れるんだな。」

「あいつ、昨日見つけたときは、死にそーな顔してたのに!」

「あーもう、面白いからずっとあのままでいねえかな。」

「正さん、言い過ぎ・・・ひひひ。」

 この先、何か辛く悲しいことが起ころうとも、今日の息子の顔を思い出したら乗り越えて行けるかもしれない。むしろあの顔を聖名に見せたら(順序が逆だが)一発で目が覚めるかもしれない。なんて言ったら理紀が黙っていないだろう。

 ひとしきり息子の顔をネタに笑い、収まったところで和二郎は有馬に聞いてみた。

「そういえば、有くん。何であいつが中学校にいるって分かったんだ?」

「別に分かったわけじゃねえけどさ。」

 有馬は少し鼻白んで言った。

「普通にさ、なんもかんも嫌になったら、一番嫌なことしない?」

「自暴自棄か。」

「それそれ、あいつの一番行きたくないとこっつったら、やっぱさ。」

 有馬はいつも、見てない様で見ている。自分が動くべきところを本能的に知っている。その上、瞬発力もある。

「野生の勘か?」

 正一郎が息子をからかうように言うと、意外にも有馬は真顔で、

「あーでも確かに、ニオイってのはあるよね。」

 絶句する和二郎と正一郎を尻目に、有馬は目を閉じて、記憶を辿る様に続ける。

「あいつってさぁ、なんかこう・・・やわらけーよーなあったけーよーな、赤ん坊みたいな?フワフワっとしたニオイしない?」

 父親たちの疑念の視線を感じてか、目を開けた有馬は「何?」と尋ねそうな顔をしていた。


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