第14話
日曜の朝。
昨夜、和二郎が早和に付き添っていた和室の、襖はまだ閉まったままだっだ。理紀は、キッチンで朝食の準備をしている晴三郎に声を掛けた。
「オハヨーゴザイマス。」
「あっ、おはよう。眠れ…?」
理紀の憔悴した顔を見て、晴三郎は言葉を飲み込んで苦笑した。彼もまた、そんな目の下にクマを作っている。昨夜は二階の窓架の部屋で休んだようだ。
顔を洗いに洗面所に入ると、窓架がシャワーを浴びていた。
昨晩は風呂に入りそびれた。次に自分も入ろうと、理紀が着替えを取りに二階へ戻ろうと、再び廊下へ出たときだった。
「ダメだっ。」
不意に、和室の方から和二郎の声が聞こえた。それまで、まだ寝ているものだと思うほど静まり返っていた襖の奥で、何が起きたのかと、理紀は襖に耳を寄せ、中の様子を伺ったが判然としない。声を掛けて襖を開けると、中央に敷かれた布団の傍らに、和二郎が胡座をかいて体温計を見つめていた。
息子に気づいて、「よう。」と声を掛けてくる。いつもの和二郎だ。
布団に横になっている早和は、理紀の顔を見るなり布団を被ってしまった。
「ダメって、何が?」
「お前からも言ってくれよ~。」
「何を?」
「こいつがさぁ、また我侭を・・・。」
と、和二郎が差し出した体温計は、38.6度を表示している。
「行く。」
布団の中から頑固な声がする。
「お前は昨日の今日で、まだそんなことをゆう!」
「だって・・・。」
「だってじゃない。こんなに熱が高いのに、出歩いてまたぶっ倒れたりしたらどうすんだ。」
「だって、どうせ病院いくんでしょ、具合悪くなっても・・・。」
「ばか!!お前は~・・・ほんっと色々わかってねえなあ!」
早和は、父に叱られて、ようやく布団から半分顔を覗かせた。目の周りが腫れている、昨日あれだけ涙腺を刺激したのだから仕方ない。
「・・・ごめんなさい。」
「お、一応学習能力はあるみたいだな。」
和二郎はそう言うと立ち上がり、理紀の肩を軽く叩いて、
「じゃ、そう言うわけで、後頼むわ。オニイチャン。」
と、笑って部屋を出て行った。二人のやり取りで状況を察した理紀は、
「え~っと・・・俺風呂入ってくるから。」
そう言うと、早和はまた布団を被って、壁側を向いてしまった。
気まずい。
氷川家は、皆それぞれに朝食の量も好みも違う。
朝からガッツリ派もいれば、和二郎の様にコーヒーだけの人もいる。当たり前のことだが、そのすべてを晴三郎が面倒見る訳にはいかないので、毎朝、正一郎用の和朝食だけを用意する。同じメニューに乗っからず、自分で用意して適当に済ます者もいる。
理紀が、早々にシャワーを済ませ、トーストとコーヒーの朝食を摂っていると、リビングでは窓架が、何やら盛り上がっている様子だった。
振り向いてみると、浴衣を着付けてもらった窓架が、クルクルと回っていた。緑色の頭と山吹色の生地が、補色し合って目に沁みる。それでも渋めの帯を締めてもらい、はしゃいでいる姿は、やはりまだ子供っぽく可愛らしい。
「ホントに全員、最初っから着て行くの?行ってから着替えればいいじゃない。」
リビングの中央で両膝を着いている襟人は、少し渋い顔で窓架を見上げる。
「車で行くし、駐車場から4階までの間だけだよ、目立つのは。それに日曜で、外来は開いてないんだから、正面入り口から入るわけじゃないし。」
「晴三郎さんまで・・・。」
「病室着いてから、みんなに着付けるほうが面倒だよ。」
「男ばっか、ぎゅうぎゅう着替えるのなんてうっとうしい。」
口々に、反論されて襟人もやっと首を縦に振る。
奥を見ると、アイロンを当てた浴衣が、柄の長い和服用ハンガーに幾つも吊るされているのが見えた。鉄鼠、渋茶、竜胆色、濃藍、紫紺、浅葱色、萌葱色、薄紅梅の布地の中から、襟人は濃藍 の浴衣を取り上げ、ソファに寝転がる有馬に声を掛ける。
「有、着付けてやるから起きて。次、りっくんな。」
「え、うん。」
キッチンテーブルからこちらを覗き見ていた理紀にも、スタンバイの声が掛かる。有馬は結構がっしりして、肩幅も胴回りがあるから着付けるのも大変そうだ。腰紐がゆるいと着崩れそうだからか、日頃の恨みか、襟人に思いっきり下帯を締められた有馬は悲鳴を上げた。
「マド、やっぱりちょっと袖丈が合わなくなってるなぁ。」
「そう?気になんないよ。俺また身長伸びた。」
「ふふ。でも、おはしょりは無い方がかっこいいもんね。」
「うん。お父さん、ありがとう。」
晴三郎は、素直な息子の言葉に感極まった様で、うっすら涙ぐむ。窓架は、果たしてそれが、意識してそうしているのかどうかは不明だが、涙もろい父に対する時に限って、幼児返りをするように、言動が幼くなる。
そうこうしている内に有馬の着付けが終わり、粋な男前が出来上がった。事実、有馬は黙っていれば普通に恰好良いのだ。非常に残念な素材である。
「有っ、寝転んだりするなよ!」
早速姿勢を崩そうとする有馬は、襟人の叱責を浴び、居心地悪そうにソファに尻を沈めた。行儀よくすることも、待つことも苦手な有馬には、出発するまでに何回か直しが必要だろう。
次、と呼ばれて、ダイニングチェアから立ち上がる。理紀は、自分の浅黄色の浴衣を手に取った。隣の萌葱色の浴衣は早和のものだ。鮮やかな染色が瞳に染みた。
スウェットを脱いでステテコを穿き、襟人の前に進み出ると、
「さてと、りっくんは細いからなあ。タオル何枚でいけるかな。」
本当に慣れた手つきでさばいてゆく。和装問屋の若旦那の様な貫禄だ。
「なんだか申し訳ない。」
「はは。別に申し訳ないことではないけど。」
理紀の様に体に厚みが無い体型の場合、補正しないと和服が様にならない。襟人は口と手を同時に動かしながら前を合わせ、タオルを三枚重ねて腰紐で固定した。
容赦ない締めつけに鼻腔から熱い息が漏れる。
「早和、様子どう?」
丸太になっている理紀に、帯を巻きつけながら、襟人は声を落とし尋ねる。
「うん・・・。やっぱなんか、まだ、ぎこちない感じ?」
「まあ、それはおいおい・・・。じゃなくてさ、和二郎さんが、熱が高いから今日行けないって。」
襟人は手を止めずに囁くように話す。
「ああ、うん、そう。ちょっと無理そうかな。」
「やっぱり、そうか。」
その時、グルリと向きを変えられた理紀の背中に、
「・・・揃って行きたいよな、晴三郎さん。」
そんなことを、襟人が僅かに呟いたのが聞こえたが、なんと言って返せばよいかわからず、理紀は聞こえないふりをした。
着付けの済んだ理紀は、親父組の着付けを見ていてもしょうがないので、早和の様子を見に和室を訪ねた。一応声を掛けるが返事はない、眠っているのか。
普段は父親たちの寝室となっている和室には、エアコンがついていて、ひんやりと心地よい。夏だというのに布団を被った膨らみが、小さく上下している。そっと近づいて覗き込むと、先刻より早く荒い息遣いが聞こえてきた。
額に手を当てると熱かった。汗で前髪が額に貼り付いている。
「苦しいか?」
汗を拭ってやると、うっすら瞼を開け、熱で潤んだ瞳が理紀の方をぐるんと向いた。
「何・・・浴衣着てんの?」
「ああ、うん。えりりんに着せてもらった。」
「ふうん・・・」
何か言っているようだが、顔の下半分が布団に隠れているので、声が篭って聞こえない。
「ちょっと待ってろ。」
理紀はキッチンに取って返し、冷水でタオルを絞り、冷却シートと解熱剤とペットボトルの水を持って和室へ引き返した。
タオルで顔を拭いてやろうと、布団を剥ごうとすると、弱々しく抵抗された。
(ここまできて、素直じゃない奴。)
と、無理に布団を引き剥がすと、早和の左頬が見事に腫れ上がっていた。理紀が驚く様子を見て、早和は「見んな」とばかりにそっぽを向く。自分が、昨日力任せに殴りつけた頬の末路に、理紀の頭からサアッと血が引いて、罪悪感が押し寄せた。
「ご、ご、ご、ごめ・・・。」
非常に情けないが、ショックのあまり呂律が回らない。
理紀は、今朝自分が部屋を訪ねた時、何も言わずに早和が布団を被ったのは、このせいだったのかと悟った。頬の腫れに伴い、相当熱が上がってきているようで、早和は、苦しそうに肩で息をしている。
「とりあえず、冷、冷やそう。」
理紀は、焦って早和の頬にタオルを押し付ける。驚いた早和が声を上げたので、それ以上に理紀もビビッて飛び上がる。
「もう、乱暴だな・・・。」
その呟きは、理紀にグサグサと突き刺さった。早和に他意はないのだろうが、加害者にとっては、二重の意味での口撃に受けてとれたのだ。居た堪れなくなった理紀が、和室を飛び出て行ってしまったので、仕方なく早和は、自分で落ちたタオルを左頬へ乗せた。実を言えば、理紀の拳にそれまでの威力は無かった。腫れ具合の殆どが、雨の中、有馬が早和を正気づかせる為の、張り手のせいであったことを、理紀は知る由もない。
渋茶の浴衣に着替え、勝手口で煙草を吸っていた和二郎が、荒々しくキッチンへ飛び込んで来た息子に怪訝な顔をする。
「何だ?」
「早和の顔面が。」
「見たぁ?スッゴいだろ。」
ガシャガシャと氷を氷嚢に詰めていた理紀は、
「だから、後頼むって、言ったじゃん。」
父の暢気な様子に、怒りのメーターが一気に振り切れた様だった。
「俺、今日、行けない!」
何処へぶつけたらよいか分からなくなってしまった感情の昂りを、半ば泣き声のような叫びとともに和二郎へ投げつけ、理紀はキッチンから出て行った。彼もまた、長い間行き場を失っていた、湧き上がる気持ちが、フルバーストして混乱しているのだろう。和二郎は長く、細い煙を天井へ向かって吐いた。
「いや、むしろ熱で寝込んでる人を独りにするのは危険だし。」
玄関先で90度に体を折って謝る理紀に、襟人は至極冷静に応えた。
「本当にごめん。ごめんなさい。」
「あの腫れ方じゃあね・・・。」
あの後、和二郎が言いふらしたのか、崩壊した早和の顔を見ようと、代わる代わる皆が和室へやって来た。
浴衣ばかりの人間が、次々と乗車してゆく氷川家の玄関先で、理紀は再び90度に体を折った。
運転席の正一郎がウィンドゥを下げて言う。
「聖名のことは任せておけ。」
鉄鼠の浴衣に、黄金の帯を締めた正一郎の車のうしろ、追走する晴三郎は竜胆色の浴衣に藍色の帯、二人とも足元は白いスニーカーという出で立ちでガレージを出て行った。せっかく襟人に着付けてもらった浴衣だが、裾のはだけを気にしている場合じゃない。門扉を潜り、車道まで二台の車を見送り、理紀は踵を返し走って戻った。
和室の襖を閉めると、枕元から吊るした氷嚢が揺れた。早和が気付いた様だ。
(なんだ、眠ってなかったのか。)
「お前今、俺も行けば良いのにって思っただろ。」
半分冗談でそう言うと、早和は何も言わず視線を外す。
(なんだ、言い返してこないのか?)
「何で、今日は皆浴衣なの?」
「夏祭りだ。」
「・・・朝から?」
母が亡くなり、幼い弟と父と三人で、グラグラ不安定な地面に脚を踏ん張って生きてきた。父は地面を安定させるのに精一杯で、弟は未だ一人じゃ立てなくて、踏ん張る自分にしがみ付いて生きてきた。
だから、正しいバランスの取り方を知らない。
知らないけど、きっと家族ってこんなもんなんだって思ってた。
凄く久しぶりに、弟と普通の会話をしたような気がして、なんだか急に気恥ずかしくなった理紀は、手持無沙汰になった右手を懐に入れた。携帯が点滅している、陽実だろうか。
「俺、あっちいるから、苦しかったら呼べよ。」
寝床を離れようと立ち上がると、何かに引かれた。振り返ると早和が手を伸ばして浴衣の袖を掴んでいる。
「・・・で。」
聞こえない。
「・・・行かないで。」
心臓に、何かが音を立てて突き刺さった。
今、自分が驚いてるのは、弟が急に素直になったことにじゃない。
突然自分の本心を悟って、一瞬呼吸が止まるほど動揺しているのだ。
病気のときは皆気弱になるものだ。
それでなくともこの弟は頼りないのに。
いつもだるそうで、いつも熱を出す。食べても戻すし、長時間は歩けない。いつも泣いてばかりで、いつも謝ってばかりで、いつも自分を呼んでしがみついてくる。髪の匂い、頬の感触、体温。自分と同じ細胞でできた小さな体。
かけがえのない、俺の弟。
「りっちゃん。」
「うん。」
布団からそっと出してきた熱っぽい手を、理紀は軽く握ってやった。
早和の布団の脇に腰を下ろし、握った手を両手で包んでやる。
あの小さなアパートで、夜中寂しくて、布団の中で声を殺して泣いていたり、熱を出して苦しんでる小さな手を、こうやって握ってやったことを思い出す。
早和はすうっと眠りに引き込まれるように目を閉じた。苦しそうな息も幾分穏やかになり、小さく唇を動かして言う。
「ありがと。」
そう聞こえた。
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