第13話
理紀と正一郎が家の裏手を探し回って間もなく、窓架から早和が見つかったと連絡が入った。飛び出していった有馬に、どうやら保護されているらしい。今、襟人が車で二人を迎えに行っているとのことなので、理紀たちは先に家に戻ってくるよう言われた。おそらくは襟人の指示だろう。見つかった場所を聞くと、窓架は逡巡するも小さな声で「中学校。」とポツリと言った。理紀と正一郎は顔を見合わせ、懐中電灯を消して、それから、一言も口にしないまま家に引き返した。
窓架からの連絡は、駅方面に向かった和二郎たちにも同じように伝わっていて、捜索班はほぼ同時に家にした帰結した。
雨に濡れた傘やレインコートで、玄関はたちまち水浸しになり、留守を預かっていた窓架が用意していたタオルで、頭や足を拭き、それぞれ疲れた表情でリビングのソファに腰を下ろした。今はただ何もしないで、三人の帰宅をじっと待っていた。
やがて、有馬と襟人に連れられて、早和は戻ってきた。
怪我は無いようだ。相変わらず顔色は悪いが、発作をおこしたり、憔悴した状態でないのが幸だった。
とにかく、無事でよかった。
無事でさえあれば、なんでも良い。
理紀にはもう殴るなんて気力は無かった。
用意周到な襟人がいろいろ用意して行ったおかげで、既に早和は髪も乾いて、暖かい服に着替えていた。
「寒くない?」
と、晴三郎が聞いても、早和は首を振るだけで顔を上げない。
「夕食、結局何も食べてないでしょ。少しだけでも飲んで。」
まるで雨の日に拾われた捨て猫の様に、手渡されたホットミルクに少しずつ口をつける。
暖かいものが胃に入ったからか、だんだん頬が血の気を取り戻し、やがて、マグをテーブルに置くと、早和は重い口を開いた。
「・・・笑われても、仕方ないんだけど・・・。」
皆それぞれの位置で黙って耳を傾ける。さっきまでうるさいくらいだった牛蛙が、いつの間にか鳴き止み、辺りは弱い雨音に包まれている。
氷川家のリビングは、まるで小さな秘密の部屋で、皆何かから身を隠しているような息苦しさを感じていた。
「俺の思い込みだって言うなら、それまでなんだ。だけど俺には、ずっと《見えてて》。でも、聖名のロザリオを身につけたら見えなくなった。」
ポツリポツリと話し出した早和に、
「何が見えてたの?」
と窓架が聞くと、早和は目を閉じて、思い出すように眉間に深く皺を寄せた。「・・・白い日傘と・・・その下から、じっと俺を見てる目。」
理紀たち兄弟は、まだ意味が分からなかった。和二郎だけが、瞬きもせず、じっと早和を見つめていた。
「中学を卒業してから、ずっと誰かの視線を感じてて、気のせいだと思おうとしたんだけど、やっぱり、後を付けられたり・・・そのうち靴とか服とか盗られるようになって。中学の先生に相談して、そういうこと、やめてくれるように頼んだんだけど、相手の親に逆切れされちゃって。」
家にまで押しかけて来て、あれこれ言い掛かりをつけられた時のことは知っていた。早和の受けた誹謗中傷は、かなりのトラウマになったはずだ。何事ものらりくらりかわす和二郎が、珍しく相当キレていたので、皆よく覚えている。
「去年の夏、先生から、相手が会って謝りたいって言ってるって。先生が立ち会うから中学に来てくれって、連絡があった。最初は断ったんだ。今更顔なんて見たくも無かったし、とにかくもう関わりたくなかった。」
話し続ける呼吸が、段々と上がって顔が熱ってきた。心配して声を掛けようとするも、早和の遮ることのできない強い覚悟を感じ、和二郎はきつく唇を結んだ。
「連絡があった日、学校帰りに偶然、聖名に会って・・・相談した。聖名は、自分が一緒にいてあげるから連れて行ってくれって。俺、馬鹿みたいにホッとしちゃって・・・聖名を頼っちゃったんだ。」
早和は、今日まで胸のうちに押し込んできたことを、懸命に吐き出そうとしている。
「二人で中学に行って、先生を訪ねたら、相手はまだ来てなくて。職員室で少し待って・・・そしたら先生の携帯に連絡があった。相手が、室内じゃ話し辛いから、外に出てきて欲しいって言ってるって・・・花壇前に呼び出されたんだ。その日はすごく日差しが強くて、聖名はいつもみたいに白い日傘を差してて・・・」
和二郎が、早和の拳にそっと手を重ねた。息を大きく吸って、握った拳を微かに震わせて、勇気を奮い立たせているのが分かる。
「俺、なんか変だな、やっぱ怖いなって。そしたら聖名がロザリオを俺に握らせて『大丈夫、僕が守るから。』って。」
この時起きた事故の詳細は、家族皆が知っている。
早和をストーキングしていた女子生徒の死に様は、単なる全身強打による内臓破裂だけでは済まなかった。早和が、どんな凄惨な光景を見たのか、とても耐えられるものではないことは容易にを想像できた。
「目が・・・」
早和は拳を目に当てて、消えそうな声で言った。
「合ったんだ・・・。し、死んでるはずなのに、まだ、俺をジッと見て・・・。」
もういい。
そんな皆の気持ちを感じたのか、しかしそれでも早和は、首を振って話を続ける。「それからのことは、あんまり覚えてない・・・。でも入院中もずっとずっと、幻覚を見てた。自分がどこかおかしくなっちゃったんだって思って、怖くて、もうどうしたらいいかわかんなくて・・・」
そう言った早和の肩が小さく震え出す。
「俺、また聖名を頼った・・・。」
後悔と自責の念に、心が萎んでいくのが目に見えるようだった。
「自分の病室を抜け出して、聖名の病室を探した。怖かったけど、もっとひどい状態を想像してたけど、聖名はただ眠ってるみたいに見えた。でも何度も声を掛けて揺すったけど、全然目を開けてくれなかった。」
それから、一年。今もまだ聖名は眠ったままだ。
黙って、早和の話に耳を傾けていた晴三郎は、静かに瞼を閉じた。
「眠ったままでもいい、聞いて欲しくて話しかけた。しばらく、怖くて聖名の傍を離れられなかった。」
晴三郎はずっと待っていた。ただひたすらに、たった今も、聖名が目を覚ますことを信じ続けている。
「そのうち、枕元の聖名のロザリオから、声を聞いた気がしたんだ。」
窓架が、顔を上げた。彼には珍しい緊張した面持ちでジッと早和を見ている。
「『僕を連れて行って。僕が一緒にいてあげる。』あの日、言ってくれた言葉そのまま・・・。『大丈夫、僕が守るから。』って、そう聞こえた。そんな自分勝手な理由で、俺、聖名の大切なロザリオを持ち出して・・・。」
一生懸命、言葉を繋ごうとしているが、嗚咽が邪魔をして上手く呼吸ができなくなっている。早和の瞳がみるみる波打って、やがて大粒の涙がこぼれ落ちた。
「でも、あ、安心したんだ。その時、初めて安心できた・・・。」
それは只の暗示だったのかもしれない。
それでも、早和本人が本当に幻覚にも幻聴にも、怯えることが無くなったのは事実だっだ。
「でも、代わりにいつまでたっても聖名の目が覚めなくて・・・俺のせい?って思ったけど、ロザリオを、て、手放すのが、こ、わくて・・・怖くて・・・。」
右手で硬く父の手を握ったまま、左手で震えを止めようと体を抱き、声を荒ぶらせ、ぽたぽたと涙が膝を濡らす。
「全部・・・俺のせい。最初から、俺が弱いから断れなくて、俺が弱いから聖名を巻き込んで、俺が弱いからそんな幻覚見てっ!わかってた、わかってたけどっ、やっぱりどうしても怖くて・・・聖名に・・・聖名にロザリオ返せなかった・・・!」
肩で大きく息をして、止まらない涙を拭きもしないで、早和は真っ直ぐ前を向いて言った。
「ごめんなさい・・・!よ、弱くて、卑怯で、ビビりで、迷惑ばっかりかけて、何の役にも立たないクズヤローなんかのために・・・」
「やめろよ。」
理紀は思わず口を挟んでしまった。
「俺なんかのために、聖名を犠牲にして・・・」
「やめろって。」
皆、同じ気持ちでいる。
違う。聖名が犠牲になったなんて、誰も思っていない。
誰もお前を責めたりするもんか。
そんなに、苦しんで、折れそうになっても踏ん張ってきたんじゃないか。
理紀は、昼間の激情が甦るような、腹の底が熱くなるのを感じていた。
「・・・でも、もうダメだ。あいつに見つかっちゃった。」
項垂れて、震えていた早和の頬は歪み、こめかみに青く血管が浮き出ている。段々と声が低く虚ろになり、
「わざとだ・・・あいつ、わざと聖名を狙って飛び降りたんだ・・・!」
打ちひしがれていた先程までとは、明らかに違う早和の様子に皆が気付いた。
「俺の代わりに聖名を道連れにするって。」
「早和?」
弟の異変を感じて、肩に触れようとした理紀を正一郎が制した。
「俺、夢の中であいつを追っかけて、気付いたら学校にいて。夢なんだって、思ってて。もう分けわかんなくなっ・・・て・・・げほっ。」
制された腕に拳を握り、それでも理紀は駆け寄りたい衝動に耐えた。
「怖い。でもっ、俺を殺してもいいから、聖名を返してくれって!」
一気に捲くし立て、早和は体を折って激しく咳き込んだ。和二郎が同じように悲痛な顔で背中を擦る。
「ごめ…なさ・・・」
「わかった。」
「ごめんなさいっ・・・」
「わかったから。」
父の声が聞こていないのか、それでも消えそうな声で繰り返す。
早和は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら泣き叫んだ。この一年の溜まった膿をぶちまけるように、激しくしゃくりあげて泣いた。
泣いて泣いて、やがて泣き疲れて、電池が切れた様に動かなくなった。
こんな小さな体に、あんなにいっぱい苦しみを抱え込んで。
無気力そうに見えて、あんなに激しい感情を押し込んで。
「安心・・・したのかな。」
父の胸にもたれて、寝息を立てている赤ん坊みたいな弟の顔を見つめて、理紀は随分と長い間、弟の顔をちゃんと見ていなかったことに気づく。
和二郎は皆に礼を言い、理紀の濡れた髪にくしゃくしゃと触れた。そして、そっと早和をおぶってリビングを後にした。
「さて、待たせたなお前ら。」
唐突に正一郎が問い掛けてきた。
「まあ、思うことはそれぞれだろうけどよ。ぶっちゃけどーよ?」
「赤ん坊みてえ。」
有馬は見も蓋もなく一言でぶった切った。そして「おもしれえ!」と続け、歯を見せて笑った。対して襟人は、溜め息混じりに首を傾げる
「僕は・・・早和が何であそこまで自分を卑下するのか、解らないな。」
「髭?」
窓架が鼻の下に二本指を置いて尋ねると、襟人は優しく微笑んで言う。
「自分は取るに足らない、卑しい人間だって、思うことだよ。」
分かったのか分からないのか、窓架は唇を尖らせ曖昧に返事をした。只、その直後にはスッキリと晴れやかな顔をして言う。
「俺は、ギモンも解けたし、なんか嬉しかった。」
想定外の返答に、正一郎が興味深そうに目を丸くする。
「だって、あんなに喋るさわちゃん、久し振りだもん!」
と、窓架はあっけらかんと答えてみせた。皆が苦笑する中、正一郎の視線が理紀に止まる。
「お前は?」
昼間、弟と派手にやらかしたことが思い出されて、理紀は少々恐縮した。
「有ちゃんと同じだよ。」
確かに、弟は赤ん坊みたいで手が掛かる。でも、
「それでも、俺は面白いとは思えない。」
「ぶん殴っちまうくらいだもんなあ?」
正さんがわざとそんな風に聞いてくるから、理紀はムキになって首を振った。
「確かにムカついて殴ったけどっ・・・良いとか悪いとか関係なくて、だって弟だし。タダでさえあいつ頑固でブアイソで無気力で・・・暗いしすぐ泣くし面倒くさいしわかり辛いし・・・弱いくせに周りを頼らねぇし。」
「割りかしボロクソ言うね、りっくん。」
「周りをじゃなくて『俺を』じゃねえの?」
突然ズバッと有馬に胸を抉られた理紀は狼狽えた。
「自分を頼ってこないから、なんでだって、そーゆーことじゃねえの?兄だからって、弟に頼られなきゃいけねえの?アニはオトウトを守らなきゃいかんの?」
矢継ぎ早に責め立てられた理紀は、しどろもどろになって答える。
「だって・・・そうゆうもんだろ!?」
「そうゆうもんなの?」
有馬は弟組の二人に疑問を投げかけた。
「むしろ、兄ちゃんは俺が見とかないと危なっかしくて・・・。」
「有に守って欲しいと思ったことは一度も無い。キモい。」
襟人と窓架が、いっそ清清しいほど平然として言うので、理紀は同じ兄として有馬を気の毒に思うと同時に、この氷川家において「兄の威厳」とは、もはや風化しつつある遺物だという現実を突きつけられ、ショックのあまりよろめいた。
でも、これが兄弟のあるべき姿なのか?
やっぱり、俺達って変わってるのか?
自分の価値観が皆とズレていることに、理紀は動揺を隠せなかった。
「わかった。」
正さんの良く通る声が真面目なトーンに戻った。
「お前らは、もう大丈夫なんだな?」
「大丈夫って・・・?」
「早和のことだよ。可哀想だとか、そっとしとこうとか、腫れ物触るみてえに気ィ使ったり、もうするなよ?」
事故が起こってからの子供たちは、欠けたピースを埋めあうようにお互いに気を使い、相当ギクシャクしているようだった。その一方で歪んでしまって型にはまらなくなったピースを遠巻きにして、増々居心地を悪くさせていた。
遠くへ行っていた弟が、やっと家族の輪の中に帰ってきた瞬間だった。
ある日突然、家族が消失してしまうことを体感した者でさえ、生きている以上、考え、悩み、間違う。時間は巻き戻らないし、死んだ人間は生き返らない。そんなことは解っている。
でもその存在が消えていないのならば。
欠けたものは欠片を探すしかない。
見つけてやるしかない。
見つけてもらうことを待っているのだから。
ひょっとして、聖名が探して欲しかったのは・・・。
「んじゃ、クソして寝ろ。」
正一郎は豪快な欠伸と伸びをして場を締めようとした。
「オイッ!」
「正さんガッカリだよ・・・。」
襟人と窓架の文句を一心に受け、正一郎は頭を掻いた。見上げた時計は日付が変わっている。長い一日を終え、氷川家のリビングの明かりはやっと落ちた。それぞれの寝室へ上がってゆく子供たちの背中に、正一郎が再び呼びかける。
「おい、明日はちゃんと起きろよ。支度に時間かかるからな。」
明日、聖名の目を覚ます作戦が決行される旨、家長から発表されたとき、戸惑う理紀と窓架に隠れて、晴三郎と襟人は目くばせし、そっと頷き合った。
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