第12話
「氷川先輩ですよね!?」
校門の桜の下で、父が車を回してくるのを待っていた時だった。いきなり名前を呼ばれた早和は、驚いて顔を上げた。
卒業式が終わって、皆で写真を撮ったり、連絡先を交換したりして、これから仲のいい連中は、カラオケやファミレスへ繰り出すのだろう。早和はクラス委員だった生徒に誘われたが、どうせ付いて行っても疲れてしまうだけだろうから、早々に断ってしまった。真っ直ぐ家に帰るつもりでいたのに、突然、数人の女子生徒に呼び止められ、取り巻かれたのだ。
「先輩、この子と写真撮ったげてくださいよぉ。」
勿論そんなことは初めてで、物凄く驚いた。そもそも女子が苦手だったし、中学の三年間、女子と話したことは数える程だったというのに。その、やたらにハイテンションな後輩たちの後ろに、髪の長い、大人しそうな女子生徒がいた。如何にもお嬢様な感じで、つくりものの様な綺麗で青白い顔をしていた。
どこまでも軽い調子で、女子生徒達は、その髪の長い女子を、無理やり早和の前に押し出して言った。
「ほらゆり、あんたからも頼みなよぉ。」
ゆり、と呼ばれたその子は、自分の携帯を握り締めて下を向いていた。この騒がしい女子生徒達は彼女の友達だろうか。それとも、彼女は虐められていて、罰ゲームでもやらされているんだろうか。
「ほらぁ、先輩困ってんじゃん!」
「早く早くぅ!」
早和は本当に困っていた。父が来る前に、早くこの状況から開放されたかった。
「あの」と勇気を出して、「撮るなら早く撮って下さい。」と言うと、キャアキャアと超音波のような声を発して、女子生徒達は「ゆり」を早和の横に突き出した。その瞬間、初めて彼女と目が合った。
多分その時、呪いをかけられたんだと、今になって思う。
ゆりは、自分を見つめたまま視線を外さないので、二人は少しの間見つめ合う形になってしまった。取り巻きの女子生徒達は狂ったような盛り上がりを見せ、彼女の携帯を奪って間合いを詰めてくる。
「あ、あの」
早和は詰まったような喉の奥からようやく声を絞り出し、身をよじった。
すると、驚いたことに、ゆりは早和に腕を絡めてきたのだ。
突然の強引なアプローチ。ゆりの髪の香りが早和の鼻腔をくすぐった。押し付けられた胸の感触に、驚きと恥ずかしさで咄嗟に早和は身を引こうとしたけれど、桜の樹に阻まれて身動きが取れなかった。早和は不可解な嫌悪感に囚われたまま、何枚も写真を撮られた。
その後、女子生徒から執拗に連絡先を聞かれた。けれど、早和は怖くなって、携帯は持っていないと嘘をついて、頑なに断り続けた。
その時、やっと父の車が向かってくるのが見えたので、早和は心底ホッとした。しかし、ゆりは頬を紅潮させ、早和の制服の第二ボタンにそっと触れ、「欲しい」と早和にねだった。
また目が合った。その瞳は潤んで輝いていた。
早和はそれを美しいと思い、同時に恐ろしいと感じた。
戸惑いながら早和が承諾すると、ゆりは手を掛けたボタンを、その細い指で引きちぎったのだ。
まるで、魂の尻尾を毟り取られたみたいだった。早和は心臓が凍ったように冷たくなっていくのを感じて、逃げるように父の車に乗り込んだ。
「お?何だ、具合悪いのか?」
校門前を逃げ出した車の中で、吸入器をシュコッとやる。バックミラーに映る後部座席の早和を見て父が聞いてきた。
「どうしたぁ、緊張しちゃったかぁ?」
「別に、してないよ。」
後輩に、第二ボタンをねだられる。なんて卒業式のお約束など、廃れたと思っていた。だから、まさか自分がその場面に遭遇すると思っていなかった。
「またまたぁ、見てたぞぉ。女の子に囲まれてたじゃないかぁ。やるなあ、お前~。ケケケッ。」
閉口した早和は、心の中で舌打ちをした。
「で?どの
父のウザさにドッと疲労を感じて、早和はわざと大きくため息をついてから
「知らないよ。」と吐き捨てるように言った。しかし、子供の恋愛事情に関する親の悪乗りはキリがない。
「あの、髪の長い子かぁ?腕なんか組んで・・・」
瞬間、早和は腕に残る感触を思い出してゾッとした。
「もう、ホントやめて!気持ち悪い!」
「ちぇっ。」
自分が感じるこの嫌悪感は何なのか。その事実を、まだ誰にも、聖名にさえ打ち明けていない。正直、自分でもまだなぜなのか判らないのだ。考えると時々苦しくなる。喘息とは違う息苦しさだ。
早和は、後部座席のシートにパタンと横になった。
「父さん、家に着くまで、少し眠ってもいい?」
「おう。お疲れさん。卒業おめでとう。」
心地いい揺れに身を任せ、早和は目を閉じた。
それからずっと、長くて恐い夢を見続けている。
***
先を行く白い日傘を追い掛けて、長い坂道を下る。雨がゴボゴボと音を立てて流れ込む排水溝を避けて、左に折れると大通りだ。
住宅街に人気は無く、民家の明かりも皆落ちている。今、何時だか分からない。
これは夢だ。いつもの怖い夢。
俺は、殴られて、無様に喘息を起こして眠ってるんだから。
日傘は雨に滲んだ街頭の明かりを受けて、浮かんだり消えたり、早和を誘き寄せながら先へ連れてゆく。感じるのは、ただ濡れたアスファルトの感触。
一昨年まで通っていた公立中学校。白い校舎が夜の雨に煙って巨大な要塞の様に見える。
早和は、濡れた鉄扉によじ登り、門の内側に飛び降りた。鉄条網で掌と足首に掻き傷ができて血が出たが、痛くなかった。
校内は雨の音に包まれて、世界から隔離されたみたいだった。
白い日傘はいつの間にか姿を消してしまい、早和は独り、真っ暗な何も無い空間に取り残された。グラウンドのぬかるみに、サッカーやバスケットのゴールが、雨に濡れた巨人の様に佇んで沈黙している。
早和は辺りを見回して白い日傘を探した。
やがて、頭上がチカッと光ったかと思うと、ややあって、バリバリと雷鳴が轟いた。
遠い稲妻。早和は光った先を見上げたが、雨の粒がパタパタと顔に当たり、目を開けていられなかった。掌で避けながら校舎の屋上を眺めると、
彼女がいた。
***
高校生活は、たった四ヶ月で終わった
新しい制服は、クローゼットの奥に掛けられたままなのに、どういう訳かその制服を着ていた。袖も着丈も少しサイズが大きい。
ふと、横を見ると、白い日傘を差した聖名が自分を見ている。
「聖名、お前どうしたの・・・?」
いつの間にか雨音に代わって、蝉がうるさいくらいに鳴いていた。足
元には「3-C」と書かれたプレート、花壇には向日葵が揺れている。
聖名の口許が動く。けれど蝉の声で聞こえない。
聖名は手を伸ばし、自分に何かを渡そうとしている。
手を差し出すと、聖名は自分の掌に、艶のある黒い珠を連ねたものをそっと置いた。先に金の縁取りがある十字架が揺れている。
駄目だ。
「駄目・・・駄目なんだ・・・お、俺なんかに渡しちゃ・・・。」
聞こえないのか、聖名の不思議な色の瞳がこちらを見ている。迷いの無い真っ直ぐ視線で自分を動けなくする。
俺はなんて下らないんだろう。
俺を嫌ってくれよ、いっそ見捨ててくれよ、そしたら、楽になるのに。
弱くて嘘つきで勇気が無くて根性が無くて情けなくて勝手で我儘で汚くて迷惑かけてばっかで。俺なんかより、聖名がいた方がいいに決まってる。わかってる。そうすべきだってわかってるのに、俺は怖くて、聖名を見殺しにした。
時間は巻き戻らない。
この先起こる酷いことを知っている。
お願いだ、やめてくれ、聖名には何もしないで!
だめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだだめだ!!繰り返すな繰り返すな繰り返すな繰り返すな繰り返すな繰り返すな繰り返すな繰り返すな繰り返すな繰り返すな!!
再び空は光り、その先を見上げて早和は力の限り叫んだ。
「やめてくれ!聖名を巻き込まないでくれ!俺をっ、俺を連れて行けばいいだろ!」
校舎の屋上から彼女が見ている。
何度も何度も、白い日傘の下からあの目に覗かれているのを感じていた。
恐ろしくて、逃げて、気付かないふりをした。
今の自分には、差し出せるものが己しかない。
彼女がそれを望むなら、それで聖名が解放されるなら。
「聖名を返して・・・連れて行かないで・・・!お願い・・・。」
苦しい。痛い。
心もからだも。
稲妻が落ちて焼かれるように、手足が引き千切れるように、
あの日、もぎ取られた制服のボタンが、魂の一部として、今も彼女の手の中にある。
いっそ、そのまま粉々に握り潰してくれ。
早和は、必死で呻くように懇願した。
彼女の冷たい指先が、早和の心に触れてかたちをなぞり、やがてそれを捕らえた。
「・・・・・・い!!」
誰かの声と揺さぶられる振動。頬を打つ痛み。
「早和ぁ!!」
痛い。
痛い?
夢でしょ?
あれ、ホント、苦しい!息が、できない!
肩を鷲掴みにされて、激しく揺すられたので、脳が揺れて目が回る。
「戻ってこい!!」
音量、でかい。こんな耳元で出す声じゃない。
目の前に有馬がいた。
自分を抱き締める。鼓動が早くて、体温も高い。肺が爆発しそうだ。
「このバカ!馬鹿野郎!!」
痛いくらい力を込めるので、俺の頭蓋骨と背骨がギシギシ軋んだ。
まるで技を掛けられているようで眩暈がする。その剛腕から逃れるため必死でもがく。が、びくともしない。
「しっかりしろ!」
「痛いっ、苦しいっ、離して!」
「早和っ!」
今度は逆に、ガバッと引き離される。凄い力で両腕を掴まれているから、反動で体が跳ね返る。肺に湿った空気が入り込み、むせる。
眉間に深く皺を寄せた目の前の顔は、確かに有馬だった。
ずぶ濡れの前髪が、額に張り付いて滴が垂れている。
その真っ直ぐな力強い視線で、自分の瞳の奥を貫かれたようだった。
「・・・なんでいるの?」
ここは長い悪夢の中だ。
「お前こそ、なんでこんなとこにいんだよ!」
「有ちゃん・・・ほんもの?」
「まだおかしなこと言ってんのか?・・・もう一発殴るか。」
有馬が右手を振り上げる。その姿が、理紀とダブって見えた。
「!!」
咄嗟に防御の姿勢を取る。硬直した身体に、雨が冷たい。体のあちこちが痛い。喉もカラカラだ。
「何・・・これ・・・。」
「戻ってきたな!?」
呆然としている早和を引き摺って、有馬は渡り廊下の屋根下に入り、非常灯で仄暗く照らされた床に座らせた。
まだ脳が痺れたみたいな感覚に、早和は何もできなかった。。
ただ、ずぶ濡れの髪や寝間着が、体に張り付いて気持ち悪く、流れ落ちた雨が床のコンクリートを濡らし体温を奪っていく。
「ちょっと待ってろ。」
有馬は少し離れて、いきなりTシャツを脱ぎ、搾り出した。ずぶ濡れだったから、驚くほど水が滴り落ちる。硬く絞ったシャツを拡げて振るって飛沫を散らすと、「これで拭け。」と、投げて寄越した。早和は、言われるがままノロノロと頭を拭きながら、ポカンと有馬を見ていた。
太い首、広い肩、筋張って陽に焼けた腕。健康に成長した大人の身体。腹は綺麗に削げていて体格がいい。早和は見惚れていたことに気付き、何故だか急に自分の
「お前もそれ脱いどけ。」
音が聞こえるんじゃないかと思うくらい、心臓が跳ね上がった。
「...いい。」
「いいじゃねーよ。風邪引くから脱いで乾かせって言ってんの。」
有馬は、1本だけ無事だった煙草に火を付けようと、ライターをカチカチ鳴らして、こちらを見張っている。
逆らえず、早和はおずおずと胸に張り付いた襟元に手を掛けた。理紀に千切られてボタンがない寝間着から、丸見えになっている自分の薄い貧弱な胸板は、有馬のそれとあまりに違う。劣等感と猛烈な羞恥心に、早和は動けなくなった。
「無理・・・。」
震えて拒否る早和に、有馬はイライラして「脱げッ!」と一喝し、煙草を咥えたまま、あっという間に早和の濡れた服を剥ぎ取ってしまった。
「ふん、俺に抵抗しようなんて二十年早え。」
取り上げた服を同じ様に絞って広げると、有馬は平気な顔で、またライターをカチカチやりだした。
何がどうしてこうなったのか、混乱と動揺で思い出せない。裸足の足は掻き傷だらけで血が滲んでいる。真夏とはいえ、真夜中に下着一枚の姿では、どうにもならない。おまけに肌寒い。膝を抱えてしゃがみこむしか策は無く、早和は観念した。
遠ざかった雷雲は、未だゴロゴロと低く轟いている。雨脚は少しだけ和らいできた。有馬が吐き出す煙草の香りが鼻先をくすぐる。くしゃみが一つ、暗闇に響いた。黒曜石の連なりが、青白い胸の上で踊っている。あんなにも苦労して人目から避けてきたロザリオがあらわになって、今や隠す布一枚さえない状況に、早和はなんだか情けなくて泣けてきた。
心臓が止まるかと思った。
不意に有馬が、自分の丸まった背中に、肌をピッタリ合わせてきたからだ。
早和の背後にドカッと、長い脚を投げ出して座り込むと、腕をを回し、すっぽりと早和の身体を囲み込んでしまった。早和は、全身が心臓になった様で、身動き一つできずに硬直していた。有馬がわざと耳の横にフーッと煙を吐く。咽て顔を背けると、回した腕を一層絞めてくる。
有馬は悪ふざけが過ぎる。以前はよく泣かされて、その度に、襟人がそれをたしなめた。それでも全く反省しないし、社会人になった今も、全く変わらない。
有馬はどこまでもマイペースだ。
「いちいち面倒くせぇんだよ。急に吐いたり居なくなったり、訳の解らんこと喚いたりベソかいたり・・・やれハダカはやだとか寒みーとか。」
早和は何も言えずに、火を吹きそうな顔を自分の膝に埋めた。
「何?このカラダ。恥ずかしいなら少しは鍛えろって。毎日家ん中ばっかにいるから、こんな生ッ白くてポヨポヨなんだよ。」
二の腕や脇腹や、その他あちこちを揉まれても、なされるがまま、早くも全く抵抗できない。くやしい。恥かしい。死にたい。
「窓架の方がまだ逞しいぞ。お前はもっとメシを食え!もっと、しっかり生きろ!!」
有馬が喋る度、息がかかる耳とうなじが、燃えてるんじゃないかと思うくらい熱い。このままでは心臓が爆発する。
今まで何度もはぐらかし、目を背け、絶対に絶対に認めなかった下半身の制御までもが稼働し始め、もう早和は絶体絶命だった。
「ゆうちゃんやめて・・・。」
歯を食いしばって声を絞り出したけど、情けないほど震えてしまった。有馬は怪訝そうに返事をすると、とうとう今度は耳を弄り始めた。
「お願いやめてっ。」
「へへ~ん、ヤダー。」
先刻より強めに言ったのに!
弱点が耳と知っての確信的犯行。畜生、もうだめだ。
ギブ・アップの鐘の音が聞こえた時、あの世からのお迎えの声がした。
「ゆーう!」
その声に気付いた有馬は手を挙げて答える。
「おー、やっと来た。遅ぇぞー!」
神様は、レインコートを着て、大きなビニール製のバッグを抱え、真っ直ぐこちらへ走ってくる。息を切らして渡り廊下の屋根下に入ると、膨れたバッグを下ろしてフードを取る。そして、肩で息をしながら、眼鏡のレンズに付いた水滴を拭った。
目尻の下がった優しい目元と、キリッと上がった形のいい眉。
眼鏡を戻すと、襟人は有馬たちの状況を見てあきれた様に言う。
「君たちは何をしているの?」
「何って、こいつが寒みーってゆうから。」
「い、言ってない。」
「だからって、夜の学校で、こんな薄暗いところで、半裸の男同士が身を寄せ合って何なんだ。」
「見て見て、こいつ耳真っ赤なの!笑える!」
「どうせまた、早和を苛めてたんだろ!」
「お仕置きだよ。なあ?」
有馬の長い手と脚がギュッとしてきたので、早和は思わず変な声が出てしまった。もう、いろいろ限界を超えていた。
「いやらしい。」
襟人は、吐き捨てるように言って、有馬の肩を蹴り飛ばした。
有馬がブツブツ文句を言いながら、煙草の後始末をする中で、襟人はテキパキとバッグからバスタオルと着替えを取り出し、顔を伏せたままの早和の前に身を屈めた。
「早和、話は後で聞くから、早く着替えちゃいな。」
柔軟剤の匂いのするタオルと、暖かい着替えを渡されて、いろいろな緊張から開放された早和の涙腺は決壊した。慙死の思いに駆られる状況であったが、どうしても溢れる涙は止まらなかった。
襟人は溜め息を吐いて、しゃくりあげる早和の頭に手を乗せた。何も言わずそのまま濡れた髪を撫でる襟人の手は暖かかった。
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