第10話
「寝た?」
そっとリビングに姿を現した和二郎に、晴三郎が聞く。和二郎が疲れ切った顔で頷くと、晴三郎もホッと胸を撫で下ろした。
ひょろ長い身体にぼさぼさの頭、無精ひげが、すっかり和二郎のトレードマークのようになっているが、それは働く男の多忙さ故、何に対してもタフなこの男が、今回は相当まいっているように見える。
「お茶飲む?」
晴三郎が聞いてきた。
「ホントは酒が飲みたい気分だけどな。」
「お疲れ様。」
和二郎は首を回しながらソファに腰を下ろす。久しぶりに父親三人でリビングテーブルを囲んだ。
「初めて、この家に全員が揃った夜も、こうやって僕ら親だけで会議をしたね。」
「もう、五年も経つんだな。」
深くソファに埋もれていた和二郎がガバッと起き上がり、
「今日は、うちのヤツが迷惑掛けて、申し訳ない。」
と、いきなり頭を下げた。正一郎と晴三郎は顔を見合わせて応える。
「おう。」
「びっくりしたね。」
「正さんいなかったら、マジやばかった。理紀、何か言ってたか?」
「いや何も。肩なんかガックリ落としてさ。ま、一晩寝りゃ大丈夫だろ。」
それを聞き、和二郎が肩をガックリ落とした様子が親子そっくりだったので、正一郎は心の中で口角を上げて苦笑した。
「でも、あんなに怒る理紀くん初めて見た。以前にもこんなことって、あったの?」
「う~ん、ない・・・なあ。」
だが、恐らく正一郎が言う通り、明日の朝にはヘラヘラ笑っていつものペースなのだろう。あいつは昔から、自分と非常に良く似た性格だから、と思ってはみても、やはり気になる。父親の和二郎でさえ、今日の様な理紀の姿は始めて見たのだ。
晴三郎に断って、正一郎と和二郎は煙草に火をつける。長く深く、煙と共に吐き出されたっ様々な思惑が天井を漂った。晴三郎は、手の中の湯飲みを弄び、やがて
「あのさ、わっくん。早和ちゃんのことだけど。」
と切り出した。
「正直、俺も参ってる。もう、どうしてやったらいいのかわからん。あんな生きてるか死んでるか分からん状態・・・」
和二郎が、珍しく弱音を吐いた。
「和二郎、それは同じだ、聖名も。」
正一郎が諭すように言うと、和二郎はハッと顔を上げる。晴三郎は困ったような笑顔で首を振って応える。
この一年、早和は衰弱して不登校。聖名は意識不明。親である二人の心中は計り知れない。
「すまん、晴。襟君が言ってた通りだな。」
「・・・え?」
「みんな自分のことばっかりって。」
「襟人そんなこと言ったのか?」
「正さん、二階にいたもんな。聞こえなかったか?和室にはハッキリ聞こえるくらい大声で怒鳴ってた。」
正一郎は、次男は昔から溜め込む性格だと確信している。気性は恐らく長男より激しいくせに。
「あいつはなあ・・・まあ、有馬がいるから大丈夫だろ。適当にやりあってバランス取ってる。」
それは事実だった。しかし、襟人が益々隙のない大人であろうとしていることも、またその焦りの理由も、正一郎にとっては至極判りやすいことだった。
「俺達には、何にもできねえよ。」
「
十時過ぎから振り出した雨が、勢いを増すに連れ、牛蛙の合唱も一段と声高になってきた。この辺りでは毎年聞こえる夏の風物詩だが年々数が増えうるさい程だ。しかし、今のこの沈黙をやり過ごすのにはありがたかった。
***
当時、警察から連絡を受けた和二郎と晴三郎が、病院に駆けつけたときには、聖名は全身を強く打って意識不明の重態、早和は心因性ストレスで昏睡状態だった。
早和の、中学3年生当時の担任だった志水教諭は、警察の事情聴取で、現在自分が受持つクラスの女子生徒が、中学校の屋上から飛び降りる瞬間を目撃したと告げた。運悪く、その落下地点にいたのが聖名と早和だった。
日差しが厳しい夏の午後、聖名は白い日傘を差しており、その真上に落下した女子生徒は、日傘に喉を貫通させ即死。落下してきた人体に、地面へ叩きつけられた聖名は重態。辺りは二人のおびただしい出血で血の海だったそうだ。志水教諭は、惨状を目の当たりにしたショックで自失状態の早和を引き離し、救急車と警察に連絡して、現場は直ぐに立ち入り禁止になった。
なぜその時、既に卒業した早和や、他校の生徒である聖名が中学校内いたのか。
志水教諭によると、事件当日、長らく不登校で連絡が取れずにいた女子生徒から、「先輩に直接会って謝罪をしたいので、先生が立会人になってれないか。」と依頼されたという。志水教諭はこのことを早和に伝えたが、彼は彼女を全く受け入れず申し出は断られた。円満な解決を望んだ志水教諭は、それでも何とか早和に中学校に来てもらえないかと再度説得を試みた。すると早和は聖名を連れ立って現れたのだった。聖名は志水教諭に、家族の同伴を申し出たという。
その後、三人で女子生徒が指定する場所で待ったのだが、約束の時間が過ぎても彼女が現れないので、志水教諭は連絡をとる為、わずか数分その場を離れた。
女子生徒が彼らの頭上二十メートルから現れたのは、清水教諭が職員室から戻る、その一瞬の間の出来事だった。
***
雨脚が強くなってきた。このところ陽が落ちても、蒸し暑く寝苦しい日が続いていたので恵みの雨だった。気温が下がったので、エアコンを消し、少し窓を開け空気を入れ替える。
「その女子生徒ってのが、問題ある子だったんだろ?」
「そうだな。早和は随分苦しんでた。」
***
クレランボー症候群。演技性パーソナリティ障害。
地元の公立中学校に通う早和と、一学年下のその女子生徒は、それまで話を交わしたことも無いような関係だった。中学校の卒業式に声をかけられ、卒業後一方的に付きまとわれるようになったという。
女子生徒の家庭は、かなり教育熱心だったらしく、彼女は中学入学直後からずっと、大学入試をも視野に入れた勉強を強いられていたようだった。
彼女が、そのストレスのはけ口に選んだのが、早和だった。中学校卒業からわずか一ヶ月後、彼女の早和へのストーカー行為は、盗撮や盗難に留まらず、周囲への虚言へとエスカレートした。
当時彼女の担任だった志水教諭は、五月中旬から体調不良で学校を休みがちになっていた彼女を、保健教諭と共に何度か自宅訪問し、話を聞いていたという。
「生理が来ない。卒業生の男子生徒と肉体関係を持ち妊娠した。」
女子生徒の仰天の告白に、保険教諭が卒業生の名を問い正すと、驚くべきことに昨年の志水教諭が担任したクラスの生徒だと分かったのだ。
志水教諭は早和と連絡を取り、事実無根として、相談を受けていたと言う。しかし梅雨入りの頃、女子生徒の両親がひどい剣幕で氷川家へ乗り込んで来た。女子生徒の両親に激しく罵倒され面責された早和は、深く傷付き打ちのめされた。
以降、日差しが厳しい七月の午後、痛ましい運命の瞬間を迎えるまで、解決の糸口さえ掴めないまま、平行線を辿ることとなる。
彼女の死後発覚したことだが、彼女の携帯や自宅のPCには、隠し撮りをしたと思われる、大量の早和の画像が発見され、更にクローゼットには盗品と思われる彼の靴や衣類が隠されていた。もちろん全て物品押収、画像削除を要請したが、一度ネットに流出した画像の完全回収は困難を極めた。
そして司法解剖の結果、女子生徒の妊娠は確認されなかった。
***
「今日、午後4時26分。聖名のバイタルサインが著しく変動した時間だ。」
正一郎は顎の下で指を組み、鼻息荒く話し始めた。
「その時間、皆どうしてた?」
15時半過ぎまでは、皆山下公園にいたはずだ。その後の40~50分となれば、各々移動中であったと考えられる。
「俺と理紀は、地下鉄を降りて病院へ向かってる。」
「待ち合わせが16時だったから・・・駅へ引き返してる途中かな。」
和二郎は、有馬から早和が倒れた連絡を受けた記憶を辿りながら呟いた。
「待ち合わせ?」
晴三郎の疑問に和二郎は「いやいや別に」と適当に胡麻化した。MDOのことは窓架から口止めされている。
「僕は炎天下、ひたすら歩いていたね。襟人くんと。」
それ以上は追及を受けなかったので和二郎は内心ホッとした。
16:26、聖名の肉体に起きた現象は、非常に動揺している状態の体温や心拍数に近かった。その瞬間、彼の意識はどこにあり、何が起こっていたのか。
「だからそのシステムを利用するんだ。」
「原因が分からないのに、システムだけ利用すんのか?」
「そんなこと、できるの?」
和二郎と晴三郎が口々に疑問を投げかける。
「馬鹿馬鹿しいけどな、要は聖名をめちゃくちゃ驚かせりゃいいんだってよ。」
揚々と話す正一郎の〝作戦″に、和二郎は呆れて開いた口が塞がらなかった。まさかあの正一郎の口から、こんなザックリとした提案がなされるとは。
「で、早速明日決行するとしてだ。今日、沖崎先生にこんな質問をされたんだが。お前らどう思う?」
「何て?」
『聖名は今どこにいるか。』
正一郎の問いに、和次郎も晴三郎も黙ってしまった。現実主義の長兄が、敢えてそんなことを聞いてくるなんて、普通の答えでないことぐらい察しが付く。
「オイオイ、俺は即答だったぞ。」
「どうせそこ、とでも指差したんだろ。」
和二郎が言い当てると、正一郎は全く動ぜずに「当たり前だろうが」と、更に鼻息を荒くした。
「確かにな。でもまあ、先生が仰るに、意識の源は脳だけじゃないかも、みたいなこと言う奴もいるんだと。『あなたは脳じゃない』ってさ。」
「あなたは脳じゃない・・・」
晴三郎にとっては、意識改革とでも呼べるような言葉だった。
病院のベッドの上で眠る聖名の意識が、そこに無いのなら。
来る日も来る日も、目覚めることを信じ続け、祈り続けた。脳が意識の源でないのなら、聖名は、いったい今、どこにいるのだろう。
「夢・・・。」
晴三郎は呟いた。
「もしかして、聖名が探して欲しいのは、ロザリオじゃないのかも。」
「昼間の怪談か。どういうことだ、晴?」
彼の静かな水面のような瞳に波紋が揺らぐ。
「だから早和ちゃんが、持っていたんだ。」
その時、急に荒々しくリビングのドアが開いた。血相を変えた理紀が立っている。
「いない・・・!早和がいない・・・どこにもいない!」
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