第9話

 氷川正一郎が、その年の有馬記念で当てた配当金で、ここに家を建てたのは、かれこれ二十七年前だ。妻のあきが「この子がこの馬が来ると腹を蹴る」と言うので気まぐれに買った馬券が万馬券に化け、マイホームを手に入れたのだった。

 以来、安易にも有馬と名付けられた長男は、図らずもがな、強運に恵まれた。有馬記念の奇跡は伝説として広まり、「頼もしい長男」「地元名士の跡取り」「サラブレッド」などともてはやされたが、本人にその気概は全く無く、周囲が寄せる一切の期待とプレッシャーを跳ね除け(と言うよりも気付かず)誠にマイペースな男に成長した。行き場を失くした周囲の期待はというと、至極自然に弟の襟人へスライドし、何時しか有馬本人は「楽しい長男」「地元名士の跡取りの兄」「野生の馬」と呼ばれるようになった。

 現在に至って「有馬記念の奇跡」は、専ら正一郎の持ちネタとして宴の席で披露される程度のものになっていた。

 そんな氷川家長男は、自由にのびのびと放牧された生い立ちの為か、人として、ある大切な機能を備え損ねてしまった。

 しかし、先にも述べたが、彼は傑出した強運の持主だった。単なるラッキーと呼ぶべきかあるいはアンラッキーが彼を除けて通ると言うべきか。恐らく後者、それも除けるのではなく不運諸共、巨鯨の如く飲み込んでしまうといった印象である。

 人として大切な、空気を「読む」機能が付いていない代わりに、場の空気を「喰らう」性質を備えている。それが彼の、極めて強い存在感を放つ理由だと考察できる。

 ただ、その能力がマイナスに作用する相手というものが必ず存在する。

 それが、彼の実弟、襟人だった。

 その点においても、有馬に害は無く、一方的に襟人の不運が増すという感は否めないのは事実である。


「ただいま~。」

 惨憺たる有様の氷川家の玄関に「空気イーター」が帰還した。

 有馬は、その場に鞄を放り出すなり暢気な声で、「襟人メシなに~?」と聞く。

 生憎、その襟人は絶賛激おこ中だった。

 この様に、有馬は自由すぎて、時々地雷を踏むのだ。

「知らないよッ!」

 夕飯の献立を聞いただけで、かつてこんなに怒鳴られることがあっただろうか。玄関に腰かけ、靴下を脱いでいた有馬はキョトンとして聞き返す。

「なんだよ、えりこ、生理かよ。」

「また!お前はそういう下品なことを・・・!」

 今し方激しい兄弟喧嘩が繰り広げられた焼け野原を、有馬は裸足でぺたぺたと歩きながら浴室へ向かう。そしてもう上半身を脱いでいる。

「じゃ晴さん?メシ何?」

「豚の生姜焼き・・・。」

「やった。風呂すぐ出るから、あっためといてー。」

「有!お前、廊下で脱ぐなって言ってるだろ!それから靴下!丸めて玄関に置きっぱなしにすんな!ちゃんと洗濯籠に入れろよ!」

 襟人が投げた靴下が当たる前に、ピシャッと浴室のドアは閉まった

 窓架は、ホッとして涙が引っ込んだ。


 ***


 モヤモヤする頭を振って半身を起こすと、ゴンと音がして何かが落ちた。

 聖名の病室へ向かうエレベーターの中で電源を切ってから、ずっとそのままにしていたことに気付き、急いで電源を入れる。

 喧嘩の最中の記憶はないが、尻のポケットにいれたままかなり激しく動いたはずだ。壊れてないか心配だ。

 理紀は無事に起動したスマートフォンの着信履歴を見て震え上がった。

「まずいっ、ひさね・・・!」

 直ぐににコールした相手は中々出てくれない。五度目のコール音で、

『はい。』

 ムッつりと、怒気を含む声の主は、不動陽実ふどうひさねである。

「ごめん・・・俺だけど。」

『遅い。着拒されてんだと思ったわぁ。』

「スミマセン。電源切ってマシタ。今まで、忘れてまして・・・。」

 言いながら、理紀はベッドの上で正座する。

『全然大丈夫。お陰様で昨日は大漁だったから、時間を潰すのに苦労はなかったわ。』

「あっ・・・そぅ。」

 高校二年生の夏、理紀は通っていた美術大学専門塾の、夏季集中講座で陽実と知り合った。

 関東県内の高校から集まった、美術大学を目指す仲間の中に、べらぼうに絵が上手い彼女がいた。イーゼルの陰にスッポリと埋もれてしまう小さな体に見合わない、とてもエネルギッシュな女子だった。

 理紀と陽実は直ぐに意気投合して、お互いのアドレスを交換し、同じ仲の良いグループで行動を共にするようになった。が、しかし運命はあるイベント会場で動き出す。運悪く、腐花繚乱のBL専門ブースで二人は再会を果たすのである。

 ぶっちゃけ彼ら腐男女であった。

 お互いの恥部を曝け出してしまった彼らは、いろいろあってめでたく同じ美大に合格し、いろいろあってめでたく付き合うことになり、今に至るわけだった。

「それでー、何?」

『あぁ・・・ちょっと、相談?したいこと、あったんだけど。今日はいいや。』

「え、あ、そーなの?」

『うん。また今度会ったとき話す。』

「了解・・・。」

『りーくん?・・・何か、あった?』

 陽実は声のトーンから察したのか、理紀を心配してくれている。弟を殴って落ち込んでいると、素直に吐き出せたら少しは楽になれるだろうか。理紀の心は揺れ動いた。それでも、


『俺なんかどうなろうと、お前に関係ないだろ!』


 頭の中にリフレインする早和の声にムカッとする。

『りーくん?どしたの黙っちゃって。りーくん、聞いてる?』

 陽実の呼ぶ声で我に返った理紀は、

「何でもないよ。」

 できるだけ、優しく言って電話を切った。


 ゴロンと仰向けに寝返って、天井を見上げる。

 早和に蹴られた腹が今になってジンジンと痛んだ。今はまだ、誰かに許されてはいけないと、思いをグッと飲み込んだ。

 このままじゃ、とても眠れそうになかった。





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