第8話

「そうなのか、早和。」

 窓架がハッとして振り返ると、会話のどのあたりから聞いていたのか、理紀が腕組みをして立っていた。早和はそのまま動かず何も答えなかった。

「ちょっと見せてみろ。」

「持ってないってば!」

 踵を返して二階へ上がろうとした早和の腕を、理紀が掴んで乱暴に引き戻したので、早和が階段を踏み外し、理紀にぶつかってそのまま揉み合いになった。窓架は、無理やり早和の体を壁に叩き付けた理紀の顔に、引きつった自虐の笑みが浮かんでいるのを見た。瞳孔が開き、豹変した彼の顔は猟奇的で、窓架は普段は見せない理紀の激しい一面に、すっかり引いてしまっていた。

 自分が始めた早和への追及だったが、

「もうやめよう、りっくん」

 単なる苛めのような気がしてきて、堪らず窓架は理紀の肩に手を置いた。が、その瞬間、ピリピリと電気の様な衝撃と共に、その手は簡単に払いのけられてしまった。

「何にも隠してないなら見せてみろよッ!」

 そう叫んだ理紀は、必死に襟元を守ろうとする早和の腕を引き剥がし、両手首を掴んで思い切り壁に押し付ける。

「窓架!!」

 まるで頭に雷が落ちたみたいだった。

 理紀は普段、窓架をふざけて「まどたん」と呼ぶ。急に名前を呼ばれたことにも驚いた窓架だったが、それよりも、自分が今何をしろと言われているかが解ってしまったのがショックだった。その上弾かれたように命令に従ってしまったことが、彼を激しく後悔させた。

「うぐッ!」

 窓架が早和の襟のボタンに手を掛けた瞬間、早和が思いきり理紀の腹を蹴った。理紀は低く呻き声を上げて床に吹っ飛び、窓架も押されて後ろへよろけた。早和はそこから逃れようと、玄関の方へ駆け出したが、床へ転がったペットボトルに躓いて横倒しになった。

「このやろっ・・・!」

 理紀が倒れた早和に馬乗りになって、暴れる弟の胸ぐらを掴んで怒鳴る。

「勝手に一人で抱え込んでいつまでもウジウジしやがって!!てめぇどんだけ周りに心配掛けてるかわかってねえだろ!!」

「やめッ・・・」

「ああそうか、そうだよな!!俺らが勝手に心配してるだけだもんな!どうせ俺なんか何もできねえって、そう思ってんだろうが!!」

 胸ぐらを掴んだまま激しく揺さぶり、痛がる早和の後頭部を床にガンガン打ち付ける。理紀は腹への一撃で完全にキレてしまっていた。

「やめてよ・・・二人とも・・・」

 窓架は情けないほどオロオロと、二人の変貌に足がすくんで動けなくなっていた。すると防戦一方だった早和が突然、

「・・・っ関係ないだろ!!」

 と叫んだ。光る目で兄を睨み付ける。それは涙のせいではなく、暴力へ反抗する、瞳の奥に宿った小さな勇気の光だった。

「俺なんか、どうなろうと、お前に関係ないだろ!!」

 あっと、叫ぶ間もなく、理紀の拳が早和の頬を殴りつけた。早和の唇が切れて血が飛ぶ。

「りっくん駄目だっ。」

「そんなに信用できないかよ!俺はァ!!」

 理紀が、早和の襟首を掴んで、力任せに左右へ引く。ビッと千切れる音がしてボタンが弾け飛んだ。


 三人とも、しばらく互いの息遣いだけを聞いていた。

 理紀も窓架も、上下する早和の胸の上に、小さな黒艶の珠が連なり、金色の十字架が光っているのを見た。

 見間違える筈も無く、それは聖名のロザリオだった。


「ちょっと君たち、何を騒いでんの。」

 リビングへ続くドアの向こうから声が聞こえてきた。ドアが開いて不機嫌そうな襟人の顔が覗く。

「ご近所さんの迷惑に・・・」

 修羅場に居合わせた襟人は、ぐっと言葉を飲み込んで状況の理解をしようとしている。

「・・・どうした!?」

 理紀は肩で息をしながら、ロザリオに手を伸ばす。 その時、観念したようにぐったりしていた早和が突然、金切り声で悲鳴を上げた。

 そして、最後の力を振り絞るように、身をよじって兄の下から逃れようと、めちゃくちゃに暴れる。窓架も襟人も、動転の余り声を掛けることすらできなかった。

 尋常でない声を聞いて、リビングから父たちが駆けつける。

「おいやめろっ、二人とも!」

「このクソガキっ!」

 頑なな弟から、どうにかしてロザリオを取り上げようと、頭を押さえつけ、腕を引き剥がそうとする理紀を和二郎が止めに入る。

「理紀っ、落ち着けって、手を離すんだ!」

「邪魔すんなっ、くそっ!」

 手を払った勢いで和二郎の眼鏡が飛んだ。立ち尽くす襟人の足元まで転がってきた眼鏡を、晴三郎が素早く拾い上げる。和二郎は目の下を少し切って流血していた。頬を伝う血を気にもせず、和二郎が理紀の脚に組み付こうとした矢先、早和が急に激しく咳き込み、身体を折りたたんで痙攣し始めた。理紀の手に掴まれたままのロザリオがビンとしなる。壁際に追いやられ、ロザリオが今にも千切れてしまいにそうなこと業を煮やした窓架は叫んだ。

「二人のバカ!やめろって言ってんだろ!もう、やめてくれよ!!」

 無我夢中で、傍らに置いてあった大きな包みを理紀に投げつける。理紀の顔にぶつけられた包みは大きく破れて中身が散乱した。

 重い衝撃で後ろへ尻餅をついた理紀を、すぐに正一郎が羽交い絞めにして引き離す。早和に駆け寄って来た和二郎の胸で、早和は何度も何度も血痰を吐き出した。肩で息をして苦しそうに歪めた顔が、みるみる赤黒くなっていく。すぐに、咳き込む息にヒュウっと妙な音が混じって聞こえてくる。

 喘息の発作を起こしたのだ。

 和二郎の目くばせで、晴三郎が早和の背中を支えながら代わって擦る。早和は、尚もゼィゼィとの肩を振るわせ、駆け戻ってきた和二郎に縋る様にネブライザーを当てがった。

 正一郎が、やっと動きを止めた猛獣の羽交い絞めを解くと、途端に膝の力が抜け、彼はその場にペタリと座り込んでしまう。正一郎が、項垂れて呆然としている理紀の両肩に手を置くと、小刻みに震えていた。

「ゆっくり、ゆっくりな。」

 苦しそうにシュコッ、シュコッと薬を吸い込む早和の傍らで、その胸で揺れるロザリオを、晴三郎は静かな目で見つめていた。

 やがて、汗と涙と鼻水と血でまみれた早和は、そのまま和二郎に抱えられるようにして奥の和室へ、青ざめて唇を噛み締めた理紀は、握った拳を開けないまま、正一郎に二階に連れて行かれた。


 嵐が去った廊下は惨憺たる有様だった。その場の空気はツンドラ地帯の様に凍てつき、踏み荒らされた綿布の中で襟人が立ち尽くしていた。

 鉄鼠、渋茶、竜胆色、濃藍、、紫紺、浅葱色、萌葱色、薄紅梅、山吹色。

「・・・おい。なんてことしてくれたんだ!」

 壁に背中が張り付いたように動けなくなった窓架は、目の前の惨状に何も言葉が見付からなかった。

 晴三郎はただ静かに、散乱した浴衣を回収して回る。

「襟人君、いいから。大丈夫。」

「よかぁないですよ!全ッ然よくない!どこが大丈夫なんです!?皆好き勝手、自分のことばっかり!家族の気持ちなんて誰も考えていやしない!」

 突然の襟人の剣幕に、窓架はやっと自分のやってしまったことに気が付いた。

「俺、二人を止めようと・・・。」

「マド、わかってるよ。」

 晴三郎は少し困ったような笑顔で窓架の頭に手をのせる。

「ごめん・・・なさい・・・。」

「なんて顔してるの。大丈夫だよ。」


 お父さんはどんな時だって笑って大丈夫って言ってくれる。

 お母さんが死んだ時もそうだった。

 お父さんは優しい。悲しいくらい。

 俺が髪を緑色に染めても、兄ちゃんが目を覚まさなくても、お父さんは変わらず優しい。


 優しいから、俺は心が痛いんだ。


 ***


「もう寝ちまえ。」

 理紀を部屋に放り込むと、それだけ言って正一郎は行ってしまった。

 あれだけ大騒ぎしたのに説教もされず、訳も聞かれない。

 仕事では、鬼のように被告を追及する立場にあると言うのに、家族に対しては対応が違いすぎないか。

 なんもかんもお見通し、って訳なんだろうか。

 理紀は無性に恥ずかしくなって、情けなくなって、叫びたくなって、ベッドに倒れ込みうつ伏せになった。

早和あいつがあんな風になったのは、俺のせいだ。)


 別居の理由は父母の不仲によるものではなかった。

 だが、環境と経済状態とを鑑みて、母は早和を連れて実家の名古屋に、父は理紀と二人で東京に長いこと離れて暮らした。兄弟は、それまで生活を共にしたことは無かった。

 母の仕事のスケジュールに合わせて、理紀と父は名古屋へ会いに出掛けた。早和が頻繁に体調を崩していたものだから、東京へはなかなか出てこられなかったのだ。

 祖母、つまり母の母と、義理の息子、和二郎は性格の不一致で同居は有り得ない。しかし、祖母は利発な理紀には、大きな期待を持っていた。理紀が名古屋へ行くと、和二郎をよそに優遇されていた。和二郎もそんな理紀を間に置いて義母との意思疎通を図っていたようだ。理紀は理紀で、緩衝材としての才能があることに自覚があった。更に、小、中学生と成績も良かった理紀は自信もあり、何の不満も無く、生きることが楽しくて仕方なかった。病弱で人見知りな弟からの憧れの眼差しが心地良く、自分を慕う小さな存在が可愛くて仕方が無かった。理紀は兄である自分に酔っていたのだ。

 ところがである。

 母が亡くなって、和二郎が名古屋から無理やり早和を引き取り、親子三人で暮らすようになって初めて、理紀は弟が他と違うことに気付く。


 早和は成長が遅く、未熟で弱い。

 それが生まれつきなのか、病気によるものなのか知らないし、父も何も言わない。ただ、これからは自分が弟を守ってやらなくちゃいけないと強く思った。

 当時中学生だった理紀が、病弱な弟のサポートにどれだけ労苦を要したか、例を挙げればキリが無い。それはまるで育児だった。父は仕事に忙しく、殆ど家があったに帰らない。勉強と、家事と育児に振り回され、やってられっかと、正直逃げ出したい時もあった。

 しかし、そんな兄の姿を見て、早和は怖くても苦しくても、悲しくても寂しくても、いつもギリギリまで我慢をするようになった。兄の重荷になりたくない。これ以上、父に負担を掛けたくない。我儘を言って家族の自由を奪いたくない。

 しかし、早和のその思いはいつも裏目に出た。限界を超えて我慢しすぎて、ある時いきなり糸が切れたみたいに身体は言うことを聞かなくなった。


 弟をそうさせたのは自分だ。

 兄をそうさせるのは自分だ。

 だからその後始末するのは自分の義務なのだ。

 俺が傍にいないと生きて行けない。

 兄を縛るのはもうやめたい。


 そう思っていた。



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