第7話

 先に帰宅していた晴三郎と襟人が夕飯の支度をしていた。正一郎や和次郎が風呂を済ませ、タオルを首から下げて美味しそうにビールを飲む。昼間飲んだ分はすべて汗で流れた。

「何か少し口に入れたら?」

 晴三郎が心配そうに声を掛ける。

「入らない?」

「うん・・・いい。大丈夫。」

「そう。今日は暑くて疲れたもんね、汗を流したら寝ちゃうといいよ。一応、早和ちゃんの分ラップしておくから、後でおなかすいたらチンして食べなね。」

「シャワーが済んだらポカリを飲めよ!」

 浴室へ向かう背中に、理紀が呼びかけても、そのまま無言で行ってしまった早和に理紀はカチンときた。

「何だよあいつ!返事ぐらいできねえのかよ!」

 わざと聞こえるように不満をぶつけると、理紀は夕飯を頬張り始めた。


 「うるさいんだよ、いちいち・・・」

 ムスッとして脱衣所に入った早和は、乱暴に脱いだシャツを丸めて脱衣かごへ投げ込んだ。洗面台の鏡に映った自分に虚ろな視線を向けると、正視に堪えないほど焦燥している自分の姿があった。

 学校のクラスの背の順ではいつも前の方だった。自分の身体が丈夫にできていないことは嫌になるほどわかっている。病気ばかりしてるから、他人より未熟で、今年16にもなるのにまるきり子供の身体だ。狭い肩、簡単に折られそうに細い首。いつまで経っても筋っぽくならない腕。小さい腰と尻、脇も脛も体毛が薄くて何度も恥ずかしい思いをした。学校でからかわれて以来、ノースリーブや膝丈のパンツは絶対に穿けなくなった。

 伸びすぎた髪が鬱陶しくてうなじを何度もかきあげる。洗面台に手を掛けて、ブルブルと頭を振って大きな溜め息を吐く。とたんにさっきの兄への態度が子供っぽく思えて自己嫌悪が込み上げた。

 その薄い胸板に、黒く光る十字架が揺れていた。



 聖名は浴室のドアを後ろ手に立っていた。


「早和が自分のロザリオをペンダントの様に首から下げている。」

「やっぱりここにあった。」


 同時に起こる困惑と納得。そしてそれは聖名自身へ向けられる。

 唐突に、聖名は脱衣所の床がぐにゃりと歪んだ感覚に襲われた。


 自分は何か大切なものを探していなかったか?

 母の形見のロザリオを探してた?

 母の形見?

 そういえば、しばらく母の姿が見えない。

 あきさんも、結都ゆづさんも。


「そうか、三人で旅行に行くって言ってたっけ。」

 そう呟いた、つもりだった。

 声にならない呟きだった。


 母さんたちは、いつ帰ってくるんだっけ?


 今、僕は、何をしていたんだっけ?


 いま・・・なんで・・・ここにいるんだっけ・・・。


 聖名は急速に薄らいでゆく意識を必死で繋ぎ止めようとしたが、ついには自分が自分である意識すらも、何かに溶けて、在るのに消えて、ひとつになっていってしまった。


 ***


 電話が鳴った。

 受話器を上げた襟人の声が、一瞬でトーンダウンする。仕事が終わった有馬が架けてきているらしい。

 窓架は、皿洗いをしながら会話に耳を傾ける。襟人がさっさと電話を切ろうとするので、慌てて濡れた手を差し出すと、

「ちゃんと手を拭いて。」

 と言うので、着ているシャツで拭いて受話器に手を伸ばした。襟人はがっかりした顔をして、受話器を寄越す。

 耳に当てた瞬間、カチカチッと向こうでライターの音がした。

「もしもしっ、ゆうちゃん!?今日ねえ、あれから病院行ったけど、兄ちゃんトコには無かったよ!」

『お?おう。先ずはオマエ、お仕事お疲れ様でしただろうが。』

「オシゴトオツカレサマデシタ!」

 フーッと、煙を吐いて、有馬は満足そうに『よし。』と言った。

『で、何?何が無いって?』

「兄ちゃん、今日、一瞬起きそうになって」

『マジか!』

「うん。それでね、起きなかったから」

『お、おお・・・起きなかったんか。』

「だから、俺病室中探したんだけど、やっぱりロザリオ無かったよ。」

『ろざ、りお?』

「昼間話したじゃん!兄ちゃんがロザリオ探してる夢の話!」

『あーあれな。・・・ハハッ、何だっけ?』

 有馬は昔から思いつきで動く。深く考えないからすぐ忘れる。家族たちはもう慣れっこだったが、どう考えても有馬の交際が長続きしないのは、ソコに原因があるのは明らかだった。

「何だっけじゃねーよ。」

 窓架は息を吸うと一息に言った。

「あれからね、その筋の人に聞いたら、ロザリオ探せって。」

『なんだその筋の人って。』

「今日知り合った人?」

『何で疑問形?』

「人かどうか自信ないから。抹茶クリームフラペチーノベティさん。」

『わからん!お前の話はまったくわからん!』

「あっあっ、待って切らないで!続き、続き聞いて!」

『もー何だよー早く帰って飯食いてえよー。』

 有馬は仕事上がりに電波な末っ子の訳のわからないお喋りにつき合わされて駄々っ子のような声を出した。

「あのね、俺たちは、兄ちゃんにエンカクソウサされているんだって、ゆうんだ、その人が。」

『どの人が?』

「だから!MD・・・」

 ボケたおじいさんと話しているみたいで、つい声が大きくなる。リビングで野球を見ている和次郎が、チラッとこっちを見た。俺は反射的に背を向ける。

『ああ、その筋の怪しい人な。』

「怪し・・・まあ、そうだけど。」

『何で?』

「兄ちゃんが、俺たちの夢を通じて、ロザリオ探すように仕向けているらしい。」

『ふうん。』

「ゆうちゃんどう思う?」

 どうって・・・と有馬は困ったように煙を吐いて、

『なあ、ろざりおって、もしかして十字架のついたネックレスみたいなヤツ?』

 やがて思いついた様に言った。

「え、アクセサリーじゃないけど、確かに首に掛ければネックレスみたいかな・・・って、えじゃあ昼間は何なのか知らないで話してたの?今更かよ!」

『あーそれだったら早和がしてたぞ。』

 俺は受話器を持ち直した。

「・・・えっ。」

『あれから具合どーよ?わじさんから聞いた?あいつ電車ん中でゲロッて大変だったんだぜぇ。』

「うん、知ってる・・・。それでいつ?いつ見たの?」

『えー・・・だから、ぶっ倒れてベッド運んで・・・こう、なんだ、首んとこのボタン外してたら、胸んとこにチラッと。』

「・・・見たのっ?」

『見たよ!?見るだろ普通!何だよ!』

「そっか!ありがと!」

 俺は、勢いよく受話器を置いた。切り際にかすかに『何だよ!?』という有馬の叫びを聞いた。


 窓架は、早和が風呂から上がるまで、階段で膝を抱えて待っていた。やがてパジャマに着替えた早和が、頭にタオルを被ったまま、裸足でキッチンに入って行くのが見えた。少し待つと、500ミリリットルのペットボトルを持ってキッチンから出てきたが、階段に蹲る窓架の視線に気付いて驚き、ぱっとタオルを被りなおして通り過ぎようとする。

「ねえ、さわちゃん。」

「・・・なに?」

 タオルの下から視線を合わせずに返事をする。

「あの、さ。気分どう?」

「ん、まあ・・・うん。」

 ペットボトルのふたを回しながらあやふやに答える早和がもどかしい。

「さっき、ゆうちゃんから電話があって、聞いたよ。」

「・・・そっか。ごめん。俺、もう寝るから・・・。」

「なんで秘密にすんの!?」

 咄嗟に、自分でもびっくりするくらいの大声が出た。早和が口を付けようとしていたペットボトルを取り落としそうになる。

「なに・・・?」

「ごめん。でも、さわちゃんが持ってるんでしょ。」

「・・・何を?」

 声が僅かに震えてる。

 それきり早和が黙るので、窓架は焦れてこちらから言い出した。

「昼間、兄ちゃんがロザリオを探してるって、探してって頼まれる夢見たって話したよね。あの時、知らないって言ったじゃん。」

「夢、でしょ?」

「家族全員見てるんだよ?おかしくない?ねえ、何であの時教えてくれなかったの?兄ちゃんから預かってるよって。」

「も、持って、ない。」

 問い詰められた早和は、唇をきゅっと結んで俯いている。

「じゃあ、有ちゃんの見間違いだっていうの?今日、さわちゃんが、電車で倒れたとき、首から下げてるの見たって。ゆうちゃんは、ちゃんと十字架がついたやつ見たって言ったよ?」

「・・・」

「兄ちゃんのロザリオ返して。」

 青冷めた早和の肩が大きく揺れた。


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