第6話

「ありがとうございました。」

 正一郎と理紀は、並んで主治医の沖崎に頭を下げた。

「いえ、お力になれず大変申し訳ないです。」

 背が高く腰の低いこの医者は、白髪交じりの頭をかきながら落胆したように答えた。

 体の傷が癒えても一向に意識が回復しない聖名の、長期治療に協力したいと申し出てくれた脳神経外科医は、他でもない、この沖崎だった。

 事故当時は誰一人、聖名の入院がこんなに長引くと思っていなかった。一般外科病棟から、脳神経外科病棟へ移り半年が過ぎても、一向に覚醒の兆しが見えなかった聖名の今回の意識の変動は、沖崎にとっても驚き、そして喜ぶべき現象だった。

「聖名君の場合、クラインレビン症候群やナルコレプシーと違い、睡眠発作の分類では無いと考えられます。むしろ癲癇てんかんの発作に近い、脳細胞のネットワークの異常に原因があると私は考えています。今日のような脳波の変動は、彼に何らかの外部刺激があったものと推測されがちなのですが。そもそも、私の立場的見解からは、意識の源はニューロンであると言うべきところなのですが、もっとっ別の視点からもアプローチしたいと考えていて・・・氷川さん?」

『はい。』

 半ば真っ白になっていた正一郎と理紀はダブルで返事をした。

「お二人は、聖名君は今、どこにいるとお考えですか。」

 正一郎と理紀は絶句したまま、揃ってベッドに横たわる聖名を指さした。

「それは、聖名君の脳がそこにあるから?ではなぜ、彼は目覚めないのでしょう。」

「それは・・・意識が・・・戻らないから。」

 わざわざそんなことを尋ねる沖崎に、頭の中が疑問符でいっぱいになりながらも、理紀は当たり前と思う答えを絞り出した。

「お二人は、意識の源は脳にあると言い切れますか?」

「意識は意識だよ、無意識の反対。ある時はあるし、無いときはない。」

 正一郎はキッパリと言い切った。目に見えないものは信じない、証拠と立証。誠に検事たる正一郎らしい意見だった。

「俺は、正直わかりません・・・。意識がない聖名は聖名じゃないわけじゃないし。」

 正一郎はまどろっこしいことが苦手だから、沖崎に結論を急がせる。

「自分がそうだ、と認めた思想の正反対の思想を提唱する人間は、必ずいるものですよ。理紀君がそこで疑問を持つのなら、君は哲学者に向いているのかもしれないね。」

「理紀が哲学!」

 正一郎は噴出した。理紀は赤面したが、沖崎は淡々と先を続けた。

「You are not your brain(あなたは脳ではない)、意識は身体全て、そして外の世界や環境を含んだ全体的な現象であり、ただ脳の中で完結した現象ではない、という哲学者の言葉だよ。」

「あの、日本語が既に理解できないんですが。」

 とうとう理紀が降参すると、

「いばら姫とは、よく言ったものだな。」

 沖崎はやっと破顔した。結局のところ、今回の聖名の一時的変化は、段階を経て起こったものでなく、突発的だったことから、それが何に起因するものなのか究明する、とのことだ。変化の瞬間、彼を取り巻く意識世界に何が起こったのか。

「つまり、変化の原因が分かれば、もう一度、聖名に揺す振りを掛けることができるってことですか。」

 自分を真っ直ぐ見つめて問う正一郎に、沖崎は深く頷き、眼鏡の奥の瞳を輝かせて応える。

「そうです。仮説ですが、何が聖名君の心を揺さぶったのか。それが人為的に起こせるのなら、こちらから仕掛けることが可能です。そして変化が起こった瞬間、覚醒にまで導ければ、我々の勝利です。」

「先生!」

 正一郎と沖崎は、昭和の熱血スポ魂ドラマの様に握手して見つめ合っている。理紀は、二人がそのまま号泣するのではと懸念したが、どちらからともなく笑い声をあげて肩を叩き合った。まるで勝利を過信した悪役のソレであった。


 沖崎が病室を去った後、

「正さん?我々の勝利だなんて、不謹慎なのではないですかね。」

「甘いな理紀。勝負は勝たないと意味が無い。」

「そもそも勝負してねえし。」

 正一郎は体育会系を自称する通り、なんでも勝ち負けをつけたがる性分だ。

「お前わかってねーなあ!これはガチの勝負だよ。」

 対して理紀は見てくれの通りの、しかもネガティヴ寄りの文科系だった。深く溜息をついてから、叔父との隔たりを感じつつ相手の喜びそうな落としどころを探す。

「未知の病魔との?」

「そのとおり!」

 理紀は重ねて息を吐きだした。精神論で病が治れば医学は加持祈祷の時代に逆戻りだ。

「これだから和二んとこは。スポーツの一つもやらせないからひ弱な男に育つ。」

「いや俺は普通にスポーツするよ?中学まではバスケ部でした。」

「レギュラー?」

「いや主にベンチ内を盛り上げることを一任され・・・」

「補欠じゃねえか!」

「違います。応援班の1軍でしたっ。」

「堂々と名乗るな!全くハングリー精神がねえ!中学って、いったい何年前だよ・・・で、今は?大学でなんかやってんの?」

「漫研。」

 ガクッと項垂れた正さんは黙ってしまった。

「なぜだ。何が正さんをこんなに落胆させる?あなたの甥っ子は立派な研究者なのですよ?(漫画の)」


 ***


 一駅分タクシーを使って移動して、市内の大きな総合病院に着いた。

 太陽は西に傾いて少し風が出てきていたけど、車外に一歩踏み出せばまた灼熱地獄だ。早和はまだぐったりしていて、父に支えてもらいながらゆっくり歩いている。和二郎は、何度かこの病院で、早和に輸液治療を受けさせている。救急外来の受付まで進んでいく足取りにも迷いが無い。

 父が受付を済ませる間、早和は待合の長椅子に腰掛け、鳩尾あたりに両手を当てて目を閉じていた。週末の午後は空いているらしく、すぐに診察室から声がかかった。簡単に問診と触診を受けてから、簡易ベッドに横になるよう言われ、看護師が慣れた手つきで早和の腕に点滴を繋いでいく。足元から毛布を掛けてもらい、カーテンが引かれると、早和はやっとホッとしたように目を閉じた。点滴の管に繋がれていない右手を、また胸の下にそっと置くと、すぐに小さな寝息を立て始めた。


 ***


 正一郎と理紀が帰り支度をしていると、聖名の病室に窓架がやってきた。何やらガサゴソと聖名の周りを探っている。退室時間をオーバーしていたので、窓架を急かし、入退室記録簿にサインをしてから、総合受付に戻ってくると、救急棟の方からよく見知った、ひょろ長い眼鏡の男が歩いてくるのが見えた。誰かを背負っているようだった。

「よう。」

 窓架とともに、元町・中華街の駅で別れたはずの和二郎だった。疲れた様に笑っている。

「起きねえんだよぉ~。」

 窓架が駆け寄り、背負われた者の顔を覗き込みながら、

「点滴終わったの?」

 と、問いかける。背負われているのは早和だった。

(点滴?)

 理紀は驚いて和二郎に尋ねた。

「なんで・・・こいつどうかしたの?」

「んーまあ、なんだ、毎度な感じだな。」

 と、困ったように笑顔を作り、和二郎は詳細を話さなかった。

「電車の中で吐いたんだって。」

 窓架がそっと、理紀の腕をつつきながら教えてくれた。

「えっ。」

 声がでてしまったので、窓架は苦い顔をした。和二郎も仕方がなくことの顛末を打ち明ける。

「晴と襟君が降りた後、急に具合が悪くなったみたいだよ。有君に助けてもらった。」

「そうか。あいつも来てんの?」

 正一郎が和二郎に尋ねる。

「いや、彼はちゃんと仕事に行ったよ。駅から連絡くれて、俺が行くまでこいつに付いててくれた。遅刻させちゃったかなあ、悪いことしたな。」

「まあ、あいつは上手くやんだろ。」

 父たちの会話を余所に、理紀は険しい顔で和二郎に詰め寄った。

「急に具合が悪くなったって、何で?」

 和二郎はちょっと考えてから、いつもの調子でのんびりと答える。

「熱中症らしいよ。」

 その言葉に、理紀は更に眉間の皺を深くして、目を泳がせる。何か思い当たることがあるように、

「こいつに山下公園で水飲ました・・・。」

 そう呟くと腹の底から自責の念がこみ上げる。「俺のせいだ」言葉になりそうで思わず手で口を覆った。

「えっ、そうなのか?なんか、逆に水分だけ補給すると、良くないんだってよ。塩分やミネラルなんかが不足するって。しかもそれ全部吐いちゃったから軽く脱水症状を起こしてるんだと。まあ、意識あるし、症状も軽いから入院はしないでいいってさ。」

「・・・なんで起きねえんだよ?」

 息子の心が傷ついたことを察してか、和二郎はわざとヘラヘラしながら話す。

「う~ん・・・、この頃暑かっただろ?よく眠れてなかったみたいでさ。それに今日、久しぶりの外出だったから、墓参りだし。まあ、いろいろ重なっちゃったんだろ。」

 和二郎の言葉に、正一郎も窓架もしばし黙る。

 早和が、聖名の事故から学校にも行けなくなって、家に引きこもってから一年経つ。彼にとって、今日は何ヶ月ぶりの太陽だったのだろうか。

「代わる。」

 理紀は和二郎の背から弟を受け負った。

 幼い頃から、弟は丈夫ではなかった。だから具合を悪くする度、こうして自分がおぶって母に知らせに行った。その頃の気持ちを思い出す。

 学校に戻れたらもう高校二年生のはずなのに、弟の体はまだ中学生みたいに、ひどく軽くて頼りなかった。

 そして、兄であるはずの自分の存在も、今の弟には同じくらい頼りないらしい。そのことを考えると無性に腹が立つ。弟にも、自分にも。

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