第4話
綿布というものは意外と重い。
襟人と晴三郎は家族分の浴衣を抱えて、夕暮れの道を駅に向かってよろよろと歩いていた。週末の駅周辺は帰宅する人たちでごった返している。
郊外の高台にある母たちの霊園は緑が多く、時折気持ちの良い風も吹いたと言うのに、四方をビルで囲まれた都会の暑さたるや不快以外の何でもない。先程から眼鏡のホルダーに汗が流れ込んで気持ちが悪い。早く顔を洗いたい。その前に背中に流れる汗を拭いたい。いや、やはりここは全身まとめてシャワーを浴びたい。
兎に角、不快だった。
日が傾いて、並んで延びていた影がこ少しずつ後退してきたので、襟人は歩を遅らせた。
「え、りと、君。」
「はい?」
ふいに後ろから呼び掛けられて、彼はのろのろと振り向いた。
「ちょっと、だけ。休んで、行こう?」
晴三郎は息も絶え絶えにそう言うと、フラフラと吸い寄せられるように路面店に入って行ってしまった。目が虚ろでやばい。
「ちょっと、晴三郎さん!待って下さいよ・・・。」
両手に下げた紙袋の取っ手が手のひらに食い込んで限界だ。襟人は荷物を引き摺るようにして晴三郎の後を追って喫茶店に飛び込んだ。
一瞬で心地いい世界が広がる。あまりの快適さに気が遠くなり、荷物を降ろして暫し立ち尽くす。ちょうど壁際のソファ席が空いた様で、晴三郎が手を上げている。彼は吸い寄せられるように店の奥へ進んでいった。
叔父である晴三郎は、父・正一郎とは正反対のタイプでおっとりしている。体格もまたしかり、線の細い優男である。先ほどからずっとハンドタオルでうなじを抑えて止まらない汗を拭っているが、その襟元からは鎖骨が浮いて見える程、この一年間で彼は瘦せてしまった。向かいに腰を下ろした襟人は眼鏡を外して、額から流れ溜まった汗をハンカチで拭った。やがて向かい合って同時に長い息を吐くと思わず笑みが漏れた。
彼らには実に17年も歳に隔たりがあるのだが、晴三郎はいつまでも学生のような気安さがあり、対して襟人は冷静で早熟であった。同居を始めて五年を過ぎるが、いつのころからか叔父と甥というより、苦労を分かち合う同志といった関係になりつつある。男所帯の氷川家は、ワイシャツが皺だらけだったり、洗濯物が溜まっていたり、シンクに食器が山積しても、一向に気にしない。放っておけばたちまちコンビニエンスストアの弁当の空容器やインスタントラーメンのカップが散乱し、何日も同じ下着を穿いている(かもしれない)。氷川家の健全かつ清潔な生活の中核を担う彼らは、自然と行動を共にすることが多くなった。
「なんかさ。」
アイスコーヒーを飲んで少し落着いた頃、晴三郎が言った。
「出来上がるのが楽しみで、家で待ってられなかった。」
と、猛暑の中持って歩いた大きな紙袋にやった目を細める。
「そうですか。でもまあ出来れば後日、車で来れば楽でしたね。」
やっと火照りがひいてきた頬を拳に乗せて、襟人が口の端を上げて見せると、晴三郎は慌てて「ごめんごめん。」と苦笑いを浮かべた。
「僕や正さんやわっくんなんかは、この年でそうそう変わらないと思うんだけど、君たちはまだ伸び盛りだからね、サイズが合うか心配だよ。」
「いや、僕もう22ですから。そんなに伸びませんよ。」
晴三郎は、目を見開いて甥っ子を見つめる。
「22!?」
とたんに晴三郎はうな垂れて、大きくため息を着く。
「こっちが歳とるハズだよねぇ。」
思いのほか相手が落ち込んだ様子に、襟人は所在なく視線を泳がせ、会話を探った。
「窓架なんか、すごく伸びてるから・・・大丈夫かな。」
「そうなんだよ、あのマドがねぇ。今に有君も越えるんじゃない?」
「そんなにいくかなあ、
「そんなにあるの!?」
「知能が低いと無駄に大きくなるんですよ。」
「じゃあ、マドもまだまだ伸びるねぇ。」
冗談交じりの家族の話題に、二人は自然に笑い合った。
それがあまりに自然で、いつもどおりで、その瞬間、襟人は油断した。
「それに比べて、早和や聖名は小さいままで・・・」
襟人は言いかけて、さっと血が下がる気がした。しまった、口が滑った、余計なことを。言葉に詰まったのを感づかれたか?一瞬で事態収拾の考えが頭の中を駆け巡ったが、
「この前ミナの身長を測ったんだ。」
晴三郎は落ち着いていた。息子の身長が3センチも伸びていたことを、少し興奮気味に話す、その今まで通りの様子に、襟人の胸はホッとすると同時にチクリと痛んだ。そうですか、と小さく返すと、晴三郎は破顔して、
「寝る子は育つってこと、だよね。」
と、また笑った。
この笑顔は見たくない。
この人がこんなにも痩せてしまったのは、きっと夏の暑さのせいなんかじゃない。この、笑顔のせいなのだ。
そんな晴三郎が皆の家族の浴衣を新調しようと言い出したのは、一昨年の暮、彼の仕事の取引先から、大量の反物が安値で手に入ることになったからだった。先行社内販売の折、家族等もそれぞれ自分で気に入った色柄を選び、採寸してもらえた。育ち盛りの早和や聖名、窓架はすぐに成長するだろうから大きめに作ってもらうことにした。
地元の夏祭りは、全国でも有数な大きな祭りで、毎年大勢の老若男女が押し寄せる。中でも最後を締めくくる花火は圧巻で、テレビ中継もされるビッグイベントだ。母たちが存命の頃は、家族で見物に出掛けたりもしたが、彼女等が亡くなって以来、夏はお祭り気分になる季節では無くなってしまった。その夏祭りへまた皆で出掛けようと言い出したのは聖名だった。皆で浴衣を着て花火を見る。そういう約束だったのだ。
浴衣は、昨年の夏には仕上がるはずだった。しかしその夏はある事件のために、花火どころではなく、結局浴衣は、反物のまま店の倉庫に眠ることになった。
それでも、晴三郎は倉庫から反物を引き取り、独りでコツコツ浴衣に仕立てていた。そしてこの夏、なんとか9人分の浴衣を仮縫いまで終わらせ、仕上げは知人の職人に頼んで、今日ついに家族の浴衣は完成に至った。二年越しで手にする浴衣は、二年前の自分のサイズで縫製されている。毎年母たちの墓前で撮る集合写真のように、二年前の自分たちを切り取ったようだった。
お疲れ様、とはまだまだ言えない。
伝えたい気持ちはあるのに、手段が分からない。
もどかしく、焼けつくような胸の痛みを、襟人は持て余していた。
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