第3話
ガラス一枚を隔てて、その内は、身を焼く殺人太陽から隔離された世界。ここは天国と例えるにふさわしいと理紀は思った。空調設備の無かった時代の総合病院とはどんな場所であっただろうか。想像するにそれは地獄である。病院の前提として、そこは体調の思わしくない人々が集う場所であるから、酷暑にやられて、いったいどれだけの人間が死期を早めたであろう。
一階の売店で買った花を持って、四階へ昇ってゆくエレベーターの中、理紀の携帯の着信ランプが明滅していた。
いつから?
理紀は、すぐに恋人からの連絡ではないかと気が付いた。院内に入って電源を落とすのを忘れていたようだ。すぐに返信することも憚られるので、確かめたい気持ちとともにポケットに押し込んだ。
着階の音がして扉が開く。入院患者の病室階は三階が一般、四階が個室となっている。左右に分かれたエレベーターホールにはさりげなく花が活けてあり、大きな窓からの採光が眩しい。個室を使用する入院患者は、入院が長引いたり、重病だったり、リッチだったり、それなりの理由があるわけで、入院生活で気が滅入る患者や、心労かさむ見舞い客の心を少しでも癒そうという配慮が感じられる。現に花や太陽の光、クラシック音楽等には、リラクゼーションの効果が認められている。
左右に伸びる廊下を左折して真っ直ぐ行った三つめの部屋。去年の九月からこの部屋のネームプレートは変わらない。ここに来るのは一体何度目か。この病院を取り巻く季節も一巡した。
「よぉ、どうだ調子は?」
正一郎はいつものとおり、大きくよく通る声で呼びかけた。折りたたみ式の簡易椅子をベッドの傍に広げて、どっかと腰を下ろす。理紀はその様子を見ながら、花瓶の花を取り替え、正一郎の脇に立った。見下ろした顔は今日もよく眠っている。やや青ざめた陶器のような頬に長く濃い茶色のまつげが影を落とし、天使のように綺麗なままだ。
「どんな夢、見てるんだろうな。」
ポツリと言った正一郎の背中がやけに寂しそうに見える。
その瞬間だった。
バイタルサインを表示しているモニターから突然アラームが鳴り始めた。
理紀も正一郎も背中から冷水を掛けられた様に驚いて、モニターを凝視する。だが実際、あたふたと狼狽えるだけで何もできない。正一郎はモニターへ近づき状態を確認している。握り締めた拳が震えていた。
「心拍数が上がってる。体温も若干上昇・・・」
正一郎の呟きに、理紀が振り返って見たベッドの上の顔は、赤みが差して生気が感じられる。閉じた瞼の下で確かに眼球が動いている。
「聖名!おい聖名!」
正一郎が呼びかける。勢いにつられて理紀は腕を取って揺すってみる。しばらく続けて、二人は今にもその瞼が開くんじゃないかと期待して、聖名の顔を食い入るように見つめていた。
***
和二郎は今日、不思議な夢を見たそうだ。
妙に臨場感のある夢で、自分が起きているのか、うたた寝しているのかわからない、現実からの続きのようなリアルな印象だった。夢の中でも、和二郎はバスに乗っていて、聖名が脇に立って二人で会話をする。彼をからかうと、バスが大きく揺れ、そこで目が覚めたが、聖名はいなくなっていた。夢かと思ったけれど、手に持ったデジカメには、かつて撮った聖名が写っていたという。証拠の映像を見せようと、和二郎がデジカメを手にしたその瞬間の出来事だった。突然、早和のグラスに音を立ててひびが入ったのだ。
笑顔は一瞬で凍り付き、皆黙ってしまった。特に言い出しっぺの和二郎は、一気に酔いが冷めた様子で、誰に向かってか「ごめん。」と小さく謝っていた。その後、早和は青い顔をして席を立ってしまい、晴三郎は取り繕うように、最近自分が見た夢について話を始めた。彼にしたら、冷えた場の空気を暖めようとしたのだろうけれど、その話を聞いた誰もが、更に肝が冷える思いをすることになるのだ。
***
「あ、ハイ。えと、兄ちゃんが今入院してるんですけど。」
「アラ、どうもお大事に。」
「はぁ、で、イシキフメイで起きないんですよね。」
MDOは器用にマスクを指でつまみ上げ、大盛りのクリームを口へ運ぼうとしていた手を止めた。
「それは・・・心配ね。」
「そうですね。それで、」
「ちょっと待って。」
MDOはそう言って俺を制すと、マスクを取って、いきなりすごい勢いで抹茶クリームフラペチーノを食べ始めた。それはみるみる消えてゆき、ものの数十秒程で空のカップがころがった。
「ごちそうさまでした。」
「あ、ハイ。」
ペーパーで口を拭うと、紫色の口紅の下からちゃんとした人間の唇が現れた。MDOは、見られてはいけないもののように、またマスクを装着して話し始める。
「で、そのお兄さんが、夢に出てくるのね。」
「ハイ。ロザリオを・・・探してるんです。」
「ロザリオって、あのカトリックの、十字架付いたやつ。」
そう言ってMDOは指で十字を切って確認した。
「ハイ。兄ちゃんのロザリオはお母さんの形見で・・・」
「え、君ご両親は?」
「お父さんは生きてます。」
「ちょっと待って。」
「なんだよもう。」
MDOはそう言って、黒いクレジットカードを取り出して俺に差し出した。
「これで、何でもオーダーしていらっしゃい。」
「えーいいです。俺、お金持ってます。」
「いいのよ。私がおごる。」
「そうゆうなら・・・」
瞬間、脳裏に父が現れて「ダメッ」っと言ったが、彼は気にせずカウンターへ向かった。
「いらっしゃいませこんにちわ~。」
「コンニチハ!」
窓架が元気よく挨拶を返すと、女性店員は、笑った目の奥でチラチラ緑色の髪を見ながら、この夏イチ推しのストロベリーチーズケーキフラペチーノを勧めてきた。
差し出したMDOのカードの上に現れた小さい父が必死に何か言っていたが、窓架はそれを軽く払い落として、
「じゃあソレをコレで!」
店員は驚いたように目を丸くしてじっとカードを見つめていたが、
「かしこまりました、お預かりいたします。」
やがて「少々お待ちください。」と、奥の店長らしき男性と何やら話してからすぐレジに戻ってきた。
「MDOの方ですね。いつもありがとうございます。」
窓架がストロベリーチーズケーキフラペチーノ(サイズはトール)を持って席に戻りクレジットカードを返すと、MDOは満足そうに話し始めた。
「じゃ話を戻すわね。君の意識不明のお兄さんが、君と君のお父さんの夢の中にお母さんの形見のロザリオを探しに現れるんだ?」
「探しに・・・ってゆうか、俺たちに探してって頼むんです。それが妙にリアルってゆうか・・・。」
***
聖名がロザリオを探している。
探してほしいと頼まれ、一緒に家の隅々まで探し回るが一向に見つからない夢。
「だから、ね、聖名の夢をみるのは、わっくんだけじゃないよ。」
晴三郎は笑顔で話を締めくくったが、その夢は、その場にいた家族全員が見た夢だったのだ。皆、驚きと当惑で、すっかりデザートを楽しむ雰囲気でなくなってしまった。しかし、理紀だけは、杏仁豆腐何杯も頬張りながら、
「なあ、お前毎日寝てばっかいるんだから、覚えてる夢ぐらいあるだろ。」
ふらりと戻ってきた早和の鼻先を蓮華で指しながら聞いた。
「・・・何の話?」
早和は明らかにいぶかしんで、上目遣いに皆の顔を窺がっている。
「だからな、えっと・・・最近印象に残った夢ってあるか?」
早和がなかなか口を開かないので、向かいの席の有馬も乗り出して口を挟む。
「例えば、聖名のロザリオを探すって夢。」
「ゆうちゃん、例えになってない。」
窓架が突っ込むのと同時に、それまできつく口を硬く結んでいた早和が、
「それって、どういう意味?」
顔色を変えて、わずかに唇を震わせて言った。周りを警戒している。
「どうゆう意味も何も、そーゆー夢。」
「なんで、俺に、聞くの・・・?」
「別にお前にだけじゃないよ。みんなに聞いてんの。」
「だから・・・何でそんなっ・・・」
頑なに警戒を解こうとしない弟にイライラしてか、理紀が語気を強めた。
「みんな見てるんだよ、同じ夢を!」
険悪になりかけた空気を察知して、すかさず窓架が茶々を入れる。
「あはは~、タイミングよくグラスが割れたからビビったけどさぁ~。」
「ごめんね、僕がこんな話はじめたせいで。なんか思わぬ方向にいっちゃったなぁ。偶然、偶然だよね。」
と晴三郎も、窓架と一緒になって笑って見せたが、早和の返答は「知らない。覚えてない。」とあっさりしたものだった。
襟人は難しい顔をしてその様子を眺め、ずっと腕組みをして笑わなかった。なんだか腑に落ちない顔の理紀は、それきり黙って五杯目の杏仁豆腐に手を伸ばし、有馬と窓架は残りの杯を争って平らげた。食後の一服を許された正一郎の煙草の煙がゆっくりと昇っていくのを、和二郎はただ見上げていた
***
「ちょっと待って。」
「待ってが多いよ。」
「失礼。え、今何人登場した?」
「俺、お父さん、わじさん、りっくん、さわっち、ゆうちゃん、えりりん、正さん。」
MDOは絶句していた。指を折り、少し考えてから、
「じゃあ、とにかくその九人が、同じ夢を見てるってわけ。なるほど~。」
窓架は,その時、MDOが黒いマスクの下で口角を上げるのを目撃した。背中に冷たいものを感じながら、「あ、でも。」と、彼は思い出した様に付け加えた。
「ひとり、見てないってゆうか、覚えてないって人がいました。」
「誰?こ、この表でゆうと?」
MDOが、先ほど指折り数えた名前をペーパーナフキンにメモしたものを差し出してきた。書きなぐった文字を判読するのに時間がかかったが、窓架が指さすと、
「サワ・・・。お姉さん?」
「早和ちゃんはオトコだよ。」
「じゃこっち、えりりんは?えりこちゃん?」
「それは・・・襟人くん。」
こうして氷川家の家族構成を確認していったMDOは動きを止めてしまった。
「結局全部男じゃねえか。」
「ハイ。お母さんたちは亡くなったので、うちは男しかいません。」
人間、例え表情が見えなくても、醸し出される同情の念は察知できるものである。
ただ、窓架は
「俺、なんか・・・さわっちは、違うと思って。」
「何が?」
窓架は返答に困った。グラスが割れたことへの過剰な反応、夢について問われた時の頑な態度。現に今彼は体調を壊し倒れてしまっている。そこまで追い詰めたものは何だったのか。フラペチーノのプラカップが汗をかいて、濡れたテーブルをペーパーナフキンで拭いながら、窓架は「なんとなく。」と答えた。
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