第23話 その者、天より堕とされて8
生と死の狭間で無無明は夢を見る。
意識はかすれ、命の火は風前のもの。
ラーラが言った通り人は燃料を取り込んで同じく取り込んだ酸素で酸化……燃焼させて生命力に変える。
そういう意味では「命の火」という例えは決して的外れではない。
朦朧とするクオリアの中で無無明は懐かしい夢を見た。
初めは「神童」と呼ばれた。
半年で言葉を理解し立ち上がり運動する赤子。
自我の形成と運動能力の確立が人より数段早かった。
アイデンティティにて世界を俯瞰し、知識の理解を深め、運動能力の許す限り元気にはしゃぐ。
そんな子どもだった。
次に「鬼子」と呼ばれた。
きっかけは子どもらしい癇癪だった。
ただし運動能力の許す限りの暴虐を加えられたのは同じ子供ではなく能力的に数段上の大人だった。
子どもをなめきった器の小さい大人に対して反撃した彼は子どもながらに大人を撲殺寸前まで追いやった。
大人が死ななかったのは、その時点において彼が道徳を理解していたからに他ならない。
最後に「ミュータント」と呼ばれた。
彼の体を研究してわかったことは彼が突然変異だったということだ。
見かけ上は一般人と変わりないが運動能力を決める筋肉やそれを支える骨の強度と軟性が一般的な人種に比べて規格外に度を超えていた。
垂直跳びで高度五メートルを超える。
百メートル走は五秒を切る。
何より鋭敏な脳認識は理解の速さが桁違いで、彼が銃を持てばポイントから発射まで半秒を切り、なおかつ百発百中であった。
ことここにおいて家族が彼を擁護教育することは不可能だった。
さもあろう。
異常な知能と運動能力を持つ彼は、いつ癇癪を起こして対象を殴り殺すかわかったものではないからだ。
そんな殺人能力を持つ人間を手元に置いておけるほど彼の家族は器の大きい者ではなかった。
彼も彼で聡くそれを察しえたから言われるがままに身を引いた。
彼は聡明だった。
そして誰より純粋だった。
犯罪に身を染めないと生きていけないことを認識していた。
量子指向性アクチュエータを与えられず、しかして生きるための食事をするには暴力に頼るしかないことを知っていた。
故に掃き溜めに身を移した。
アオンの一層から五層には警察力が機能しない。
故に彼の生きる手段に対して真っ当な環境と言えただろう。
しかして最初に喧嘩を売った相手が悪かった。
そいつは黒髪黒眼で漆黒のレザーコートを着ている全身黒尽めの女性だった。
女性が食べ歩いているホットドッグを奪おうと彼は襲い掛かる。
が、叩き伏せられた。
食事の片手間に。
幾ら襲っても女性は痛痒を覚えず代価とばかりに彼を容赦なく打ちのめすのだった。
彼は力の差を思い知った。
「自身が最強」
という概念を覆された瞬間である。
女性は問うた。
「何がしたいんだお前は?」
答えは言葉ではなく空腹による体の悲鳴だった。
グギュルルゥとお腹が鳴る。
「なんだ。腹減ってんのか? 別に襲い掛からんでも言えば分けてやったものを」
それは、
「…………」
意味の分からない言葉だった。
少なくとも鬼子やミュータントと呼ばれ蔑まれた彼にはまったく久しい善意だったのだ。
「他人の持ってるものが欲しいならまずは『ください』って言えばいいだろうに」
そう言って女性は彼の口に食べかけのホットドッグを突っ込んだ。
彼は突っ込まれたホットドッグを咀嚼嚥下して一時的に空腹を満たす。
「君、名前は?」
「明」
「明と書いてアキラ……ね」
納得したように女性は頷いた。
「私は
「?」
彼には意図がわからない。
いきなり襲い掛かったはずの相手に対して優しい提案をする人間を彼は知らなかったからだ。
「私は探偵業をやっていてね……ちょうど手足が欲しいと思っていたところなんだ。君ほどの手練れなら十分だ。ああ、安心しろ。私の助手になるなら食事を提供してやろう」
何を言っているのだろう?
訝しむを得ない。
敵意を向けた相手に対して仕事と食事を提供する。
そんな人間が何処にいるというのか?
「…………」
彼は女性……無明を睨み付けた。
恐くないのか。
問い質せざるをえなかった。
が無明はタバコを加えて火を点けると、
「別に」
あっさりと言ってのけた。
ミュータントと呼ばれ爪弾きにされた異常者を「只の人間」と捉えているのだった。
無明はフーッと紫煙を吐く。
彼はそれがわからなかった。
自分は異常者で、それ故に社会に適応できない。
そんな自責の念すら持っていたのだから。
涙がこぼれた。
瞳の奥から……後から後から……。
その気持ちがどこからあふれ出てくるのかまでは、さすがにまだ知りえようのない年齢だったのだ。
「ホットドッグを食ったくらいで泣くなんて安い奴だな」
くつくつと無明は笑う。
そして彼は無明という女探偵の助手となった。
無明は子どもである彼の理解力をよく知り、知識を授けた。
言語学。
数学。
科学。
物理学。
生物学。
医学。
哲学。
神学。
歴史学。
彼も大したもので探偵の助手の片手間に教えられたその知識を一つ残らず教養として昇華した。
教育施設にも行っていない……行かされなかった……彼は無明を教師とし尊敬の念を覚えた。
そして無明の探偵の助手としても彼は能力を発揮した。
特に暴力の面において。
彼は脳の回転速度が速く、なおかつ運動能力は一般人の三倍から五倍近いものを持っている。
銃の引き金を引かれてから銃弾が発射されるまでを鋭敏に知覚し、銃弾を易々と避ける彼を掃き溜めの住人はミュータントと呼んだ。
ミュータント……即ち突然変異……そうには違いないのだ。
そうして無明の助手として汚れ仕事をこなし、掃き溜めでも畏れられる様になった。
自分が恐くないのかと彼は無明に問うたことがある。
対する無明の言は、
「別に。私の方が強いしね」
簡潔ここに極まった。
たしかに一分一厘反論の余地は無い。
無明の授業……神学を学ぶにあたって彼は契約者という存在を知った。
唯一神とは別に個々人がそれぞれに観測する超常存在。
そして無明もその契約者の一人だった。
それ故に無明は彼に対して圧倒的なイニシアチブを持ち、畏れることなぞ精神の徒労であるというわけだ。
無明はフーッと紫煙を吸って吐くと、
「別に殺したいならそれでもいいさ。ただ簡単には死んでやれないけどね」
くつくつ笑って言葉を紡ぐ。
それだけの余裕を無明は持っていたし、たとえミュータントである彼がどれほどの膂力を有していようと契約者としてのドラゴンスケイルがある限り無明の安全は保障されたも同然だったのである。
が、そんなぬるま湯にも終わりは訪れる。
彼と無明は敵対する犯罪組織に囲まれた。
無論のこと、その程度に恐れ入る二人ではない。
が、無明はともかく彼はミュータントではあるものの人体構造だけは人間に限りなく等しいのである。
強力なスタンロッドを浴びて即死したのはしょうがないことだったろう。
肉体はともかく脳にまで欠損を覚えたのは無明にとってもバッドニュースだった。
無明は能力を使って最短距離で裏医者まで彼を運び込んだ。
「肉体のショックは取り除けたが脳の欠損はどうしようもない」
それが医者の言葉だった。
対して無明は不敵な笑みを浮かべた。
「ならば私のニューロンマップを使ってくれ」
そう医者に提案したのだ。
「正気か?」
医者は問うた。
「無論」
無明は答えた。
そして無明は医者にニューロンマップを提供し、それを元に医者はナノマシンを用いて彼の脳を……その欠損した思考地図を再構築した。
結果として彼は自身の意識と無明の意識の混在した脳を持つことになった。
それはただ「めでたしめでたし」とはならなかった。
一部に無明のニューロンマップを提供された彼は自身において無明と同じ超常存在を観測することに等しかったからだ。
ドラゴンスケイル。
ドラゴンブレス。
サーモグラフィ。
それらを持つ超常存在と契った契約者としての異能を持つにいたったのである。
元々ミュータントとしての異能に加えて絶対防御兼絶対攻撃兼絶対感知を持つ異能を手に入れたのだ。
当人にとっても周りにとっても最悪の状況と言えるだろう。
が、無明は後悔していなかった。
むしろ「自身の契約した超常存在を彼に引き継げた」ことに安堵すら覚えていた。
何故だ?
彼がそう問うたのも決して不思議ではない。
しかして無明の答えは簡潔だった。
「テロメア欠損症候群」
現在の医学でも治療不可能な病気である。
テロメアが常人より脆く、他者より寿命が短い。
それが病魔として無明を苛んでいたのだった。
人生の最後……病院のベッドに寝ていた無明は彼に言った。
「強くあれ。憎しみの連鎖など嘘っぱちだ。ヒエラルキーは確かに有って、強者が弱者を虐げる。だから強くあれ。誰にも犯されない強さを持て。そのために私は君に魔王の観測能力を与えたのだから」
そして無明は息を引き取った。
彼は泣いた。
感情の許す限りの咆哮でもって泣いた。
そして泣き止んだ後、彼は自身のすべきことを見つけた。
彼は自身を明と呼ばず、明から無明に続いて無無明と名乗ることになる。
こうして明の意識と無明の意識を持つ無無明と呼ばれる人間が誕生した。
無無明は無明のいつも着ていた漆黒のレザーコートを纏って無無明探偵事務所を開いた。
とは言ってもそれは無明の遺産だったのだが。
そして突然変異であり魔王の契約者でもある最強の存在として無無明は生まれ変わったのだった。
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