第21話 その者、天より堕とされて6

「じゃああっさりと去ったんすか」

 シャワーを浴びながらカオスが問いかける。

 時間は夜、その夕食後。

 場所は無無明探偵事務所の生活空間、その浴場。

「交渉そのものを打ち切ったとは考えにくいがな」

 ゆったりと湯に肩まで浸かりながら無無明は口をへの字に曲げる。

 金銭取引に示威行為……それでも通じないと悟るや去っていったドミニではあれど無無明としては素直に手を引いたなどと楽観出来ようはずもなかった。

「ドミニ……ねぇ?」

 ザーザーとシャワーの音が響く。

「聖人を焼き殺す異能ってのも大概だと思うんすけど」

「火炎公の異名に恥じない能力だったな」

「無無明でも無理?」

「というわけでもないがな」

 無無明の契約者としての異能の一つ……ドラゴンスケイルはあらゆる害性能力を防ぐ。

 鱗である以上表面的であるため衝撃までは防げないがそれでも銃撃程度では「軽く小突かれた」程度の感覚しか覚えない。

 まして炎は衝撃なぞ持ってはいない。

 毒同様に熱も完全にシャットするのは知識ではなく感覚として悟っていた。

「にゃはは。無無明の契約した超常存在はある意味究極っすから」

「お前がそれを言うか……」

 互いに持ち上げる。

「でも実際っすけど」

「なんだ?」

「無無明の契約者としての異能を人類全体が取り込んだら聖人の脅威に怯える必要もないじゃないっすか?」

「代わりに人類同士が能力を使って殺し合うだろうな」

 ドラゴンスケイルとドラゴンブレス。絶対防御と絶対攻撃。

「竜の鱗を以て竜の息と相見れば果たしてどちらが勝るや?」

 それは矛盾であり今現在において証明しようがない。

 無無明としては改めて証明する気もないが。

「むしろお前の異能の方がいいんじゃないか?」

「でもっすねぇ……」

 胡乱げな瞳のカオス。

「それはそれで『やり直そう』と思う増上慢が拡散することに他ならないっすよ?」

「知ってる」

 無無明の答えは端的だ。

 無無明にしろカオスにしろ……そと契約している超常存在は常軌を逸している。

 あるいは常識を逸している。

 そして無無明とカオスは自身らがどれほど規格外であり人類に対する脅威であるか明確に自覚しているのだった。

 故に防犯カメラによる監視社会でない五層に居座っているのだから。

「なんだかね」

 他に言い様も無いのだろう。

 無無明はぼやいて風呂を楽しむ。

「実際無無明はこの状況をどう思ってるんすか?」

「定義を明確にしてくれ」

「人類がアオンに籠城してる件についてっすよ」

「別に不自由を感じてないからいいんじゃないか?」

「っすか」

「第一種永久機関と量子指向性アクチュエータで人は餓死を克服した。ナノマシンと医療技術によって人は病死を克服した。人類はここに一つの完結を見た。ならひっそりと暮らすのも悪くはないさ」

「にゃはは。無無明らしいっす」

 キュッとシャワーのノズルを閉める。

 それから金髪をかきあげて無無明に重なるように湯船に身を沈めた。

「シャワー千両お風呂万両っすね」

「否定はしない」

 ピチョンと天井から水滴が落ちて水面にはねる。

「なんというべきかっすけど……」

「…………」

「もしかして僕ら最強じゃないっすか?」

「今更だな」

 本当に今更だった。

「にゃはは」

 無無明にしろカオスにしろラーラにしろ一人でアオンに喧嘩を売って勝ちきれる戦力である。

 意味が無いからおとなしくしているだけで。

「何しちゃったって恋しちゃったって私は私のままだから。そんなに怯えなくてもいーよ私は私のままだから」

「何の歌だ?」

「今流行りのアイドル……エメスちゃんの新曲っすよ?」

「お前は俗物的だな」

「無無明が硬派すぎるだけっす。ハードボイルド探偵なんて化石みたいなもんすよ?」

「聞くならクラシックかロックンロールだろう」

「しかも愛煙家」

「タバコを吸わない探偵なんて探偵じゃねえよ」

「黒いレザーコートは……まぁ大目に見るっすけど」

「形見だからな」

 とは無無明は言わなかった。

 それについてはカオスにすら秘密にしているポリシーであり感傷であるからだ。

 代わりに、

「黒色は何にも染まらない色だからな」

 そんな論ずるに値しない戯言をほざくのだった。

 それをカオスが信じたかどうかはカオスのみが知るが、カオスはそれについて言及はしなかった。

 湯船に無無明と重なり合って入浴していて、その体を反転させる。

 無無明とカオスは間近で顔を突き付けあう。

「む・む・みょ・う?」

 猫なで声のカオスに、

「なんだ?」

 わかっていながら空っとぼける。

「僕といい事しよっす」

「まぁ構わんが」

 突っ込み役は生憎不在だ。

 カオスは無無明とフレンチなキスをした。

 濃厚に無無明とカオスの舌が互いの口内を蹂躙し、唾液が交換される。

「ん……ん……っ!」

 カオスはうっとりとした光を碧眼に映している。

 情欲に溺れるのに時間はいらなかった。

 唯一神の観測された世界で神の禁忌に触れる同性愛。

 だがそれを罪とは二人とも思っていなかった。

「無無明……!」

「カオス……!」

 互いに呼び合い愛を確かめる。

 そこにあるのは根幹では肉欲かもしれないが、精神的な愛情が存在しないかと言えば嘘になる。

 長年の付き合いだ。

 無無明とてカオスの気持ちは十二分に理解している。

「ん……無無明……大好きっす……!」

「ああ、俺もだ」

 これ以上は十八禁であるため描写は出来ません。


    *


「ん~! 美味しいです!」

「おう。どんどん食え」

「にゃはは。そこまで喜んでもらえれば恐縮っす」

 無無明探偵事務所の一階……事務所で無無明とカオスとラーラは昼食をとっていた。

 カオスお手製のタコスである。

 チリソースと具が絶妙に絡まって食欲を促進させる。

 無無明とカオスは一つ二つ口にして食事を終えたが、ラーラは二十を超えるタコスを食べきった。

 エンゲル係数が右肩上がりではあるが此度に関してはラーラに道理がある。

 軍の特務士官アルベルトの依頼たる「アオンに現れた聖人の排除」を遂行したのは無無明でもカオスでもなくラーラであるからだ。

 正確にはラーラとドミニの二人がかりなのだが、ドミニは軍と関係がないためアルベルトの振り込んだ報酬はラーラが存分に使ってしまっても構わないと無無明は思っている。

 それはカオスもそうであろう。

 ラーラはそこまで思慮していないが、食費で台所事情を追い詰めることに罪悪感を覚えるタマでもない。

 相も変わらず無無明探偵事務所に依頼は来ず、客も来ず、閑古鳥が鳴いている。

 無無明探偵事務所としては軍関係で多額の報酬が入っているのでラーラの食費を含めても一月はもつ計算になるのだが、それより先はあまり楽しい青写真が描けない。

 最低限の食料源は確保してあるが、それでは舌が寂しいのも事実。

「どうするかね」

 ぼやいてタバコに火を点ける。

 くゆる煙を目で追いかけながら必然天井を仰ぎ見ることになった。

 カオスはいつものメイド服でコーヒーを飲みながらパソコンに向かう。

 ラーラは客用のソファに寝っ転がりながら情報端末で新聞を読んでいる。

 いつもの光景だ。

 が、いつも通りでは終わらなかった。

 珍しくドミニに続いて事務所に訪問する人間が現れたのだから。

 昼食後のタバコを吸っている無無明。

 パソコンを弄っているカオス。

 客用ソファに寝っ転がっているラーラ。

 三人が三人とも驚愕に目を見開いた。

 一瞬早く無無明が我を取り戻す。

 無無明は直接的に知っている顔だった。

 カオスは間接的に知っている。

 ラーラは「?」と首を傾げ零細事務所に来訪した客を訝しげに見ている。

 客は女性だった。

 朱い髪に紅い瞳。

 着ているのは漆黒のカソック。

 名を、

「……マリア」

 という。

 先日アルベルトにエンジェルダストについて調べるように言われた際、途中立ち寄った旧教の教会にある姉の墓の前でラーラの探索を依頼したシスターである。

 ラーラに深刻な問題がある故、無無明は依頼を放置していたが、

「まさかマリアが掃き溜めまで下りてくるとは」

 とタバコを吸いながら感心していた。

「よく無事だったな」

 皮肉ではなく単純な疑問だったが、

「さして治安の悪い方に行かなければ掃き溜めでも行動は出来ますよ」

 マリアはあっけらかんと言った。

「…………」

 然りではある。

 アオン五層以下の掃き溜めでは殺人や強姦や麻薬などが平然と横行しているととらわれがちだが一応不文律の紳士協定は存在する。

 マリアは眼の潰れそうな美女ではあるものの治安の良い場所にいるだけなら安全は保てるだろう。

 しかしてそれより話すことがあった。

「で、何の用だ?」

 無無明が警戒するのもしょうがないことだったろう。

 マリアは邪気なく微笑むと、

「とりあえずお茶でもしませんか?」

 健全な提案をしてくる。

「カオス。茶の用意」

 所長権限を用いる無無明に、

「いいえ」

 と否定するマリア。

「話し合いは喫茶店でしませんか? 無論お代は私が持ちます故」

「…………」

 無無明は沈思黙考しフーッと煙を吐いた。

「…………」

 マリアは邪気のないニコニコ笑顔だ。

「…………」

 カオスは我関せず。

「?」

 ラーラは状況についていけてなかった。

 無無明はタバコを吸って吐いて、

「ここでは言えないのか?」

 警戒して問う。

「そういうわけではありませんが紫煙で燻された環境というのも……」

 申し訳なさそうにマリア。

「五層で評判の喫茶店があるんです。お代は私が持ちますからラーラもケーキなどいくら頼んでも結構ですよ?」

「ほんと?」

「ええ」

 コックリと頷かれる。

「行こうよ無無明!」

「お前がいいならいいんだがな」

 正直マリアが何を企んでいようと力押しでのけてしまう自負があったことも無無明としては否定できない。

 それを教義では七つの大罪の一つ……傲慢と呼ぶのだが。

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