第7話 聖人ラーラ3

 さて、前述したとおりノアの方舟……通称アオンは一層から二十五層までの海中都市と、直列でそれに繋がる二十六層から五十層までの海上都市として総合的に運営されている。

 収容人数は約五億人。

 一層につき約千万人が暮らしているため一つの大都市として非常に人間臭い社会運営がなされている。

 それは掃き溜めと呼ばれ警察力の及ばない一層から五層にかけても例外ではない。

 突発的な犯罪行為を防ぐ術はないが、それはそれとして社会としては大都市のように機能している。

 無論それだけでは理由には乏しいが少なくとも層ごとに完結した社会があるのもまた事実で、必然層の上下を行ったり来たりする人間は少ない。

 というより「その必要が無い」の方が表現としては正確だろう。

 アオンにおいて層の上下をするのは昔で云う海外旅行に相当する。

「行けば楽しい」

「しかして頻繁に行くものでもない」

 それがアオンの住人の趨勢だった。

 ちなみに無無明探偵事務所の活動範囲も例外を除けば五層だけに限定される。

 千万人も住んでいるのだ。

 人の数だけ事情があり面倒事がある。

 しかも五層は掃き溜めの最上階。

 警察力や社会ルールを逸脱した六層以上の人間の逃げ込む場としては最適だった。

 上層の本命探偵事務所が五層における面倒事をピンハネして無無明探偵事務所に依頼するのもそのせいである。

 故にスズメの涙ほどの給金しか得ることが出来ない零細事務所ではあったが。

 閑話休題。

 ともあれ此度の依頼は例外に属する。

 アオンエレベータというアオンの層を上下するエレベータを使ったのも必然だった。

 六層以上は上下するのに厳しい審査を受けねばならないが、一層から五層の無法地帯……掃き溜めは自由に行き来できる。

 どちらにしろ警察は介入できない領域であり決定機関も良しとするものであるから比較的楽に事は運んだ。

 無無明はトレードマークとなっている黒いレザーコートに黒いパンツと云う全身黒尽めの格好でエレベータを使って一層へと降りるのだった。

 無無明の受けた二つの依頼のためだ。

 一つ、行方不明の少女ラーラの探索。

 一つ、エンジェルダストと云う麻薬の調査。

 無無明やカオスが根城としている五層から捜査を始めてもよかったのだが、アオンは治安や設備が上に行くほど良くなる傾向があり下に行くほど悪くなる傾向があるため、本命である一層から捜査を開始した方が合理的なのである。

 ましてラーラはデータに齟齬が無い限り美少女である。

 その手の《商品》は下に行くほど高値が付きやすいのも一つの事実だった。

「さて……」

 アオンエレベータを使って一層に降りたところで、無無明は独りごちた。

「どうしたものかね……」

 呟きつつ情報端末を取り出す。

 一層の見取り図を映し出して、

「どの情報屋にするかね」

 迷いながら街を歩いた。

 アオンエレベータ付近は比較的治安が良かった。

 というより犯罪組織としてもそうせざるをえないのだろう。

 エレベータを降りた瞬間、殺人や強姦や強奪を行なわれれば一層まで逃げ込む人間は減るばかりである。

 そう言った紳士協定は無無明とて理解しているので安心して仕事に専念できた。

「…………」

 無無明はタバコを取り出して火をつけると、紫煙を吸って吐く。

 ハードボイルドとしての嗜みだ。

 歩きタバコをしながら、ひとまず喫茶店に入って時間を潰す。

 さすがに紅茶を飲むにあたってはタバコを止めるのも道理だったが。

 テラス席から外を見やる。

 道路はちゃんと整備してあるが車は数えるほどしか走っていなかった。

 当然だ。

 一層で車を走らせるのは「強奪してください」と言っているようなものだからである。

 必然車に乗るのは有力者に限られる。

 ここで言う有力者は当然犯罪組織の大物ばかりではあるのだが。

「なんだかなぁ」

 五層はそれなりに車が走っているところだと鑑みて一層の治安の悪さを噛みしめる。

 それは自己保身による畏れではなく憂世の無常を表す言葉だったが。

 情報端末がネットワークを通して情報を着信させる。発信元はカオスだった。

「もしもーし」

 カオスの声だけが聞こえてきた。

 映像に出すことも可能だが、互いの裸体を今更嫌というほど知り尽くしている無無明とカオスにとっては無用な機能である。

「なんだ?」

 無無明の反応はぞんざいだ。

 これもいつも通り。

「今何層?」

「一層」

「にゃはは。本気っすね」

「そうか?」

 この無無明の疑問には根拠がある。

 そしてカオスも承知していることだ。

「そっちはどうだ。なんか依頼来たか?」

「んにゃ。相も変わらず零細事務所っす。にゃはは」

「一応前払いの報酬があるだろ」

「僕にしろ無無明にしろ宵越しの銭は持たない主義っすからねえ。いったいどうなることやら……」

「…………」

 反論のしようも無いカオスの言だった。

 そも、でなければ零細事務所たり得ない……一つの真理ではあった。

 それからしばし紅茶を飲みながらカオスと四方山話を続け、今日という日の終わりの時刻に近づく。

 無無明は照明の暗くなったアオン一層の……その見取り図に従って治安の良い個所のバーに入った。

 バーは狭く薄暗く、しかしてそこそこ客が入っている。

 無無明はカウンターの席に着くと、シングルカスクを頼んだ。

 カクテルを頼んだわけではないがバーテンダーがウィスキーをチェイサーと一緒に出してくれる。

 これも無無明のハードボイルドとしての宿業の一つだった。

 しばらくカウンター席で酒を嗜み、それから頃合いと見計らったか、

「店長はいるか?」

 無無明はバーテンダーにそう尋ねた。

 答えは簡潔だった。

「私ですが」

「さいですか」

 納得する無無明。

 もとより狭いバーには店長と少ない店員がいるばかりでカウンター席を店長が担当していても不思議ではない。

「ちょっと尋ねたいことがあるんだが」

「ここがどういう場所か知ってて言っているのでしょうね?」

 それは忠告と言うより牽制に近い。

 しかして無無明は不快感を覚えなかったし出し惜しみする必要も覚えなかった。

「人を探している」

 明朗にして快活な無無明。

「それだけでは何とも」

 その意図を無無明は明確に知りえた。

「アブサンを一杯」

 よどみなく注文する無無明。

 出されたアブサンを嗜み始める無無明に、

「で、誰を探していらっしゃる?」

 好意的な答えが返ってきた。

 情報屋としての側面を持つバーである。

 直接的な金銭取引が無い代わりに酒代として金銭を頂戴するのは必然と言えた。

「ラーラって名前の少女に心当たりはあるか? 茶髪ロングの女の子なんだがな」

 アブサンを飲みながら問う無無明に、

「残念だけど知りえませんな」

 空振りだと主張する店長。

「では何処に行けば知りえる?」

「お酒が無くなったようですが?」

「シングルカスクとタコの桜煮」

 注文する無無明に店長は手早く用意した。

 無無明はウィスキーの刺激をチェイサーにて沈めて、

「で、何処ならわかる?」

 店長に再度質問する。

「そうですねぇ。人材派遣会社を当たればいいでしょう。相応の金を積めば帳簿くらい見せてもらえるはずですが……」

「人材派遣会社ね」

 口当たりの良い名前の会社ではあるが……事実上の人身売買であることは言われずとも察せられた。

 憮然として酒を呑む無無明に、

「ここでは珍しくもありませんよ」

 諭すような店長の言。

「まぁだから俺みたいな奴らの失業知らずでもあるしな」

「何のご職業で?」

「探偵」

 無無明の返答は簡潔を極めた。

「迷子探しの依頼でも?」

「そんなことで一層まで下りてくるかよ。ただでさえ何時パージされてもおかしくない場所に……」

 アオンが下層から順にパージして強制的問題解決の手段を持っていることは住人の常識だ。

 である以上最下層の一層は最もパージ……つまり切り離しを受けやすい環境と言える。

 もっとも素直に死ぬつもりも無無明には無いわけだが。

「その女の子は美少女ですか?」

「おっと。その質問には酒を一杯もらいたいところだ」

「なるほど。商売上手な探偵さんだ」

 そう言って店長はブランデーを差し出した。

「ゴチ」

 そして、

「映像はやれないが美少女だよ。おそらくロクな目には会ってないだろうな。特にこんな場所では」

 素直に口にする無無明だった。

「であればやはり人材派遣会社の帳簿を見るところから始めるのがいいでしょう」

「どこが有力だ?」

「つまみが無くなりましたね」

「……高級チョコレート」

 ブランデーをあおる無無明だった。

「そうですね。有力な会社は……」

 三つほどのアオン一層における大手の人身売買の組織を口にして位置情報を無無明の情報端末にダウンロードする店長だった。

「口利きしてもらえるか?」

「これ以上お呑みになられるんですか?」

「…………」

 無無明はチラリとカウンター席を見やった。

 男女のカップルがワインを嗜み、一人の老齢の男性がカルヴァドスをあおっていた。

 無無明は目だけで指し示して、

「彼らにドンペリを振る舞ってやってくれ」

 憮然としてそう言った。

「ご注文ありがとうございます」

 いけしゃあしゃあと店長。

 そしてドンペリを開けてカウンター席の客に振る舞うのだった。

 それが無無明からだと申す店長の言葉にてカウンター席の客たちは無無明にニコリと笑って頭を下げるのだった。

 無無明としては必要経費を払っただけなので感慨のわきようもないが。

「仕事は何時から?」

「最低でも明日には」

「では口利きは早い方がいいですね」

「よろしく頼む」

「それにしてもいいお客さんですよ。いっそお得意になってくれませんか?」

「…………」

 態度で拒否を示す無無明だった。

 ブランデーをあおる。

「残念です」

「ま、何かあったら頼りにはさせてもらうが」

「ええ。縁がありましたならば」

 店長はさりげない笑みで応えるのだった。

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