第7話「飛球は若人に戦を招く」
週が変わり、何とか練習着やスパイクを揃えた慧次朗が練習に合流して二日目。練習前に行われるグラウンドのランニングすらまともについて行けない彼の状態に頭を抱えた深堀は、慧次朗に限り、練習前のグラウンド周回を1周に減免させた。その代わりに、打撃練習の際は積極的に球拾いで参加させ、外野を走り回わらせるところから、動ける身体作りを図ることにした。
アスリートのトレーニング方法に関して独学で研鑽を積んでいた深堀は、ダラダラと走るだけのランニングでスタミナが付く訳ではないと知り、インターバル走を中心にした体力強化トレーニングを取り入れ、練習前ランニングはチームの連帯を強める形式的なものとして捉えるよう、部員たちに訴えた。
「あ~、また出てっちゃったよ」
1球前にはライトに陣取った慧次朗の真ん前にクリーンヒットを飛ばした、進一郎のスイングはボールを擦り上げるように振り抜け、一塁側ベンチの先に備えられたブルペン向こうのネットを白球は高らかに越えていく。練習を始めたこの10日足らずで30球近く、一塁側か三塁側のスタンド後方まで、ボールが飛んでいってしまっていた。
「おじゃましまーす。コートに野球ボールが入ってきたので」
「あぁ、お手数かけてすいません」
ボールを取りに出て行った美央とほぼ入れ替わる形で、テニスラケットを右手に握ったままの小柄な男子生徒が、ベンチにまで入ってきて、そこに控えていた美里にボールを手渡す。
一塁側ブルペンの外側あたりには、男女混成の硬式テニス部の内、男子が使用するコートが3面分あり、周囲を防球ネットと金網で囲んでいる。ただ、どうしても上から降ってくる、野球部からのファールボールを阻み切るには至らない状況であり、よほどの天変地異でもない限りテニスボールが野球場に入る可能性がない以上、テニス部員は戦々恐々で練習せざるを得ないのであった。
「さすがに可愛そうやな。何度も飛んでくるんは」
ブルペンの上を飛び越えた打球の行方は、外からのどよめきが聞こえてくるか否かで粗方予想は付いてしまう。対策の難しい状況を隣接部のキャプテンとして、そして生徒会執行部の人間としても、龍太朗は気の毒に思っていた。
「気にしてる暇があるなら投げ込んでこい」
「へいへい」
他人のことなど気にも留めぬ態度の弘大から次の投球を求められ、その一球を投じた丁度その時、グラウンドのマウンドから声が飛ぶ。
「龍太朗ー、次キミだよ!」
「はいよー。悪いな、んじゃ打撃練習入ってくるわ」
これから先も長らくバッテリーを組む相手にしては、いまだ波長も性格も合わせ切れていない弘大とのブルペンに若干の居辛さを覚えていた龍太朗は、透からの呼び込みにうっすら感謝の意を抱きつつ、ブルペンを後にする。
弘大からのため息が耳に届いてしまったのを決まり悪く思いながらフェンス戸を出た直後、勝輝の放った打球が高らかに龍太朗の上空を越えていく。
見送ることもなく、内心「あぁ~あ」と呆れつつベンチの方まで駆けていき、替わってブルペンに向かう進一郎とすれ違ってしばらく。ベンチの外からやってくる刺々しいほどの殺気を、龍太朗は感じずにはいられなかった。
「ここの顧問は誰だ」
紳士服モデルのようなスラリとした体躯。端整な顔立ちではあれど、陰鬱さも含んだその目つきの悪さは激しい口調を伴ってさらに鋭くなる。
「いったい何度ウチのコートに放り込んだら気が済むんだ野球部は!」
生徒であることを裏付けるように、仕立てられたばかりなのであろう、生地にハリのある練習用ウェアを纏った少年が野球部監督である深堀に向かって、いの一番に放ったのがこの一言である。
「打球に関しては申し訳ないが、そこまで言われてもやりようというものが」
「さっさと対策の案を提示しろ。貴様ら一体どういうつもりだ」
歯軋りすら聞こえそうな顰め面それ自体を、龍太朗も多少は知っていた。3組在籍の
フロアは一つ違うが、一源が在籍しているクラスとして何度も入ったことがある。その中でも名誉ある孤立を選び、誰かと群れるような行動を一切取ろうとしていなかったのがこの少年である。
目鼻立ちの整った風体は、ともすれば女子から噂されるものではあるが、どうにも高飛車でトゲのある発言や性格に、女子の中でも評価が真っ二つに割れている。父親は某メガバンクのとある支店長、さらに祖父は翔聖学園の理事であるとの憶測まで広がっており、聞こえてくる印象は概ね「傲慢なボンボン」といったところか。
「うちの監督に対してさすがにその口の利き方はどうなん」
乱暴な物言いを美央は諫めるものの、ハリネズミの背中はさらに逆立つ。
「こっちにもこっちの都合ってもんがある。なんとかしろ」
「なんていうか、テニスの練習着でそないにイライラされてもすぐには何もでけんって」
龍太朗としては何気ない言葉であったが、細身のハリセンボンには激烈に癪に障った。
「俺の言葉一つでこんな部活吹き飛ばすぐらい朝飯前だぞ。それを分かっての言い草か?」
「待て待て待て。その発言の立ち位置どないなってんねん」
歯軋りしながら唸る虎の如き形相の恩堂にもお構いなしにツッコむ龍太朗だが、その効果は後悔と共に押し寄せてくる。
「俺の爺さんはここの理事長だぞ! それでもまだこのデカイ箱物の中で胡座かくのか?」
諸々の噂がどうやら馬脚を現したようで、龍太朗は目線を横にやって溜め息を漏らし、恩堂は頬の筋肉を引き攣らせる。苛立ちを隠そうともしていない。
「お前さんの爺さんがここの、えーと吉中理事長?」
「えーととはなんだ!? そんなことも知らんのか情けない!」
育ちが良いのか悪いのか、若くして“厳格”の言葉をあてがった方がいいのか、ほとほと乱暴なテニス部員に当惑しきりの野球部主将は更に畳み掛けられる。
「キャプテンの浜風とか言ったな」
「せやで?」
「俺と勝負しろ」
突然の宣戦布告に、一瞬の静寂の中、龍太朗は理解に及ばず真顔を晒す。
「はい!?」
「とにもかくにもそっちが負けたら、俺たちの言うことを全力で聞いてもらう」
「自分なんぼほど無茶言うてるか分かって」
「つべこべ言うな!」
「他人の話せめて最後まで聞けぇ!!」
押し問答になればいずれ取っ組み合いになると案じた龍太朗は、額を掻き溜め息で呼吸を整えてから、ひとまずペースを自分のものにしようと努める。騒ぎを聞きつけ、周囲に野球部の面々が集まってくる。
「んなら聞こう。そっちが勝ったら俺らはどうしたらええ?」
「決まってるだろ? 俺たちの所にボールを入れてくるな。その対策に何かするって言うなら、その費用は全部そっちで出せ」
「そういうのは学費やら寄付金やらで賄うと思うんやけど」
「あるいは廃部だ。こんな目障りな箱物とっとと叩き潰せ」
横暴を通り越して言われなき怨嗟すら滲む言葉に、龍太朗は言い返す言葉を見つけられない。
「言うんは勝手やけどな、なんぼなんでもそこまで言いよるか?」
「春の府大会一回戦負けの連中に何ができる? 惨めに支度済ませてさっさと出てけ。そしてお前ら自身でこの無用の長物を叩き潰せ」
「なんやねんなもう…」
滅多打ちのマイクパフォーマンスに懲り懲りな龍太朗は怒りすら沸いてこない。
「ほんなら、そっちが負けたらどないする?」
「そんなもん念頭にすら全くないが、まあお前らの勝手にしろ。俺のことをいいように使いっ走りにでもすればいい。できるもんならな」
隙のない居丈高な態度に、龍太朗は頭を掻いて呆れるほかない。
「そっちの底無しの自信が傍から見たら怖ぁてしゃあないわ。じゃあ分かった」
恐らくは相手が一番嫌がるであろうこと、しかし是が非でもそう言うほかない言葉を、龍太朗は手を打って続けた。
「俺らが勝ったら、野球部の部員になってくれ」
「はあ!?」
間髪入れぬ見るも無残、予想通りの反応である。
「ふざけんな。俺は野球が大っ嫌いだ! 俺を入れるだ? 馬鹿も休み休み言え。そうまで弱いか恥曝しが!」
「弱さが問題とちゃう。人数少なすぎるから問題なんや」
龍太朗は現実を的確に伝えようという姿勢で語ったが、相手の形相は問答無用、聞く必要性そのものを一切考えようともしない。
「そないな顔せんでくれや。兼部でも構わん。もしや、もし仮にそっちが負けたとしたら、しばらく返答は待つ。無理強いはせんから、まあ、考えたってぇな」
龍太朗は嫌らしいほどに下手からの発言に終始する。
「飲むか? 俺の要求を」
「で、結局どっちや? カネ出しゃええんか、出ていきゃええんか」
「じゃ、廃部で」
温情も配慮の欠片もない冷徹且つ端的な口振りに、堪忍袋の緒が切れた弘大が向かおうとすると、気配を感じた龍太朗は背中で必死に進路を塞ぐ。
「分かった。ほなやってみよか。何打席やる?」
「1打席で十分だろ? 時間くれてやってるだけ感謝しろ」
下手から出ていた龍太朗の言葉の意図をかなぐり捨てた恩堂の言葉に、少年は耐えるのをやめた。
「3打席や。俺は投げるからお前さん打て。そうまで言うてくるなら、俺から三連発叩き込んで俺らをコテンパンのメッタメタに叩きのめすぐらいしてから帰ってくれ。野球に何の恨みがあるんかは知らんが、そうまで言うなら手練なんやろ打ってみい。監督、すんませんがしばらく時間借ります」
言い返す暇を与えず一気に言い切った龍太朗は、噛まなかったことをいいことに不敵にはにかむ。
「『後悔先に立たず』。お前にはそうとだけ伝えておく」
「勝手に言うとけ
さすがにウンザリしてきた龍太朗の言葉がどんどん投げやりになっていく中、龍太朗の要求をひとまずは飲んだらしい恩堂は右打席に、翔聖ナインは所定の守備位置へ。
よろしくないことになってしまったと渋い顔をする深堀の隣で、メンバーからあぶれた清香がベンチで野次を飛ばす。
「龍ちゃん怒らしたこと後悔すんで! 覚悟しいや」
「そんなこと言って後々俺に惚れられても困るからな」
マウンドの幼馴染みが右手の上でロジンバッグを躍らせる中、打席の男の自信の源が斯様なまでのナルシシズムなのかと思うと、虫酸が走った清香の表情が歪む中、龍太朗は右手の上でロジンバックをばたつかせつつ、臨戦態勢に入る。
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