第6話「小夜の若人指南時」

 春宵しゅんしょうの住宅街の中、2区画分の土地にどんと佇む邸宅の庭で、ネットに向かって白球を放る龍太朗は、合点のいかない表情とともに、この数年で最大級のため息を吐いた。

「竜嶋も入ったし、もっとしっかりせなあかんのに、このまんまいうんはなぁ……」

 深堀から指摘された武器の乏しさを念頭に、せめてスライダーだけは物にしたかった少年は、部活を終えて帰宅してもなお自主トレに励んでいたものの、納得できるボールは全く投げられていなかった。

 投げる前にその都度リリースの再確認をしてはいるものの、これほど空虚でやりがいに欠ける行為もない。自らへの不甲斐なさに、下唇を噛む力が強まる。


「まだやってるの?」

 日課のランニングを終えてきたらしいジャージ姿の透が、龍太朗の後ろ側から声を掛ける。

「横の変化球は俺に合わんのかも、なっ!」

 親友に向き直らぬまま、何かアドバイスをくれよと助けを求めるように、龍太朗はもう1球投じる。何とか変化させようと投げたボールは、ネットの守備範囲を大きく逸れ、ぶつかった金網に歯軋りをさせる。

 曲がった、というよりも出鼻から逸れるような方向に投球が向いている。腱鞘炎を疑いたくなるような手首の軋みまで、龍太朗は感じていた。

「透、そろそろ教えてくれんか? お前の流儀」

「何のこと?」

 不甲斐ない顔を親友に見せないように、後ろには振り返らぬまま尋ねた少年は、とぼける親友に念を押す。

「前も聞いたやろ、スライダーの極意。もうこれ以上誤魔化さんでくれ」

 龍太朗からしてみれば、なんとしてもヒントが欲しかった。監督の深堀は野手の出身であり、変化球の指導に関しては今一つ要領を得ないところがあった。

 深堀本人も「フォームチェックまでは出来ても、そこから先は上手くいかないかもしれない。まだ勉強不足だ」と認めた上で、特に変化球に関しては、選手同士での指導に任せたいという方針を打ち出していた。

 龍太朗と透との協調に期待した深堀の思惑は、口をつぐんだ透を見れば、残念ながらというところだ。

「嫌か? まあ、せやろな。自分の伝家の宝刀、他人にそう易々とは譲らんわな」

 龍太朗としては、自分のフォークの極意なぞ誰にでもくれてやる精神ではあれど、10キロ近く握力の弱い透であれば、フォークを強要するよりも、彼が使っているスプリットを磨いた方がよほど効率がいいだろうとも考える。

 ただ、意を決した透の一言により、等価交換をする必要はなくなった。

「スライダーどうやって投げてるの?」

 ようやく乗り気になってくれたかと、ニヤリと笑みを浮かべた龍太朗は、投げきったボールたちを壁際まで取り戻してくると、その一つを手に取る。


「握りはこれでええんやろ? んで、こうやって捻って」

「はい、ダメ」

 いそいそと握りを見せられたことに対して煙たがるように、透が手を打って直ぐ放った言葉に、龍太朗は思わずキョトンと立ちすくむ。

「いやちょっと待ちぃな、捻り方がアカンのか?」

「その投げ方、誰の指導だったっけ」

「えっ、誰やったかな……。炎滋のおっちゃん、は昔過ぎるなぁ少年野球ちゃうかったし。シニアの監督、じゃなくてコーチの法螺辺ほらべさんやったかな」

 たどたどしいながらも何とか思い出した少年の返答を聞き、やっぱりその人かというような表情で頭を抱えた透は、二、三度首を横に振った。

「なにぃな、なんやそのリアクション!」

「龍太朗、極意を教えてって言うなら教えてあげるけど、案外呆気ないよ?」

 嘲笑する様な幼馴染の表情に、龍太朗は恥も外聞もないと切って捨てる。

「それでも構わん。透が投げてるスライダーが今の俺には必要や。甲子園に行くなら尚更な」

「龍太朗、スライダーはスナップ利かせちゃダメなんだって」



 間髪を入れない冷徹な切り返しに、龍太朗の心は脳天をかち割られるような衝撃に見舞われた。

「はっ!? いやっ、今まで『もっと上手く捻れ』ってばっか言われ続けとったけど」

 常識を打ち壊される思いの龍太朗に対し、透の受け答えはしたたかなものだった。

「龍太朗、もっと図太くなろうよ。僕も色々言われたことはあったけど、聞き流したりもしたもんさ」

 大人の指導は素直に受け止めているとばかり思っていた龍太朗からすれば、この夜の透の言葉は、新鮮さを通り越して半ば戦慄すら感じるものである。

「スライダーはね、捻るんじゃない。切るように投げるんだ」

 籠に入った硬球を拾い上げると、透はいつも通りの握りと腕の振りを龍太朗に見せる。

「チョップする感じ、んー、手首使わずに面打ちするみたいな? 手をキャッチャーに正対させたらストレートになるけど、多少人差し指に力込める感じ。それだけで十分さ」

「ほない簡単なもんなんか」

「もちろん、掛けた人差し指と中指で、きっちり縫い目を捉えないとすっぽ抜けるし、掛けすぎたらワンバウンドだけどね。それと」

 ボールを手放した透は、左手で右手の先をグイッと反らせる。すると、手首が真っ直ぐ伸ばしたところから凡そ120度曲がり、中指に至っては右手首に先が付いてしまった。

「お前そんな柔らかいんか!?」

「ここまでになる必要はないとは思うけど……。とにかく、僕にとって重要なところは手首と指の柔軟性、それから手先の感覚を研ぎ澄ませることかな。極意のように表現するなら、ね」

 透はもう一度ボールを握りなおすと、いつも通りの小さなワインドアップから、滑らかな挙動で右腕を振り下ろし、空想の右打者を見事に泳がせて空振りを取った。


 下唇を軽く噛み、二度ほど頷いた龍太朗は改めて、透に握りを見せる。

「握りはこれでええんよな?」

「うん、それで……、いや」

 透は言い切る前に表情を曇らせ、僅かに考えを巡らせると、龍太朗が揃えていた人差し指と中指を開かせ、平行な縫い目にそれぞれ沿わせるような配置にさせた。形だけ見ればツーシームの握りに近い。

「龍太朗にはこっちの方が合うと思うよ」

「何がちゃうんや? 指開かしよって」

「まあまあ。人には向き不向き、適正非適性あるから。それで、思いっきり投げてみて。ストレートと同じ振りを意識して」

 笑みを浮かべながら勧める透に対し、まるでもって腑に落ちない表情の龍太朗は、

両腕を脱力させ息を整えると、龍太朗はネットに集中し振り被る。


 振りぬいた右腕の最中、縫い目を撫で払うように、中指と人差し指が通り抜けていく感覚。放たれた白球は、ストレートと遜色ない速度でネットまで迫り、その途上で猛烈な暴風に曝されたが如く、左打席の側へグイッと変化していった。




「うわぉ」


 小さく驚嘆した龍太朗は、その感覚を忘れないうちにもう1球取り出して間髪入れずに投げ込む。多少変化は早かったが、変化量、スピードは文句なしの一球だった。

「握りとしてはそこまで大きくは変わらないさ。でも、君の球速を生かしたほうが、普通のよりもよほど相手は嫌がる」

「透、これってまさか」

 変化のキレ、ストレートからさほど減速しない球足。透のそれとは毛色が違う。目を見開いている龍太朗に対し、親友は微笑んでいる。

「高速スライダーさ、龍太朗。今のなら十分使い物になってくれるはずだ。この調子なら、磨けばプロだって真っ青さ」


 浜風家そばの街灯に照らされて、微笑んだ透の白い歯が輝く。龍太朗は一つ息を吐いたが、感心を通り越えたような表情で吐き出したそれはため息ではなく、親友へ向けての感嘆であった。

「やっぱりお前は天っ才やな! 俺の配球も考えてか。これは大きな価値がある! ありがとう透!」

 太陽系の中心で宇宙の闇を跳ね除けるような満天の笑顔を湛えつつ、龍太朗は親友に握手を求め、透もそれに応える。

「よっしゃ磨いたるぞ~この代物しろもんを!」

「投げすぎは毒だよ。そこも考えないと」

「分かっとるっ」

 閉塞感に満ちていた表情はどこへやらと言わんばかりに、いつもの快活さをもって、いま一度の投げ込みに勤しみ始めた龍太朗に背を向け、隣にある自宅へと向かう透は、親友に聞こえぬように呟く。


「何言ってるんだろうね、龍太朗は。一瞬でモノにしようとする君の方が、よっぽどの天才だっていうのに」


 とうに星が煌めき始めた春の夜に、透は親友の凄みと彼からの信頼感をまざまざと思い知らされるのだった。

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