第3話「指導口論」


「自分たちに足りないもの、痛いほど感じられただろう」

 一頻ひとしきりの授業を終え、ユニフォームに装いを改めた球児たちが、重たい敗戦明けの体をグラウンドへと集めていた。メンバーが集まりきったグラウンドに現れた深堀は、厳しい表情を浮かべつつも、負けたことについては心配しなくていいという慈悲深さを感じられる目で、部員たちに目を配っている。

 彼は、先月まで公立高校の社会科の教師であり、野球部のコーチ的な役回りではあれど、チームを指揮する立場にはならず仕舞いであった。しかし一念発起し、夢であった野球部の監督を、私立高校への転職という形で叶えた。

 深堀もかつては甲子園に立った球児であったが、結果は非常に不本意であったことを若人たちに伝えている。「先生も皆と目指す場所は一緒だ。皆にとって何がしかの糧にしてもらえれば、幸いです」との締めの言葉と晴れやかな表情で、練習初日の挨拶を終えていた。


「浜風君」

 深堀が、エースになるべき球児に目を向ける。入部の際に篤く歓迎していた深堀の表情と目線とは打って変わり、少年を持て囃してきた大人たちともまるで違う、真剣なものであった。

 そもそも龍太朗は、かねてから多くの野球ファンから嘱望される存在であった。なにせ、父親が父親である。


 浜風真太郎しんたろう。彼の父親は、元プロ野球選手だ。

 今でも野球解説で家を空ける事は多いが、息子に真っ直ぐ向き合ってきた、よく笑う男である。

 現役時代の真太郎は、最速150キロの直球と「釣瓶つるべ落とし」とも評された高速フォークを武器に、通算122勝を積み重ねたサウスポーであった。

 パシフィックリーグにおける70年代の強豪チーム、大急エレファンツを始祖に持ち、兵庫県の港市みなとまち・神戸を本拠とするアルタイルグランツと、セントラルリーグ一の人気球団であり、球界の盟主として名高い読日よみにちタイタンズとの競合ののち、高卒でグランツに入団した真太郎は、2年目に初登板初勝利を飾ると、グランツ左のエース級投手として活躍し、名実共に一流プレーヤーとして名を上げる。

 晩年はフリーエージェント権を行使し、タイタンズに移籍したのち怪我に苦しむ。快速球は姿を消したものの、変化球投手に転向し、貴重な左腕の戦力として食い込み続けた。

 名投手の息子として見られることの多かった龍太朗にとっては、これほど重い肩書きもないのだが、今となってはそれを背負い切り、あるいは放り投げる程度の度量とユーモアは持たなければと思っている。しかし、深堀の発言は軽々しい考えを一掃するものだった。


「君のピッチングを見て、このままでは危ないと感じた」


 龍太朗の心の中で、ピアノの低音域が音の塊のように打ち鳴らされた。昨日の投球内容を極めて端的に言い表した一言であるように少年は思ったが、正確に聞くと、どうやら毛色が違うらしい。

「身体全体を使いきれてない。肩への負担はかなりのものになっているんだろう。腰が使い切れてないんだ。手投げになっていて、球足は速くても球質が重くない。だからこそ昨日は6失点も食らってしまった。読まれだしたら合わされて飛ばされる、ということだ」

 エースの眉が、ひっと上がる。肩への負担については思い当たる節なんて山ほどあった。

 左右は違えど、やはり父親の背中は追うものである。快速球を投げることを意識するあまり、少年のフォームは右腕を無理やりぶん回して投げるようなフォームになっていた。無理をしていないわけがない。

 それでも登板後は、その都度アイシングを徹底的に行い、マッサージも受け、疲労や痛みが残らないよう万全を尽くしてきた。龍太朗の父親然り、シニアリーグや少年野球の監督然り、ケガに関しては常に気を使っていた。

 ただ、そのフォームの躍動感や豪快さは、威圧感を与えるには十分だが、身が実を伴っていないのだった。

 龍太朗は目線を落としながら、自戒も込めて首を縦に振る。


「今のままではコントロールもうまくついてこない。故障のリスクを軽減できるフォームに変えるべきだ。君の将来のためにも」

 現在の彼のフォームでは、投球のフィニッシュで三塁側に体が流れてしまう。意図を持ってならばまだいいが、無作為にそう投げていると頭がブレて制球しづらくなる。シニアの他チームのエースと比べれば、シニアでもまだコントロールはマシなほうではあったが、その状態でも高校野球で通用すると言い張るには、あまりにも心許無かった。

 さらに、下半身も十分に生かし切れず、力が球に伝わらない。体に“タメ”が作りきれていない以上、肩と肘を主体でボールを投げるわけで、それぞれの負担が大きくなって、故障につながりやすくなる、というのが深堀の所見だ。

「早いうちにフォームの改善を図ろう。ひねりがうまい具合に加わったら、腕の負担を小さくしつつ、もっといい球が投げられるかもしれない。今からならまだ間に合う」

 龍太朗は深く頷いた。少年の大きな夢が遠退いたようにも思えたが、そうであっても全力で食らいついてみせる。球児の目線は、夏の青写真を胸に秘め、強さを増した。


 表情の固さが若干和らいだ深堀の目線が、透の方へと移る。

「その点においては、光月君は非常に綺麗なフォームが出来上がっている。上半身の柔軟性がよく効いてるから、無理な力がほとんど掛かってない」

 深堀の評価に透から笑みがこぼれる。透は最速129キロのストレートを擁している。球速だけを見ればまだまだ半端な投手と思われるが、構えられたミットに吸い込まれるような、絶対的な制球力と多彩な変化球を誇る。

 小さなワインドアップから始動し、ゆるやかで滑らかながら、コンパクトなテイクバック。フィニッシュもバランスがよい。小学生時代から、滑らかなフォームで投げたいと言い続けていた透の集大成に近いものが、すでにそこにはあった。


「それと、浜風君にもうひとつ」

 右の人差し指を上げ、深上が龍太朗の方へ向き直る。

「浜風君も自覚しているだろうが、君のストレートとフォークだけでは抑えられないことはよく理解できただろう。甲子園に行きたいと強く思うなら、君にはまだ武器が足りない」

 龍太朗の武器は、中学3年の時に計測した140キロの直球と大きく落ちるフォークボールだ。その落差は、かつて勝輝が「なんか滝みてえに落ちるな。ナイアガラって名前つけたら?」と発言するほどのものであり、バッテリーを組んだ司も大いに梃子摺るほどであった。ただ、大きくバウンドをしたときも、蛙の魂でも乗り移ったように、ジャンプの難しい体勢から飛び上がるように必死に止めて、後逸を防ぎ続けていた。

 新たな女房役である大は、4イニング中16球投げたフォークのうち、後逸したのは1度だけ。しっかりと全て体で止めてみせた。フォークは活かせそうである。しかし、彼の場合は後が続かない。

 龍太朗は間に合わせのように、スライダーとカーブを持ち球とはしているが、これがまともに曲がってくれないのだ。カーブはブレーキングしてくれず、スライダーは出だしから曲がり始める割りに、変化もさっぱりで、およそ武器として試合で使える代物ではなかった。簡単に見切られてしまうような変化球をわざわざ多用できる隙などないのである。

 さらに言えば、直球が140キロを計測したことがあると言ったところで、それはたったの一度きり。最近は130キロ台中盤で推移している直球となると、多くの変化球を操る透を上回るほどの優位性が乏しくなってくる。


「同時並行で進めていくのは並大抵のことじゃないし、そう簡単には身に付いていかない。それを自覚した上で、これからの練習に取り組んでいこう。そして光月君」

 深堀の目線が二人の間でラリーを始めるように、目を配らせる。

「君たちは長らく親友で、且つライバルだとも聞いた。しかし、チームメイトであり、甲子園を全力で目指したいと願うのなら、光月君。浜風君に君のノウハウを教授してあげてほしい。浜風君からも同様だ。合う合わないがあるのは承知だが、その見聞を広めることも大切だ」

 前日の龍太朗の言葉を念頭に、本気で甲子園に行きたいならば、相当な部分で助け合うべきだろう、という考えを深堀からぶつけられた透は、ひとまずそこはかとない笑みを浮かべて頷いた。だが、その目には何とも言えない感情が渦巻いているように、龍太朗には見えた。

 龍太朗自身これまでに何度となく、思わぬところで透の掴みどころの無さを感じることがあった。透に対して、変化球の奥義を聞こうとしたことが何度かあるのだが、結局上手くいなされて、聞けずじまいであった。やはり親友の中に、自分への対抗意識が未だ燃えているのであろうと、少年はそう推し量る。



「そしてだ。より重要で、大きな問題がある」

 深堀の真剣な表情がさらに険しくなる。極めて重たい口調で、監督は一人の名を上げる。

「鬼頭君、君だ」

 一瞬の間が空いて、目を見開いた大が怒りの声を上げたそうだったものをなんとか引っ込める。

 昨日は4打数1安打1得点。残り3本も全て外野フライで、打撃内容はまずまずだった自分に降りかかった、予想外の言及である。「どういうことですか」と低い声で問うた扇の要に、深堀は厳しい表情を向ける。

「昨日の試合は、今のところ集められている対戦バッターの苦手なコースを伝えておいた。確かに昨日は、君たち自身の思った通りの野球を見せてもらいたいとは言ったが、しかし君は外角攻めに固執した。ほとんど内角に投げさせようとしていない」

 大は、それの何が悪いのか、自覚がなかった。

「俺からも言うてええですか?」

 深堀がため息を吐こうとしたその時、龍太朗が言葉を挟む。

「ああまで全部外投げてたら、打たれるのん時間の問題なんは火ぃ見るより明らかやろ」

「アウトローを徹底的に攻めるのは、キャッチャーのリードとしては基本中の基本だ」

 大は悪びれる様子を見せず、鋭い釣り目を保ったままである。鼻から大きく息を出し、首を後ろに大きく反らしてから、龍太朗はかつての相方を思い出す。

「基本は確かにそうや。しかしな、内角突ける度胸無かったら、一辺倒で目ぇ慣れるんは当たり前やろ」

「遠いコースに投げておけばそう簡単に飛んではいかない。打たれるのは真ん中に失投するピッチャーの責任だ」

 オウム返しで対応する大に、強情にも程があるだろうと龍太朗は唖然とし、頭を抱える。


 選手陣の後ろのほうで控えるマネージャー3人のうち、日本人形のような長い黒髪を春風になびかせている秋田あきた美雪みゆきの頭上で、疑問符がアドバルーンのように膨らんでいた。

「ダメだぁ、お話の内容がまだよく理解できないです」

 美雪は、北大阪のとある富豪家系の令嬢である。元々はヴァイオリンやフルート、クラリネットにピアノなどなど、音楽を嗜む非常に大人しい少女であり、球技はまるで疎かった。ただ、幼いころ祖父に連れて行ってもらった夏の甲子園の感動を忘れられず、自分もその世界に関わりたいと思い、マネージャーとして野球部の門を叩いた。

「とりあえず、このままじゃヤバイって事だけは分かるわ」

 八木代やぎしろ美央みおは、大阪市内の事務所に所属している芸能人である。が、最近めっきり仕事が無くなってしまい、タレント業で食べていくことは難しいと親が判断して、普通科の翔聖学園へ進学してきた。

 学業はあまり芳しくないそうだが、ハキハキと活動的な少女であり、雑用もテキパキとこなしている。

「また今度教えてあげるから、大丈夫」

 意欲は十分であったものの、美雪の野球に関するルールの理解は、世間一般の野球に詳しくない女子程度の代物。美央に関してもまだまだ穴は大きいものであったため、教育係として美里がそばについている。


 そんな美里が気遣いを見せる中、不惑の大台を超えたばかりの深堀の表情は、さらに渋くなった。

「鬼頭君、さすがに考えが甘いよ。試合というのはピッチャーが作るとはよく言うが、キャッチャーが共にやっていけないなら、マウンドでピッチャーはどれだけ孤独か。君は自己紹介の時こう言った。『自分のチームは投手がよくなかったから上に行けなかった』と。しかし、本当にそうだろうか。厳しいことを言うが、が強すぎるキャッチャーは失格の烙印を捺されかねない。外角攻めは、内角を投げられてこそ生きるんだ」


 内角を攻めること。打者を抑えるために駆使する戦略としては至極当然の認識である。しかし、グラウンドでやろうとするにはなかなかにリスキーだ。

 バッターから遠い外角に投げることで、バットに力を込め切れないようなスイングになり、簡単に外野に飛ばされないという戦法は、極めて確立された配球術である。多少コントロールがアバウトになっても、外に外れればボール球になり、少なくともフェアゾーンに飛ばされる確率は低い。

 対して内角を攻めることは、バットの根元に当てさせ、詰まらせて抑えていくことになるが、打者に近いところを攻めることで、早打ちされて引っ張った打球が長打になりやすかったり、僅かな失投でもデッドボールになるリスクが高まる。

 しかし、アウトローを得意とする打者もいるし、インコースが非常に苦手な打者も存在する。龍太朗自身もアウトローが苦手ではあるが、それ以上にインハイへの対応にかなり苦労していた。意固地とも取れるほど外攻めに執着するのは、どう足掻いても今後のためにはならないと、龍太朗は確信を持っていた。


「監督は外角攻めを否定すると」

 そんな想いも虚しく、非常に刺激的な発言を深堀に投げかけた大だが、対して深堀は意外にもあっけらかんとした顔になる。

「アウトローを確実に突いてストライクを取れるレベルなら、そもそも打たれること自体皆無に等しい。しかし、そんな次元のピッチャーが本当にいると思うかい? 少しでも懸念があったなら、配球にランダム性をつけて撹乱させるべきだ」

 大自身も分かってはいた。アウトローに投げておけばなんとかなっているという自覚をもって、それで安心しようとしていた。しかし、いくら内角に攻めようが外を狙おうが、投球が甘くなって痛打される確率は、結局投手の技量頼みであり、運の要素まで絡まりうる。

 大は頑強な男である。曲がったことが嫌いで気難しい男ではあるが、キャッチャーとしての勤勉さは、元のチームの中でも随一であった。そこからのプライドの高さもあり、自分自身が誤っているという考えを持ちたくなかった。縋りたかっただけなのは言うまでもないが、過ちに気づいたとしても、大の考えは極めて堅苦しいものであった。


 この状況に風穴を開けるべく、深堀はあえて強い口調で言い放った。

「もっとはっきり言わせてもらおう。君自身が、甲子園への道を閉ざしてしまいかねない」

 その言葉は、ダイヤモンドのように固い大の意志を砕くかの如きものであった。大は一瞬目を見開いた後、目線が右下へと落ちる。

「鬼頭。俺かて頑張るから、俺のこれからの球もっと信用してくれんか? 変わらんでもええことはもちろんある。でも、勝てる確率上げられるんなら、変わるべきもんは変えなあかんはずや」

 強すぎる拘りは身を滅ぼしかねない、という思いを思考の中に留めつつ、龍太朗はこれから長い付き合いになるであろう、頑固な女房役を諭す。下ろされていた大の視線が、ひとまずキャプテンのほうに上がる。

「俺はしかと受け止めるつもりでおる。変化に耐えられんかったら、俺らは連敗街道まっしぐらや。それぐらいの覚悟持たな。のう?」

 茶化せるものではない。自分が本気である姿勢を訴えかけた龍太朗だが、大の険しい表情は崩れなかった。


「なら浜風、お前は全部アウトローをつけるコントロール付けてくれよ」

 想定外の方向から、トマホークが首筋に飛び込んでくるようであった。

「はぇ!? かーっ、無茶言うなぁ! 悪いがそこは専門外や。頼むなら透の方がちょうどええ」

「えぇっ、僕!?」

 柳の枝のようにかわした龍太朗から、睨みを向けた大に透がおののく。

「まあもっとも、透以上にインとアウトの出し入れが上手い技巧派もそうそうおらんぞ? それを断るなんてそいつぁもったいない」

 初戦の2イニングで、透は直球とスライダーを外角にばかり投げており、まともな配球というものの構築すら、できていない状態であった。そこからの配球の拡張性を龍太朗が説こうとしたところに、深堀が割って入った。

「さて、ひとまずだ。夏大会まではしばらく時間がある。全員の持ち球と制球力、クセなり何なりをできる限り頭に叩き込んでもらいたい。かなめを締められるのは、現状鬼頭君しかいないわけだからね」

 厳しいことは言ったものの、明瞭な道標みちしるべが示す夢への歩みは、大きな確信につながっていけるはずだと心に秘め、頼りにしているぞという思いを左手に込める様に、深堀は大の右肩をポンと叩く。


 夏まで数ヶ月しかない。

 しかし、その焦りと適度な緊張感がよりよい刺激となって、球児たちを大きく成長させてくれるはずだと、深堀は微かな期待を掛けるのであった。


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