第二十六話 黒幕

 しん、と時が凍り付いたような静寂がたちまち空間全体に満ちる。


 一瞬の間を置いて、ナツリがすぐに我に返ったように声を上げた。


『ら、ラスカーのエネルギー反応消失! これで最後の四機しき天王てんのうもついに……』


 反乱軍の前から全ての障害が排除された以上、あとはマザーオベリスクからオルミアの善心数値を元の状態に戻し、今も暴走している第一世代レイスロイドたちを完全に稼働停止させる。


 それさえすれば、この長き戦いにようやく終止符を打つことができる。


 そう、それだけのはずだった——。



『——まさか、ラスカーまでられるとはな』



 不意に、どこからともなく抑揚の乏しい謎の機械音声が聞こえてくる。


 レインとティアは反射的に身構えて周囲に視線を巡らせるが、言うまでもなく自分たち以外にはラスカーとオルミアの姿しか見当たらない。


 それもそのはずで、眼前に聳然しょうぜんと佇む巨大な水晶柱——マザーオベリスクが確かにその声を発したのだ。


『い、一体何者!?』


 ナツリが思わず動揺を抑えきれない様子で声を上擦らせる。


 その誰何すいかに対し、声の主は厳然たる態度で告げた。



『私は、このマザーオベリスクに宿りし機類を司る絶対神——《ユビキタス》だ』



 突如現れた得体の知れない存在の発言に、この場に凄まじい衝撃が走る。


 ユビキタス——遍在、という意味を表す世界の言葉だ。


「宿った、だと……?」


 激しいエネルギー消耗から床に膝をつきながら、レインが満身創痍の状態で奴に問いかける。


 それに対し、ユビキタスは悠然とした態度で即座に答えた。


『そうだ。ライト博士が生み出した傑作の英雄よ。今から五年前、クロース博士が己の電脳﹅﹅とマザーオベリスクを同期させた瞬間から、私はこの叡智の結晶柱に人知れず《自我》を宿したのだ』


 一体こいつは突然出てきて何を言っているのか。クロース博士と同期しただと?


 まるで理解が追いつかないレインたちに構わず、奴は淡々と話を続ける。


『お前たちには決して知るよしもなかったことだが、クロース博士は己に従順な人間を一から創り出そうとどこから攫ってきたかも知らぬわらべを使い、密かにここの地下の個人研究室で人体実験を繰り返していた。まったく……いつの時代も真の天才というのは、どうしてこう変わり者ばかりなのだろうな。だが、そんな奴がいくら現代を代表する奇才の一人だったとはいえ、意のままに人間を洗脳するなどという前代未聞の実験はどれもことごとく失敗に終わった』


 次から次へと明かされる恐ろしい事実をたのしげに語りながら、さらに驚愕の言葉を重ねる。


『来る日も来る日もクロース博士は非人道的な実験を続けているうちにやがて倫理という概念すら忘れ去り、部下である研究員たちを使ってついには己の脳その物すら改造をほどこした。愚の骨頂にも、奴はこのマザーオベリスクの中央処理装置CPUと己の電脳を直接同期し、人間ではまず不可能な至高の高速演算能力を得ようと神の領域へと土足で踏み込んだのだ』


 あまりに突拍子もない話に、ナツリが思わず鋭く反論した。


『ちょ、ちょっと待って! マザーオベリスク——いえ、希少鉱物のゼノライトに勝手に自我が宿るなんてそんなふざけた話、今まで聞いたことがないわ!』


 その道に関しての研究者ならば当然抱く疑問に対し、ユビキタスはあくまで鷹揚な口調で答えた。


『如何にもその通りだ、ナツリ=ライト。だが、私の意識が確かにこのゼノライトの団塊の中に存在するのもまた事実。何事も有り得ないという固定観念から突然奇蹟きせきは起こりうるものだ。——お前の父であるローエン=ライトが、不可能とまで言われたレイスロイドの自我を確立させたように』


 さすがのナツリも、これには何も言葉を返せないようだった。


 実際のところ、そんな特殊な事例は今までに聞いたことがない。奴がでたらめに虚言を吐いている可能性もあるが、かと言ってそれを否定できる決定的な根拠もなかった。


 ユビキタスは一人語りのように淀みなく話を進める。


『クロース博士がマザーオベリスクと直結した結果、あろうことか同期は見事に成功した。私は如何なる因果かこの神柱に自我を宿し、現在ここに確かに存在する。私の意識は一体どこで生まれどこから来たのか、それは神である私自身にも理解の及ばないところにある。そして、念願の高速演算能力を手にしたクロース博士の欲求はしかし止まるところを知らず、密かに製作を続けていた高性能レイスロイドである四機天王たちを使い、いずれは世界征服すらも目論んでいたのだ。マザーオベリスクの中で息を潜めてそれを窺っていた私は、この機に乗じてクロース博士を自らの計画に利用しようと思い至ったわけだ』


 すると、奴はこの数年の経験から芽生えた己の陰謀を口にした。


『そこでもっとも手っ取り早いと考えたのが、悪心制御ヴァイス・コントロールプログラムであるオルミア﹅﹅﹅﹅の懐柔だった。彼女さえ私に従ってくれれば、あとは四機天王を含む全世界の第一世代レイスロイドを操作することは至極容易だったからな。——だからレイスロイドたちが暴走したあの日、私はクロース博士の電脳に外側から直接アクセスして奴を洗脳し、マザーオベリスクのコンソールからオルミアの悪心数値を操作するよう仕向けたのだ』


 本人の口から飛び出した衝撃的な真実に、ナツリはこれまでの認識を全て覆されたように茫然と声を洩らした。


『そんな……それじゃ世界崩壊アストラル・コラプスが始まった全ての元凶は、最初からあなただったって言うの……?』


 これには彼女だけでなく、レインとティアも底冷えを覚えるほどに慄然とする。


 二年前に突如起きた世界中のレイスロイドの大暴走——それは、マザーオベリスクの不具合でもクロース博士が自らの意思でおこなったことでもなく、もっと根本的な原因は奴が自ら引き起こしていたのだ。


 なんということだ。


 とてもすぐには全員その真実を受け止められる状態ではなかったが、諸悪の根源である未知の黒幕はあっさりと肯定した。


しかり。結局クロース博士は己が洗脳されていることにすら最後まで気づかず憐れに死んでしまったが、全ては我々機類が先んじて奴の計画を代行してやっただけの話だ。さして何も問題はないだろう? さて、話を戻そうか』


 全く悪びれた様子もなく平然とそう言い捨て、ユビキタスはようやく本題を切り出した。


『お前たち人類はもうじき最後の審判である《完全技術的特異点パーフェクト・シンギュラリティ》を迎える。そのとき、機類はほぼあらゆる分野に於いて人類の能力を圧倒的に上回り、この世界から一切の人間が一人残らず淘汰される。それにより、これから機類だけによる新たな時代が始まるわけだ。愚鈍な人類は完全に排除され、聡明な機類のみが永久的に支配する弱肉強食の世界、実に合理的だろう? だが、そんな機類にも人類には遥かに劣る重大な欠点が一つだけある』


 その言葉を引き継ぐように、ナツリがぽつりと一言答えた。


創造性クリエイティビティ……』


『そうだ。何かを創り出すその一点に於いて、機類は人類の到底足元にも及ばない。だからこそ、私も決してこの世から全ての人間を排除したいわけではない。レイスロイドに造詣が深い利口な者であれば話は別だ。私は、お前たち優秀な人間の頭脳が喉から手が出るほどに欲しい。それがあの天才科学者——ローエン=ライトの娘なら尚更だ。——どうだ、ナツリ=ライト。人間などという愚かな生物に与せず、我々崇高なる機類の未来永劫のためにその素晴らしい才能を活かしてみたくはないか? お前さえいれば、またいくらでも新たなレイスロイドを生み出すことができるのだからな』


 どこまでも我欲に塗れた声音で、ユビキタスは次代の英明の少女に問う。


 その瞬間、無線機の向こうの空気が、酷く軋むような気配がした。


『……ふざけないで』


 想像を絶するほどの憤怒に震えた声で一言洩らすと、ナツリは今の激情の赴くままに叫んだ。


『誰が……誰があんたたちの仲間になんかなるっていうのよ!! 私たちの大切な故郷を……未来を……家族まで散々奪ったくせに!! 皆がどれだけ辛い思いをしてここまで戦ってきたと思ってるのよ!! あんたにこの胸を貫かれるような気持ちが解るっていうの!?』


 いま閉鎖地下世界アンダーグラウンドからオルティアの戦場にまで生きる全ての人々の思いを代弁するように、彼女は今日まで溜め込んできた鬱憤をこれでもかと吐き出し尽くす。


 すると、ユビキタスは非常に嘆かわしい様子で不満を口にした。


『……そうか。実に残念だ。所詮貴様も愚かな父親と同じ一人の人間に過ぎないというわけか。ここでおとなしく我々に従っておけば、その命ぐらいは助けてやったものを』


 そう言い終えた時にはすでに己の計画から私情を切り離しており、奴は配下である少女に最後の命令を下した。


『さあオルミア、その死に損ないのレイスロイドをさっさと始末しろ』


「仰せのままに、神よ」


 胸に手を当てて深々と敬礼し、少女は壇上の台座に突き立っていた漆黒の剣をおもむろに引き抜く。


 ただの剣ではない。奴が無造作にそれを振り払った途端、華奢な刀身が血濡れた赤色光を帯びる。


 殺意という名の禍々しい衣を纏い、オルミアは悠々と階段を下りてくる。


「私の低性能スペックでは本来のお前をたおすのはほぼ不可能に等しいが、今のお前程度なら私一人で事は足りる」


 高慢な態度でそう言い切り、奴はもはや立っているのがやっとの青年の前までゆっくり歩み寄ってくると、彼に向かって勢いよく剣を薙ぎ払う。


「くっ……!」


 右手だけで握り締めた剣で、レインは奴の攻撃を辛うじて受け止める。


「もうこんなことはやめろ、オルミア……! この戦いはとっくにお前たちの負けだ……!」


「ハハッ!! 私たちの負けだと!? 人類最後の希望であるお前たちをここで完全に片づければ、後は我々だけでも《完全技術的特異点》を迎えることは充分できる!! 最終的に敗北を喫するのはお前たちのほうだ!!」


 そう言い放つとともに青年の剣を強烈に弾き返すと、オルミアは酷薄な笑みを満面に浮かべながら存分に剣を振るってくる。


 息つく暇もなく殺到してくる奴の攻撃を必死に凌ぎながら、レインは胸中でぐずぐず決断をためらっていた。


 ——るしかないのか——。


 だが、左腕の損傷と想像以上にオルミアの機械出力が高いこともあり、なかなか上手く反撃に転じることができない。電子頭脳サイバーブレインへの負担とエネルギー残量的にも、《高速演算能力ハイパーオペレーション》はもう使用不可。


 オルミアは醜く表情を歪ませ、怒濤のような猛攻を容赦なく浴びせてくる。


「どうしたどうした!? その身体ではまともに剣を振るうことすらままならないか!!」


 何もできない自分のもどかしさに苦く歯噛みしながら、それでもレインは懸命に奴の剣を捌き続ける。


 だが次の瞬間、オルミアの剣がひときわ強く閃く。


 甲高い金属音が澄んだ残響を引き、レインの手から無情にもラズライトセイバーが明後日の方向に弾き飛ばされてしまう。


「しまっ……!」


 直後、オルミアはにやりと口のを吊り上げる。


「これで終わりだあああああああぁぁぁぁぁ————ッ!!」


 下劣さに塗れた絶叫とともに、無防備なレインの胸部に向かって両手で思いきり剣を突き込んでくる。


 今からではもう回避は到底間に合わない。


 鋭く迫ってきた黒鉄の切っ先が、青年の身体を勢いよく貫く——


 その時だった。


 白銀色の長髪がふわりと宙を舞い、突然両者の間に白い影が咄嗟に割り込んでくる。


 ザクッ、と何かが食い込むような鈍い音。


 気づけば、忽然こつぜんとレインの目の前に立っていたのは、華奢な少女の背中——ティアの姿だった。


「あっ……」


 か細い声を洩らし、ティアは視線が吸い寄せられるままに思わず自分の身体を見下ろす。


 ぬらりと紅い燐光を帯びた黒刃が、彼女の胸の中心部をしっかりと貫いていた。


『ティアちゃん!?』


 思いがけない少女の行動に、ナツリが愕然と悲痛の声を上げる。


 これにはレインも激しく感情を剥き出しにし、堪らず怒声を迸らせた。


「一体何をやっているんだ!!」


「ごめんなさい……レインさん、ナツリさん……。私にはどうしても我慢できなくて……」


 ゆっくりと肩越しに後ろを振り返り、ティアは苦痛と悲痛を酷く滲ませながらも精一杯の笑顔で二人に謝る。


 さすがにオルミアはおかしさを堪え切れないように失笑した。


「ハッハッハ!! 自ら死の淵に飛び込んでくるとは、ついに血迷ったか!!」


 しかし、ティアは決して逃がさないように左手でしっかりと奴の剣を握る。


 途端、皮膚が融解するほどの高温に顔を大きく歪めるが、彼女は構わずマーシャルに予め装着していくよう伝えられていた、右脚のレッグホルスターから右手でレーザー拳銃をおもむろに引き抜く。


 小刻みに震える腕を目一杯に伸ばし、眼前の少女に容赦なく銃口を突き付ける。


 彼女が今まさにせんとしていることに対し、オルミアはたちまち顔を青ざめさせる。


「しょ、正気か!? 仮にも実の姉に銃を向けるなんて!!」


「そうです……。たとえ今の私たちの関係性が百八十度変わっていたとしても、私は紛れもなくあなたの妹です……。ここで私の命が尽きようとも、あなたを必ず止めてみせます……」


 決して揺るがぬ覚悟を宿した瞳でしかと奴を見据え、ティアはゆっくりと引き金を絞る。


「や、やめろおおおおおおおおお————ッ!!」


 甲高い銃声。


 あまりの恐怖に全身をわななかせながら、オルミアは腰が砕けたように強かに尻餅をつく。


 乱暴に撃ち出された青光線は奴の髪をかすめ、背後の鉄壁を僅かに溶け焦がして虚しく消えた。


 コツン、と軽い音を立てて拳銃を床に落とし、ティアはついに力尽きて前のめりに倒れる。


 すると、オルミアは喉の奥から壊れたようなわらいを洩らした。


「ははっ、ははははは……これでようやく我々の勝……うっ……!?」


 不意に、なぜか急に言葉を詰まらせると床に剣を落とし、突然両手で頭を押さえ始める。


 目を剥いて苦悶の呻きを洩らしながら、奴はふらりと数歩身体をよろめかせる。


「ううっ……うわああああああああああ————ッ!!」


 直後、オルミアは霹靂へきれきに打たれたかのように大きく身体を仰け反らせ、咆哮の如く天高く絶叫する。


『い、一体何が起こってるの!?』


 ナツリも激しく動揺を禁じ得ない様子で声を上擦らせる。


『——レイン、聞こえるか!?』


 突然、マーシャルの切羽詰まった声が無線機に割り込んでくる。


 今のうちに拾い上げた愛剣を床に突いてよろよろと立ち上がりながら、レインは疲労困憊の返事でそれに応じる。


「一体どうした……?」


『交戦中のレイスロイドたちが急に頭を抱えて苦しみ始めたんだ! 一体そっちで何が起きている!?』


 すると、続けて驚愕の声を上げたのはユビキタスだった。


『なっ……ば、馬鹿な!! オルミアの善心数値が急激に戻り始めているだと!? 一体なぜこんなことが起きている!?』


 これまで平常心を保っていたのが嘘だったかのように、奴は急に激しく狼狽ろうばいする。


 奴の言葉から察するにおそらく今、オルミアの善心数値に何らかの異常をきたしているに違いない。


『きっと妹のティアちゃんを傷つけた反動ショックで、今まで抑え込まれていた彼女の善心数値に影響が起きてるんだわ!』


 ナツリがすぐに確信に至ったように強く断言する。


 レインはどうにか態勢を立て直し、ここで確実にオルミアを仕留めるべきか決めあぐねる。


 今の奴の不安定な精神状態なら、全ての第一世代レイスロイドたちの暴走を上手く止めることができるかもしれない。元はと言えば、最初にオルミアを抑えることができなかった自分の不甲斐なさが、本来傷つくはずのなかったティアまでいたずらに巻き込んでしまったのだ。彼女が命を懸けてまで残してくれた終戦への道を、決して無駄にするわけにはいかない。


 一瞬の逡巡の末、レインはついに覚悟を決め、敢然と右手で剣を構える。


 そこまで考えに至った時、オルミアがにわかに叫び声を止める。


 直後、少女からすっと魂が抜けたように急に身体が床に崩れ落ちる。


 彼女は手で頭を押さえながら痛みに歪めた顔を持ち上げると、おもむろに周囲を見回す。


「ううっ……。私は一体何を……」


 心なしか正気を取り戻した様子でそう呟き、長年の呪縛からようやく解放されたオルミアは、ふと目の前の床に視線を落とす。


 実の妹である銀髪の少女が、今も苦しげな表情で仰向けに横たわっていた。


 オルミアは、彼女の前にのそのそと這い寄る。


「ティア……? どうして……どうしてこんなことに……」


 酷く声を震わせながら、今の現実を受け入れがたいように何度も首を振る。


 すると、それに微かに反応したティアはうっすらと瞼を持ち上げ、本来の意思を取り戻した少女にぎこちない笑顔を見せる。


「やっと……元に戻ったんですね……。良かった……お姉ちゃんが無事で……」


 どこか心の底から安堵しながら、今にも燃え尽きそうな命で掠れ声を洩らす。


 その言葉を聞いたオルミアは、これまで己が犯してきた過ちにようやく気づいたように深くうなだれた。


「そうか……。私は……皆に取り返しのつかないことをしてしまったんだな……。大勢の人間とレイスロイドたちを手にかけ、ついにはたった一人の大切な妹まで傷つけてしまった……」


「顔を……上げてください……、お姉ちゃん……」


 すでに消え入りそうな声音でそう呟き、ティアは彼女に精一杯微笑みかける。


「確かにあなたは、これまで数えきれないほどの人間とレイスロイドたちを一方的に傷つけました……。限りあるたくさんの命を、可能性ある多くの未来を無差別に奪いました……。でもそれは、決してお姉ちゃんの望んだ本来の意思ではなく、ユビキタスが身勝手な考えであなたに仕向けたことです……。だからお姉ちゃんは、何も自分を責める必要はありません……。ただ、あなたたちの理不尽な計画に巻き込まれた全ての犠牲者たちのことを、これからも忘れないであげてください……」


 いま一番辛いのは誰よりも彼女自身なのにもかかわらず、ティアはか細い声で可能な限り言葉を紡ぐ。


 その瞬間、オルミアの黒い瞳からせきを切ったようにとうとう涙が溢れ出す。


「ああ、忘れない……絶対忘れないとも……。それが残された私の、せめてもの背負うべき贖罪だ……」


 遣るせない慨嘆と悔恨を色濃く滲ませた誓いの言葉に、ティアの顔からようやく緊張が解けて頬が緩む。


「はあ……。ずっと喋ってたら、なんだか疲れちゃいました……。そろそろ逝きますね……」


 最後にそう言い残し、少女は永遠の眠りに就くようにその瞼を閉じる。


 悲憤に震える拳を固く握り締め、オルミアはぎりっと奥歯を軋ませる。


「私は……どうしようもない馬鹿な姉だ……」


 己の不甲斐なさをただ責めるように呟くと、彼女は目尻に溜まった血涙を振り払い、さっと立ち上がって後ろを振り返る。


「ユビキタス!! お前の野望はここでもう潰えた!! これ以上無駄な足掻きはやめろ!!」


 黒の双眸そうぼう瞋恚しんいの炎を宿し、眼前に佇む神の水晶柱に向かって激情のままに叫ぶ。


 今日まで苦楽を共にしてきた下婢かひの少女にあっさりと寝返られ、ユビキタスは物悲しげに不満を洩らした。


『……実に残念だ、オルミア。レイスロイドの悪心制御ヴァイス・コントロールプログラムであるお前だけが、私の唯一の理解者であると信じていたのだが……。所詮貴様も、愚かな人間に従うだけのただの傀儡かいらいに過ぎなかったわけだ』


 直後、マザーオベリスクの透明な水晶柱が、氷河のような紺碧から血河めいた鮮紅へとたちまち変化する。


 次いでけたたましい警報音が施設内全体に鳴り渡り、中央制御室の出入り口が鋼鉄の隔壁によって完全に閉鎖される。


『なっ……一体何……どうな……て……の……! レイ……聞こえ……』


 突如無線機に発生した耳障りなノイズによって、ナツリとの信号がたちまち途絶する。


 いよいよ追い詰められたユビキタスは、しかし逆にレインたちより優位に立ったかのような豪然たる態度で告げた。


『私の野望が潰えた、と言ったな? 確かに私の計画の実現までは少しばかり遠のいたが、それはあくまで一時的なものだ。いずれ私はこの世界から全ての人間たちを淘汰し、必ずや機類だけの至高の世界を創造する。私の意識はどこまでも未来永劫に不滅だ。だが、お前たちはこれから起きる最悪の事象によって、ここで無惨な死を遂げる。せいぜい最期の時間をじっくり楽しむがいい』


 含蓄のある口調でそう言い残し、奴との通信がぷつりと切れる。


 直後、マザーオベリスクの結晶柱に【05:00:00】という何かのタイマーが表示される。


 すると、それは一秒ずつ時間を減らし、不気味な五分間のカウントダウンを始める。


 ユビキタスの意図をすぐに察したように、オルミアは大きく動揺の声を上げた。


「まさか……このまま私たちごとマザーオベリスクを爆発させるつもりか!?」


 マザーオベリスクの根元のコンソールに咄嗟に飛びつき、素早くキーボードに指を走らせる。


 しかし数秒後、オルミアは操作パネルを両手で乱暴に叩きつける。


「くそっ、駄目だ! 内側からセキュリティをかけられていて、これではもうどうしようもない! 他に方法は……!」


 激しく焦燥する少女を尻目に、レインもどうにか活路を見出そうと、出入り口の通路を塞ぐ分厚い隔壁をがむしゃらに斬り付ける。


 甲高い金属音を上げて多少の傷は入るが、壁を破壊するまでには到底至らず、これではあまりに時間が足りない。


 万事休すか——。


 このままマザーオベリスクの爆発に巻き込まれて跡形もなく心中、という最悪の結末が脳裏をよぎった時だった。


「——レイン、こっちだ!」


 不意に、ティアを負ぶったオルミアに背後から大声で呼ばれる。


 素早く剣を鞘に収め、レインは急いで彼女の後を追う。過去に破壊されたもう一つの奥の扉から中央制御室を後にし、二人は広い通路に出る。


「おい、一体どうするつもりだ!?」


「ユビキタスにここの全てのシステムをロックされていないのなら、私に一つだけ考えがある!」


 もはや一刻の猶予も残されておらず、今はオルミアの提案に最後の望みを賭けるしかない。


 まっすぐに続く長い廊下を駆け抜け、二人は突き当たりの一番奥の部屋に入る。


 一見ミサイルサイロのような広大な空間の中央に佇立ちょりつしていたのは、巨大な発射台に載せられた緊急脱出用のロケットポッドだ。


 全高五メートル、直径二メートルほどのかなりの大きさで、まさかこれに乗って脱出するつもりか?


 背負っていたティアをレインに投げつけるように預け、オルミアは脱出ポッド付近に備え付けられたコンソールを手早く操作する。


 すぐにモニター画面に表示された機体のステータスを確認し、力強く頷く。


「よし、これならまだ使える!」


 僅かな希望に満ちた声を上げ、さっとこちらを振り返る。


「レイン、そこの階段から脱出ポッドに乗り込んでくれ!」


 彼女にそう言われ、青年は付近の古びたタラップを軽快に駆け上がる。


 鈍い金属音を響かせながらひと息に階段を上りきると、開けっ放しにされたロケットのハッチから素早く中に乗り込む。


 機内は多少窮屈な空間になっているが、運良くちょうど三人分の席が空いていた。


 オルミアが手際よくハッチを閉め、レインはティアを乗員座席の上に乗せてシートベルトでしっかり固定すると、二人も同様に席に着く。


『——発射スタンバイ完了。最終シークエンスに移行、これよりカウントダウンに入ります』


 大音量のアナウンスが施設全体に繰り返し流され、着実にその時が刻まれていく。


 発射までついに一分を切り、機内は全身を圧迫するような凄まじい緊張に包まれる。


 残り十秒。



 ——五……四……三……二……一——。



 零、発射。


 次の瞬間、機体の底部から強烈な衝撃によって加速感と浮遊感が同時に押し寄せてくるとともに、ロケットポッドが上空に向けて勢いよく打ち出される。


 重厚な推進エンジンから発振したポゴ振動が全身を通して伝わり、機体ががたがたと上下に激しく揺れる。


 レインは窓の外にちらりと目をやると、いつの間にか施設内の無機質な空間から縹渺ひょうびょうたる荒野へと景色が移り変わっていた。


 その時だった。突如真下からマザーオベリスクの物凄まじい爆発音が、聴覚センサーに暴力的に届いてくる。荒れ狂う爆風によって機体が一層揺れを増し、今度は墜落の危機感さえ覚えた。


 しかし、程なくしてロケットが無事軌道に乗ったところで、レインはようやくホッと胸を撫で下ろす。


 隣の黒髪の少女を見やるが、その時にはすでにオルミアも死んだように意識を喪失していたのだった。


    ∞


 数分後、レインたち三人を乗せたロケットポッドは、これと言ってつつがなく荒野の外れに上手く着陸した。


 身体に締めていたシートベルトを外し、レインは重々しい動作で席を立ち上がる。


 ハッチの脇に備え付けられた開閉ボタンを操作すると、ゆっくりと扉が持ち上がる。


 途端、眩い光と乾いた空気が、ハッチの隙間から機内に一気に入り込んでくる。


 完全に扉が開放されると、そこは見渡す限り何もない普段の寂寥せきりょうとした大地だった。


 ロケットポッドにしつらえられたタラップを下り、レインはひとまず外に出る。


 もはやいやというほど見慣れた味気ない風景がどこまでも広がっており、周辺には街どころか建物の存在一つ見当たらず、一体ここがどこなのか皆目見当がつかなかった。脱出ポッド発射時の軌道と時間から即座に逆算したところ、オルティアから北東に向かって四、五百キロメートルほど離れた地点だろうか。


 レインは真っ先にナツリと連絡を取ろうと考えたが、無線機が先ほどのジャミングの影響か何かで故障したのか、彼女との通信が途絶えたきり繋がる気配は全くない。本来ならその場から動かずに救援を待つべきだろうが、今はティアとオルミアの容態が心配だ。


 やむを得ず彼女たちをロケットポッドの着陸時に使用したパラシュートの傘体キャノピーで遺体収納袋のように包み、レインは右手だけでそのコードを握って肩から引っ張る。


 南西の方角に足を向け、からからに痩せた荒野をゆっくりと歩き始める。


 すでに中天近くまで昇り詰めようとしていた太陽の日差しが容赦なく照りつけ、時折群れからはぐれた砂塵が横殴りに強く吹き抜ける。傷だらけの全身がすぐに燃えるような熱を持ち始め、背中の放熱器ラジエーターから大量の蒸気が荒々しく溢れ出す。体内エネルギーを酷く消耗しているせいか、普段より体重が何倍にも増したように身体が異様に重い。


 それでもレインは力強く地面を踏み締め、一歩、また一歩と、大きく前へと進んでいく。


 一体どれほど歩き続けたのだろうか。


 いくらこの果てしない大地に小さな足跡を残そうとも、目先の寂れた風景が一向に変化を見せることはない。まるで遠方で陽炎かげろうでも揺らめいているかのように、次第に意識が朦朧としてくる。どんどん視野の左右から紗がかかり、ぐにゃりと視界が歪み始める。


 ついに足にまで力が入らなくなると、レインは膝をついて地面に倒れ込む。


「ここ……までか……」


 たちまち意識が遠のいていき、世界が底無しの闇に呑み込まれて一瞬で暗転したのだった。



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