第二十五話 再会

 オルティアの街のメインストリートにてエステアたちを再起不能にした後、レインとティアはセントラルタワーの内部に無事侵入を果たしていた。


「中央制御室はこの通路をまっすぐに行ったところです!」


 ティアに案内されるがまま、レインは施設の奥へと続く長い廊下をひた走り続けていた。


 待ち伏せしているレイスロイドはもはや誰もおらず、臆することなくどんどん先に突き進んでいく。


 蛍光灯の照明を氷のように照り返す無機質な通路を一気に駆け抜けると、突き当たりに大きな二枚扉が目に飛び込んでくる。


 赤外線センサーが反応して両開きの自動スライドドアが短い電子音とともに開き、二人はついにセントラルタワーの最深部にある中央制御室へと辿り着く。


 そこで待っていたのは、全面金属に覆われたドーム型の大空間の中央に佇む、分厚い強化ガラスの容器に厳重に格納された巨大な四角柱の青い石だった。目測でも全高およそ十メートル以上はあろう規格外の大きさを誇り、今も月影の如く朧げな燐光を深々と発していた。


『これがマザーオベリスク……? ただのゼノライトの塊じゃない……。これで今まで全てのレイスロイドたちの制御をおこなってたっていうの……?』


 ナツリが無線機から思わず唖然とした声を洩らす。


 あまりの威容な光景に目を奪われていたせいで、レインたちはその重厚な鍵盤音に遅まきながら気づいた。


 部屋の隅々まで冴え渡るような、嚠喨りゅうりょうたる美しい音色。


 その流麗な音源に引き寄せられるまま左手に視線を向けると、この異空間には酷く不釣り合いにしつらえられた小さな壇上で、一人の少女がベンチ椅子に腰掛けながら黒塗りのグランドピアノを演奏していた。


 烏羽色からすばいろのショートカットの髪に同じく黒いレース素材の半袖ワンピースを装い、その下には不純物の入る余地など一切ない手足の白磁の肌が滑らかにあらわになっている。


 一見人間の少女が観客のいない演奏会を一人寂しく開いているだけだが、こんな物騒極まりない場所に人間の存在などまず皆無だろう。二日前にティアの話していた通りなら、おそらくこいつが……。


 疾走感溢れる彼女の荘重な演奏に、レインたちはこのままずっと静かに聴き入ってしまいそうだった。


 不意に少女はぴたりと演奏を止め、おもむろに立ち上がると、潔くワンピースの裾を翻して後ろを振り返った。


「ついに来たか」


 あらゆる光を吸い込むような深い呂色の双眸そうぼうが、こちらを射貫くようにひたと見据える。


「お姉ちゃん……」


 どこか懐かしさを伴った響きでそう呟き、ティアは自分の姉の少女と二年ぶりにようやく向き合う。


 これにはオルミアも予想外だったように早速話を切り出した。


「久しい顔ぶれだな。先日オズから青いレイスロイドの目撃情報は聞いていたが、まさか本当にお前たちが生きていたとは……。エステアとの戦闘を映像で見た時はさすがに驚いたぞ。——二年前の任務報告ではてっきり死んだと聞いていたが?」


 そう鋭く問いかけ、水晶柱マザーオベリスクの脇にちらりと目を遣る。


 少女の視線の先には、顔に奇怪な鉄仮面を被り背中に漆黒のマントを着けたレイスロイドの大男が、空間の薄闇に溶け込むようにひっそりと一人佇んでいた。


 すると、奴は不気味にくぐもった低い機械音声を発した。


「俺も今までそう信じ込んでいたが……。どうやらお前の片割れのほうは、谷底に落ちた時に奇跡的に生きていたようだな。だが——」


 鉄仮面の眼窩がんかの奥から紅い眼光をぎろりと覗かせ、レインに粘つくような鋭い視線を向ける。


「そこの青きレイスロイドよ。二年前の新たな創世の日、俺は確かにお前を殺したはずだが?」


 もっともな疑問に対し、ティアがそれに即答した。


「そうです。世界中の第一世代レイスロイドたちが暴走を起こしたあの日、あなたは私を狙おうとした際にオルティアの正門前で青いレイスロイドのラピスを殺したはずです。ですが、そこにいる彼——レインは、原型プロトタイプであるラピスを基に造られた同じ第二世代レイスロイドであり、死んだ彼本人ではありません」


 解れば至極単純な答えに、オルミアはようやく得心がいったように頷いた。


「……なるほど、全てそういうことだったか。どうりであのガンドロスやエステアたちがことごとくられるわけだ。もし最初に造られた原型の奴なら、いくら四機しき天王てんのうの格下二人でもあんな半端なレイスロイドに負けるはずなどないからな。まったく……殺したのなら真っ先に死体の確認をしろとあれほど言っていたものを……」


 鉄仮面のレイスロイドのほうをちらりと見やるが、奴は如何にもばつが悪そうに何も言葉を返さない。


 オルミアは心底呆れたように肩をすくめ、レインたちに改めて視線を戻した。


「まあいい。今までお前たちが一体どれだけ足掻いてきたのかは知らないが、どうせ今日ここで死ぬのだからな」


 にやりと嗜虐的しぎゃくてきに口のを大きく吊り上げる。


 すると、ティアはどれだけ考えても理解できないように激しくかぶりを振った。


「どうして……どうしてあんな酷いことをしたんですか!? お姉ちゃん……いえ、オルミア!! レイスロイドたちの感情操作もクロース博士が密かに製作していた四機天王の存在も、最初から全部あなたが計画していたことだったんですか!?」


 そう荒く問いただすと、突然オルミアは不気味に喉の奥からわらいをこぼした。


「私の計画、だと? クックック……それは違うな。これは、我らが《神》の意志だ。この地上に存在する一切の人間どもを排除し、我ら機類が理想の世界を一から創り直す。それが、天上の神が望んだ唯一の願いだ」


「そんな……一体どうして……」


 まるで何かに取り憑かれたような少女の言葉に、ティアは激しく理解に苦しむ。


 そんな彼女を憐れみの目つきで見下ろし、オルミアはこれまで人類が犯してきた罪科を容赦なく並べ立てた。


「なに、単純なことだ。お前たちが味方する低俗な人類より、高尚たる我々機類のほうが遥かに利口だからだ。人間は度しがたくあまりに醜い生き物だ。私利私欲のためなら己の同胞すら手にかけ、決して尽きることのない争いを生み出し続ける。お前たちのような生まれながらにしての世界の汚点は、次なる新たな世界には一切不要だ。しからば、至高の存在たる機類がこの世を統べるのは理の当然だろう?」


「そんな身勝手な理由で……世界中の人々を殺したんですか……」


 ティアの口からかすれた声が茫然と洩れる。


 だが彼女は、ずっと胸中に秘めていた本音を口にした。


「……確かに人間は、永遠に過ちを犯し続ける生き物かもしれません。しかし私は、この数日間でたくさんの人たちと触れ合い、共に楽しく生活をし、そして限りある命の尊さを学びました。このセントラルタワーという狭い世界に閉じこもっているだけでは決して得られない、とても貴重な経験をしました」


 今まで自分の感じたことをありのままに曝け出すように、さらに言葉を紡ぐ。


「人間は誰しも心に悪を抱いています。しかし、誰しもが皆悪人だけではないんです。中には心を深く傷つけられながらも、必死に強く生きようとしている人たちも大勢います。それなのにあなたはただ人の悪い部分だけを都合よく取り上げ、今も苦しんでいる人たちのことをまるで理解しようとせず、一方的に弱者を虐げている。そんな独りよがりな支配はただの独裁者と同じです、オルミア!!」


 ティアは勇ましい声で舌鋒鋭く言い放つ。


 それに対し、オルミアはクックック……とおかしさを堪えきれないように嗤いを洩らす。


「その愚かな人間の傍にいながら、それすらまともに理解できないとは……。まったく……お前は本当にどこまでも救いがたい奴だ、ティア。もはや善心制御ヴァーチュ・コントロールプログラムなどという余分な存在は機類に一切必要ない。せっかく拾った大事な命だというのに、わざわざ自ら捨てにくる羽目になるとは実に哀しい」


 口許を薄く歪め、寒気を禁じ得ないほどの冷酷な笑みを浮かべる。


『——待って!!』


 不意に、レインの機体に搭載された拡声器から、ナツリの声が空間全体に大音量で響き渡る。


 彼女はこれまでずっと気になっていたであろう質問を投げかけた。


『どうしてもあなたたちに一つきたいことがあるわ! ——お父さんは……いいえ、二年前にここに来たはずのローエン=ライトは一体どこに行ったの!?』


 その名前を聞いた途端、オルミアは胡乱うろんげに眉をひそめる。


「……ローエンだと? ああ、そういえば昔そんな馬鹿もいたな。レイスロイドの制御などすでに手遅れなのにもかかわらず、のこのことここに戻ってきたかと思えば——最期はマザーオベリスクを破壊するために呆気なく自爆とは……。まあ、その些細な抵抗も全くの無意味に終わったが」


『そんな……』


 絶望に打ち砕かれた少女の声が、微かに聞き取れる程度で無線機に茫然と流れる。


 次の瞬間、彼女のいる管制室の空気が、激しく軋むような気配がした。


『お父さんを……私のお父さんを返して!! 返してよ!! ねえ!!』


 自分の父親を奪った憎き怨敵に向かって、ナツリは身も世もなく子供のようにただ泣き叫ぶ。


 その悲痛の訴えを聞いたオルミアは、ようやく合点がいった様子で下劣に失笑した。


「ハッハッハ!! そうか、お前があのローエンの娘か! だが残念だったな。それはお前たち人間がもっとも理解しているはずだ。現代の最先端の医療技術をいくら駆使しようが、死んだ生物が再び生き返ることはない。まったく……人間というのは些細なことで簡単に壊れてしまうのだから、実に脆い生き物だ」


 全てを達観したような口振りであざけり、所在なげに佇んでいた鉄仮面のレイスロイドをちらりと一瞥いちべつする。


「ずいぶんと話が過ぎてしまったな。——あとはお前の好きにしていいぞ、ラスカー」


 殺せ、という端的な意思表明だった。


 その命令に従い、鉄仮面のレイスロイドが豪然たる歩調で静かに前に出てくる。


「そういうことだ。お前たちの今までの無駄な努力は、ここであえなく全て徒労に終わる。四機天王の最後の一人、このラスカーが直々に手を下してやろう」


 すると奴は、腰から何やら機械仕掛けの黒い金属筒のようなものを取り出す。


 ガキン! と直後歯切れのいい金属音とともに、その筒の両端からぬらりと光る二枚の黒刃が勢いよく突き出る。


 それは、如何にも使い勝手が悪そうな細長の両刃剣だ。途端、両の鋭利な刀身が生き血を想起させるようなほのかに紅い熱を宿す。


「——ナツリ!!」


 これまで信じ続けてきた自分を指揮するパートナーに向かって、レインは活を入れるように強く叫んだ。


「お前にはまだやるべきことがあるだろう! だったらその意志を最後まで貫き通せ!」


『……ッ!』


 直後、鼻のすすりと衣擦れの雑音が、無線機に荒く入り込んでくる。


『ごめん……。つい取り乱しちゃった……』


 己の行動を深く省みたナツリは、その時には気を取り直して再び口を開いた。


『……そうね。私にはまだやらなきゃいけないことが残ってる。この二年間辛いことは数えきれないほどあったけど、それでもめげずにここまでやって来た。だって……この馬鹿げた戦争を終わらせるために今日まで闘い続けてきたもの!』


 ようやく吹っ切れたようにいつもの快活な声を上げる。


 それに対し、レインも不敵に薄く笑む。


 左腰の愛剣を鞘から抜いて電源を入れると、正面に力強く両手で構える。


 一見したところ、ラスカーの得物はあの両刃剣一本だけのようだ。最初から得意な近接戦闘に持ち込めるなら、こちらは願ってもない好都合だが。


 レインは半身を深く沈み込ませると、じっと相手を見据えたまま臨戦態勢に入る。


 空間全体が、ほんの一時だけ奇妙な静けさに包まれる。


 直後、レインは頑丈な床を踏み抜かんばかりの勢いで蹴ると同時に、電光石火で一気に前へと躍り出る。


 強靭な人工筋肉から生み出される驚異的な脚力により、一陣の風の如く一直線に疾駆し、彼我の間合いを瞬時に詰める。


 一方のラスカーはなぜか剣すら構えることなく、おもむろに左掌だけを正面にかざしてくる。


 ——まさか片手でこちらの攻撃を受け止めるつもりか?


 なるほど、どうやらこれは随分と舐められたものだ。向こうがそのつもりなら、こちらは遠慮なくその優位性アドバンテージを活かさせてもらおうか。


 レインはラスカーの懐に滑り込むように鮮やかに肉薄すると、隙だらけの奴の左腕に向かって速攻で剣を振り払う。


 透徹とした青碧の刀身が、肩の付け根から腕まで呆気なく斬り飛ばす瞬間を強くイメージした——。


 その時だった。突然後ろに引っ張られるような強烈な浮遊感と加速感が、全身に容赦なく襲いかかってくる。


 吹き飛ばされる——。


 そう認識した時には、レインは背後の壁に思いきり縫い付けられていた。


「ぐはッ!」


 背中に鈍い痛みが走り、ずるずると床に滑り落ちる。


『い、一体何が起きたの!?』


 突如起きた不可解な現象に、ナツリも激しく動揺を禁じ得ない。


 こちらが硬直した隙にラスカーが透かさず剣で畳み掛けようとしてくるが、レインは決して奴の接近を許さず、即座にホルスターから拳銃を抜き去り光線を連射。


 しかし、ラスカーは最小限の動きで無造作に剣を動かし、事もなげに光の弾丸を全て迎撃する。


「そんな玩具おもちゃで本気で俺をたおせると思っているのか? 来ないならこちらから行くぞ」


 そう告げた直後、奴は影が床を滑るようにぬるりと前に躍り出てくる。


 レインは素早く体勢を立て直すと、ここで一切出し惜しみすることなく《高速演算能力ハイパーオペレーション》を起動させる。


 瞬間、ラスカーの動きが本来の百分の一の速度までたちまち減速する。


 オルティアまでの突入とエステアたちとの連戦もあり、電子頭脳サイバーブレインへの負担と機体のエネルギー消耗がさすがに懸念されるが、これが最後の戦いだ。


 真正面から堂々と突っ込んできたラスカーに対し、レインは横一文字に力強く剣を薙ぎ払う。


 今度は奴も全力で剣を打ち下ろし、互いの刀身が激しくぶつかり合う。


 甲高い金属音と大量の火花が、鋭利な刃の交差点で炸裂。勢いよく弾かれた双方の剣は一合の打ち合いに留まるはずもなく、ここからさらに高速の剣戟が繰り広げられる。両者の間に赤と青の閃光の軌跡が幾重にも交差し、空間の薄闇にいくつもの発火の花が鮮烈に咲き乱れる。傍から見れば、ほとんど視認できないほどの速度で剣が宙を走っていることだろう。


 無論、レインの眼には今も《高速演算能力》によってラスカーの剣の動きがはっきりと見て取れる。一切無駄なく8の字を描いて二枚の黒刃が立て続けに殺到するが、青年はどれも巧みに寄せ付けないようにことごとく剣で弾き返す。


 見える。その熾烈な攻防の間隙かんげきを縫うように極限まで研ぎ澄まされた見切りにより、レインは奴の振り下ろしてきた剣に鋭く反応し、素早く身体を柔軟に捻って紙一重で攻撃を躱す。


「……ッ!?」


 鉄仮面の眼窩の奥に、ラスカーは確かな喫驚の色を浮かべる。


 いくらレインが高性能レイスロイドと言えど、今の彼の反射速度はある種の化け物じみたものに見えたに違いない。


 いける。瞬時にそう判断したレインは数瞬でカウンターに転じ、ラスカーの頭部目掛けて剣の横一閃を即座に繰り出す。このまま全力で剣を振り切れば、一点の曇りもない淡青色の刃が確実に奴の首を容易く斬り飛ばすだろう。


 そう確信したが、ラスカーは透かさずまた左手だけをこちらにかざしてくる。


 瞬間、不可視の神通力に身体が堪らず押し返され、レインは再び背後の壁へと鉛玉のように勢いよく弾き飛ばされる。


「チッ……!」


 また先ほどと同じ現象だ。


 が、今度は壁にぶつかる寸前で両膝を畳んで器用に着地し、その強烈な反動をバネにしてもう一度壁を蹴ると、床から空中へ高々と跳躍する。さらにドーム型の大きな天井を角度をつけて蹴り、壁と床を巧みに利用しながら空間全体を縦横無尽に高速で駆け回る。鋭利な角度から角度へとまるで跳弾の如く次々と跳び移り、たちまち視界に捉えるのも困難なほどの速力まで一気に加速。


 機体の移動速度はやがて最高速に達し、レインはラスカーの背後に一瞬で回り込むと、無防備な奴の首筋を容赦なく掻き切ろうとする。


 しかし、鉄仮面のレイスロイドはこちらに見向きもせず、やはり肩の上から左手をかざす。


「……ッ!」


 途端、レインはまたしても謎の不可抗力によって為す術もなく弾き飛ばされてしまい、背後の壁に強烈に打ち付けられる。


 音もなく黒衣を翻し、ラスカーはさっと後ろを振り返る。


「無駄だ。俺は己の一定の周囲の空間全体を重力と斥力によって支配する《不可ふか侵域しんいき》の能力——《グラビティ・ディメンション》を行使できる。この絶対的な力に一切の死角はない」


 確固たる自信に満ち溢れた口調ではっきりと豪語する。


「くっ……!」


 床に膝を突きながら、レインは苦々しげにきつく歯噛みする。


 ラスカーからいやというほど放たれる絶対的な自信は、決してその場限りの虚勢ではない。奴の言う通り、あの規格外なまでの超能力は誇張ではなく掛け値なしの強さだ。ああも空間を自由に支配されては、いくら切り札の《高速演算能力》があろうと何の役にも立たない。


 一方的なその戦闘を傍から退屈げに眺めていたオルミアは、痺れを切らしたように不満を洩らした。


「一体何を遊んでいる、ラスカー? そろそろその貧弱なレイスロイドにとどめを刺したらどうだ?」


「ああ。言われなくともそのつもりだ」


 感情の欠片もない態度で冷然と反応し、鉄仮面のレイスロイドはゆっくりとこちらに歩を進めてくる。


《高速演算能力》によって体感時間が長く引き延ばされる中、レインはいま可能な最善手を最短で模索する。


 ラスカーの技の間合いに入らず遠距離から攻めるのが本来のセオリーだろうが、それではいずれじり貧状態に陥りこちらが先にられるのがオチだろう。かと言って、単純な近接戦闘では奴の《グラビティ・ディメンション》の能力の前にてんで話にならない。


 だが、極めて劣勢なこの状況を打開する方法がまだ一つだけある。絶対的な力を保有する強者故の、自負心の隙間に潜む僅かな慢心。そこの一瞬の間隙を突き、どうにか一撃で奴を仕留めるしかない。


 今の何度かの攻防で判ったが、ラスカーは自分の能力を使用する際に必ず相手に左の掌﹅﹅﹅をかざしてくるのだ。おそらくそれが、《グラビティ・ディメンション》を発動するための必須条件なのだろう。ならば、やはり奴が技の行動に移る前に確実に仕留めることこそが、現在とれる最も有効な手段といえよう。


 レインは静かに右膝を立てると、ラスカーに決して気づかれぬよう僅かに重心を前に移動させ、足裏でしっかりと床を捉える。


 次の瞬間、両足のブースターから生み出された爆発的な加速により、大気に迸る雷電の如き勢いで一気に前へと飛び出す。弓を引き絞るように右手で剣を構え、正面に向かって渾身のストレートで鋭く突き出す。


 完全に敵の意表を突いた、先刻の速攻とは比較にならぬほどの神速の一撃。


 もはやこれは機先を制したも同然。さしものラスカーも今度は喋る暇も手をかざす余裕も一切なく、こちらの攻撃を防ぎ切ることは不可能にさえ思われた。


 奴の胸部の炉心に、鋭利な剣の切っ先が届くその寸前——。


 突然、背中の上から途方もない重力の塊がのしかかってきたと認識したと同時に、レインはひとたまりもなく床に叩き付けられる。


「ぐはっ……!」


 全身に激しい衝撃が伝わり、堪らず胸が圧迫される。


 一瞬の不意打ちだったにもかかわらず、ラスカーはさして驚いた様子もなく全てを見透かしていたように言い捨てた。


「俺が手をかざさなければ《グラビティ・ディメンション》は使用できない、とでも思ったか? この能力は俺の任意のタイミングで自在に発動することができる。俺が常に油断でもしているのかと思い違いしたのか知らんが、こんな小手先だけの奇襲で本気で俺を斃せると舐められていたとは……まったく心外だ」


 身体の上から何トンもの超重力で押さえ付けられてしまい、レインは床に這いつくばったまま真面まともに起き上がることすらできない。


「ぐあああああああああ……ッ!」


 まるで足元にも及ばない青年に対し、ラスカーは興醒めと言わんばかりに吐き捨てた。


「全くつまらんな。外見だけでなく中身まで全く変わっていないとは……。所詮貴様も、たかだか奴のレプリカでしかなかったわけか」


 容赦なく浴びせられる嘲弄ちょうろうの刃に対し、それでもレインは床に剣を突いて少しずつ膝を立てながら、尚も懸命に立ち上がろうとする。


 すると、鉄仮面のレイスロイドの眼窩の奥にひときわ不愉快な光が浮かぶ。


 あまりに見苦しい青年の姿に、ラスカーは鬱陶しげに言い放った。


「目障りだ」


 刹那、目に捉えられないほどの速度で豪快に搔き上げるように、鞭の如くしなやかな動作で両刃剣を振り上げる。


 レインの左腕部分を一瞬で駆け抜けた黒鉄の刀身が、鮮血めいた揺らめく紅い軌跡を描き、刃ならざる光を閃かせる。


 その瞬間、肩の付け根から音もなく斬り飛ばされた彼の腕が高々と宙に舞い上がり、こつん、と虚しく音を立てて付近の床に転げ落ちる。


「ぐああああああああああああああッ!!」


 かつて経験したことがないような激痛が走り、レインは堪らず苦悶の絶叫を上げる。


 しかし、ラスカーは決して同情の余地もなく、冷酷に淡々と言葉を連ねる。


「次は右腕だ。その次は左足だ。さらにその次は右足だ。最後は首だ」


 空気を灼き続ける赤熱を帯びた両刃剣を、殊更ようようとした動作で掲げる。


「己の無力さをただ痛感しながら、そのまま無様に這いつくばって死ぬがいい」


 そう告げると、ラスカーは圧倒的な出力と重力がもたらす仮借ない勢いのままに、無慈悲に黒刃を振り下ろす。


『レイン————ッ!!』


 堪り兼ねたナツリが無線機から鋭い悲鳴を上げる。



「——やめてください!!」



 不意に、ティアが咄嗟に横合いから制止の声を上げる。


 レインの右腕を切断する寸前でぴたりと剣を止め、ラスカーは血濡れた炯眼けいがんでぎろりと彼女を射すくめる。


「……お前のような弱者が他人の戦いに口出しする権利は一切ない。こいつが苦しみながらじわじわ殺されていく様を、そこで黙って見ているがいい。次はお前の番だ」


 血も涙もない言葉を突きつけると、床にはりつけにされた青年に向かって再び剣を斬り下ろす。


 その惨憺さんたんたる光景を直視できるはずもなく、ティアは堪らず目を伏せる。


「きゃあああああああああ————ッ!!」


 絹を裂くような甲高い悲鳴が、空間全体に痛ましく響き渡る。


 レインは、もはや避けられぬ運命を黙して覚悟した。


 ここで死ぬのか。


 ナツリやティア、セッカやマーシャル、他の大勢の人間たちをこの非情な世界に残して。


 高速演算能力の緩やかな時間の流れの中、漆黒の刀身が無情にも頭上から着実に迫ってくる。


 ふと、この一年間の出来事の記憶が、洪水のように脳裏にどっと流れ込んでくる。


 山岳の研究所でナツリと初めて出逢ったこと。


 反乱軍の基地で過ごした日々のこと。


 これまでこなしてきた数々の任務のこと。


 強敵だった四機天王たちとの戦いのこと。


 ナツリとティア、セッカの三人でキャンプに行ったこと。


 これが、いわゆる走馬灯というやつか。


 今日まで経験した様々な記憶が、まるで一本の映画のように次々と思い起こされる。


 深夜、エリアルを出発する前のナツリの言葉がうっすらと甦る。



 ——必ず、生きて還ってきて。



 言われるまでもない。


 そう一言だけ言い残し、また必ず再会する約束を交わした。


 そして幾多の苦難を乗り越えた末、とうとうここまでやって来た。


 だが、どうやらそれも限界らしい。


 今日まで首尾よく進んできたが、この命運が尽きる時がついに来たようだ。


 去り際の少女のどこか不安そうな顔が、朧げにぼんやりと浮かび上がる。


 ——ナツリ……。


 今まで付き添ってくれたパートナーの名前を、胸中で人知れず呟く。


 ——俺は……おれは…………————。


 失われていた時間の感覚がやがて戻り、絶望への加速がたちまち再開される。


 断頭台の如く振り下ろされた黒鉄の刃が、いま青年の身体に確かに触れようとした——。


 だが、この場に思わぬ異変が起きたのはまさにその時だった。



「——うおおお……ッ!?」



 突如ラスカーは呻き声を上げて剣を止めると、まるで頭蓋が軋むように鉄仮面を手で押さえる。


 酷く既視感を覚える奴の不可解な挙動に、ナツリはすぐには理解が追いつかない様子で声を洩らした。


『一体いま何が起きたの……? エステアとの戦闘時にも同じ現象が見受けられたけど……まさか……』


 ふと何かに気づいたように、ナツリは真っ先に少女に指示した。


『ティアちゃん、そのまま今の感情状態を維持して!』


「えっ?」


 彼女の思わぬ言葉に、ティアはあっけらかんとした顔でぱちぱちと目をまたたかせる。


 前回の戦闘の一連の流れから確信を抱いたように、ナツリはさらに声量を上げた。


『おそらく今のあなたの感情の起伏によって、ラスカーの善心数値が元の状態に戻りかけてるんだわ! それだけじゃない……ティアちゃんのこれまで抑え込まれていた本来の善心制御ヴァーチュ・コントロールプログラムとしての権限まで戻ろうとしてるんだわ!』


 あまりの目に余る光景に見るに見兼ねたのか、オルミアは酷くもどかしい様子で声を荒らげた。


「何をしているラスカー!! さっさとその死に損ないを殺せ!!」


「くっ……!」


 ラスカーは辛うじてすぐに立ち直ると、床に這いつくばるレインに向けて全力を込めるように再度左掌をかざす。


 猛烈な重力の瀑布ばくふが青年の全身を尚も襲い続けるが、その重圧に屈することなく彼は懸命に身を起こそうとする。


 重々しく床に膝を突き、少しずつ着実に立ち上がっていく。


「なぜだ……なぜ立ち上がることができる……!?」


 先刻までとは明らかに異なる状況に、ラスカーは到底理解しがたいように激しく呻く。


 それもそのはずで——レインは、両足のブースターから凄まじい量の青炎を迸らせていたのだ。


「こいつ、足の内燃機関からの推進力だけで……!」


 それだけではない。


 ティアの影響を随分と引きずっているせいか、奴の出力が先ほどより明らかに落ちている。


 その証拠に——


『——ラスカーの機械出力の著しい低下を確認! このまま行けば……!』


 ナツリが勝利を確信したように叫んだ時だった。


「舐めるな小娘ッ!!」


 ラスカーが一喝のような気合を迸らせた途端、奴の重力エネルギーが息を吹き返したように再び増幅する。


『なっ……奴の出力が戻り始めてるっていうの!?』


 この土壇場にもかかわらず、ナツリは最強の四機天王の底力に心底驚愕する。


 それでも尚立ち上がろうとするレインに向かって、ラスカーはこれまでにない最大の出力で渾身の一撃を放つ。


「吹き飛ぶがいい!!」


 そう叫んだ瞬間、絶大な衝撃波が青年の全身に猛然と襲いかかる。


「ぐっ……!」


 超圧縮された颶風ぐふうの如き斥力の波動に、レインは堪らず身体が弾き飛ばされそうになる。


 だが、ここで意地でも食らい付かなければ、二度と反撃の機会は訪れないだろう。


 次の攻撃が、正真正銘ラストアタックだ。


 右手だけを限界まで前へと伸ばし、レインは全体重を剣に乗せるように全力でその切っ先を突き出す。


「うおおお……おおおおおおおお————ッ!!」


 直後、喉が張り裂けんばかりの咆哮をあらん限りに轟かせる。


 残りのエネルギーを可能な限り両足の火力に変換し、成形炸薬弾さながらの破壊的な勢いのままに斥力の鉄壁を是が非でも突き破ろうとする。


 何ものにも屈しない真なる強さを湛えた青金色の刃が、じりじりとラスカーの身体へ着実に迫っていく。


 ——いけるッ!!


 そう確信し、レインはまなじりを決してこのまま一気に押し切る。


「……ッ!?」


 それを見たラスカーの眼が、確かな一驚にかっと見開かれる。


 次の瞬間、全身全霊を込めて突き出された剣が、奴の胸部の炉心を勢いよく貫く。


「ぐはっ……!」


 直後、ラスカーは鉄仮面の裏から苦悶の呻きを洩らす。


 もはや何の躊躇もなく、レインは奴の身体から素早く剣を引き抜く。


 レイスロイドの急所を物の見事に穿うがたれたラスカーは、ぐらりと一歩たたらを踏む。


「この俺が……こんな出来損ないのレイスロイドに敗れるとは……」


 酷く無念さを滲ませた口調で一言呟くと、重厚な機体が重々しい音を上げて床にくずおれたのだった。



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