第二十話 死神

 わけが、わからない。


 単純明快なその一言を、ティアは死に物狂いにひた走りながら脳裏で何度も繰り返していた。この数十分間で起きた現実を未だ受け入れきれず、これはきっと夢なんだとさえも思った。


 夢なら夢でこんな悪夢、一秒でも早く醒めて欲しかった。


 だが、目の前の現実は無情にもそんな自分をもてあそぶかのように、いつまで経っても終わりを迎えようとはしてくれない。


 ラピスと別れてから一時間ほどで荒野を通過したティアは、現在オルティア近辺に広がる雑木林の中へと逃げ込んでいた。


 すでに日没時間を通り越し、闇に沈んだ森の中は昼の顔とは違った薄気味悪い様相を呈していた。道を遮る枝葉を乱暴に掻き分け、目的地のことなど一切考えず遮二無二突っ走る。先ほどから鋭利な枝が全身の肌を引っ掻いて痛いが、今はそんな些細なことを気にしている場合ではない。時折地面にのたくった木の根っ子に足を取られそうになりながらも、少女は決して走ることをやめない。


 しきりに後ろを振り返ると、十メートルほどの距離を置いて複数の一般レイスロイドたちの姿があり、やはり執拗にどこまでも追いかけてくる。なぜここまで自分に執着するのか、おそらく彼らもオルミアの命令で一方的に操作されているに違いない。どうにかして振り切りたいところだが、このままただ走っているだけでは一向に埒が明かない。


 鬱蒼と草木が繁茂はんもする森から開けた場所に出ると、今度は地を裂いたような広大な渓谷が目の前に出現する。


 しかも不運なことに、約十メートル先の向こう岸に渡れるような場所は近くに見当たらない。背後から荒い葉擦れの音がすぐそこまで聞こえてきており、もはや引き返すこともできずティアは仕方なく谷沿いを疾走する。先ほどからすでに全身の人工筋肉が酷く悲鳴を上げているが、エネルギーの保つ限り構わず走り続ける。


 すると、一心不乱に突き進んだ視線の先に、渓谷の両岸を繋ぐ一本の吊り橋が見えてくる。


 あれを利用しよう。向こう岸に着いた瞬間、後を追ってまんまと橋を渡ってきたレイスロイドたちを拳銃で確実に狙い撃ちにする。


 本当ならこんな真似は不本意だが、自分の命にはどうしても替えられない。これで彼らを全員仕留め、完全に振り切ることができる——そのはずだった。


 しかし何たることか、突如不可視の砲弾が撃ち込まれたかの如く、渓谷に架かっていた吊り橋が半ばから木っ端微塵に弾け飛ぶ。


『なっ……』


 最悪なその光景が今の現実を雄弁に物語るように、最後の希望が一瞬で絶たれる。


 ティアは思わず後ろを振り返ると、そこには信じがたいことに先ほどの鉄仮面のレイスロイド——ラスカーが、驚異的な速度ですぐ近くまで迫ってきていた。


『そんな……』


 奴がここまで追い付いてきたということは、ラピスはもう……。


 どんな困難が待ち受けていようと懸命に持ち堪えようとしていた不屈の心が、たわいもなく折れそうになる。


 それでもティアは自分を激しく叱咤し、最期まで決して諦めずに全力で走り続ける。


 だが——


『あっ……』


 不意に、少女の身体がぐらりと横に傾く。


 たちまち背中から襲ってきた焼け付くような痛みに気づいた時には、ティアはラスカーの両刃剣によって無惨に斜めから斬り付けられていた。


 谷側に大きく傾いた身体はもはや重力に逆らうことができず、そのまま彼女は真っ逆さまに谷底へと自由落下を開始する。


 ふと、ティアは頭上を見上げる。


 鉄仮面の眼窩がんかから血紅色の炯眼けいがんを覗かせた死神が、谷の上から不気味にじっとこちらを見下ろしていた。無様にただ奈落へと落ちていく自分を、まるで静かに嘲笑うかのように。


 真下に流れていた川の水面に向かって頭から派手に落下すると、少女は為す術もなく激流に連れ去られていったのだった。




 一体どれくらい長い時間、延々と続くこの大きな川に流されたのだろうか。


 荒れ狂う水流にひたすら身を任せたまま、今の自分の置かれた状況になんの危機感も持たず、ただそんなことばかり意味もなく考えていた。完全に脱力した身体はもう手足の指一本すら動かす気力もなく、頭の中は深い闇に呑み込まれて段々と気が遠くなりそうだった。


 いっそのこと、このまま死んでしまうのも悪くない。


 何もかも全て諦めて命を投げ出そうとしたその時、青年が別れ際に言い残した最後の言葉が脳裏で甦る。



 ——お前は生きろ。



 そうだ。自らを犠牲にしてでも自分を護ってくれた彼のためにも、今は何としてでも生き抜かなくてはならない。それだけが、自分が唯一できる彼への最大の償いだ。


 そう考えた瞬間、ティアは水面から勢いよく顔を出した。


『——ぶはっ!! げほっげほっ……!』


 激しく咳き込み、喉の奥に入り込んだ水を思いきり吐き出す。


 何度か繰り返しているうちに少しだけ身体が落ち着いてくる。そこで、少女は改めて周囲を見渡した。


 どこかの深い森の中に自分は一人倒れており、いつの間にか随分下流のほうの浅瀬まで流れ着いていた。人型機械であるレイスロイドは呼吸機能を必要としないため、幸い溺死することなく奇跡的に岸に這い上がることができたわけだ。


 しかし、最後の頼りだった夕陽はとうに沈み、辺りは完全に薄暗い夜陰の緞帳どんちょうに包まれていた。夜の野外は身震いしそうなほど酷く不気味な静けさで、かつて経験したことのないような不安と恐怖に駆られる。


 すぐにでも助けを呼びたいところだったが、周辺には村の存在どころか人っ子一人見当たらない。加えて憔悴しきった少女に追い打ちをかけるように数時間前の悪夢がまざまざと甦り、今にも泣き叫びたい気持ちになる。


 オルティアの人々は一体どうなってしまったのだろうか。出来ることならこんな結末は想像したくもないが、今頃暴走したレイスロイドたちの一方的な餌食になってしまったんじゃないだろうか。くよくよ考えても仕方ないことを延々と繰り返してしまい、どうしても悲観的な考え方になってしまう。


 だが、いつまでもここに留まっていれば、いずれ野垂れ死にするだけだ。


 恐怖に縮こまる自分の心を必死に奮い立たせてついに覚悟を決めると、ティアは全身水に濡れたままおぼつかない足取りで暗い森の中を歩き始める。


 精神的疲労とエネルギーを酷く消耗しているせいなのか、足が棒になってしまったかのようにほとんど力が入らない。だんだん体温も極度に下がってきている感じがする。周囲にひんやりと漂う夜気が、濡れた肌を一層冷たく撫でる。


 唯一幸運だったのは、両眼には高性能赤外線センサーが搭載されていたため、夜陰に閉ざされた視界を辛うじて暗視できたことだった。これならどうにか暗闇の中でも進むことができそうだ。


 慣れない地形の周囲と足許に充分注意しながら、しばらく歩き続けること数分。


 鬱々とした木立を抜けた先にそびえ立つ巨大な岩壁にぽっかりと小さく口を開けた、如何にも寝床にあつらえ向きな洞窟を見つける。


 今夜はあそこで一晩過ごそう。こんな遅い時間に闇雲に人里を探しまわったところで、野獣の襲撃や傾斜地からの転落などの災難に遭遇する危険性が増すだけだ。


 淡い月明かりに照らされた洞穴の前までよろぼいながらやって来ると、ティアは思わず足を止める。


 中は冥界へと続くような濃密な闇が不気味に充満しており、奥の様子は何も判らない。


 今みたいな生死に関わる状況でもなければ絶対に入るのはためらうところだが選り好みなどしている場合でもなく、少女はほんの少しの勇気を振り絞ると、おそるおそる洞窟に足を踏み入れる。


 暗闇の中をまさぐるように手探りで確認しながら、慎重に一歩ずつ歩を進めていく。


 程なくして、すぐに一番奥の岩壁に突き当たるが、どうやら幸い動物は棲み着いていないようだ。


 針のむしろとは言えようやく息つける場所を見つけた瞬間、ティアは押し寄せてきた安堵から全身の力が一気に抜ける。堪らず背後の壁に寄りかかり、ぐったりと地面に座り込む。途端、睡魔のような目眩めまいがたちまち這い寄ってきたかと思うと、ぼんやりと意識が混濁してくる。


 まずい。そう感じた時には、最後のエネルギーの残滓が一瞬で燃え尽きたのだった。



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