第十六話 生の享受

 機暦二二四六年四月一日



 何も存在しない暗闇の中に、ただ一点の僅かな光がある。


 微かな音が聞こえる。ほのかな匂いがある。冷たい温度を感じる。全身に硬い感触がある。


 身の回りのありとあらゆる情報をさとく知覚し、少女の意識が静かに覚醒する。


 そっと瞼を持ち上げた途端、眩い光が視界いっぱいに降り注いでくる。

 次第に目が慣れてくると、その光源である丸い無影灯の下で、清潔な白衣を着た中年ほどの男がこちらの顔をじっと覗き込んでいた。


『私のことが認識できるか?』


 とても柔和な響きを帯びた声だった。


 一体いま自分の置かれている状況がどういうことなのかはさっぱり解らなかったが、その質問に少女は素直にこくりと頷く。


 すると、彼女の反応を見た男はどこか満足げに相好を崩した。


『そうか。どうやら視聴覚センサーのほうも問題ないようだな。のほうのレイスロイドも無事開発に成功したらしい』


 そうそう、と彼はうっかりしていたように両手を叩く。


『そういえば自己紹介がまだだったな。——私の名前はローエン=ライト。ここ大都市オルティアにあるセントラルタワー研究所の所長を務めさせてもらっている人間の一人だ。そうだな……人型機械であるレイスロイドのお前を造り上げた父親、と言ってもいいだろう。まずはこれを見てくれ』


 手短に挨拶を済ませ、彼は近くのコンソールを手際よく操作する。


 すると、少女のすぐ脇のモニター画面に何かの映像が出力される。


 そこには、検査台の上で仰向けになった一人の少女の姿が映っていた。


 ガラス細工を思わせる真珠色の瞳、純銀を鋳溶いとかしたような白金色の長い鬢髪びんぱつ。今は一糸まとわずに晒された白皙はくせきの裸体の姿をしており、まるで人形めいた造りの綺麗な女の子だった。


 もしやと思い、少女は眼前の科学者に視線を戻す。


『驚いたか? そうだ。今モニターに映っている少女こそ、れっきとしたお前自身の姿だ。レイスロイド感情制御プログラムであるお前たち姉妹﹅﹅の一大製作プロジェクトに当たって、当初の時点ですでに決めていた名前がある。——ここ大都市オルティアから名前を取り、今日からお前の名前は《ティア》だ』


『ティ……ア……』


 まだ慣れない人工舌でたどたどしく言葉を発し、少女は自分に与えられた名を確認する。


 ローエンは一変して神妙な面持ちで頷いた。


『そうだ。私たちがお前をこの世に生み出した理由は、他でもなく全てのレイスロイドたちの善心制御ヴァーチュ・コントロールを行うためだ』


《ヴァーチュ・コントロール》——この世界の言語で《善心制御》という意味だが、文字通り自分はそのレイスロイドたちの善心を御するために生み出されたということだろうか。自分はこの世界の事情など当然まだ何も知らないし、一体それがどれぐらい重要な役割なのかも解らないが、きっと彼らにとってとても大事なことなのだろう。


 起き抜けの頭でどうにか思考を働かせる少女に対し、ローエンは淡々と説明を続ける。


『お前たち姉妹の存在があるからこそ、全てのレイスロイドたちは私たち人間と同じ理性と感情で正常に自律稼働することができる。今はまだ他の一般レイスロイドたちの開発段階だが、じきにお前たちの時代がやって来るだろう。そうなれば今より人々の生活の質はさらに向上し、私たちの暮らしは一層豊かになる。ティアにはその礎の一人として、私たちと一緒にこれから協力してもらうよ』


    ∞


 翌日。研究室で一晩過ごしたティアは、朝から部屋でローエンに長々と待たされていた。何やら今日は、彼からどうしても紹介したい人物がいるらしい。


 簡素なベッドに横たわっていた少女はおもむろに上体を起こし、着ていた白いパジャマから予め用意されたホワイトワンピースに着替える。

 そして昨晩ローエンに教わった通り、ベッドから床に下ろした両足にぐっと力を入れてバランス良く立ち上がると、慎重に身体を動かしてみる。少々ぎこちない動作で右腕の関節を曲げ、何度か拳を握って手の感触をしっかりと確かめる。


 これが、生きているという感覚なのだろうか。


 蛍光灯の人工光も流れ続ける空調の騒音も、空気中に漂う芳香剤の匂いも全身を包む暖かな温度も申し分なく感じ取ることができる。正直まだこの小さな身体に命を宿したという実感はあまり湧かないが、それもそのうちすぐに理解できるようになるだろうか。まだ慣れないことばかりでどうしようもなく不安になる時もあるけれど、今はレイスロイドとしてこの世に生まれた幸せを大切に噛み締めたいと思う。


 不意に、部屋の入り口の自動スライドドアが滑らかに開く。


 白衣姿のローエンが部屋に入ってきたかと思うと、次いで現れたのは自分と同じほどの身長と幼さ具合の一人の少女だった。


 身の丈は百四十センチぐらいで、服装は膝下まで伸びるコットン素材の黒いワンピース。強気な性格を思わせる鋭い眉と端整な顔つきに射干ぬばたまめいた漆黒の瞳、そして女の子というよりはむしろ男の子のようなショートカットの烏羽色からすばいろの髪を襟首の辺りで綺麗に切り揃えている。まるで鏡に映した自分と瓜二つのような姿をしており、もしやこの子も——。


『待たせたな、ティア。早速だが、今日はお前の双子の姉﹅﹅﹅﹅になるレイスロイドを紹介する』


 予想通りの言葉を単刀直入に告げ、ローエンは隣の黒髪の少女を手で示した。


『彼女が、姉の《オルミア》だ』


 少女たちの間に入ってそこに架け橋を繋ぐように、彼はそれぞれの肩に優しく手を置く。


『いいか? ティアとオルミア、お前たちは二人で一つの存在だ。どちらか一方が欠けたりでもすれば、それは他のレイスロイドたちに多大な影響を及ぼすことになり兼ねない。これからは切ってもきれない長い付き合いになるんだから、なるべく喧嘩しないように精々仲良くするんだぞ?』


 念を押して忠告され、ティアは些か緊張した面持ちで目の前の少女に向き直ると、律義にぺこりと頭を下げる。


『よ、よろしくお願いします!』


『よろしく……』


 オルミアはなんだか気恥ずかしそうにそっぽを向く。


 初々しい二人の顔合わせを我が子のように見守っていたローエンは、すっかり満足げな様子で頷いた。


『よーし、それじゃ今日はもう一人、お前たちに新しい家族を紹介しよう。——おーい、入ってきていいぞ』


 そう言って、部屋の入り口のスライドドアに向かって大きな声で呼びかける。


 すると、ややあって薄い金属扉が横に移動する。


 続いて入室してきたのは、思わず目を引くような派手な青金属の装甲を全身にまとったレイスロイドの姿だった。


 とにかく青い、というのが真っ先に抱いた印象だ。顔以外の箇所を全て眩い装甲で堅く覆っており、腰の辺りまで伸びた淡青色の艶やかな長髪を後ろに流している。左腰には物騒なことに、約一メートルの長さの剣を収めた三角鞘と銀の拳銃を入れたホルスターを装着していた。


 一見女性のようにも思えたが、続くローエンの言葉がすぐにその可能性を否定した。


『今日からこいつが、お前たちの兄になるレイスロイドの《ラピス》だ。——こういう時ぐらい真面目に挨拶したらどうだ?』


『…………』


 あからさまに嫌そうな顔をして、青年は何も言葉を発しようとはしない。


 そんな感情の欠片も表に出さない彼を見て、ローエンはすっかり呆れ果てた顔で小さく嘆息する。


『まあこの通りいつも頑固で無口だが、肝心な時にはとても頼りになる奴だ。これからずっと傍でお前たちのことをサポートしてくれるから、何か困った時は遠慮なく頼るといい』


 さて、と両手を軽く叩き鳴らし、彼は早速話を切り替えた。


『今日はティアのために施設の案内と関係者たちに挨拶に回るぞ。今から皆一緒に付いてきてくれ』


 快活な声でそう言われ、ティアは彼らとともにセントラルタワーの内部を歩き回ることになった。


 その際ローエンは、レイスロイドの仕組みについて詳しく説明してくれた。


 この世界には大きく分けて、第一世代と第二世代の二種類のレイスロイドが存在する。それらの最大の違いは、彼らを精密制御するための最も重要な《感情制御プログラム》のところにある。第一世代はマザーオベリスクと呼ばれるセントラルタワーのレイスロイド中枢管理システムによって感情制御を全て一括して行われ、第二世代は自分の電子頭脳サイバーブレインによってそれぞれ個別に行われる。現在開発中の世界のほぼ全てのレイスロイドたちがすでに第一世代の過去の産物であり、彼らの一括制御を行うティアとオルミアもまた同様の存在だ。


 その中でもローエンによって新たに開発された第二世代レイスロイドのラピスは、二年前に世界初のレイスロイド第一号機が発明された現在でもこの世に唯一彼しかいない特に珍しい存在なのだという。しかし、第二世代は複雑な個別感情制御かつ高性能ゆえに大量生産が難しいため、世界中のレイスロイドたちの感情制御は費用対効果コストパフォーマンスの面でも現実的なマザーオベリスクによる第一世代の一括制御を採用している。


 人間と同様にレイスロイドの理性を司る感情制御プログラムにも、それぞれ善と悪の二種類が存在する。


 そう、それが他でもない自分たち姉妹——善心制御ヴァーチュ・コントロールプログラムであるティアと、悪心制御ヴァイス・コントロールプログラムであるオルミアだ。


 人間特有の概念であるこの二つの性質を分割することで、世界中の第一世代レイスロイドたちの理性と感情をこれから段階的に一括制御していく予定だという。それは当然自分たち姉妹にも当てはまることであり、善と悪の各々の要素を互いに補うことで感情の暴走を抑制させているとのことらしい。


 少なくとも自分たちがこの世界の重要な役割を担っているのだと知ってティアは多少肩の荷が重くなったが、それでも今は同じ立場であるオルミアが傍にいてくれるだけでだいぶ気が楽になったのだった。



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