第十五話 閉ざされし記憶

 世界の住人たちが一人残らず死に絶えたように鳴りを潜め、すっかり寝静まった深い時間帯。


 縹渺ひょうびょうたる荒野の外れに不気味に広がる、黒々とした木々の大群。そこの森林の奥に静かに流れる大きな川のほとりに佇む、今宵の淡い月華に照らされた一張りのテントがある。


 その中に重く停滞していた空気が、今ひっそりと動き出す。


 ずっと狸寝入りしていたティアはおもむろに首を左右に動かし、両隣の少女たちが熟睡していることを確認すると、なるべく音を立てずに寝袋から静かに抜ける。


 近くに置いてあった背嚢はいのうの中から懐中電灯を取り出し、そのまま忍び足でこっそりとテントの外に出ようとする。


 一歩、二歩と出入り口に慎重に歩み寄り、ファスナーに手をかけようとした瞬間——。


「——ちょっと〜、それ私の下着でしょ〜」


 不意に寝ぼけたナツリの声に、ティアはびくっと身をすくませる。


 そちらを見ると、寝袋に入った赤髪の少女が何やら楽しそうにぶつぶつと寝言を呟いていた。


 一体なんの夢を見ているのやら。ティアは思わずくすりと笑いをこぼす。


 すぐに気持ちを切り替えると、テントの出入り口のファスナーをゆっくり下ろし、その隙間から外を覗き込む。


 川原に設置したアウトドアチェアに深く身体を預けながら、相変わらず一人寂しく眠っているレインがいた。一見したところ、どうやらぐっすり寝入っているようだ。


 今のうちに自分の白いスニーカーを履き、ティアは素早くテントの外に抜け出る。


 さらに懐中電灯の灯りを点けると、近くの森の中へと迷わず入り込んでいく。


 周囲は濃密な夜陰のとばりに暗く包まれており、どこからか虫の鳴き声が途切れ途切れに聞こえてくる。


 あまりに怖くてすぐにでも引き返したくなるが、どうしても気になることがある。


 その明確な動機だけを唯一の原動力に、ティアは湧き上がる恐怖を押し殺して一歩ずつ前へと進んでいく。


 荒れた道を妨げる枝と草木を掻き分けながら十分ほど歩き続けると、程なくして森の開けた場所に出る。


 突然目の前に現れたのは、今朝自分たちが通ってきたあの巨大な渓谷だ。


 朝の明るい時とは一変して不気味な雰囲気を漂わせており、何が出てきてもおかしくないような強い恐怖感を覚える。


 それでも欠片ほどの勇気を精一杯振り絞ると、ティアは谷沿いを歩き始めようとした時だった。


「——こんな夜更けに何をしている?」


 不意に背後から聞こえてきたとげを含んだ声に、少女はありもしない心臓が口から飛び出しそうな勢いで仰天する。


 思わず後ろを振り返ると、鬱々とした茂みの中から突如現れたのは、この数日ですっかり見慣れた青いレイスロイドの姿だった。


「れ、レインさん!?」


「まったく……夜更けにどこに行くかと思ってこっそり付いてきてみれば、こんな何もない谷に一体なんの用だ?」


 もっともな彼の質問に対し、ティアはたちまち顔を曇らせる。


「すみません……。今朝この谷を通った時にどこか見覚えがあったんです……。ここに来れば、忘れてしまった記憶も自然と何か思い出せると思って……」


 その理由を聞いたレインは、すっかり辟易した様子で露骨に嘆息する。


「そういう大事なことは最初から言え。徘徊中のはぐれたレイスロイドにでも出くわしたら、お前は一体どうするんだ」


「ごめんなさい……」


 自分の勝手な行動で他人に迷惑をかけていたことにようやく気づき、ティアは深く反省する。


 はあ……とレインはとことん面倒くさそうに長大息を洩らした。


「お前の記憶回復にはなるべく協力してやるが、いつまでもここに留まることはできないぞ。回復する気配がないならすぐテントに戻る」


 思いがけない彼の提案に、しばしティアはきょとんとした顔になると、慌てて頭を下げた。


「あ、ありがとうございます!」


 それにさして反応することなく、レインは淡々と先に歩いていく。ティアも急いで彼の背中を追いかける。


 二人は周囲を充分に警戒しながら、しばらく谷に沿って歩を進める。


 果たして、今朝通りかかった無惨に破壊された吊り橋がすぐに目に入り込んでくる。あそこは最初に違和感を覚えた、最も気になっていた場所の一つだ。


 今や見る影もなく朽ち果てた橋の前までやって来ると、ティアは大きく口を開けた渓谷の縁に慎重に近寄り、恐る恐るしゃがんで下を覗き込む。


 底知れぬばかりに深く暗い谷底には、少しでも気を緩めただけで思わず足が引きずり込まれそうなほどの広大な深淵がこちらを見ていた。


 闇。純黒にして虚無の象徴。全てを完全な冥暗に塗り潰す絶無。


 酷く薄気味悪さを覚えるだけで特に何も思い出せないままと思われたが、不意に視界に変化が起きたのはその時だった。


 濃密な黒霧がよどんだ奈落の底に、ひときわ黒いシルエットがじんわりと滲み出るように輪郭から徐々に浮かび上がってくる。


 こちらを、見ている。


 禍々しく奇妙な光を発する、血赤色の二つの炯眼けいがん——。


 その鮮烈かつ陰惨なイメージが、少女の脳の奥に無理やり仕舞い込まれていた忘却の記憶を鮮明に呼び起こさせた。


 あの日起きた一切の出来事が、まざまざと脳裏に甦る。


「……どうした? 何か思い出したか?」


「ああ……あああ……」


 少女の口から声にならない声が堪らず洩れる。


 レインが横から心配そうに声をかけてくるが、とても意識を向けられるような状態ではなかった。


 不気味な鉄仮面を顔に被り、背中に漆黒のマントを着けた大男。右手には、血塗れたように紅い光を帯びた黒鉄の両刃剣。


 たちまち悪寒のような言いようのない恐怖に襲われ、ティアはどうしようもなく全身ががくがく震える。


「おい、大丈夫か!?」


「私は……私はあの時……」


 淡紅色の薄い唇をわななかせながら、ティアはついにその言葉を口にした。


「何もかも、全て思い出しました……」


 すると小刻みに震える両手で、彼女はすがり付くように青年の手をぎゅっと握る。


「二年前のあの日レイスロイドたちの暴走が起きた時、私はレインさん、あなた﹅﹅﹅に助けられました。ナツリさんのお父さんであるローエン=ライトさんが造り上げた、あなたの原型プロトタイプとも言える第二世代レイスロイド——《ラピス》によって」


「ラピス、だと……?」


 秀麗な眉を鋭くひそめ、レインは怪訝けげんそうな顔で聞き返す。


 それに対し、ティアははっきりと首肯した。


「はい。私は大都市オルティアのセントラルタワー内にあるマザーオベリスクの《レイスロイド善心制御ヴァーチュ・コントロールプログラム》——通称《ティア》です。これからあなたに、世界中のレイスロイドたちの暴走が起きてしまったあの世界崩壊アストラル・コラプスの日、二二五一年七月七日の真実を全て伝えます」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る