第3話「フリードの過去」
告解の丘からしばらく北に向かった先に位置する、ユーリ地方。その山間の村、ケイネルヴェン。人の動きが皆無の閉鎖的な村で、フリードと親友は生まれ育った。
フリード・ローカス。卓越した身体能力を持っている事以外、特技はない。ただ、人の気持ちを裏切れない真っ直ぐな心を持っていた。両親ともに不埒な遊び人で、方々から金を借りて飲み歩いている。そのため、幼少からずっと周囲の冷たい目に晒されながら生きてきた。
ジェームス・オルベリッチ。学業優秀で、紳士的な言動に加え容姿も美しかった。我が強く、意思を押し通すところがあったが、強い説得力を持ち、常に中心的存在であることが多かった。けれど、その存在感ゆえに嫉妬や敬遠する者も多く、心を許せる友はなかった。過ちを悔いて改める柔軟さも備えているが、それは負けず嫌いが転じたものであり、誰にも貸しは作らないという信念を持っていた。
最後は、リグレット・ランペードという少女。上品で礼儀正しい乙女。栗色の髪を肩辺りで揃えており、品のある大人びた顔立ちをしていた。外見とは裏腹に周りの顔色を気にしすぎたり、感情的になりやすい脆さもあった。けれど彼女は、手を触れた相手の怒りや憎しみを消してしまう魔法を持っていた。ジェームスに対し、崇敬に近い愛情を抱いている。
ジェームスとリグレットは幼なじみで、フリードと出会う前には既に恋仲にあった。
そして、3人がはじめて出会ったのは、全員が14歳の時だ。
その日、いつものようにフリードがいじめられていた。同世代の複数人に囲まれ、石を投げられていた。フリードは彼らに立ち向かえる腕っ節を備えていたが、すぐに暴力で解決しようとは思わなかった。彼らに囲まれたら、するりとかわして網模様の路地へと逃げ込む。そうやって煙のように姿をくらませるのが日常になっていた。
しかし、その日フリードは不覚にも塀から塀へと飛び移ろうとした際に足を滑らせ、くじいてしまった。物音を聞きつけたいじめっ子達が、フリードを再び取り囲んだ。
「鬼ごっこはおしまいにしようぜ」
けれど、フリードは焦るような態度は見せず、面倒くさそうに溜め息を吐いた。
少年達が一斉に飛びかかり、フリードを羽交い締めにした。動けなくなったフリードの頬を何度も殴りつけた。
そのとき、ちょうど買い物をしていたジェームスとリグレットが、その場に居合わせた。それが、フリードとの初めての出会いだった。
リグレットは思わず小さな悲鳴をあげた。ジェームスはリグレットを後ろに残して、表情一つ変えずに彼らに近づいていった。
そして、フリードの腕を掴んだ。
「行こう」
彼がそう言うと、フリードも周りの者も面食らった。が、やがて少年達は我に返り、それを阻んだ。
「ちょっと待てよ」
けれど、少年の一人がそれを制した。
「なあ、こいつジェームスだろ。顔広いし、あんま目つけられない方がいいって」
「何言ってんだよ。俺はこういうエリート面した奴が一番ムカつくんだよ!」
少年の一人がジェームスの服を掴んだ。ジェームズはそれを払いのけると、穏やかな所作で振り返った。直後、音もなく少年が腹を押さえて倒れ込んだ。フリードは全てを察して、手近の少年を掴んで投げ飛ばした。二人は少年達を圧倒し、恐れをなした輩は大慌てで逃げ帰った。
少年が逃げ去った後、フリードは尻の埃を払いながら立ち上がった。
「誰か知らないけど、ありがとうな」
すると、ジェームスは埃を払いながら、不愉快そうに振り返った。
「どうして、やりあわなかったんだ? 僕が来なくてもなんとか出来ていたように見えたが」
追い返すときでさえ、彼らに痛手を負わせないように投げ飛ばすにとどめていた。
「……嫌なんだよ。いつも殴って終わらせるってのは」
「自分を守るために、相手を殴るのは悪いことじゃない。世の中はそんなにフェアじゃないだろう」
そして思い出したように振り返って、後ろの物陰にいる少女を呼び寄せた。
「リグレット。彼の怪我の手当を」
「はい」
命令されることが当たり前であるような自然なやりとりだった。それは友人同士というより、主人とメイドの主従関係を思わせた。
「べ、別に大したことないから」
慌てて手を振って断ろうとするが、その手をふわりと握られると、そのまま黙りこくってしまった。
慣れた手つきで患部に薬が塗られていく。リグレットのしっとりした指先が首筋に触れるたび、電気が走るような心地がして落ち着かなかった。
「痛くないですか?」
挙動不審の彼を慮ってリグレットが尋ねるが、ますますぎこちなくなってしまう。
手当が終わり、ようやく緊張から解放されると、絆創膏をさすりながらジェームスに答えた。
「世の中がどうとか難しいことはわからない。ただ、人を殴るのが嫌いなだけなんだ」
ジェームスが腑に落ちない様子で顔を見やると、フリードは自分の境遇をさしたる障害とも思わぬという風に、眩しい笑顔を見せた。
「二人ともありがとう。それじゃ」
首筋にリグレットの熱がまだ残っており、どうにも落ち着かないので早々と立ち去ろうとしたところで、ジェームスが思わず呼び止めた。
「君。ラグビーに興味はないか」
立ち止まり振り返ったフリードに向けて、加えて言った。
「僕の名は、ジェームス・オルベリッチだ」
フリードはしっかりと立ち止まり、振り返った。
「いいのか。俺はフリード。フリード・ローカスだぞ」
「……ああ、知っている」
この辺りでローカスという名を聞いて、顔をしかめぬ者はいない。ジェームスやリグレットの親の会話にも、幾度も出てきた。もちろん良い話ではない。
彼ほど忌み嫌われている少年は、他にはいない。ジェームスは今まで彼と会ったことはなかったが、おそらく彼がそうなのだろうとは勘づいていた。
だからこそ、その、世界を恨まぬ屈託のない笑顔に興味を惹かれたのだ。彼なら、友達になれるかもしれない。
「一緒に、ラグビーをやろう」
再び、問いかけた。フリードは、参ったという風に首を振り、腰に手をやって笑った。
「めちゃくちゃ面白そうだな」
二人はがっしりと手を取り合った。
ほどなくして、彼らはユーリ地方の有するラグビー部で再会した。
フリードの入部については反対する者も多かった。だが、ジェームスが「彼は、僕の友達だ」と告げただけで、皆はそれ以上反論しなかった。
内面にくすぶる不満も、リグレットがマネージャーとして入部した事により、ほぼ立ち消えになった。
フリードのことを認められずにいた最後の者も、フリードの身体能力の高さと無垢な人柄に惹かれ、次第に打ち解けていった。
フリードはジェームスと出会い、彼のストイックな責任感と説得力に憧れを持った。
もう駄目だ、と皆がぼやいたとき、必ず活を入れ、冷静な判断で皆を危機から脱却させた。それは、背負った者しか至れない才覚だった。
ジェームスも、フリードの誰からも好かれる柔和さと弱さに目敏い繊細さを認めていた。
思いつめて屋上にいた少女を連れて、クラスになじめるようにさりげなく気を配った。それは、傷ついた者しか分からない感覚だった。
2人は互いの存在を感じながら、切磋琢磨していった。
出会ってから3ヶ月が経った。2人より僅かに早く生まれたリグレットが14歳を過ぎたばかりの秋の暮れ。
ジェームスが家の都合で試合を欠場し、フリードとリグレットが2人で夕陽の下を歩いていた。
「ありがとう。今日も、この擦り傷の手当してくれて」
「もちろん。フリードは大切な友達ですもの」
その後、しばらく静かに小道を歩いていたが、ふとリグレットがフリードを手招いて顔を近づけた。
「あのね、これはジェームスの家のメイドさんから聞いた話なんですけど。ジェームスがフリードをラグビー部に入部させるって言った時、お父さんにすごく反対されたらしいの。だけど、これは僕が交わした大事な約束だから、って押し通したって」
耳元で囁くリグレットはとても嬉しそうで、話している間ずっと興奮気味だった。リグレットは、ジェームスにとってそれだけフリードが大切なんだと伝えようとしたつもりだったが、フリードには、彼女がジェームスの事を自慢したがっているのが分かった。
嬉しいような、悲しいような複雑な気持ちが膨らんだ。
風が吹いて、彼女の甘い匂いが掠めた。秋風は、汗をかいた少年の肌には少し冷たかった。
――
フリードのぼろい家に、久しぶりに父レイノルドと母シャンディが両方揃っていた。
「フリード。金は持っていないか」
それ以外に言うことはないのか、と呆れたが、それでも二人のことは嫌いにはなれなかった。
「今はないけど、月末になれば給料が出る」
「うわあ、すごいぃ。いつから働くようになったの?」
潤んだ目でシャンディが言う。
「今はないのか。借りられないのか」とレイノルドが言う。
「うるさいな。誰が俺みたいなガキに金を貸すんだよ」
「……月末に戻ってくる」
レイノルドはそう言うと、シャンディに口づけして家を出た。
「ったく、用はそれだけかよ。もう」
シャンディの方は、フリードに適当な食事を作らせた後、ふらりと麓町へと消えた。
2人とも、適当に帰ってきて、汚れた服を脱ぎ捨てて、有り金を掴んで放蕩の旅に出る、の繰り返しだ。シャンディはレイノルドほどの長旅はあまりせず、近場で留まり、探そうと思えば探せる程度の酒場を転々としている。
シャンディは女優であると疑われるほどの美人であり、ベッドの上で男をたぶらかす術も身につけていた。一夜過ごした店主は、その日の飲み代を帳消しにするどころか、金を持たせて帰らせた。囲む者あれば、住む場所にも不自由しない。シャンディへの悪評のほとんどは、夫を持つ女達の、彼女の美貌に対する妬みと、夫を寝取られた事への怒りによるものだ。
レイノルドの方がどのように金を作っているのかフリードには分からなかったが、おそらくシャンディよりもよっぽど薄汚いやり口に違いないと思った。
そもそも、この2人がいつまでも夫婦として、曲がりなりにも同じ家に帰ってくるということが、フリードには理解できなかった。もはや夫婦の体を成していないくせに、どうして時々は顔を見たがるのだろう。
「それが、愛なのか」
リグレットへのほろ苦い気持ちを思い出して、溜め息を吐いた。
――
リグレットは幼い頃から、定期的に不安定な情緒になることがあり、小さく身を折りたたんで木陰でよく泣いていた。
リグレットの家は小高い場所にあり、フリードは坂道を駆け上がってくる。そして、彼女をいち早く見つけては、近くで摘んできた花をプレゼントした。
「どうして私が泣いてるってわかったの?」
何も答えずにニコニコと笑っているフリードを見ていると、リグレットも思わず頬が緩んだ。
「ジェームスには嫌われたくないから、こんな顔を見せたくない」と、彼女は言った。
その言葉は、フリードの胸をチクリと刺したが、彼女の支えになれることが嬉しかった。
彼女にとって、見栄を張らずに話せるフリードといる時間は、とても居心地がよかった。
そして、その立場を利用している事に対して、お互いに罪悪感を覚えていた。
――
やがて、3人は16歳を迎え、同じ高校への入学が決まった。
ラグビー部に入れば同じチームで続けられるし、なにより一緒にいたかった。フリードは柄にも無く勉学に励み、かろうじて同じ高校の切符を手に入れた。
「正直言って、君が合格するとは思わなかったよ」
ジェームスの率直な感想に、フリードはやりきったような笑みを浮かべていた。
「これからも、みんな一緒ですね」
リグレットが二人の間に入り、そっと手を握った。初夏の昼下がり、プラタナスの木の下で、青い笑みを浮かべて見つめ合った。
けれど、やがてジェームスがたしなめるように息を吐いた。
「あっ、ごめんなさい」
リグレットは、自分がいつまでもフリードの手を握っている事を咎められていると気づき、手を離した。謝って俯く彼女の顔は、だけどどこか満足げだった。
リグレットは、嫉妬するジェームスを見るのが好きなのだろう、とフリードは思った。時々そうして、ジェームスの顔色を窺っているところを目にしてきた。好きな人の所作は嫌でも目に付いてしまう。それがフリードの青い心をいつも苦しめた。
しばらく静かな散歩道を歩いた。
「私ね。こうして3人で散歩している時間が、好きです」
踊るようにその場を回ると、出会った頃より少し伸ばした栗色の髪が、木陰のコントラストに淡く浮かび上がった。
ジェームスは照れくさそうに顔を背けた。そして、照れを隠すように、「高校でもよろしく」と、フリードの方に手を伸ばした。フリードは恋慕の揺らぎを日だまりに隠した。
「ああ、もちろん」
そこで、広い芝生を見つけたリグレットが立ち止まった。
「サンドウィッチ、この辺りでいただきましょうか」
2人はそれに賛成し、芝生に腰を下ろした。
フリードはサンドウィッチを食べて腹鼓を打ちながら、芝生に寝そべった。
これまでの事、これからの事をぼんやり考えていた。
みんなの力がなければ、ここまで来ることは出来なかった。テストまでの間、リグレットがしょっちゅう食事を用意してくれた。ジェームスも、入学の費用を捻出するために、給金の高いホテルでの仕事を紹介してくれた。
相変わらず親父たちはダメダメだけど、高校を卒業したら働いて、村の人に少しずつ返済していくつもりだ。
そうやって、ちょっとずつでもいいから、ローカスの汚名を晴らしていこう。
――
家に着くと、フリードの母シャンディが相変わらず飲んだくれてベッドに突っ伏している。やれやれと苦笑いしながらテーブルを見ると、豪華そうな牛肉がどんと置いてあった。
「ステーキ作れ」
それだけが聞こえた。
それから30分後、「フリードォ、まだあ?」と催促する声が聞こえて、急いで仕上げに入る。
「出来たぞ」
慣れないステーキをなんとか焼き終え、しゃがれ声で呼んでいる母の元へ向かった。
「親父は?」
「しらんわ」
「酒くさいな、もう」
フリードは溜め息を吐きながら、体を支えてテーブルに連れて行く。
2人は久々に豪華な夕食についた。
「いやはやぁ、まさかこんないい息子に育つとはねえー」
にやにやと酔いが覚めぬ表情でぼやく母に、適当に相づちを打つ。
「で、どこから肉と酒出てきたんだよ」
「ははっ、ビビった? ビビッたえしょ? 母さんだって、まだ終わってないわけよお。ちゃあんと仕事やってるから」
「嘘!?」
「そんなつまらない嘘つくわけないえしょ。レストランのウェイター。ちょっぴり強引に店長を口説いたらわけなし、ヒヒヒ。だから、これはいわゆるお祝い、みたいな、ヒック」
そう言うと、引きつった笑い声をあげながらテーブルに顔から倒れた。
「……まだ半分残ってるし」
ジェームズは呆れ顔でベッドに運びながら、ふと嬉しくなって笑みがこぼれた。
それからシャンディは一日も休まず、レストランで働き続けた。
しかし、一ヶ月を過ぎた辺りで目眩や激しい頭痛を訴えるようになり、ある日、ついに仕事場で倒れた。
事態を聞きつけて病院に駆けつけたフリードに向かって、シャンディは困ったような顔で笑いかけた。
「ごめんねえ」
それが、今日の仕事に穴を開けた事に対するものでないことは、フリードには分かった。
それからまもなく、シャンディは亡くなった。
埋葬の際、ジェームスとリグレット以外、見送りに来た村人は一人もなかった。
フリードは、それが当然の報いだと思うことが、悔しかった。
それから一ヶ月後、父のレイノルドが無精髭を蓄えて、ぶらりと家に帰ってきた。
「……シャンディ、死んだらしいな」
フリードは悔しさをこらえながら、無言の肯定で返した。
「アイツが死ぬ前に働いてたってのは本当か?」
「……ああ」
「はあ。柄にもないことは、するもんじゃないな」
そのとき、フリードは糸が切れたようにレイノルドに飛びかかり、顔面を殴りつけた。
「二度と姿を見せるな!」
レイノルドは、ぼおっと濁った目でフリードを見つめていたが、やがておもむろに立ち上がると、シャンディの飲みかけのボトルを一つ掴んで、家を出た。
その後、レイノルドが帰ってくることはなかった。
……シャンディの死後一年が過ぎ、高校2年の春。それぞれが進路について思い巡らせる時期になった。
「君達は、高校を出たらどうする気だ?」
ジェームスの問いに、二人は俯いたり唸ったりした。ジェームスはコホン、と咳払いをして、2人の方を見やった。
「僕は大学に行きながら、設計の仕事を請け負う。それで信頼を得て、卒業と同時に独立するつもりだ。親の力に頼らずに起業しないと、後々口を挟まれそうだからな」
「なんかすごいな」
フリードは言いながら、リグレットの羨望の表情から目をそらした。
「応援しています」
「何を言っている。会社が出来たら、そこで働いてもらうから覚悟しておくことだ。フリード、君もだ」
夢の話を熱く語っていることが照れくさいのか、顔を赤らめている。
「力仕事でよければ、手伝えるよ」
フリードはへらへらと返した。だけど、あまり嬉しそうではなかった。
「だけど、まずはシルヴェスペル大学に受かる事が先だがな」
「えっ、嘘だろ?」
「ここまで来たら、僕達に付き合えよ」
リグレットの顔を見たら、小さく頷いていた。彼女も同じ所を志望しているのだろう。
「やれるだけ、やってみるよ」
――
フリードは、卒業までの間、受験の勉強と並行して、設計についての勉強をはじめることにした。
どうせなら、ジェームスと同じ立場で、同じ理想を追いかけたいと思った。
ジェームスは、掛け替えのない親友だ。
ジェームスを慕うリグレットとの恋も、支えてやりなければ、と思っている。それは間違いなく本心だ。2人の幸せは、自分にとっての幸せだ。
だけど、それでも不意にやりきれない思いになることがある。喧嘩して相談にやってきたリグレットを、押し倒してしまいたくなる。
「……はあ。俺、親友失格だな」
フリードは頭をぶんぶんと振って、公園の芝生に倒れ込んだ。
初夏の日差しを吸い込んだ芝は、生きる喜びを理屈じゃなく感じさせてくれる。やってきた小鳥が、目の前の枝に止まっている。それが飛び立つまで、じっと見守っていた。
どちらがジェームスで、どちらがリグレットなのか。そんなことをふと思っていた。
この頃は、フリードは二人の関係に気付いていた。
それまでずっと、ジェームスの高圧的な態度にリグレットが萎縮していると思い、気に掛けていた。
だけど、そうじゃない。
リグレットは、あえて彼の所有物になっている。主従関係は、彼女自身が望んでいることだ。そう思うと同時に、自分にはジェームスと同じような振る舞いは出来ない事にきづいて、悲しくなった。
――
「フリード。私のこと、好きなの?」
高校2年の冬。
誰も居なくなった下校前の廊下で、隣にいたリグレットがぽつりと尋ねた。夕陽が照らす顔は、あどけなくフリードを見つめていた。
まるで、どこかでそういう噂を聞いた。そんなニュアンスだった。もちろんフリード自身が誰かに話したことなどない。
まったく言葉がでてこなかった。
リグレットはなおも、彼の目をじっと見つめていた。
フリードはずっと黙っていたが、やがて眠っていた感情がくすぶる音が聞こえた。が、すぐに彼女のほうから慌てて首を振った。
「ごめんなさい。今のは忘れて」
彼女はそう言って、走って逃げた。
何を謝ったのか。
何を確かめたかったのか。
そうだと言って欲しかったのか。違うと言って欲しかったのか。
フリードは様々な疑問を胸にしまい込んだまま、走り去る背中を見送った。
――
リグレットは、泣き虫だ。
それを知っているのはフリードだけだ。
特に高校に入った辺りから、リグレットの直情的な部分が顕著になっていった。
彼女にとって、ジェームスへの従順が矜持であり、ジェームスの求める上品で貞潔な雰囲気を守ることに、陶酔さえ覚えていた。それでも彼女は普通の少女であり、好きな人には自分の核心を掴んでほしいという欲求もある。
そんな矛盾した衝動的な話にも、フリードは優しく耳を傾けた。彼には人の考えを否定しない大らかさがあり、2人の一番の理解者だった。
フリードは彼女の事が好きだったが、それでもリグレットの泣き顔を見ることが耐えられなかったし、ジェームスのことも大切に思っていた。
それで、ジェームスにそれとなくリグレットの気持ちに気付かせるように促した。そうして、2人の恋は安寧に続いた。
――
今より少し前、シャンディの死後半年位のある夏の日の話。フリードは家に誰も居ないことに不安を覚えて、リグレットを連れ出した。
長く続いた夏期休暇も残り一週間を切っていた。リグレットを連れて遠くの町まで目的もなく歩き続けた。
彼女は一度も理由を尋ねることはなかった。
フリードは、立ち止まれば泣き出してしまいそうで、闇雲にぬくもりを求めてしまいそうで、落ち着かなかった。
そのとき、ふと彼女の手がフリードの手を握りしめた。それから帰るまで、互いが話すことはなかった。
ただ、そのぬくもりだけが、ずっと彼の傍にいた。
――
高校を卒業後、難関と思われた大学にも無事合格し、再び3人の学園生活がはじまった。
部活はやっぱりラグビーだ。それなりに強いチームで、張りのある戦いが出来そうだ、と2人で語り合った。
フリードは、今の関係に不満はなかった。二人の恋を支えている自分も、嫌いじゃない。それぞれが充実した気持ちを分かち合った。
入学してまもなく、ジェームスは設計の依頼を受ける手はずを整えた。フリードも助手として、彼のサポートをするようになった。
だが、ジェームスがこなした仕事はなかなか認められず、彼の計画は思惑より遙かに難航した。
そんなとき、フリードが軽い気持ちで出したデザインがクライアントに評価され、話が一気に進んだ。
「いつの間に、あんなものを書けるようになってたんだ」
ラグビーの試合の後、ジェームスが尋ねた。タオルで顔を拭ったフリードが、笑顔で答えた。
「俺だって、後ろをついていくだけじゃ駄目だって思ったのさ」
すると、ジェームスが鼻で笑った。
「そういう卑屈な発言は不愉快だ。君は数少ない僕の友なんだぞ。もっと胸を張れ」
「あ、ああ。わかったよ」
ジェームスは落ち着きなくその場を去った。ジェームスにとって、フリードの無欲な精神は、ときに尊く、憎くもあった。
その頃から、ジェームスのリグレットへの扱いが少しずつ変わり始めた。
彼女を執拗に何度も家に呼びつけた。彼女が自分のものであることを実感したかった。たとえ深夜でも早朝でも、会いたいといえば駆けつけてくる彼女の献身が、彼の心の拠り所だった。
また、大丈夫か、辛いことはないか、としきりに尋ねるようになった。矛盾した言動が弱さからくる依存であると気付き、リグレットはひどく悲しんだ。
彼が弱いことが悲しいのではない。彼は弱さを認めながら生きていく人ではないと理解していたのだ。ただ、気高く、孤高でなければいけない。それが、少なくともリグレットの求めるジェームスの姿だった。
そんな中、ジェームスはリグレットの悲しそうな顔を見て、さらにひどい不安に駆られた。
唐突に彼女の部屋に押しかけ、泣きつくようにリグレットを抱き寄せた。
けれど、リグレットが泣き顔で拒んだ。あり得ないことだった。
そのとき、ジェームスは完全に心のバランスを失ってしまった。
「なんでだ! 君は僕のものじゃないか!」
彼女の切実な思いは、狼狽えていた彼の心には届かなかった。ジェームスは叫びながら家を飛び出した。
フリードは、二人の関係に深い歪みが生まれている事に気付いた。
リグレットが用意した昼食に些細なことで注文をつけたり、リグレットが出かけた後で場所を聞き出したり、彼女の全てを支配しようとした。
フリードはそれが極めて不愉快だったが、二人の関係性が自分の理解の及びつかないバランスで成り立っている事を知っていたから、直接的な介入は避けることにしていた。
その頃から、リグレットがフリードに相談する機会も増えたが、二人だけで一緒にいる事も気付かれる訳にいかず、あたかも密会のごとく屋根裏で相談に乗るような日々が続いた。
ラグビーの試合が終わった後、彼らは休憩所で二人きりになった。
「フリード。ようやく僕の設計に声が掛かった。プレゼンで掴み取ってきたんだ」
「昔から、演説とか上手かったよな」
「まあ、そういうわけで、色々と忙しくなるぞ」
そう言って、ドリンクをフリードに投げた。
「ああ。ただ、リグレットの事は、ちゃんと見てあげてるのか?」
途端、ジェームスの目つきが変わった。不敵にフリードを見返して、ドリンクを飲み干した。
「君には関係ない」
空き瓶を乱暴にゴミ箱に投げ捨てて、出て行った。
彼はこれまで、リグレットのことを他人に口出しされることを何より嫌がった。分かっていても、つい口に出てしまう。彼女を大切にしてやってほしい。余計なお世話だと思っても、わかったよ、という言葉が聞きたかった。
そして、彼らの歯車は狂っていった。
大学での昼食後、ジェームスが突然リグレットの肩を掴んだ。
「おい、リグレット。さっきの男がお前に笑顔を向けていたぞ。アイツは何者だ」
「この前、学校に財布を落としていたから、家に届けておいたんです」
「そんなものは、交番に匿名で届けろ。変な気を起こされたらどうする気だ」
そこにフリードが慌てて仲裁に入った。
「ちょっと待てよ。彼女は今までだってそうやってみんなを支えてくれた。そこが良いところなんだろ」
「フリード、お前は黙ってろ」
「ごめんなさい、私が気をつけるから」
「それが、『誰にでも優しくしてる』っていうのが、まだ分からないのか!」
その騒動の頃から、ジェームスが次第に大学を休みがちになった。せっかく手にした仕事も、ほとんど手をつけられずにいる。
ジェームスが酒に溺れていると聞きつけたフリードは、いたたまれなくなった。
大学で会ったリグレットは激しく落ち込んだ様子で、フリードに話しかけた。
「ねえ、フリード。いつの時か、私には触れた人を元気にする力があるって言ってくれたの、覚えてる? でも、もう私の魔法は効かなくなったみたいです」
フリードはリグレットの瞳に涙が溢れるのを見て、無力感に打ちひしがれた。どうして、あの男なのか。どうして、自分ではないのか。行き場のない感情が心をかき乱した。
その数日後、ついにリグレットまでが学校に来なくなった。
気になってアパートを訪ねたが、彼女がどうにも顔を出さないので、強引にドアを引いて中に入った。すると、彼女の顔に痣が出来ていることに気付いた。
フリードはそれを数秒間、じっと凝視した。
やがて、その表情を見たリグレットが、はっと青ざめて、フリードが行かないようにと強くしがみついた。その反応が、犯人がジェームスであると物語っていた。本能的に、ジェームスを庇おうとしたのだ。
その愛おしさに、胸が熱く焦がされるのを感じた。
だが、フリードはあくまで冷静だった。誰が何と言おうと自分の決意が変わらないことを理解していた。
「大丈夫だよ。ちょっと殴ってくるだけだから。アイツ、もやしみたいな顔して、割と頑丈なんだぜ」
「違います! あなたには、あなたにだけは見損なわれてはいけないんです! そうしたら、あの人は終わってしまいます……」
どうしてそこまで庇うのか。
そうか。
「それが、愛なのか?」
彼女の手を優しく振りほどいた。
「俺には、愛は難しすぎる」
彼女は引きつった顔でフリードを見つめた。
「恨みたかったら恨んでくれ。悪いけど、終わるなら、俺の手で終わらせてやるよ。だって、この町でアイツより強いのは俺だけなんだ」
どんなに頼んでも止まってはくれないと理解したリグレットは、その場に崩れ落ちた。
フリードは、ジェームスの家に行った。そのときは留守か、居留守を使っていた為、「話がある。午後10時、町外れの峠で待ち合わせよう」とだけ書いた手紙を入れた。
約束の時間、意外にもジェームスは姿を現した。その手には酒瓶が握られていたが。
二人はしばらく崖の下を見下ろしていた。眼下の家々はひっそりと寝静まり生気がなく、まるで模型のようだった。
「ずっと飲んでるのか」
「なんだ、説教する気か」
「……そうだよ。説教だよ」
ジェームスは露骨に面倒くさそうな顔をして、頭を掻いた。とはいえ、分かっていながらわざわざここまで足を運んだのだから、聞く耳はあるということだろう、とフリードは思った。
「どうして大学に来ないんだよ。設計もやってないだろ」
「うるさいな」
「リグレットを殴ったのは、あんたか」
ジェームスは急に静まりかえった。
その瞬間、フリードの拳がジェームスの顔面を抉っていた。
勢いよく吹っ飛んで地面を転がったジェームスは、鼻血をこぼしながら、恨めしそうにフリードを見上げた。
「いい格好するなよ。本当はリグレットのこと、抱きたいんだろ」
フリードは息を呑んだ。
「気付いてないとでも思ったのか? もういいよ、君にやる。そのほうがお似合いだ」
ジェームズがにやついていると、フリードはジェームスの胸ぐらを掴んで押し倒した。
「リグレットは、俺がここに来るのを泣いて止めたんだぞ」
ジェームスは、はっと目を見開いて、ぐったりと夜空を仰いで、小さく笑った。
「……まったく、僕はどうしようもなく君の事が大好きで、とても憎かったよ。君は罪のない顔で、僕が触れない所にまで手を伸ばしていくんだ」
ジェームスは、リグレットの心の隙間にフリードが入り込んでいる事にきづいていた。どんなに体を縛っても、いつの日か内側からリグレットを奪われてしまうような気がした。
フリードは笑い返した。
「バカか、あんたは。俺こそあんたがどれだけ眩しかったか。根拠なんかなくても、あんたが言えばみんな信じた。あんたがやろうと言えば、みんなついてきた。俺にとって、あんたは英雄だった」
ジェームスは、ふっと自嘲の笑みを浮かべた。フリードは懐かしそうな表情を浮かべ、暗く沈んだ崖の下をすっと見下ろした。
「俺は、あんたらの前から姿を消すよ」
フリードの言葉に、ジェームスは黙り込んだ。フリードはまだ地面に倒れたままのジェームスに手を差し伸べたが、ジェームスはそれを断ってすっと立ち上がった。酒瓶を茂みに投げ捨てて、勢いよく踵を返した。
二人は、決して振り返ることは無かった。
そこには、親友だから通じる暗黙の了解があった。謝ったり呼び止めたりしないことが、ジェームスの誠意だった。
もう二度と会えないかもしれない。だけど、それでいい。
その翌日、ジェームスが崖から落ちて死んだ。
場所は、昨日別れた場所から数十メートル上の崖。死亡時刻は別れて30分以内だという。足下が悪い場所で、これまでにも何人か落ちて死亡事故になっている場所だった。
訃報が届いたのは、フリードが大学のロッカーに荷物をまとめるために向かった時の事だった。
リグレットの元にも話が届いているだろう。フリードは急いでリグレットを探した。
1時間ほど町を走り回って、ようやく公園のベンチで見つけた。
慌てて駆け寄ると、リグレットはフリードの顔を見て、ああ、と呆けた返事をした。今まで心がなかったような虚ろさだった。
二言ほど事故の事について話しかけたが、リグレットはぼんやり空を眺めているだけだった。
しばらくそのまま傍で見守っていたとき、突然、リグレットが大声で泣きはじめた。折れてしまいそうなほど細い体を震わせて、泣き続けた。
10分ほどして落ち着いた彼女は、手元を見ながら寂しそうに笑った。
「あの人は、親友を作るべきではなかったんです」
「……」
二人は言葉なく、ただ空を見ていた。
やがて青かった空に雲が垂れ込め、雷鳴が轟き始めた。
「家に入ろう」
近くにあったフリードの家へ向かった。途中に降り始めた雨で濡れた体をシャワーで流し、雨で濡れた服を室内で干して乾かしていた。
「あのね」
雨音が窓を叩く薄暗い室内で、バスローブを羽織ったリグレットが、ぽつりと呟いた。
「……私のこと、好きなの?」
前にも一度、聞かれたことがあった。
思えば、それはジェームスが言っていた話なのだろう。
フリードは今だって、どうしようもなくリグレットの事が好きだった。だけど、そう答えるのはジェームスを裏切ってしまうことになるような気がした。
今、彼女の目を見てしまったら、引き返せなくなる。
フリードは顔をあげることもできず、黙っていた。
「好きだったら、抱いてください」
それは、今、目の前にある不安から逃げたいだけなのだろうか。
自分を置いて去ったジェームスへの復讐なのだろうか。
フリードは、生唾を飲み込んだ。ただ、自分の気持ちを素直に伝えたいという思いがこみあげてくる。細いうなじが、優しい瞳が、ずっと焦がれてきた薄い唇が、そこにある。
けれど、肩に伸ばしかけた手を止めて、静かに笑った。
「……アイツ、最後さ、君のところに行こうとしてたんだ」
リグレットはたまらなくなって、顔を覆った。
「俺は、君のことを愛している。だけど、ジェームスを裏切れない。本当に馬鹿な奴だけど、俺に見損なわれた位で立ち直れなくなるほど、繊細な男じゃなかったよ」
リグレットは泣きじゃくってフリードの胸に顔をうずめた。
「だから、俺への答えは、君の気持ちが追いついてからでいいよ」
リグレットは涙目で頷いた。泣いていたけど、幸せそうだった。
それから数週間後、2人はもう一度静かに向き合った。
しっかりと自分の心を取り戻したリグレットに、よろしくと握手を差し出した。その日から2人は同じ部屋で暮らすようになった。
フリードは設計の評判が広まっており、遠方からも依頼が来るようになり、リグレットも大学に通いながら近くの喫茶店で働いた。
互いの将来について、ぼんやりと話し合うようになった。
そうして久しぶりに2人とも休みの日がきて、リグレットが手の込んだ食事を支度していた朝。
突然、顔まで黒い布で覆った黒装束の集団が、二人の部屋に入ってきた。
彼らは乱暴に部屋に入るなり、2人を睨みながら話し始めた。
「我々の事は御存知か?」
「さあ……」
「我々は黒の使者と呼ばれている、神託を賜りし査問官である。我々の使命は只一つ、罪人を問いただす事」
「何のことだ?」
そういえば、確かそういう名の団体が無恥な罪人を神に代わって裁くのだと聞いたことがある。
だが、それが何故ここに来たのか。
訝しむフリードに構わず話を続けた。
「君達の友人、ジェームス・オルベリッチの死に関して、新たな手がかりが見つかった」
「……?」
査問官の1人が、ポケットから一枚の紙切れを取り出した。それは、フリードがジェームスを呼び出すときに残した手紙だった。
「見覚えはあるか?」
「それは、俺が書いたものだけど」
「何故、呼び出した?」
一言一言を別人が言っていたが、まるで同一の個体であるかのように間髪入れずに話を進めていく。
「……あのときのジェームスは酒ばかり飲んで、大学にも来なくなっていた。だから、じっくりと話そうと思った」
「ジェームスの遺体には、頬に打撲の痕跡があるが」
「それも俺がやった。アイツの目を覚まさせるためだ」
「ジェームス・オルベリッチの頬にある殴られた跡とすぐ近くの崖からの転落。この二つが全く関係がないと言い切れるか」
「調べてもらえばわかるが、ジェームスはあの日も酒に酔っていた。足下が覚束なくなっても不思議じゃない。第一、全ての罪は自己申告なんだろ? 神が見ているから、人が人を裁く必要はないんだろ?」
「それはあくまで、一般的な良識を持った人間の話だ。クズから生まれた子供は、我々が然るべき検察を行う必要がある」
「クズだと……」
「クズにクズと言って何が悪い。現にこうしてジェームスの恋人を寝取って暮らしているではないか。証拠はそれで十分だ」
「その男を連れて行け」
「ちょっと待ってください!」
リグレットが割って入ろうとしたが、両手を掴まれ、口をふさがれた。
「リグレットから手を離せ!」
フリードのあまりの剣幕に査問官はひるみ、ゆっくりと手を離した。
フリードはリグレットの方を向いて、安心させるように笑いかけた。
「大丈夫、心配するな。こんな穴だらけの証拠じゃ、どうあっても罪に問えるわけないだろ。すぐに帰ってくるから」
そして、フリードは疑わしい者を収容する施設に連れられた。
真っ白い壁の部屋に、小さな椅子とテーブル、ベッド。
そこで幾日も拘束され、厳しい質疑応答が繰り返された。
長い問答の後、最後に必ずこう言った。
「ならずものローカスの息子の話を、一体誰が信用する?」
それだけは彼の手ではどうあっても拭えるものではなく、絶望が目の前を覆った。
査問団は、狂信者の結成した私設機関である。教会とは全く関係がないが、彼らの理念には正当性があると評価され、黙認されている。
全員が潔癖症であり、罪を免れる者が一人もあってはならないと血道を上げていた。神の名の下に、非人道的な行為も容認されていた。
「いつまでもこうしていても埒が明かない。まだジェームスが死んだ心の傷が癒えていないリグレットを一人にしておくのは不安だ。罪を認めればひとまず出られる。出ることさえできれば、無罪なのだから告解の丘に行く理由もない。それでいいじゃないか」
焦りの中で疲弊しながら、次第にそう考えるようになった。それでも、いざとなると、ジェームスを殺したのが自分だとは言えなかった。
そうこうしているうちに、フリードを裁く為の証言を躍起になって集めていた黒の使者が、結果としてフリードの犯行が不可能であるという結論を出した。
最期までフリードへの不信感を残しながらも、絶対的な秩序を求める彼らにとって自ら耳にした証言をねじ曲げる事は理念に反する為、尋問は即座に打ち切られた。
あと一歩で罪人と認定されそうになったところで釈放されたフリードは、施設を飛び出して深呼吸した。
ふざけた話もあったものだ。凝り固まった肩をさすりながら、家路を急いだ。
「ただいま。随分と待たせてしまったな」
カーテンがかかった薄暗い室内の明かりをつけた。
室内が照らされて視界に映ったのは、床に膝をついて、ベッドにうつぶせになっているリグレットの姿だった。
異様な気配を察して近寄ると、辺りに大量の睡眠薬がまき散らされていた。
抱き上げたときには既に冷たくなっており、顔は真っ青になっていた。
「……リグレット、ごめんよ」
泣きながら抱きしめても、彼女が声を返すことはなかった。
その後、フリードはこの町で起きていた事を知り、愕然とした。
自分がいなくなってから、彼女は毎日のように侮蔑的な言葉を浴びせられ、冷たい目を向け続けられていた。
……あの聡明なジェームスが落ちぶれたのも、殺すように仕向けたのも、あの女に違いない。愚鈍な男をたぶらかして不要になった男を始末させたのだ。そうして、ちゃっかり新しい人生をはじめているときた。恐ろしい女だ。
……なあに、どうせあの野卑な男は罪人だ。罪人が罪を償わないまま、まともな仕事に就けるわけがない。救いを求めて丘で殺されるにせよ、世間の目から逃げ回るにしても、二人で一緒に暮らす日はもう来ない。ざまあみろ。
毎日毎日、彼女に聞こえるように村人全員が吹聴していたという。
過去、査問官に捕まって冤罪になった例はない。連れて行かれた時点でフリードが罪人同然だと誰もが信じて疑わなかった。
さらに、罪人だと認定されてしまえば、世間に認めてもらうために救いの泉へ向かうしか道はなく、それは同時に死に通じる道だ。
恋人を殺したのはお前だと罵られ、新たに出会った男もやがて殺される運命にあると言われた。
その迫害は、心の傷が癒えていない彼女を突き落とすには十分すぎた。
しかし、彼女の自殺の理由について査問が行われることは無論なかった。
――
アルヴァンは話を聞き終えた後、苦々しい顔つきでフリードの顔を見やった。
「なんということだ……」
アルヴァンは胸を押さえ、言葉を詰まらせた。
フリードはその時のことを思い返し、たまらなくなって目を閉じた。
「リグレットは、あいつらの心ない空砲に撃ち殺されたんだ」
そして、フリードは胸元から一丁の拳銃を取り出した。
「それは、教会から支給されたものじゃない、な」
「そうさ。これは、裏道で手に入れた」
古めかしいが、教会から支給されるものよりも大きく、作りもしっかりしていた。
「俺は、もしも今日、ここであの村の奴を一人でも見つけられたら、それで全てを水に流そうと思っているんだ。……だけど、もしも見つけられなかったら、そのときは、丘を下りて、この銃で村人全員を殺して、自分も死ぬつもりでいた」
アルヴァンの心配そうな顔を見ながら、泣き笑いを浮かべた。
「来るわけないよな。あいつら、自分達が善人だって、清く正しいって信じた面してるんだぜ」
アルヴァンは顔をゆがめた。この若者の死を見過ごしたくない。だが、彼の覚悟を否定する権利があるだろうか。シェリーに命を絶ってもらおうとしていた自分に。
そのとき、フリードはふぅ、と深呼吸をした。
「だけどさ、もう心配しなくていい。広い世の中には、あんたみたいに、誰からも咎められてないのに罪を抱えている人もいるって気付いたから。だから、もうそれでいいかな、って」
アルヴァンの顔が明るくなった。
フリードは目を細めて空を見上げた。
「だから、あんたも俺と村の人間の命を救った分くらいは、自分の事を許してやれよ」
「私は、生きていてもよいのだろうか」
「おっちゃん、それは違う。クランプソンは、一度でも、許すって言ったのか? 彼らはあんたのことを許したんじゃない。生きていてもよいなんて考えてやいない。クランプソンは、生きるべきだって言ったんだ。色々考えて、それでもあんたが生きる事を、選んだんだ。あんたが罪を償う方法があるとしたら、それはこんな丘でくたばる事じゃ無いって。きっと、他の親族も同じ思いだったはずだ。それは妥協や容認なんかよりずっと重い、願いだ。それなら、あんたはもっと自分を信じて、今まであんたがやってきたように、シェリーの目覚めを祈ってあげるべきなんだ。そして、通りすがる誰かの幸せを、そっと支えていってくれよ」
フリードは目を見つめたまま、自分の思いが伝わるようにと願った。
「村の連中はさ、罪の自覚すらなく、善人面してのうのうと毎日生きている。たとえ重い罪を犯したとしても、それを自覚して悔いている人間の方が、よっぽど救いがあると思わないか」
フリードはそう言いながら、手に持っていた拳銃を胸にしまった。そして、再びアルヴァンの方を振り向いた。
アルヴァンの目に光が宿っているのを見て、フリードは嬉しそうに笑った。
「それじゃ、そろそろ行こうか」
「ああ」
二人は立ち上がった。
さらさらと芝がこすれる音だけが耳元に残る。随分と長い間、話していたような気がした。
フリードは背を伸ばし、ぐいっと顔を上げて空を見た。
「それでも、こんなくだらない丘のおかげで、俺達はこうして救われているんだもんな」
「そうだな」
皮肉なものだ、と二人で笑い合った。
「次に会う時は、この丘の下で」
二人は握手を交わした。
そして、それぞれ自分の帰るべき場所へと戻っていった。
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