第2話「アルヴァンの過去」
それは、今から7年前のこと。
当時、アルヴァンは35歳。告解の丘からそう遠くない市街区を中心に、タクシーを走らせて生計を立てていた。様々な人生の架け橋になれるタクシードライバーという仕事は嫌いではなかった。毎日、平凡ながらも退屈ではない日常を過ごしていた。
そんなある日、二十歳にも満たない若いカップルが、アルヴァンの車を呼び止めた。二人はウェディング衣装を纏っており、新婦のほうは抱きあげられている状態だった。新婦はタクシーが来ると、慌てて新郎の腕から降りた。停車した直後に節操なく飛び乗った新郎と、あとから静かに乗り込む新婦。性格は違うようだったが、一目見ただけで、それらが互いに愛し合っている事が伝わってきた。
アルヴァンは、先ほどチャペルの鐘が聞こえていたことや、さらに二人の妙に浮ついた雰囲気から、挙式の後なのだろうと推測した。
「先ほどまで、式を?」
「そうなんですよ! 本当はこれからも知人達とパーティが予定されてたんですけど。あいつらシェリーが困ってる顔してるのに、ブーケを引ったくろうとして怖がらせるから……。そういうわけで、行くアテはないんですけど……」
薄い赤毛を逆立てたわんぱくそうな新郎が、頭を掻きながら答えた。取り巻きを振り切ってきたばかりのようで、息が荒い。対して、新婦は緊張しているようで、頬を赤らめて俯いている。
「それじゃ、落ち着くまでしばらく静かな場所を走りましょうか」
「それでお願いします! あ、俺、ブレンドン・ロードメイルっていいます」
「私は、シェリー・カスティーダです」
「どうも。私は、本日のドライブをお供させて頂く、アルヴァン・アルシェ・ソイマールと申します。短い間ですが、どうぞよろしく」
それからの道中、アルヴァンは二人との話にずっと耳を傾けた。
ほとんどは、二人の思い出だ。といっても、話していたのはほとんどブレンドンで、彼女は横で頷いているだけだった。それでも、二人の気持ちが通じ合っていることは伝わってきた。
色んな話を聞いた。友人達がサプライズで起こしたシェリーの浮気発覚騒動で、ブレンドンが大泣きしてしまったこと。それを黙って見ていたシェリーもうっかり大泣きしてしまって、結局友人達も申し訳なくなって泣き出してしまったこと。
それから、なによりたくさん耳にした話は、シェリーがいかに優しい女の子だったか、というエピソードだ。クラスメートの大切にしていた犬が死んだときも、いつまでも一緒に泣いてあげていたという。彼の話す思い出からは、シェリーを愛おしく思う気持ちが伝わってきた。
穏やかな愛の記憶が、のどかな週末の街道をラジオの音と共に風に流れていった。
そうして30分ほど、ぐるぐると郊外を抜けた。山道の反対車線を走り抜ける貨物トラックの往来を何気なくやり過ごし、小高い山から吹き降りる風を開け放った窓から招き入れていた。
と、トラックが巻き上げた排気ガスが車の中に入ってきて、慌てて窓を閉めようとした。僅かに目を離して前を向いた瞬間、目の前を横切る車に気付いた。慌ててハンドルを切って衝突を回避しようとしたが、舗装の十分でない砂利道にタイヤを取られ、車は土手のほうへとせり出していった。
そのまま、無情に車は土手を滑り落ち、何度も横転を繰り返して谷底に落下した。
かろうじて炎上は免れたが、予断は許せない。アルヴァンは天井で頭を強打しながらも、かろうじて窓から抜け出した。窓が開いていたのが幸いして、抜け出すのに時間は掛からなかった。急いで後部座席を確認する。ブレンドンがシェリーを抱いた状態で重なり合っている。声を掛けたが返事はない。ドアの損壊は激しかったが、片方の窓側から二人を引きずり出せそうだった。駆けつけてきた人達と協力して、窓側にいるシェリーを引っ張り出した。
シェリーに意識はなく、ぐったりしていた。胸元に小さな切り傷があるが、命に別状はなさそうだ。次にブレンドンの方に目をやった全員が悲鳴をあげた。ブレンドンの背中から胸に向けて、鉄骨が突き出ていた。ちょうど、彼が抱いていたシェリーの胸の切り傷と同じ位置だった。
即死と思われた。ふてぶてしいほど逞しい笑みをたたえていた。
その後、二人は病院へ搬送された。ブレンドンはもはや手の施す余地はなく、シェリーも昏睡状態が続いていた。
それから三日後。病院に関係者が呼ばれて発表があった。シェリーの脳に損傷は見られないものの、意識が回復する兆候はなく、目を覚ます具体的な目処は立っていない、という話だった。
アルヴァンはその後、ブレンドンの告別式の日を待たずに告解の丘へ向かうことにした。幸いと言うべきか、アルヴァンには身内らしい身内はいなかった。別れを告げる相手はいない。あとは、自分のけじめをつけるだけだ。一人の若者の命を奪い、一人の若者の意識を奪い、二人の未来を奪った。彼らの家族、友人の光を奪った。そういう購い切れない罪を犯した者には、相応しい最期がある。シェリーの言葉が聞けないなら、これ以上待つ理由はない。
病院から一時間かけて、告解の丘にたどり着いた。
来たのは、初めてだった。
時刻は十二時。告解の儀式がはじまる一時間前。目の前に広がるのは、美しい芝の草原。肌になじむそよ風。耳をくすぐる草木のさえずり。穏やかな時間に心が洗われるような心地がしていた、そのとき。ゴーン、と重々しい鐘が鳴り響いた。今まで、麓でしか聞いたことのない、はじまりの音だ。鐘の余韻が消えるかどうかという辺りで、アルヴァンは無意識に鳥肌が立つのを感じた。
狂気が、とぐろを巻いている。
一歩、一歩、癒えない傷を抱えた者達が、銃を片手に丘を踏みしめる音が響く。音なき殺意が行進している。罪人に信仰が残っていることを祈りながら、引き金を指でなぞる。
正当な淀みが充満していく。
息苦しさに立ち眩み、近くの木陰に身を伏せた。
遠くから眺めていた美しい丘は、そばで見ると地獄だった。恨みを晴らさんと鎌首をもたげる様は、グリム・リーパーのそれだった。
ここから早く逃げたい。
逃げたい。
逃げたい。
逃げたい。
その気持ちだけが、頭の中をぐるぐると回っている。
私はこんな憎悪を向けられながら殺されるのか。ここにいる者達は皆、ささやかな幸せを願う、どこにでもいる人々のはずだ。それがこうして、触れるだけで血が流れそうな殺気を放っている。
それが人なのだ。その両方が、人なのだ。そして、いずれ私も呪われる。
心優しき善人に、生きてきた意味を否定されながら。人を思いやる隣人の慟哭に、怨嗟に、鼓膜を振るわせながら事尽きる。心なき強盗に殺された方がまだ救いがあるとさえ思った。
覚悟を決めたつもりだったが、考えが甘かったのだ。震えが止まらない。
情けない! なんと情けない!
アルヴァンは自身を叱咤し、震える足を叩いた。これ以上悩むのはよそう。そんな時ではない。もう、いつ殺されてもおかしくないのだ。ここは、告解の丘なのだから。
そうして、ようやく救いの泉が見える場所まで来たが、どうやら遺族の姿は見当たらない。
本当に悲しい時は、復讐心を燃やす気力すら起こらないのだろうか。アルヴァンは腑に落ちない気持ちを胸に、救いの泉が見える場所に腰を下ろして、遺族の到来を待った。けれど、その日、復讐を遂げようとする親族は現れなかった。
翌日も、そのまた翌日も、丘の上で断罪者を待った。その間、一度たりとも救いの泉に手を伸ばそうと考えなかった。罪の所在をゲームのように扱う事を、軽薄にさえ感じていた。目を閉じれば、今も瞼にあの二人の姿が映っている。日が経っても、彼の決意は変わらない。
それから、一ヶ月、二ヶ月が過ぎ。やがて、一年、二年、三年もの歳月が流れた。その間、彼を訪ねる者は一人もなかったが、ずっと告解の丘に通い続けた。
また、彼は眠り続けるシェリーの家に花束を届けていた。それらは彼の日課であり、生を繋ぐ糧でもあった。
そうして、三年が過ぎた。とある夕暮れ時、彼はいつものように景色をぼんやり眺めながら、断罪の時を待った。
十七時を過ぎ、空が赤く染まりはじめる。
「何度、この空を見送ってきただろうか」
透ける茜が降り注ぎ、芝が赤く燃えている。遠くの森の幾つかは紫に染まり夜をはじめている。
そう、もうじき夜なのだ。座り込んだまま、足下の影をじっと見つめている。季節はもう冬だというのに、たいした厚着もせずにじっとしていられる。どんなに黒く淀んでいようと、やはりここは聖域なのだろう。
ふと、頂上を見上げた。この三年の間に、何人もの人が泉の水を飲む姿を見守り、何千発の銃声を耳にして、何百人ものの人が倒れるのを目にした。なのに、未だに自分を訪ねる者の姿は無い。気が遠くなりそうだ。これも私への罰だというのか。
……この魂をブレンドンの墓に差し出せる日は、本当に来るのか?
告解の儀式は、十八時までだ。水平線に沈みゆく太陽を眺めた。落ち着かない気持ちを残して、今日も終えるのか。そう思ったとき、風の中に芝を踏む音が聞こえた。同時に、長い影に気付いた。
……ついに来たのか。
ドクリと心臓が鳴った。
不思議な心地がした。ずっと待っていた気がするのに、現実味が無い。この丘で過ごした三年間が、ふっと脳裏をよぎった。三年は長かった。けれど、とても短かったようにも思える。
アルヴァンはゆっくり顔をあげた。すらりと長い足が目に入ってくる。さらに顔をあげると、怜悧な瞳を丸みを帯びた眼鏡で包んだ、シェリーの父親クランプソンの顔が見えた。その右手には、拳銃が握られている。
彼は歩み寄り、やがて穏やかな声色で尋ねた。
「……あなたは、アルヴァン・アルシェ・ソイマールですね」
「はい。あなたは、クランプソン・カスティーダ」
互いに、確かめるまでもないという風にうなずき合った。そして、しばらく目を合わせていたが、やがてアルヴァンは決意を固め、目を閉じた。拳を握り、息を呑んだ。
重い沈黙が流れる。さららと風が頬をかすめる。夕陽がまた少し小さくなり、紫がかった影が芝に迫る。もうここに残っているのは二人だけのようだ。沈黙の中、クランプソンは微動だにせず、目を閉じたままのアルヴァンを見つめている。何度かクランプソンの深い呼吸が続き、そして、ガチャリと何かが地面に落ちる音がした。アルヴァンがゆっくりと目を開けると、クランプソンが手にしていたはずの拳銃が地面に落ちていた。
「クランプソン?」
「……アルヴァン。私たちは、あなたを殺さない」
クランプソンの宣告は穏やかながら、しっかりとした響きがあった。けれどアルヴァンは、呼吸を乱して首を振った。
「あり得ない! あなたが殺さずにいられるはずが無い!」
アルヴァンの上ずった反論に、クランプソンは首を横に振った。
「……憎くないといえば、嘘になる。わざとでないからといって、すんなり気持ちの整理がつけられるほど、感情というものは便利なものではありません。決着をつけてしまいたい、そういう衝動が胸を突いて出そうになることは度々ありました。今、私の指先が引き金に掛からなかった事を、必然だと言い切れないのが正直なところです。それでも、事故の直後、告解の丘を訪れるあなたの姿を陰から見かけてから、これまで一度も引き金を引かなかった事もまた、偶然ではありません」
クランプソンは安らいだ物腰で言いながら、うなだれているアルヴァンの様子を伺った。
「……私は、復讐が悪だとは思いません。それは神が許しているからではなく、親の心情としての話です。けれど、毎日届く花束を娘のベッドに届けると、嬉しそうな顔をするんですよ。あなたの強い気持ちは、きっとあの子を動かす力がある。だから、娘が再びその目に光を宿すまで、祈り続けて欲しいのです。それが、娘にとって一番よいことなのだと。ただ、それだけの話です」
言い終えると、これまでの逡巡の物々しさを思わせる深い思いを秘めた瞳を覗かせた。
その瞳に答えるように、アルヴァンは頷いた。けれど、それはあくまでクランプソンの思いを受け取ったという意味にすぎない。彼の目には依然として深い霧が立ちこめていた。
「ならば、ブレンドンの家族は……。母モアナは、ブレンドンを深く愛していた」
「……確かに。ブレンドンが物心つくまでに父は亡くなり、母モアナは一手で家族を養っていました。ブレンドンはモアナをよく支えており、彼はモアナの自慢の息子でした。いずれ、シェリーもモアナの支えになるはずでした。あの日から、モアナは毎日泣いていました。ですが、私は彼女が恨み言を口にしたのを見たことがありません。むしろ、未だにあなたに礼らしいことを出来ずにいることを、申し訳ないとさえ言っていました」
「……礼?」
「ブレンドンには、エリスという4歳下の妹がいますが、あなたに命を救われたらしいのです。これは、ブレンドンの死後にモアナから聞かされた話ですが。10年ほど前、当時5歳のエリスが高熱による発作を起こしたのです。近くに病院は無く、救急車も遠くへ出払っていました。そして、あてもなくエリスを抱えて彷徨っていた時、あなたのタクシーが通りかかりました。アルヴァンのタクシーには、既に客がいましたが、深く詫びを入れて降りてもらい、エリスを乗せて病院へ。事が落着した後、モアナがそのときの客と偶然出会ったらしいのですが、客は、あれこそがタクシーの使命だと感心していたといいます。私も同感です。ですが、私はモアナにその話を聞かされた後も、未練がましくあなたを殺すべき理由がないか尋ね歩いてみたものの、ついぞ見つけることはできませんでした。それどころか、帰る頃にはいつもあなたを生かすべき理由が集まっている。そして、私は一つの結論に至りました。あなたはもう、生きるべきなのだと」
「……」
アルヴァンは記憶を思い起こし、あの少女が無事だったのだと知って安堵した。同時に、クランプソンの勧めに応じられない自分の心にも気付いた。
「さあ、あなたの贖罪は終わりました。告解の刻が終わる前に、救いの泉を飲んでください」
クランプソンが、真っ赤に染まる芝のなだらかな頂に佇む白き奇蹟を手で示した。
二人の深い息の音が響く。いつ終わりの音が鳴ってもおかしくない時刻にさしかかっていた。
しばらく俯いていたアルヴァンは、決意を固めて顔を上げた。
「……申し訳ありません。身に余るお言葉ですが、まだ私の魂は救いには及びません」
「なぜですか?」
クランプソンの困ったような問いに、アルヴァンは無言で首を振った。そして、ゆっくりと丘を降り始めた。クランプソンは彼に思いとどまるよう説得しようとして、思わず息を呑んだ。
男の目に、光がなかった。求めている救いは泉などにはない、と静かに告げていた。
――
……クランプソンは去りゆく背中を見送りながら、悔しさに震えて指の爪が食い込むほど拳を握りしめた。そして、彼の言っていた「まだ」という言葉を思い出して、口を紡ぎ空を仰いだ。
「どうして、そんなに自分を追い詰めようとするのですか? どうして自分の価値に気付かず、徒に闇の淵へ落ちようとするのですか?」
力なき問いかけは、終わりの鐘の音にかき消された。アルヴァンの背中は、麓の森の影に消えていった。
――
それからも、アルヴァンは変わらず告解の丘を訪れ、彼女の家の軒先に花束を置き続けた。
思えば、ずっと花と向き合っている。花を見ただけで名前が言えるほどに詳しくなっていた。
だけど、花が枯れる事に慣れることはなかった。花盛りの乙女の、大切な時を奪い続けていると痛感するからだ。毎日、花を抱きながら、その儚さに胸を痛めた。
お見舞いなら枯れないものがよいと、花屋の店主に言われたこともあったが、可憐な大輪を広げる瀟洒な花々を選んだ。
だから、いつも咲き頃の花で彼女の部屋が満たされるように、毎日花を贈りつづけた。けれど、そのうち、花を手に入れる費用を捻出することが難しくなり、やがて彼は種を買って、自分で育てるようになった。
そして、花とはいかにデリケートなものかを思い知り、それでも忘れられず愛される普遍的な力に、興奮に似た感情を抱いた。シェリーの目覚めを願う熱意が、そのまま花を育てることに注がれた。それはまさにすさまじい執念で、独学でありながら彼の育てた 花は大きな花弁をつけ、通りがかった人から、是非売って欲しい、と声を掛けられるほどだった。
彼は花の手入れをしながら、時々激しい疼きを覚えた。
あの可憐で初々しい笑顔が、再び咲くことはないのだろうか。もし仮に彼女が目を覚ましたとして、それが私への憎悪によって失われてしまうのだろうか。アルヴァンはその光景を想像して、心臓をかきむしられるような思いがした。
そうして事故から5年の歳月が流れ、雪深い1月の暮れ。
この近く植えた花があまり上手に咲かなかったため、やむを得ず自室で育てていたポインセチアを手にシェリーの家へ向かった。レンガ作りの家の軒先に鉢を置いて帰ろうとしたとき、ガチャリとドアが開く音がした。
「待ってください」
「……クランプソン」
「中へどうぞ。コーヒーでも炒れましょう」
クランプソンが家の中を見せて、手招いた。
「いえ、そういうわけには」
「……彼女に、シェリーに会ってやってください」
突然の提案に、アルヴァンは戸惑った。
同時に、雪がちらりと降りはじめた。それはまるでアルヴァンの心を表しているかのように、音も無く、静かに、肩口を白く濡らし続けた。
「いつまでもそうしていては、風邪をひきますよ」
クランプソンが促すと、アルヴァンは小さく頷いた。
「……シェリーに、会わせてください」
二人は二階へあがった。小さな軋みを立てて、階段を上っていく。家に流れる空気はどことなく寂しげだった。
「評判は伺っています。この花もあなたが育てられたのですか?」
「人に評価されるような事は何もしていません。それと、これは花ではありませんよ。口惜しいですが、手入れがうまくいかなかったので」
「花は草木より難しいでしょう」
「それより難しいものを育てたことがないので、よくはわかりませんが。彼女たちが繊細なのは確かです」
話しているうちに2人は二階に着き、シェリーと書かれたプレートの掛かった部屋の前へ向かった。
クランプソンは柔らかくノックした。
「入るよ」そう言ってドアを開けると、たちまち花の匂いが押し寄せてきた。
中へ入ると、白いベッドを取り囲むようにアルヴァンの花々が飾られており、その中心には、現実味がないほど美しい女がいた。
白くか弱い少女は、まるで人形のようだった。アルヴァンはその場に崩れ落ちそうになった。
「私はコーヒーを炒れてきます。彼女に話しかけてあげてください」
クランプソンはそう言い残して、部屋を出て行った。
アルヴァンはぎこちない足取りで、彼女のほうへゆっくりと近づいていった。
どことなく微笑んでいるようにもみえる。その微睡みの中で、あなたは一体何を見ているのか。いつまでそうしているのか。
世界から忘れられていても、彼女の大切な命は日々散らされている。彼女に、掛ける言葉……。
何を話せばよいのだろう。謝るべきなのか、目覚めを願えばよいのか。
考えて、考えて、やはり、彼女に掛けるべき言葉など無いと思った。ただ、この美しい乙女が、愛した人の仇を討ち宿願を果たすためならば、果たすためならば。
アルヴァンは別れの言葉も掛けず、クランプソンの制止も振り切って家を飛び出した。
しばらく走っていたが、やがて崩れ落ちるように地面に転んだ。雪道でうずくまり、声をあげて泣いた。恋というには、あまりにも残酷な痛みだった。
彼女に、自分が生まれてきた意味を否定されて死ねたら、間違いなく此の罪は消える。そう確信できる位、彼女は美しく、その笑顔にいつまでも触れていたいとさえ思うほど、可憐だった。
――
「だから、私は今もこうして、告解の丘を訪れている。ここに来れば、いつか私の希望が叶うと信じられるから」
「それは、要するに」
不快さをにじませた表情で言葉を切ってから、そしてアルヴァンの方へ向き直った。
「シェリーに復讐をさせるって事か」
「私は、そのためだけに命を長引かせてきた。……死ぬなら、彼女の手で死にたいんだ。それが、私が私を許せる唯一の手段だ」
「冗談だろ?」
「冗談ではない」
「確かに、タチが悪すぎて笑えないな」
アルヴァンは鼻で笑った。
「なんだと!」
激昂するアルヴァンに対し、鋭い目でにらみ返した。
「あんたは、目が覚めたばかりの新婦に引き金を引かせる気か。そんなひどい悲劇、聞いたことないぜ」
「……うるさい」
「それはさ、もうただのエゴだ」
アルヴァンはフリードの話を止めるように、肩に掴みかかった。
「黙れと言っている! 君に誰かの未来を奪った欠落感がわかるか? この魂は、彼女のために取ってある。彼女に裁いてもらう為に生きてきた。せめて、願う形で裁かれたいというのは、いけない事なのか?」
アルヴァンの問いに、フリードは切なそうに小さく頷いた。
「確かに、純粋な対価でいうなら、命には命を支払うしかないし、それが一番確実だ。第一、俺にはおっちゃんの抱えてきた苦しみは分からない。ごめんよ。だけど、それでも俺は、どうしてもここで黙ってはいられない」
そして、アルヴァンの目を見つめた。
「あんたは、シェリーの事をどう考えてるんだ? 彼女の手が返り血で染まってる姿を想像してみたことはあるか?」
「……それは、当然の報復を果たしたゆえの事だ」
「本当にそう思ってるのか? 丘に何度も来たあんたなら、もう分かってるはずだろ」
「何を……」
言いかけて、アルヴァンは口を閉ざして、空を仰いだ。
確かに、本当はもう分かっていた。
人はそう簡単に、人の命を背負いきれない。
復讐を遂げた断罪者の顔は、抱えていたものがごっそりと落ちた、そんな表情をしていた。
人が本来持っているものを抱えたままでは、人の死は重すぎる。だから、人は持っていた心を削ぎ落として、荷を背負う隙を作らなくていけなかったのだ。
どれだけ殺したいと願っていたとしても、奪った命の影は残り続ける。その手を復讐に染めてしまえば、ブレンドンに抱えられていた時のシャイな微笑みは、二度と戻らない。
「とはいえ、私にできる事など、残されているのだろうか?」
「もちろん。俺みたいなお気楽な奴だって、それなりに使い道はあるだろうさ」
フリードは優しく微笑んだ。
アルヴァンは、物腰に似合わず繊細な彼の、気を咎めを察した。
「ありがとう。……それじゃ、今度は君の話を聞かせてもらおうかな」
「えっ」
「私も、君の話を聞きたいんだ」
「おっちゃん……」
フリードは優しく目を閉じ、「ありがとう」と言った。
青い空を遠くに望みながら、その雲の流れと同じように、ゆっくりと語りはじめた。
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