第1話「告解の丘で」
画家殺しの丘とも呼ばれる。それ以上美しく描ける余地がない、という皮肉めいた賛美だ。
春の匂いを含んだ肌触りのよい微風が、延々と続く芝をさらさらとなでていく。柔らかな平原の長閑さに、湖の反映と森の陰影が彩りを添える。空には、南国の海のような透明な青が広がっている。そこに紗が掛かった雲が伸びて、偶然を装った黄金比を図り出している。
人はこの景色に出会うと、必ず涙する。人という存在が、神の理想に達する事は無いのだと気付いてしまうから。
雨は降らない。風も微かにそよぐ程度。一年中、春の気候と清々しい景観を保ち続ける。
楽園。
聖域。
潔癖の庭。
しかし、そんな場所が実在する事よりも、そんな奇蹟を不思議に思わない人々が、何よりも歪だった。
――
丘に名はないが、宗教的背景から多くの人々の間で、「告解の丘」とよばれている。その呼称は、頂にある青白い石膏で造られた泉にまつわる。
泉は「救いの泉」と言い、法典に記されている。法典にある泉の記述はこうである。
――罪人が救いの泉で喉を潤せば、過去に犯した罪は全て赦される。
それは、世界に敷延されている神の法典によって定められた、懺悔の手順。
誰も貶めることのできない、絶対の贖罪。
ただし、この掟には続きがある。
――罪人によって傷つけられた者、あるいはその親族は、救いの泉から目の届く範囲であれば、罪人を処断することができる。ただし、それより先に罪人が泉の水を飲んだ場合、何人たりとも傷つけることは許されない。
この大陸には、人が考えた刑法はない。人を裁くのは神のみとしているからである。有史以来ずっと、神への畏れを遵守する歴史を辿ってきた。罪を抱えたまま死を迎えることは、死よりも恐ろしいとされている。その教えが善人悪人を問わず深く根付いているため、法がなくとも罪人は救いを求めて丘をのぼる。
だが、そこに立ちふさがるのが、「断罪者」と呼ばれる、罪人に恨みを持つ者達だ。告解の丘での処断。それは、刑法の存在しない大陸において、罪人を裁く唯一の合法的手段である。断罪に携わる者は、丘の麓にある教会で拳銃を受け取る。それは、私刑と言い換えることもできる。
では、神が見ているにもかかわらず、あえて人に手を下させる神意とは何か。
「罪人は今ある命を惜しまず、神の許しを請うか否や」
命を捨てる覚悟が無ければ、泉を飲む事はできない。
被害者感情への配慮と、罪人の信仰表明。相反する両者の目的が、丘を目指すようにと促す。
そして、まもなく十三時。告解がはじまる。
時が満ち、続々と丘に人が集まってくる。
自身を傷つけられた者、家族を傷つけられた者。あるいは、それらの目をかいくぐり泉の水にありつこうとしている者。
そんな中、今朝は一風変わった男が登っていた。
灰色の目を持つ四十代の男で、顔には心労によるものと思わしき深い皺があり、茶色の髪の中に白髪を交えていた。元は精悍な顔や体つきのようだが弱々しく肩を落とし、シャツの上からでも痩せていることがわかる。顔に暗い影を落とし、緩めたネクタイを力なく垂らしている。そして何より、辺りを気にする様子がない。そこが、訪れる二種類の人間のどちらにも当てはまらない所である。丘に来たのも一度や二度ではなく、慣れた足取りで丘をのぼっている。時折、丘の方を見上げては、目元の皺をきゅっと寄せて切なそうな顔をした。
男は丘の中腹まで来ると立ち止まり、どさりと座り込んだ。やることがあるわけではなく、ただじっと草原を眺めている。その目に風景は映っておらず、視線は内面へと向けられているようだった。
それから一時間ほどして、大きな溜め息を吐いた。
と、男は右手側に気配を感じ、振り返った。そこには、一人の青年が立っていた。青年は腰に手をついた姿勢で、男を見下ろしている。
二十代前半で、ブロンズの髪に白い肌、二重の青い瞳。ラフな白シャツと綿のカーキパンツが似合う、爽やかな印象の若者だった。
男は気構える様子もなく、青年に尋ねた。
「どうした?」
「……いや、あんまりにもおっちゃん元気なかったからさ。あんた、罪人待ちだろ?」
その口ぶりは粗野でぶっきらぼうだったが、悪い感じは受けかった。その表情からは、気さくながらも真摯さが感じられた。
「……違う。私はね、罪を犯したんだ」
「ってことは、もう泉の水は飲んだ後ってことか。なら、誤射される前にとっとと降りたほうがいいって」
罪人が水を飲まないまま、うろうろしているなどありえない。けれど、男はさらに首を振り、溜め息まじりに答えた。
「全ての罪人にとって、あの泉が救いだとは限らないよ」
「それじゃ、どうしてこんなところにいるんだ?」
青年は戸惑いを隠しきれず、問い詰めた。男は彼の情熱的な性質、若さを感じ取った。男は丘を見渡しながら、微かに笑った。
「私は、この命を持って償いたいんだ。そうでなければ、耐えられない。とてもじゃないが、平静でいられないんだ。だから、こうして足を運んで、その日が来ることを祈っているんだ」
諦観の表情を浮かべたまま、遙か地平に光のない目を向けた。
「……裁いてほしいということか」
男は静かに頷いた。
すると、青年は男の横にどさりと腰掛けた。
「なあ。その話、もう少し詳しく聞かせてくれよ」
男は驚いて一瞬目を見開いたが、青年の瞳に強い気持ちが込められているのを見て、小さく頷いた。
「私も、本当は誰かに聞いてもらいたかったのかもな」
男は照れくさそうに笑った。
「そう言ってくれると嬉しいけど。おっと、自己紹介がまだだった。俺は、フリード・ローカスっていうんだ。フリードと呼んでくれよ」
「私は、アルヴァン・アルシェ・ソイマール。アルヴァンで構わない」
「わかったよ、おっちゃん」
アルヴァンは苦笑いを浮かべながら頷いた。
「さて、私の話を聞いてもらうんだったね」
そして、歪なまでに青く染まった空をスクリーンのように見つめ、昨日のことのように鮮明な出来事を、瞼の裏に蘇らせた。
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