告解の丘で

手紙少女

プロローグ

 フリードは咄嗟に、足下の水たまりを飛び越えた。

 昨日の大雨で、丘を囲む一帯は水浸しだ。さらに早朝で薄暗く、用心が必要だ。水平線上に雲を透かした朝日がぼんやりと灯り、辺りを弱々しい群青で染めている。

 左肩のショルダーバッグをずり上げ、右肩に預けていた花束の状態を軽く確かめて歩き出した。息を大きく吸い込むと、湿った土の匂いが立ち込める。

 朝の気配がくすぶる感触。冷たく湿った風が、吹いたり止んだりを繰り返している。徐々にシャツが冷え、肩から背中にかけてゾクゾクと震えが走る。せめてセーターを着てくるべきだったと思いながら、悪あがきでシャツの襟を立てた。

 時折、雲が切れてぼんやり届いだ朝日が水たまりをちらつかせる。足下には枯れた芝。日陰のところは既に浅黄色にしおれている。

 以前、ここに来たのは十年前だったな。優しい記憶が脳裏を掠める。

 徐々に勾配が急になっていく。濡れる斜面に気を配りながら、ひたすら頂上を目指す。汗をかく位になって、ようやく頂上に着いた。迷わず、そこにある石造りの青白い泉に近づいた。石はひび割れており、藻に覆われ、湧き水は勢いなくちょろちょろと垂れ流されていた。先ほど通りがかった麓の教会も、熊でも出たかと思うほどボロボロに打ち棄てられていたな、とフリードは思った。

 刹那、強風に煽られてよろめいた。花束の花が散らされないように胸元に抱えた。目に見えない何かが失われたことを、ひしひしと痛感した。

 随分と変わってしまったものだ。ただ、それでも朝の空気は心地よい。

 瞬間、雲間がすっと切れた。草原が鏡のように一斉に朝日を弾き、思わず目元を腕で覆った。力強い朝の光。奇蹟などに頼らなくたって、こうして世界ははじまっている。見上げると、頭上にあった雲にも切れ目が生まれ、ぽっかりと天井が開いていた。強風に散った花びらが、頭上の雲間に吸い寄せられるように立ち上った。

 しばらくして、再び雲が覆った後、おもむろに丘を見下ろした。風がやむ気配はなさそうだが、花束の状態など、よく考えたら気にする必要もない。そもそも手向ける場所などないのだ。

 空に向けて適当に花束を投げやると、強風が奪い合うようにもみ合い、花びらと茎に乱暴に分解しながら、大急ぎで空に溶かした。

 その様子を、フリードは呆れたように見上げていた。

 ここは忘却の丘。決して、記憶してはいけない。決して、記念を遺してはいけない。そう、風が警告しているようだった。

 分かっている。もう二度と、ここに来ることはないさ。やれやれと首を振って、苦笑いを浮かべた。丘を下りる間、彼が振り返ることはなかった。

 彼がいなくなった後も、何かを守るように風は吹きすさんでいた。


 かつての威光も神秘も、時を重ねればいつかは終わりを迎える。

 これは、斜陽の丘に残された終節の物語。

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